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クオリアコミュのクオリアと二元論。

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初めまして。密かに脳科学を考える学生です。
せっかくこのようなコミュニティーがあるので、クオリアについて論議できたらよいな〜と思い、トピックを作ってみました。

まず、ボクは"クオリア"という説明は、脳をデカルトの二元論へと立ち戻してしまうものであると思っており、非常に懐疑的です。

クオリアも意識も思考も全ては所詮、ニューロンを主とした化学反応の域を出ません。
クオリアも意識も思考も全て人間の統合的なシステムの一部でしかないわけです。
極論を言えば、人間のシステムにおける「クオリア」と、植物のシステムにおける「閉じていた葉っぱが開く」という状態は同レベルであると思います。
と考えると、クオリアに関する論議・考察は、植物における「葉っぱが開くとは何か?」と言っている様にしか聞こえません。

つまり、クオリアを別個に脳の問題として取り上げるという事はあまり意味をなさないと思います。
果たしてこの辺に関して、皆様はどのようにお考えでしょうか?
忌憚無きご意見を期待しています。

コメント(126)

好人氏


 議論が錯綜しているようなので、神経状態の話はちょっと置いておいてひとつ。

>特に重要になるのが「我」の定義です。物理世界に「我」の拠り所を置くのか、精神世界に「我」の拠り所を置くのかという問題ですよね。ボクは物理世界に「我」の拠り所を置くがゆえに反証してもよいと思っています。

 いや、現代の哲学の場合、精神世界か物理世界かという二者択一をしていないと思いますよ。今日、「精神世界」という固有の世界が実在する人は哲学者はかなりまれだと思います。かといって、生化学的プロセスに還元可能だと考えない哲学者もまだまだ多いのです。
 
 つまり、以前も書いたように、主観的意識の相対的自律性を認めることは、心が脳や身体とまったく無関係に存在するということではありません。脳や身体の上で稼動しているにもかかわらず、信念や意図といった独自のシステムで動いているかのように見える現象を言っているのです。

 こうしたことを認めることは、精神世界を前提することでも、物理現象へ単純に還元することでもないでしょう。どうも好人氏は、この両極端で議論を進めがちな気がするんですよね。
>ムッシュイメヌさん

ありがとうございました。読んでみます。
科学と哲学は、歴史的に見たら科学のほうが後に出て来たようですが、哲学者によっては、科学が哲学を後から追い越して、包み込んでしまったかのような表現をすることがありますよね。あれは、いかがなものかと思っています。
> 89: riceさん

> >85: 白飴姫 さん
> >私は( >クオリアは私秘的指示対象ではない< , >クオ
>> リアを語る言語は私秘的言語であってはならない< という主
>> 張は)間違っている,と思います.

> 教えてくださってありがとうございます^^。 うーん、だと
> すると「私秘的なことをどう語るか」って問題も考えなければな
> らないわけですね。 この頃、自分は、「(私秘性のような)原
> 理的に解けない問題は、消滅させていこう」というスタンスなん
> で、それは困った^^;。

 私秘的言語によってクオリアを語る場合,路線は二つしかありえない,と( とりあえず深く考えていないわたしには )思われます.
 その第一は,クオリアを論じるために使える言語が私秘的言語なのだから ,クオリアについての議論を展開できるのも理解できるのも >私< だけだ,という独我論的方向です.( 上記の文章を書いた段階では専らこの可能性を考えていました ).
 その第二は,なんとなくの思いつきです. クオリアについての報告なり議論なりをするその言語を正しく理解できるのはその当人のみであり,従ってそれは私秘的言語である. しかし,その言語の音声的外化を >正しく< にではなく理解(誤解)し,それに基づいて公共水準で議論してしまう,という路線です――これが妥当で有り得るのかどうかは,今の私にはわかりません.以下です.

 あともし誤解なさっていると困るので注記しておきますが,仮にクオリアが私秘的指示対象であるとしても,それ自体はクオリアについて報告し或いは議論する言語が私秘的言語である事を,必ずしも帰結しません. ( いいかえれば,クオリアは私秘的対象であり,かつ,クオリアについて報告し或いは議論する言語は公共的言語である,可能性が存在する. ) ですので,riceさんが引用された上掲文で,わたしは両者を分離・併記したことを述べておきます.
>ムッシュイメヌさん
現代の哲学の場合、精神世界か物理世界かという二者択一をしていない〜(中略)〜まだまだ多いのです。

もちろん。ただ、この話はその話ではないですよね。

独自のシステムで動いているかのように見える

そうですかね?
何故、独自のシステムで動いているように見えると言えるのですか?
ボクは、そうは思えないんですよね。
今こうして、反論してキーボードに文字を入力している状態も独自のシステムには感じられないんですよね。
よくよく考えたら「あ〜、コレがこうしてあーなって」っていう複雑な反応で説明できる気がするんですよね。

両極端で議論を進めがち

"両"ではないです。
物理世界です。
>ムッシュイメヌさん
クワインの全体論については知りませんでした。
ナイス情報です。勉強しときます。
>riceさん
■事実を認識するための前提知識の集合(信念)」について

視覚野をはじめとする各領域の相互ネットワークによる刺激の一次入力と言語野・海馬・扁桃体などをはじめとする二次入力生成、そして前頭連合野における二次入力と一次入力の統合処理による各領域への三次入力。端的に言うと、これら連続的にループすることによって認識とよばれるものが生成(というと語弊があるかもしれませんが)されると思っております。

■クオリアをある程度受け入れないとキビシイという点について

基本的にはクオリアそのものを全否定しているわけではないです。
「脳内の"ソフトウェア的な"仮象」という事に疑問を感じるだけです。
特に「ソフトウェア」という部分についてです。
ここに疑問を感じ始めると「クオリア」っていう括りは必要なの?という疑問が生じるだけです。
単純な話、それだけなんです。
「クオリア的な状態が存在しない」と言っているわけではないです。
> 91: riceさん
> こういう場合、「クオリアについて報告する言語」って、「太> 陽が昇る」みたいな比喩(なぜ比喩かと言えば、実際は「地球が
> 太陽の周りを回ってる」から)として捉えればよいんですかね

 通常での「比喩」とて理解するなら,「クオリアについて報告する言語」を比喩である,と解するのは全く間違っている,と私には思われます. すくなくとも,クオリアは私秘的にしか指示できないがクオリアについて報告・議論は公共的言語でできる,という際に私が考えていた事例では,クオリアについて報告・議論する公共言語は指示対象を持つことを有意味性の前提としない種類の言語(もしくは文カテゴリ)だ,とわたしは考えていました. ここには比喩を導入してくる必要はありません.
 また,比喩ならば直喩に変えることが可能( 隠喩「太陽が昇る」→直喩「太陽が昇るように視覚上の位置を移動して見える」 )ですが,私秘的指示対象について語る言語表現を直喩に変えることはできない,と私には思われます. ですから,問題の表現は比喩とは異なる種類の言語表現範疇に属する,と解すべきだ,と私は思います.
 
>riceさん
申し訳ないですが、要旨がわかりません。
「物理世界な視点から、クオリアに接する限り」とおっしゃりますが、だとするとクオリアはどこに存在するというのでしょうか?

「"ソフトウェア的”という点に疑問を持つ」ならば、「クオリア的な状態が存在しない」と考えるはずだ

意味がよくわかりません。それは決め付けなのではないでしょうか?
何故そのように言及できるかがわかりません。



※別に好戦的態度で接しているわけではありません。
※文字にするとこうなっちゃうんですね(汗)
※実際は読んで「ふ〜む。んー、そうかなぁ〜?」っていうのほほんとしたカンジです。
71の好人氏へのレス


>論理層と物理層の問題ですが、いわゆる論理層と呼ばれるものは"さほど論理的ではないなぁ"と思うことが多々あります。


そうなのです。「心の全体論」とは、まさに通常の論理とはちがうわけです。通常の論理が、公理系から個々の定理を導出してゆくトップダウンのモデルであるとすれば、全体論は、そういう上と下がはっきりしておらず、ひとつの命題の内容が、他の多くの命題との関係で決定されるというものです(全体論のモデルに関しては、先日リンクしたクワインに関する部分からだいたい想像していただけるかと思います)。





>・ケース1について
>これは微妙に茂木健一郎もついているところですが、ここで>問題となるのは"時間軸"だと思います。(・・・)


 なるほど、興味深いです。ただしそれは、脳が論理的思考をどのように構成するかという説明ですよね。私がケース1とケース2の両方で問題にしたかったのは、物理言説と心理言説が対応していない、もしくは物理言説同士の関係と、心理言説同士の関係が対応していない、ということです。少し説明を補足しましょう(説明は69の例に則しています)。

Pという信念(命題)に神経状態Mが対応する。
Qでないという信念(命題)と神経状態Nとが対応する。

 そして、心理のレベルでは、「Pと信じている人は、Qではないと信じてはいけない」となります(カバンにリンゴが10個入っていると、カバンにリンゴが5個入っていることも、当然否定できない)。そしてこの事態はそのまま、物理のレベルでは、「神経状態Mの人は、神経状態Nであってはいけない」となります(MとNは、それぞれ局所的な神経状態で同時に持つことは物理的には可能だとします)。

 この場合、心理のレベルで、約束事として「〜はいけない」とか「〜であるべきだ」というのはわかります。しかしそれをそのまま神経状態にスライドさせると、生化学的状態であるMとNの間に、「〜はいけない」とか「〜であるべきだ」という要求を持ち込んでしまいます。こういう禁止や命令が、生化学的プロセスの中に入り込むこと自体がおかしいわけですよね。

 で、ケース2というのは、物理のレベルで生じていることから心理のレベルでの出来事を再現しようとするとどういう問題が生じるか、ということです。

 生化学の研究結果から、神経状態Mの人は、神経状態Nにもなっていることが証明されたとします。(この場合のMとNもそれぞれ局所的な状態で並存は可能とする)

 神経状態MとNにそれぞれ、命題PとQが対応するとするなら、「神経状態Mの人は、神経状態Nにもなっている」という生化学的事実は、「信念Pを持つ人は信念Qを持つ」となる。それはつまり、「ある点が緑であると信じているは、常に、その点が広がりを持つとも考えている」という命題が必然的に真だという意味ですね。

 しかし、心理のレベルで、「ある点が緑であると信じているは、常に、その点が広がりを持つとも考えている」が正しいかどうかは、信念の体系全体の中での他の信念群との関係で決定されるもので、いついかなるとき成立するとはかぎりません(心の全体論)。というわけで、なるほど、生化学的事実として、神経状態MとNの恒常的並存が証明されたとしても、そのMとNの関係のようなものを、心理のレベルにおいて、二つの信念PとQの間に見出すことはできないわけです。

 ケース1では、心理のレベルでの命題間の関係を物理のレベルに求めようとすると齟齬をきたしましたが、ケース2では、物理のレベルでの神経状態MとNの関係をそのまま心理のレベルで二つの命題の関係として見出そうとすると齟齬をきたす、ということです。

 もっと単純に言えば、われわれが物を考えるときの思考の構造(全体論)と、物理現象の構造(因果法則)とが異質だということでしょうね。その意味で、私は次のrice氏の指摘に同意するわけです(ただしその場合、氏のいう「論理」を「心理」と言い換えたとしてのことですが)。

「なぜなら、「「心」という(PCで言う)論理層」も絡む問題を、「「生化学反応」という(PCで言う)物理層」だけの問題としてだけで考えていくのは、キビシイように感じるので。」(rice氏57)
92の好人氏へのレス


>何故、独自のシステムで動いているように見えると言えるのですか?ボクは、そうは思えないんですよね。 今こうして、反論してキーボードに文字を入力している状態も独自のシステムには感じられないんですよね。


ふむー。そこまで話を戻しますか。
 主観的意識の相対的自律性というのは、第一に、発言5(私の最初の発言です)ですでに申し上げたようなことです。

「「クオリアも意識も思考も全て人間の統合的なシステムの一部でしかない」にもかかわらず、人間は、あたかもその生体システムそのものの作用とは別に、意志や思考によって主体的に活動できるかのようになっている。」

 こうしたことは、89のrice氏がおっしゃるように、「客観的な物理世界だけを前提に考えを進めるにしても、「創発」みたいな考えを導入せずに、「全部物理世界に還元しよう」というのは難しい」ということです。主観的意識は、創発的システムをなしていると言い換えてもよいかもしれません。「創発性」(emergence)は、認知科学でのキーワードのように今やなっていますよね。

 第二に、主観的意識の相対的自律性を前提にしなければ、そもそも好人氏の議論や認知科学自体が成り立ちません。これは、私(24)や白飴姫氏(25)で指摘があるとおりです。とりあえず、我々は意識の相対的自律性を前提とした言語を駆使しているし、そのような自律性を感じていると思っているわけです。であればこそ、そういう意識でさえも、「化学反応」だと言って説明しようとするわけですね。意識が化学反応であることなんて誰にもそのものとして実感できません。実感として意識はやはり意識なのです。化学反応だというのは説明のしかたであって、説明すべき対象である意識の現前はやはり我々には否定しがたいことでしょう。その意味で、好人氏も、意識の相対的自律性を多かれ少なかれ前提にしているのですよ。

実際、好人氏自身も、「心(ソフトウェア)というものを解明するには、まずこの(脳の)ルールを解明しなければいけない」と言っておられるでしょう。こう言っているということは、意識の独自性を前提にして話を進めているということです。
91のRice氏へ


>「太陽が昇る」みたいな比喩


 この表現に思わずほくそえみました。

 Rice氏がなさっておられる議論に直接関係はないのですが、かつてアンスコムがヴィトゲンシュタインに向かって、

「私には、「地球が太陽の周りを回っているのが見える」という現代人の表現よりも、「太陽が地球の周りを回っているのが見える」という古代人の表現の方が、正確に思えます(地球が回っている姿を見ることなどできないから)。」

というようなことを言ったらしいです。それに対してヴィトは

「しかしそもそも、「地球が太陽の周りを回っているのが見える」とはどういう意味だろうね」

と答えたとか答えなかったとか。うろ覚えで失礼。

 それに関して論じている論文によると、ヴィトの言いたかったのは次のことではないかということでした。つまり、自然科学は、我々が日ごろ見ている現象的世界像を科学的世界像によって説明するものだと言われるが実際にはそうではない。なぜなら、現象的世界像そのものというのは存在せず、どれほど自明であってもそれは言語によって分節されており、その言語は背景知識に沿っているから。「太陽が地球の周りを回っているのが見える」というのは、古代人の世界観を前提にした文法であり、同様に「地球が太陽の周りを回っているのが見える」は現代の物理学的知識を前提にした文法である。従って、「地球が太陽の周りを回っているのが見える」という表現は間違っているわけではなくて、現代の自然科学的知識を前提にした我々は、太陽を見ながら、「地球が太陽の周りを回っているのが見える」と言うことが可能となっている。それに、自然科学はじつのところ世界観ではなく、現象的世界観に対する絶えざる改定作業であり、その改定は、このように、見たまんまの表現と思われるものさえ変化させていくのだ、と。

 「太陽が昇る」という表現は、ある時代の人々には見たまんまだったはずですが、現代では、rice氏のように、比喩にしか思えなくなっていくんだなあ、と改めて実感しました。
>100 ムッシュイメヌさん

アンスコムとウィトゲンシュタインとの会話はどこに出てましたっけ? ご記憶がおありでしたらご教示下さい.
>98 ムッシュイメヌ さん
>  そして、心理のレベルでは、「Pと信じている人は、Qではない
> と信じてはいけない」となります(カバンにリンゴが10個入って
> いると、カバンにリンゴが5個入っていることも、当然否定でき
> ない)。

 本題のクオリアからはそれますが,ムッシュイメヌさんの上記の主張がわたしには納得できないので,反論( もしくは質問 )します.

 「カバンにリンゴが10個入っている」と信じている,かつ「カバンにリンゴが5個(以上)入っている」と信じていない,という状況はなぜ,否定できないのでしょうか?

 人は,しばしば矛盾した複数の諸信念を持ち,したがって持ちえる*,とわたしは思います――但し大抵は,複数の信念間が矛盾しているように一見しては見渡せないだけで. 

 「カバンにリンゴが10個入っている」と信じている,ならば,「カバンにリンゴが5個(以上)入っている」と信じていなければならない,というのは「ねばならない」という語彙が示すように規範的領域,具体的には論理の領域の問題ではないでしょうか?

 心理的には矛盾した信念を人は持ちえる,但し,論理的にはそれは矛盾である( から批判される ),のではないでしょうか?

* 但し,発話を標準言語規約にって意味解釈するのではなく,その個人の行動に基づいた個人言語規約を推定して解釈を施すのであれば,>矛盾した諸信念< というものが大多数は >極めて変わった個人言語規約( 例えば「'5個のリンゴ' は fifteen apples を意味する )」を採択している話者による整合的な諸信念<として解釈され,そこでは矛盾した諸信念は大幅に減るとは思います.
どうもです。


白飴姫氏

 その会話は、たまたま手に取った論文に出てきたもので、出典をまるで覚えておりません。その論文を見つけたら追ってお知らせしますね。

 ちなみに、

>「カバンにリンゴが10個入っている」と信じている,かつ「カバンにリンゴが5個(以上)入っている」と信じていない,という状況はなぜ,否定できないのでしょうか?

 とのことですが、もちろん否定も可能です。それは、ケース2で、広がりのない緑の概念を持ちつが想定可能であるのにも似ていますね。

 実は、今回改めて書くときに、その点について私も一抹の疑念がよぎりました。そこで私が考えたのはこういうことです。つまり、上の状況は、ある人の全体論的な信念体系が、論理や算数の命題群とたまたま合致していてそれを明確に信念として含んでいる限定的なケースをとりあえず例題にしているのではないか、と。

 だから、「カバンにリンゴが10個入っている」と信じている人がとてもかわった考えの持ち主で、この信念の中に、「カバンにリンゴが5個(以上)入っている」という信念が含まれない、含まれてはいけない、と考えているケースがあってもいいいんです。それでもやはり、「Pと信じている人は、Qと信じてはいけない」という定式化になり、神経状態Mと神経状態Nとの関係に「いけない」とか「べき」を持ち込んでいることには変わりがないでしょう。
 まあ、例題として、論理や算数のシンプルな命題の方が、議論がわかりやすいから使っているだけではないか、と思います(タネ本は、サイモン・エヴニンによるデイヴィドソンの解説書)。

 
 
rice氏、


>自分は、ヴィトゲンシュタインの「語の使用」説には、理屈の上では完全に賛同しているのですが、でも、実際にこの辺のことを意識し出すと、上みたいな疑問は自然に出てきてしまいます。

 言語学者でもある知人に聞いたところによると、言語学では、「意味とは何か」を議論するのは、ほとんどタブーらしいです(笑)。言語哲学になってしまうということでしょうかね。たしかに難しい部分があるのはわかるし、これはほとんど意識のハードプロブレムの一部かもしれませんね。

  
>ムッシュイメヌさん
>  その会話は、たまたま手に取った論文に出てきたもので、出典
> をまるで覚えておりません。その論文を見つけたら追ってお知ら
> せしますね。

よろしくおねがいします. ( 実は,引き続いたウィトゲンシュタインによる天動説と地動説の解説部分が,ハンソン的ではあっても,ウィトゲンシュタイン的ではない自然科学理解では? と思いつつ,アンスコムとの典拠の前後を読んでみないと何ともいえないので,期待をしています. ということは,典拠を教えていただくと,ムッシュイメヌさんが反論されるかも(笑),という事になっちゃいますが・・・ どうもムッシュイメヌさんのウィトゲンシュタイン的科学観ってせいぜい『確実性』の時期に先立ってはありえなさそうな気がするんですよね・・・  )

> 「カバンにリンゴが10個入っている」と信じている人がとても
> かわった考えの持ち主で、この信念の中に、「カバンにリンゴが
> 5個(以上)入っている」という信念が含まれない、含まれては
> いけない、と考えているケースがあってもいいいんです。それで
> もやはり、「Pと信じている人は、Qと信じてはいけない」という
> 定式化になり、神経状態Mと神経状態Nとの関係に「いけない」と
> か「べき」を持ち込んでいることには変わりがないでしょう。

こっちは,なんとなく違和感がありますが,当方既に睡眠薬がはいっていますので思考力が落ちていて,反論が明瞭化されません. 今日の朝以降,若し具体的反論を思いついたら,改めて書き込ませていただきます.
白飴姫氏、


 もしかしたら白飴姫氏がご自身でアクセスなさる方が早いかもしれませんので、私が読んだ論文を挙げておきますね。ヴィトとアンスコムの会話の出典もここに当然書かれているはずです。

Jocelyn Benoist, « Image scientifique et image manifeste du monde », in Jacques Bouveresse / Jean-Jacques Rosat (dir.), Philosophies de la perception. Phénoménologie, grammaire et sciences cognitives, Paris, Odile Jacob, 2003, p. 11-30.

 この論文の書き手であるブノワはヴィトゲンシュタインの専門家ではないので、いろいろ突っ込みどころはあるかもしれません。頭のいい人ではあるんですけどね。


 ただし、少し補足します。まず根本的なことですが、天動説と地動説の話は、私の解釈ではありません。上記の論文の内容をおぼろげながら私がパラフレーズしただけなんです(「それに関して論じている論文によると、ヴィトの言いたかったのは次のことではないかということでした」と書いたとおり)。

 それと、この論文、実は、ヴィトの科学観については何も言及していません。アンスコムの発言にヴィトがさりげなく疑問を投げかけた。そういうエピソードをネタにして、manifest imageとscientific imageの関係を考える、というのが主旨です。

 manifest imageとscientific imageという定式化自体、おそらくセラーズ辺りに由来するものですから、当然、ヴィトゲンシュタイン本人が言いそうなことではありませんね。ただ、「地球が太陽の周りを回っているのが見える」という言い方が可能だということは、ヴィトの「哲学的文法」という視点から十分に説明可能だと私も自身も考えております。

 ちなみに私は哲学の専門家ではなく、自分の知識や思考にプライドをかけているわけではないので、異論反論オブジェクションは気兼ねなくお願いします。リンゴの件も何か思いついたらよろしくです。

 
え〜……流れをぶった切るようで申し訳ありませんが、トピの議題について私個人の意見を述べさせていただきます。


さて、どうしてクオリアについて考察するとき二元論が出てくるのでしょうか?
それは、クオリアは「物理学的範疇を越えたもの」だと、どうしても思えてしまうからです。しかし、これは直感に過ぎません。
クオリア問題における、二元論者の言い分はこうです。
「生物とは、分子で構成された機械である。その挙動は非常に複雑で、高度な情報処理を行ったりもするが、それが分子で構成された機械である以上、その挙動の全てを物理学的に説明できるはずである。しかし、いくら高度な情報処理を行ったところで、『単なる分子の運動』から『クオリア』が出現するとは考えにくい。(精巧なアンドロイドはクオリアを感じない)よって、クオリアは物理学で扱いきれるものではないのである。」
しかし、先ほども述べたとおり、「『単なる分子の運動』から『クオリア』が出現するとは考えにくい。」といくら主張したとしても、それは直感に基づく意見であり、確証が得らるものではないのです。


では、いっそのこと「クオリアは物理学的に説明がつく現象である!」と割りきってしまってはいかがでしょう?
確かにこちらの意見も、「直感的」で「確証が無い」という点では二元論者の意見と五十歩百歩です。
しかし、この考え方だと心身二元論なんか持ち出さなくてもいいし、ハードプロブレムに陥って頭を抱えなくても済むわけです。


しかし、楽観視ばかりしてはいけません。
クオリア問題とは、「観測不可の主観的な体験」を取り上げる問題なのであり、「葉っぱが開く」などといったような、客観的、或いは定量的に扱うことができる問題とは一線を画すものなのです。
量子力学然り、現在の科学は観測不可の事情には滅法弱いという宿命を抱えています。
果たして「科学」で「観測不可のクオリア」を解明することはできるのでしょうか?
> すぴるさん

「クオリアは物理学的に説明がつく現象である!」と割りきってしまってはいかがでしょう?

 物理学ということばを、どのくらいの範囲のものとするかによって、この答えは変わってくると思います。しかし、私たちの五感が、神経細胞を介する物理学と連動していることは、誰が考えても自明であると思います。そこで、少なくとも、現代の物理学に対して、クオリアは、開いた(連動した要素のある)現象であるということは、言えると思います。
 更に、物理学というものを現状の範囲にとどめることなく、「現状の物理学を含んでいて、理知的に解明しうる領域」と考えれば、クオリアは、まさにその新たに設定した物理学の領域によって解明できるものだと考えます。

 私は、統一場心理学という領域において、すでに仮説をまとめ終わりました。

 結論としては、ベルクソンなどによる時間との関係や、量子場などに関連して、理知的に解明すれば、誰にでも理解できる者だと考えます。
>抱石さん
当方、なにぶん不勉強なもので、抱石さんの言う「統一場心理学」なるものを詳しく存じ上げません。
もしそれが、主観的であるクオリアを物理学的範疇で(第5の力を持ち出さずに)上手く解明出来そうな学問であるとしたら、非常に興味があります。(コミュニティにも参加させていただきました)
今後、ご教示いただければ有難いです。
好人さま

「青」はどこからくると思いますか?

あの青空の、青い色のことです。

いかがでしょうか?
> すぴるさん、テンパルさん

 コメント並びにご質問をありがとうございます。
 お二人のお気持ちにどこまでお応えできるか分かりませんが、基本的には、化学反応における電子雲の共鳴・結合時のエネルギー変化を元に、物理的なモデルを構築しています。(脳量子場という考え方を、発想として使っています)

 実際に起きていることは、内観的な方法を使って推論するしかないと思いますが、それらの多くの変化について、整合性のある解釈が、上記モデルによって可能になったと考えます。
 議論が止まってしまったようなのですが、もし私の発言が不適切であるなら、スルーして皆さんのお話を続けて下さい。
抱石さま

はじめまして、かぶとぼとけと申します。
まったくの素人ゆえ、
初歩的な質問で申し訳ありません。

「脳量子場」とは何のことでしょうか?

お教えいただけませんでしょうか?
 ご質問、ありがとうございます。

 「脳量子場」というのは、普通はミクロな世界(素粒子、原子、分子の世界)でしか見られない量子状態が、脳の中ではマクロな広がりを持つ状態で保たれていて、心を形成しているというような考え方です。
 えーと、不確定性理論などの世界と言えば分かりやすいでしょうか。

 私は、量子力学に関しては素人なので厳密なことは書けませんが、発想としてこの考え方を用いております。出身が化学畑なので、電子の振る舞いとかにはなれています。そこで、分子に於ける電子軌道の振る舞いをモデル的に扱うことで、心を表現できると考えました。

 心が一つにまとまって働いていることや、実感があるということ。この二つを説明できる仮説を立て、心を物理的な発想で扱えるようにもなりました。
 心は、中に含まれる情報が複雑なために、現実には複雑な動きをしていますが、そこに働いている原理は、かなり単純なものではないかというのが、私の結論です。
 不完全ではありますが、「統一場心理学」コミュの実践心理学派のトピに、概要を一般公開しております。
抱石さま

懇切なお答え有り難うございます。

「量子状態が、脳の中ではマクロな広がりを持つ状態で保たれていて、心を形成している」ということは、実験などで確認されているのでしょうか?

また「電子の振る舞い」によって心が表現できるということは、
ニューロン細胞、あるいはシナプスとの関連があると思うのですが、
どのように関わっているのでしょうか?

素人の質問で、申し訳ありません。
お願い申し上げます。


かぶとぼけさま

> 「量子状態が、脳の中ではマクロな広がりを持つ状態で保たれていて、心を形成している」ということは、実験などで確認されているのでしょうか?

 私の知る限り、ありません。
 そこが、決定的に問題ですね。認めます。 (^^
 ただ、これまでの科学では扱えない「実感」という要素があるのですから、何かしら、従来の科学を超えた考え方が必要になると思います。

 マクロな量子状態というのは、ベルクソンなどが「私とは時間である」という意味のことを考えるに至ったこととも、符合すると考えます。(波動関数は、時間の項を含みますから)

 電子というのは、私が慣れているということで、モデル的に発想の源泉にしているという意味であって、観察されていない量子場ですから、そこの状況を詳しく述べることはできないと思います。
 まあ、従来の説明では、心の描けない部分(多分、最も重要な部分)が確実にあり、欠落しているということで、そこを描ける仮説を探し当てたとお考え下さい。どれほど不完全でも、そこを描ける仮説を、ともかく描くということが大切だと考えました。

 その結果、人間の心理的な変化が、物理的な感覚で簡潔明瞭に描けるようになったということです。従って心は、もしかしたら量子場ではないかもしれないが、基本的な構造としては、同様の機能を有する何かであると考えております。
ご説明有り難うございます。

いくつか質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?

1.「波動関数」というのはシュレディンガー方程式のことですか?

2.「その結果、人間の心理的な変化が、物理的な感覚で簡潔明瞭に描けるようになった」
上文中の「その結果」の、その、とは何を指していますか?

無学ゆえの問いをお許し下さい。
書きなぐりの文章に、丁寧にご質問下さり、ありがとうございます。

1.そうです。
 ただ、あまり適切な表現ではなかったかもしれません。量子状態に時間軸が含まれている(どう文章家したらよいのか・・・)といった漠然とした意味で書きました。

2.その結果=マクロな量子状態を想定した結果
  更には、その仮定を展開して、心理的な変化を物理的な変化として描いた結果ということです。
 テンパルさん

 ご質問、ありがとうございます。その本は、参考にさせて頂いております。
 ただ、私は量子論の専門家ではないので、計算上どのような設定が最適であるかということは、あまり考えておりません。その本には、重い光子とかの話も出てきたと思いますが、その辺の微細構造についても、語るためには何らかの実験的な立証が必要になると考えております。

 私の立場は、主に内観的な方法で得た情報を、可能な限り客観的なモデルとして整理して、様々な状況に応用できる普遍的な法則を見つけることを第一義とすることです。その結果(整理した結果)、ほとんど唯一つの原動力で、心の動きを説明できるところまできました。
 応用もできますが、基本的な原理についての仮説です。

 もしご興味がおありなら、ここから先は、抽象的な説明よりも「統一場心理学」コミュをご覧下さい。
たまたまトピがあがっていたので、ざっと読ませていただきました。興味深い議論をされていますね。
クオリアの話とはちょっと外れるかもしれませんが、途中、イメヌさんが出されていた心理状態と物理状態の関係について、どうも納得行かない部分があったので、反論(or 質問)させてください。半年以上前の書き込みにレスをつけるのもどうかと思いますが。


>98

まず、ケース1ですが、
> この場合、心理のレベルで、約束事として「〜はいけない」とか「〜であるべき
> だ」というのはわかります。しかしそれをそのまま神経状態にスライドさせると、
> 生化学的状態であるMとNの間に、「〜はいけない」とか「〜であるべきだ」とい
> う要求を持ち込んでしまいます。こういう禁止や命令が、生化学的プロセスの中
> に入り込むこと自体がおかしいわけですよね。

私には、それはおかしいこととは思えません。更に言えば、この例が「〜はいけない」と「〜であるべき」という禁止や命令を生理学的プロセスに持ち込むとは必ずしも思えません。

この例では、神経状態Mが観察されるときは、いつも神経状態Nは観察されなくなる…というただそれだけで、Mと¬Nの間に生化学的な因果関係が発生する、とは限らないのではないでしょうか。



ケース2ですが、
> 生化学の研究結果から、神経状態Mの人は、神経状態Nにもなっていることが証明
> されたとします。(この場合のMとNもそれぞれ局所的な状態で並存は可能とする)
(略)
> しかし、心理のレベルで、「ある点が緑であると信じているは、常に、その点が
> 広がりを持つとも考えている」が正しいかどうかは、信念の体系全体の中での他
> の信念群との関係で決定されるもので、いついかなるとき成立するとはかぎりま
> せん(心の全体論)。というわけで、なるほど、生化学的事実として、神経状態
> MとNの恒常的並存が証明されたとしても、そのMとNの関係のようなものを、心理
> のレベルにおいて、二つの信念PとQの間に見出すことはできないわけです。


「生化学の研究結果」がただの仮定の話で、信念の体系については真理として話されているところに誤謬が生じているように思います。素朴に考えれば、この論で矛盾が発生したならば、元の「生化学の研究結果から〜証明されたとします。」という仮定が間違っていた、と解釈すべきなのではないでしょうか。

逆説的に言えば
> 「ある点が緑であると信じているは、常に、その点が
> 広がりを持つとも考えている」が正しいかどうかは、信念の体系全体の中での他> の信念群との関係で決定される

のがもし真実ならば、対応するMとNが並存するかどうかも「生化学的反応の全体の中での他の生化学的反応との関係で決定される」のかもしれません。だとすれば何の齟齬も生じません。


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