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西瓜糖@阿佐ヶ谷 コミュの大野文展 it kisses on my skin

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現役女子大生である。おじさん的にはぴちぴちギャルである。

今時ぴちぴちギャルなんて言わないよねーなのだけど、なんだか自由な奴って感じがして使ってみた。だからってこの自由を羨ましく思うからではなくてね、むしろ不自由ではないことが哀れだと感じてのことなのだけどさ。

自由ってホント辛いよね。ぴちぴちギャルの方々ご苦労様です。とねぎらいの言葉を贈りたくもなるのだよオヤジとしては。

例えば絞り込みという作業があるとする。

曖昧さから逃れるためにターゲットを求めて、それが見つかりさえすればと、探しているものが分からぬまま彷徨う。ここでイメージされる絞り込みは能動的、直接的な作業であろうが、そんなものは錯覚以外で見つかりはしない。

学習する。考える。すると少しづつ「やらなくてもいいこと」が見えてくる。次第にそれが増えてくると「やってもいいこと」が分かってくる。そしてその精度が増すにつれ、ある日それは「やってはけないこと」「やるべきこと」へと劇的に変容するんだ。これが絞り込みの実状である。だから事後的に絞り込まれていたというのが正しくて、直接的な作業ではないんだな。

ふと周りを見渡すと「やってはいけないこと」だらけ「やるべきこと」はただ一つってのが理想。ねっ、不自由でしょ。だけど幸福感はここにしかないのよね。

言うまでもなくこの不自由は硬直とは無縁だ。柔軟を維持し続けた末に到達する不自由なんだから。


今回の展示は大きな写真が三点。素敵な写真である。飾り方もすっきりしていてそつがない。よそ行きな感じがしないでもないけれど、奇麗にまとめようとする努力は悪いことではないんじゃないかなと思う。だからこれといって不満はない。頑張ってね、てなもんである。だって希少に正しいぴちぴちギャルなんだからさ。世間には3、40代で性差もなくぴちぴちギャル的な方々がいらしたりするわけで、それだとちょっとイタいけどね。

さて、しかし作品である。作品には必ず作家がいる。だけど作家が何者であるかは作品には一切関係がない。てなとこで眺めるとだなあ。作品に成りきっていない。ってことになっちゃうかな。残念ながら。

この写真はさ、撮っちゃってるんだよね。こと作品において言えば写真ってね、撮れちゃうもんなんですよ。撮れちゃった写真じゃないとなかなか作品にはならないんだなあ。

うわっ、偉そうだな俺。まあ、オヤジだからしょうがないですか。

写真が作品になるってのはどういうことなんだろうね。だって誰でも撮れるのだし、なぜあの写真が作品で、この写真は作品ではないのか。作品ってそんなに特別なものなの。はい、特別です。

作品には必ず作家が居るというこで特別なんです。しかし作家を作家性や個性を備えた個人と考えてはいけません。作家とは単なる一人称と理解すべきです。この我を超えた一人称を据えることこそが作品のキモです。

ちょっと分かりにくいよね。ではさらに分かりにくい話を。

写真を観るときにそれを撮った者を意識させられる。群衆の中にまぎれてしまう誰かではなく、名も姿も知らぬはずなのにそれでも特定の、一般名詞ではなく固有名詞で語られる彼・彼女。その名が固有名詞の代表として『へのへのもへ夫』さんでもなんら差し支えないような、だけど確かにそこに一人称が居る。そこにしか居場所がないほどの純粋な一人称が、作品の作家として作品をとおしてのみ姿を見せるのだと言ってもよい。

その、へのへのさんが居ないのである。大野文と関係があってもなくてもそんなことはどうでもいい作家としてのへのへのさんが見当たらない。そこに三点の写真があれば、それぞれの写真から結ばれるはずの一人称の不在が問題なのだ。

確かに難しいことをやっている。もっと簡単に、例えば分かり易いテーマとかを掲げてしまえば作品になったはずである。だが、そうしなかった彼女の嗅覚は間違っていないと思う。成功すればより洗練された一人称を示すことができたかもしれないから。それでもへのへのさんの不在は致命的なのだ。

「やるべきこと」の定まった不自由な個がシャッターを押すとき、彼に撮ろうとする作意は薄い。それは撮れちゃうもんなのであるのだよ。そんな写真にはもへ夫ちゃんが宿るんだな。

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