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西瓜糖@阿佐ヶ谷 コミュの夏休みの宿題 3

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三つ子の魂百までと申しますが、40年経っても夏休み中に宿題を終わらすなんてことは出来ない性分のようです。泣きながら机に向かう子供時代を思い出しながら、悪あがきしてみようと思います。さて、あと三回分だあ。


『田中明子展 In Watermelon Sugar』

とんでもなく忙しい最中であったろうに、西瓜糖の終了を伝えると即座に展示希望を申し出てくれた。会期中ですらパソコンを持ち込んで仕事をしていたくらいだもの。半端ではなかったはずなのに。

そんななのに、レビューを書いてほしいからと、壊れて書けなくなってしまった私のためにそのパソコンを置いていってくれた。これは期待に応えねばならぬ。というわけでの夏休みの宿題シリーズなのだった。

タイトルはリチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』の原題である。

ここを突付かれるのはちょいとばかしこそばゆい。私も始めるときにさすがにまずかろうと一応読みはした。読みはしたが、今だから申し上げれば正直なところあまり好みの小説ではない。実も蓋もなくて申し訳ないが、私にはナイーヴすぎる。だから店名の由来にはあまり興味がないと言わざるを得ない。と、そういうことにしてしまいたいんだけど、それじゃあんまりかしらねえ。

名称というのはこちらの思いなどには関係なく独り歩きするものだから、きっと繊細なイメージをお持ちだったお客さんも多かったろうと思うが、ごめんあそばせってなもんだよ。

もちろん私ではなく初代オーナー福田氏の命名である。十歳ほど年上の彼らの世代にはヒッピー文化として輸入されたこの小説は馴染み深かったはずだ。だからこそ「部屋でごろごろしながら、店名なににしようかなあってぼーっとしてたら、本棚の背表紙の字面が綺麗だなあって思ってさ」という軽さがカッコよく、70年代東京のアパートで一人暮らしする若者の本棚に『西瓜糖の日々』が並んでいるのはありふれた風景だったという共感の前提なしには成り立たないにしても、引き継いだ私としては是非ともこのカッコよさも引き摺りたいわけで、だけど、あくまでも軽くと思いながらも、たまにお客さんに「お好きなんですか」なんて問われようものなら、ニコニコしながら口ごもる情けないあり様に偽者感が払拭できない哀れが漂うことになる。

福田さんに「お客さんに『なぜ西瓜糖なの』と聞かれたらどうしましょう」と相談したことがある。「昔大好きな叔父が西瓜糖(漢方では腎臓の薬)のおかげで一命を取り留めたことがあったのでゲンがいいかなと思いまして。とか応えとけばいいよ」ってどこまでも軽い人だ。

そう言えば「昔、春秋戦国時代にウの国のドンという者が小麦粉を延ばして麺を仕立てた。これがうどんの始りなんだよ」なんて創作ほら話がマイブームだったりする変な人であったのだった。

今やなぜ西瓜糖なのかを説明するのは難しい。いや、とても面倒臭い。ほら、この明朝体の字面が綺麗でしょ。そんな説明が一番正しいような気がするんだけど、ダメかしら。

田中さんにしてもこの小説に深い思い入れがあるわけではあるまい。このタイミングでこの場所で使えば理由を用意する必要がなく、それは画面に活字を忍び込ませようと企てる彼女にとっては、テキストの選択という難題を回避できるもってこいのチャンスに思えたはずである。それでよいと思う。

しかし結果的には西瓜糖へのオマージュになってしまったね。なんかそういう紋切り型というか予定調和みたいなことの強制力って強烈だよね。それは人はやっぱり文字を読むってことで、読んだからには従わなければならなくて、それはもうそれ以外のものではない、そういうものとして観ることに納得して安心してしまうということなんだろう。

原文を使っていたから、これは何の文章?って質問に答えなければ気付かれはしないとしても、あまりに当然のこととして想定できてしまう訊ねられる理由が、この作品の要諦と深層で繋がっているのだとすれば、放っては置けることではないだろうしさ。

そうだね。なぜ訊ねずにはおれないのか。文字は理解されなければならないから。理解されるべきものとしてそこにあるから。そこにあれば理解しないわけにはゆかないものなんだね。

さて、どうやら問題が文字に絞れそうだわ。偶然に次の

『藤本なほ子展 handwritinng』

も文字で構成された作品なのよ。ここは、まとめて済ませてしまおうというセコい企てではなくて、より深いところに潜るためには有効かもしれないなんて思いついちゃったから合わせて考えてみますわ。

田中さんの作品は繊細な日本画の画面に活字をリトグラフによって写しています。

藤本さんの作品は知人からノート借りてきて、紙をあて裏からライトを照らしてなぞったものです。肉筆、筆跡を写すことで筆記という行為そのものを際立たせようとしています。

方や手間を惜しまずわざわざ活字を選ぶことによって丁寧に排除しようとし、方や幾重かの手順を凝らして際立たせようとする筆記という行為は、正反対の表れ方をしているとしても、この二人に共通の問題意識なのだと言ってしまってもいいのではなかろうか。

絵画から離れない意志と絵画を受け入れない意志とによって紡がれた文字を使ったこれら二つの平面作品が、この場所でほぼ同時期に発表される偶然に無視できない何かを認めることも可能です。それでもそれが驚くことでもないように思えるのは、そこに時代の共通認識を感じ取ってしまうからなんだな。

なぜ今、文字なのか。それも絵画的対象として。

絵画に対する自発的な距離の取り方に差があるとしても、それが平面作品であるからには彼女達がふれているのは絵画的問題としての文字であるはずだ。

つまり文字というものの見え方だ。

活字が溢れる現代においては逆転を許容することも可能なのだろうけれども、文字の基本は書き文字です。筆記という作業の結果として文字はあります。それも綺麗な文字が基本の基本です。

そうなると、なにをもって綺麗とするかということは社会的な問題となります。誰からも文句が出ず、誰もが認める綺麗な文字が社会的に必要だからです。だって文字ってお手本がないと習得できないですものね。ほら、誰かに文字を教えようとしたらなんだかお手本のように書こうとするでしょ。

絵画であれば描いたものとの比較が可能ですが、文字には絶対的な比較対象がありません。だから架空の絶対性をでっち上げないと使いものにならないんです。それがお手本という概念です。

お手本は綺麗な文字でなければなりません。ということは綺麗が定められていないといけないわけです。何が綺麗かという問いの答が現在は活字なのでしょか。活字以前はどうなんでしょう。

誰からも文句がでないとなると権力に関わってしまいますが、生きていない人によるもののほうが都合がよさそうですよね。それも遠い昔の人で起源に関わっていれば申し分ありません。きっとそんな理由でお手本は定められているはずです。

文字の見え方を考えるときお手本という概念の存在は無視できません。それは至極個人的なノートの文字であっても無個性を旨とする活字であっても同じことです。誰もが共通なことと信じて綺麗な文字を想定しているし、その前提なしに文字を見ることはもはや私たちにはできないのですから。

文字を見るとき、私たちにはそれ以外を見るときのように見ることはできません。

そんな特殊な見え方のものを平面作品に取り込むことは、とても危険なことです。文字が書いてあるものを描くのではなく、画面に文字を書くという試みは絵画という見え方の破壊につながるからです。

絵画と文字とでは見え方の次元が違います。だからこそ魅惑的なのだろうけれども、取り扱いには注意が必要です。

見え方というのは多分に時代の影響を受けるものです。時代の反映と言ってもいいくらいでしょう。ということは、つまり現代の見え方が画面に文字を置くことを要求していると彼女達は感じているのかもしれません。簡単ではないのだけれどもね。

コメント(3)

宿題ありがとうございます。
まあ、オマージュはオマージュだったんですが・・
私も誰もが納得する予定調和の怖さというものは今回の展示で分かりました。
絵画的問題として文字を扱うときに浮上してくるその見え方の特殊性が、今、平面作品に有効だと彼女達が感じているのはなぜなのかを語ろうとするには、平面作品の今を肌で感じるその場所に赴かなければなりませんよね。

だからってそれはどこにあるのかなんて問うてはいけないわけで、そこんところが分かり難さにつながっているのだけど、各々が自力で到達するよりないじゃないかと言ってしまうと、これはこれでまったくの単独な自力はあり得ないのだから、そこには必ず教え教わる関係があると思われ、だけど今を感じて現代を読み解くということは、他人が読み解いたことを教わるのではなしに、主体的に読み解くというその作業自体に着目すれば、確かに読み解くその方法は教わったはずであるけれども、それを能力として獲得するということは自ら読み解く作業によってはじめて明らかになるような実践なのであって、だからそれは教わるではなく学び取ったという実感なしにはあり得ないもののはずじゃないかと思うからなわけさ。

教わることと学ぶこととの間にある客体から主体への推移を抜きに、彼女達のある種の共鳴につて語ることができないと思うのは、能力の獲得とは一つの教えによって100%のコピーとして受け継がれるようなものではなく、本質的に複数から構築されるよりないものだということを、だからあなたの獲得に私は直接関われないのだという態度を彼女達の作品ははっきり示す必要があるのではないかと思うからなのよ。

ここに能力を獲得した者によると思われる作品というものがある。観る者は学んでもよいし共感してもよい。どちらにも感動はあるはずだ。

基本的にそういう佇まいで作品は飾られるべきなのさ。「教えてって言うな」という拒絶をまとってね。
絵画的問題として文字を扱うときに浮上してくるその見え方の特殊性が、今、平面作品に有効だと彼女達が感じているのはなぜなのかを語ろうとするには、平面作品の今を肌で感じるその場所に赴かなければなりませんよね。

だからってそれはどこにあるのかなんて問うてはいけないわけですわ。そうなんだよね、そこんところが分かり難さにつながってるんだろうね。ちょっと説明してみましょうか。

例えば乱暴に、それは各々が自力で到達するしかない場所なんだよと言ってしまうとするじゃない。すると、自力って何ってことで、それはまったく単独の自力なんてものを想定してしまっていることになっちゃったりするわけですよ。もちろんそんなものはありゃしないなんてことは知っている。どこにでも必ず教え教わるという関係はあるんだから。それは認めてますよ。はい。だったら問いを責められる理由はないじゃないかってことになるわけですわ。

だけどね、今を感じて現代を読み解くということは、作業なんですよね。それは他人が読み解いたことを教わるということとは本質的に別のことなんだな。主体的に読み解くというその作業自体に着目してみましょうよ。確かに読み解くその方法というものはどこかで教わったはずであるけれども、それを能力として獲得するということは自ら読み解く作業によってはじめて明らかになるような実践として得られるものなんじゃないかな。だからそれは教わるではなく学び取ったという実感なしにはあり得ないはずのものなんですよ。

ってことでさ。教わることと学ぶこととの間にある客体から主体への推移を抜きに、彼女達のある種の共鳴につて語ることができない。と思うってことに話は戻るのだけど。重要なのは能力の獲得とは一つの教えによって100%のコピーとして受け継がれるようなものではなくて、本質的に複数から構築されるよりないものなんだということなのよね。

だから何を言いたいのかってえと、つまりそれは数多の教わるということの大雑把な統合として能力というものはあるのだし、その統合が成されるところのものを個人と呼んでいるんだよという認識を説明しようとしてるってことです。

能力というものは実践の跡づけとしてしか示しようがないんだな。能力があるから出来るのではなくて、出来たことによってそこに能力があるという事実が浮かび上がるってえ代物なわけさ。だから能力の獲得ってのはそれ自体としては実感できないんだな。先に出来ちゃったよって実感があって、その後で能力を得ていたとう感慨に耽るのが関の山なわけさ。

そういうものだと考えれば、彼女達の共鳴を理解するためには、この共鳴に参加可能な状態にあることが理想的であり、そのためには柔軟性と身軽さが必須であることに気づくべきなんだ。この時、それはどこにあるのかという問いは、未だ気づいてすらいないという準備不足を露呈することにしかならないんだな。

そういうものだとすると、作家の言い分としてはこうなるべきなんです。だからあなたの獲得に私は直接関われないのですよと。冷たいですねえ。でもこの冷めた態度は大事なんじゃないかなあ。

そうそう、この態度を彼女達の作品は示しきれていないんじゃないかとも思えるよなあ。もっとはっきり示す必要があるのではないかしらねえ。例えばさ。

ここに能力を獲得した者によると思われる作品というものがある。それはただそこにある。観る者は勝手に学んでもよいし共感してもよい。そのどちらをも感動を伴うであろうから。

なんて、そういう佇まいで作品は飾られるべきなんだよ。「教えてって言うな」という拒絶をまとってさ。ほら、かっこいいじゃん。


とは言え彼女達が作品によってその能力を示していることは疑いない。さらにこの偶然の共鳴は能力の確かさを補強しているように思える。だから多少の困難を伴うとしても『絵画的対象としての文字』の必要性を感受できる場へ赴くことは価値があると思えるんだ。

と、そこまで言い切ってしまってもなお、なぜ文字なのかという核心を語り始める気になれないでいる私は、目の前の困難さにたじろいでいるだけなんでしょうか。そうなのかもしれないのだけど、正直な気持ちなんてものを頼りにして気乗りしないでいる感覚そのものに目を向けるなら、自覚していなかった語りたくない理由というものがあると考えられるのかもしれないな。

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