ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

クオリアコミュの質問していいですか?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
気になる、

質問したい、

ああ、クオリアとは関係ないかな、?

じゃまはしたくない、

だけど、、、

やっぱり気になる。

狭義から広義まで低姿勢に質問するトピック



コメント(57)

14の記事についてですが「雄の牝狐」は論理的に可能です(さらに想像可能)。
丸い四角も黄色い青も。それはモデルの話ですから。
この辺はチャーマーズのミスですね。3連続投稿ですた。
>コロさん
難しいwまたゆっくり読んでみます!

>hackさん
うーん僕はどちらかというと物理世界の方を疑っているので、イデアに関してはそれほど、問題意識をもってません
「概念(≒クオリア)」を美化したものと考えれば、イデアといってることは同じですから

で僕はどちらかというと、物質世界においてってところがわかりません
その独立した物質世界をもってくるのが、二元論の気持ち悪いところなんです

それよりも、概念と相互作用した物質世界の方がいいのではないかと考えるわけです

イデアにしても、それが独立してそこにあるだけではダメで、物質世界と相互作用しないと意味を成さないわけじゃないですか?(多分、人間の意識が、そのジャンクションになるんだと思いますが)

その辺が二元論はおかしいなぁと思ったわけです。

だから僕は、概念とかクオリア(≒心)とかを、一つのカテゴリーにして、物質世界をもう一つのカテゴリーにして、その共通部分があると考えたわけです
で物質世界の共通部分でないところは、上では石ころって書いていますが、正確には、意識されない「物質」ということになります。
で心の共通部分でないところが、イデアとかコギトだと思います

その、二元論の独立しているところが気持ち悪いわけです。
私自体は概念はイデアの世界に、
クオリアは物理的世界に存在すると考えるのが自然だとも思いますが・・。
(強イデア主義においてはクオリアもイデアの内に存在しますが)

問題は「美化」や「概念形成」のメカニズムそのものですね。
色々なクオリアや知覚内容から共通部分を抽出して抽象化を行っているのか、
イメージスキーマのようなアプリオリな概念のセットを組み合わせているのか・・。
ちなみにAI的には両方とも作る事になりますが・・(爆)。

イデア自体は可能性の世界そのものなので、
人間や人間の意識からも独立し得ると思います。
むしろ人間が有する「意味」は全てイデア的なフィクションだとも。
クオリア的世界観やら物理的世界観やら一元論やら二元論やら、
フレームやスキーマやコンセプトやイメージやクラスや(中略)イデオロギーや、
その他全ての世界観・概念はイデアに存在するとも。

要は人間はアニメや漫画の世界に生きているという主張ですな。
方法的懐疑を行えば全ての世界観には前提のない前提(ドグマ)があると。

もちろんアニメ自体クオリアを純化したものだと主張する事も可能。
だがしかし強フィクション主義においてはその主張自体がfictionalなものなんです。

embodimentなど唯物論が全盛のこの時代に、
方法的に(唯心論のような)フィクション主義の立場を取ることの意味はあると思ってます。

まあ仕事では方法的唯物論として脳の研究もしてるんですけどね(爆)。
毎度毎度個人的な話になりますが・・(涙)。

最後議論を続けるため、イデアが(人間を経由して)物理世界に影響する事はあっても、
物理世界がイデアの世界自体に干渉することは(絶対に)できないと主張しておきます。
作用し得ると言っても心(ここではイデア)の世界から物の世界への一方的なものだと思います。
>問題は「美化」や「概念形成」のメカニズムそのものですね。

確かにこれはそうですね
今のところなんとも言えないです


最後の文はイデアに対しては賛成なんで、議論にできませんw

えっとそれより、一文目が気になりますが、クオリアが物質世界にあると考えるのは、あまり賛成できません
それはおそらく、意識ってのが、物質世界にあるのか、独立しているかの問題に帰着すると思うんです
これが解けない以上、なんとも言えないと思います
脳から意識が生まれるかどうかって問題ですよね

僕も科学者志望なんで、脳から意識がどうやって生まれるのかを研究するべきですが
実際、考えると、強フィクション主義で全て説明できるんですよね
けど、現実問題としてどうなってるかってのは、別の話で、それは課題だと思ってます
>>23:「J」さん
もちろん私は強フィクション主義者なので、
クオリアはイデアに存在すると考えています(爆)。

まあ茂木健一郎氏のクオリア・マニフェストを読むと、
「クオリア(qualia)に対応する物質的過程の性質を明らかにする」
「私たちの心的現象をも、自然現象の一部とみなし、
 心的現象をも自然科学の記述の対象とする」
「心の中にあるクオリアの性質がどのように物質的過程から生み出されるのか」
「クオリア(qualia)は、現在までの様々な神経生理学的データを検討すれば、
 ニューロンの活動、とりわけ活動電位(action potential)と呼ばれる
 膜電位の変化によって生み出されることは明らか」
「クオリアや主観性に対応する脳の中のニューロンの活動を明らかにし、
 そこにどのような対応原理が働いているのかを理解し、脳を含むどのような物質系に、
 どのような条件が満たされた時にクオリアや主観性が宿るのかを明らかにする」
など、物質世界を基礎としてクオリアを捉えた記述が多いので・・。
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html
(ちなみにこのマニフェストには色々好きな事を書いてますが、
 やはり私はエッセイとして読むべきものだと思いますね。)

しかしまあクオリアと言えば世界的にはチャーマーズで、
茂木健一郎氏のマニフェストも基本的にはチャーマーズの影響ですよね。
そのチャーマーズ自体は(14によると)性質二元論も主張されているようなので、
やはりチャーマーズの論文や本を読むのが一番良いんだと思いますが・・。

私も時間を見つけてThe Conscious Mindは読みたいと思います。
やはり翻訳すると別の本ですから、原書で読むべきですよね。
http://www.amazon.co.jp/Conscious-Mind-Search-Fundamental-Philosophy/dp/0195117891
(基本的にはChalmersの著作も論文も含めて全てエッセイだと思いますが・・。
 Hofstadterのゲーデル,エッシャー,バッハにしても、
 Lakoffの女,炎,危険物にしても、
 Langackerの認知文法の基礎にしても、
 Gärdenforsの概念空間にしても、
 全て好きな事を色々書いたessayですよね。
 研究者が書く研究論文としては、
 Gödelのincompleteness theoremsや、
 Einsteinのtheories of relativityのような、
 しっかりした内容のものにするべきですよね。
 哲学的なオシャベリ自体はギリシア時代からあるんですから。)

ついでに茂木健一郎氏の最近のタレント活動に色々言いたいことがあるんですが、
まあそれは他の機会にということで・・。

ちなみに私の研究テーマは、
「色や音を感じた時の脳活動のデータから色や音の情報をデコーディングする」
事なので、脳活動とクオリア(色や音)の関係も色々分かるかも。がんばりますです。
追記ですが、essayって勝手に書いていいんですよねたぶん。
というわけで私は"Fictional Reality"とか"Mind as Fictions"とかいうタイトルで、
勝手な事を書いた勝手なessayを勝手に書く事にしました。わーい。

もちろんしっかりした脳の研究をしながらですが・・・やるぞー。
以上修士課程1回生の学生の勝手な独り言でした。わーいわーい。
★視覚と言語

活字を認識する視覚データがどのように脳内で処理されるのかということに興味を持っています。
おそらく、今現時点では、その処理による“言語の意味”の主観的経験までの経路を確認することができないと推測しますが、現時点で確認可能な最高限度までにおいて、その処理経路を解析することには意義があると分析します。
Universal Process of Thoughtsを提唱したい。
経験科学である神経言語学の最先端の知見を得て、それをスタート・ポイントとして、あとは、厳密な論理的整合性思考によって、それを証明することが可能であるかもしれない。
う〜ん、よくわからないので教えて下さい。

「クオリア」と「印象」とは、どう違うんでしょうか?

赤いものを見た時に感じる主観的感覚を、「印象」でなく「クオリア」と区別する(言い換える)必然性はどこにあるのでしょうか?

印象とクオリアは、同じもの?違うもの?
クオリアって、より鮮烈な、視覚とか、嗅覚とか、触覚とか、聴覚とかの、バインディング、というかんじをうけます。
より、アクロバティックで、斬新な、バインディング、というか。知能と知識の問題で、こういういいかたしかできないですが。。
>30: ё子 さん
 「バインディング」という意味がわからないです. ですので,ё子さんの主張の是非は私にはわからない( できれば「バインディング」のあなたの語法での意味を教えて欲しい. )です. ただし,「より鮮烈な、視覚とか、嗅覚とか、触覚とか、聴覚とかの」という部分に限れば,少なくともヒュームでの「印象(impression) 」は「観念(idea)」と異なり,鮮烈で判然とした存在者です.
同時発火のかたちづくるもようが、斬新であったら、クオリアが鮮烈、みたいなイメージです。
いままでのストックされているモジュールの改変、をもとめるような模様。
あくまでも、イメージです。
>34: ё子 さん

 そもそも同時発火とクオリアとは,その対応付けや因果関係の発見が試みられている事柄であって,定義関係ではないでしょう. だから,同時発火を「クオリア」と「印象」とが同義か異義という概念の問題に持ち込むのは論点先取ではありませんか?

えっとクオリアと印象は違うものだと思います

印象の日本語の意味をどうとらえるかでだいぶ話は変わってくるでしょうけど…

クオリアはコンピューターと人間を対比させたり、哲学的ゾンビを考えるとよくわかると思います


哲学的ゾンビが感じないのは印象と言うとそれは必要だけど十分ではないです

それ以外にも情だとか意識だとかがないことが必要です(これらを印象と呼ぶのかどうかは日本語の問題で、僕は印象という言葉の範疇に入らないと思います)

じゃぁそれらをひっくるめて、クオリアって呼ぼう!って感じだと思います


僕は印象は高次の認知機能を表す日本語として捉えてます
クオリアはもっともっと低次のものです


まぁ茂木さんが本で電車に乗ってるとガタンゴトンと聞こえ、これがクオリアや!って思ったって言ってますけど、これは今までもずっとクオリアはあったんだけど、それに気付かず、やっとガタンゴトンで、クオリアがあった!っていうこれがクオリアや!っていう意味だととったほうがいいと思います


あの表現はちょっと誤解を生むなーって思ってます
いろいろなご意見ありがとうございます。
皆さんの意見を読んだあと、考えたことをまとめます。

以前、どこかのシンポジウムで聞いたのですが、自分で意識的にわかる感情や理解とは、大脳で処理された結果の「アウトプット」であって、「インプット」時の感覚ではないのだそうです。

外からの刺激が大脳に到達して処理される(意識下になる)前に、もっと脳の下層の部分で反射的に感じとられる感覚(感情をともなわない、ただのインパクトのような感覚)があるとのことだったと思います。

「印象」という言葉は、パッと見の反射的感覚も、その後意識される感情・理解・感想も、全て含んでいるように思われます。「印象的」という言葉は、対象から受けるインパクトや鮮やかさまでも伝えているし、「印象派」と言われる画家一派の作風は、一旦フィルターを通した後アウトプットとしての感情・感想まで含めた情景を描いているように思われます。

「クオリア」について書かれた文章の「クオリア」という文字を、全て「印象」に置き換えて読んでも、意味は通じてしまうことが多く、やはり明確に区別するのは難しいのかもしれません。

しかし、Msg30のご意見などを読んでいると、「クオリア」とは、「印象」の中でも大脳で処理される以前の感覚、「インプット」時に受ける感覚を指しているのかな?と思いました。

また、もしそうなら、アウトプット後の感覚や感情「きれいだなぁ」とか「好きだなぁ」とかは、クオリアではない、ということになりますが、この理解は正しいでしょうか?

もし正しくないとすれば、どこが違うのでしょうか?
ぼくは、クオリアという言葉は、ごく普通の主観に対してつけられた呼び名だと理解しています。

ある特定の波長の電磁波は、そのままでは単にある特定の波長の電磁波であるにすぎないものだけれども、それが人間の目を通ってドミノ倒しのように形を変えながら脳に信号が届くと、何故か「赤い」という感覚質が私たちに感じられる。
ところがその電磁波のみならず、その最後の信号の形さえ、=その感覚質という訳ではない。

ざっくり考えても、信号は客観で感覚質の方は主観ですから、その間に大きなギャップがあります。そこでその感覚質の側に「将来、客観として記述され得るもの」という期待を込めて、科学の言葉としてつけられた名前が「クオリア」なのだろう、という風に理解しています。

もちろん、クオリア自体はそもそも主観の方の感覚質を指す言葉ですから、「客観として記述されうるものとして」という期待された意味は、今の所、単に期待されているにすぎないのですけれども。

主観と客観という視点から考えれば、客観で追っていって限りなく近い所までいけるけれどもけして捉えられないその先、数学で言う極限値のような場所に、クオリアは位置づけられるのではないかとぼくは思います。
 申し訳ありません!叩きのめしたウンポです!すいませんです!

 私は、クオリアとは、直感であると思っています。
 マンガで例えるなら、ガンダムのニュータイプ。エヴァの同期率。攻殻のゴーストのささやき。

 よく、感のいい人悪い人って言うじゃないですか。例えば初めて見る機械なんかを、なんとなくいじっているうちに、動かしちゃうみたいな人もいれば、そうでない人もいる。

 つまり、個体差がある。

 で、直感てなんじゃらほい?ということになりまして、これは個体の外部にあるんじゃないかいなぁ〜と、直感しております。

 ホントすみませんです! 申し訳ナイ!
グレよしさん、こんばんは。初めまして。

「クオリアは完全に物質異存か」との事ですが、これが「外部入力(外部刺激受容部における体内への出力)とクオリアとが一対一対応しているか」という意味であるならば、違うとぼくは思います。同じ刺激に対しても、時と場合によってクオリアは変質するからです。

ある刺激に対してどのようなクオリアが生じるかという事には、その刺激を受けた時に、その刺激を受けた脳が経験的歴史的にどのような状態にあるか、という事が大きく関わっています。極端に言えば、ある時点で、ある人の脳内にでき上がっている構造の総体全てが、どのようなクオリアを生じさせるかという事に関係があるのだと思います。

これを「脳の性能の差」ととらえるのは面白い視点だと思います。ただ、これは言い換えれば、脳の個性といいますか、一回性といいますか、そういったものの差であるので、「性能の差」と比較可能な量のような表現をするのには、若干そぐわないかもしれません。
むしろ、この一回性という特性が持つ「比較するもののなさ(=かけがえのなさ)」という側面は、「私」とか、「心」とかいう概念と比較的親和性が高いようにも思います。

お返事になっていますでしょうか。ご参考程度にしていただけましたら幸いです。
グレよしさん、こんにちは。

物理的な装置としての違い…という表現が微妙なんですけれども、川の水筋と考えてみたらどうでしょうか。
今仮に、ある時間と区間を区切って考えた場合の、川を構成する砂利が変化していないとします。(つまり、たまたま流入も流出もない)それでも、一定時間水が流れた事によって、淵が深くなっていたり、極端な場合、川筋が変わっていたりするかと思います。

この場合、川は物理的には「同じ」「違っていない」と言っていいかと思いますけれども、その描き出しているものは変化していますよね。
私が、脳の経験的歴史的状態と言いましたのはこういう感じを示していますので、「物理的に違う」という表現には、若干違和感を感じます。
もちろん、この場合の水筋の「形」の違いを物理的な属性の違い、と捉えるのであれば、グレよしさんが言われるとおりだと思います。

さっきの私、についてはおっしゃる通りだと思います。
さっきの私が哲学的ゾンビではないという証明はできません。というより、証明は今の私に関してもできませんから、正確には確認・確信とでも言えばいいでしょうか。

「私」という唯一哲学的ゾンビを否定できうる状態は、空間的にも時間的にも孤立しているんです。(つまり、「他者」と、「時間を隔てた自分」です)それが、前回のコメントで一回性と述べた部分で、「私」というのは、「ここ」にいる「今」の私に関してしか扱う事が出来ない概念なんだと思います。
そしてクオリアというのも同様の一回性を持っています。
これが、クオリアが客観的な記述に回収できない理由だとぼくは思っています。
 部外者の乱入をお許し下さい。

 クオリアという概念を、心の内部構造から切り離して考えるのは、かなり無理があると思います。

 まず、しんべえさんの言われるように、哲学的ゾンビを否定すること、否定的な証明をすることは、孤立した生物としての私たちには不可能ですよね。そこで、クオリアという概念を使う以上、私たちは哲学的ゾンビではないという、前提条件を受け入れなければならないでしょう。

 その上で、同じような体験でもクオリアの内容が変化していることが、問題になっているようですね。

 グレよしさんの言われるように、クオリアは、外部からの刺激に依存しているし、かみ合っているし、対応していると思います。それが変化するのは、受け手の心の内部構造が変化していること以外には、原因は考えられないのではないでしょうか。そしてそれは、物理的な変化であるはずです。(物理的な変化である五感に対応するのですから)

 そもそも、クオリアは、なぜ心の中にだけ存在するのか。(五感に対応しているということは、その存在範囲が限定されているということを示していますね)

 そうしたクオリアの存在理由、発生構造、心の物理的内部構造などが、明確に理解されれば、こうした疑問の全体が解消するのではないでしょうか。
> 46 2008年08月18日 10:19 しんべえ
> たとえば共感覚見たいな話しで、色に味わいを感じたとして、実際の入力は色
> の情報だけなのに味覚の情報も誤認している、でもそれで感じる味は実際の有> 無に関わらずクオリアとして存在するということであってますでしょうか?

 お尋ねになりたいであろう趣旨への回答は,存在する,ただし質問に誤りがある,というものでしょう.
 質問に誤りがあるというのは「実際の入力は色の情報だけ」か,「実際の入力は色の情報だけなのに味覚の情報も誤認している」というところです.色で特定の波長の光がいわゆる視覚器官を刺激するという事を意味しているなら,そのような場合には「実際の入力は色の情報だけ」ですが,そこからいかなる種類のカラーの感覚なりクオーレ/クオリアを得るのかサウンドのそれを得るのか等々は概念上はまったく規定されていず,たまたま多くの人の多くの場合はカラーのそれらを得るというだけですから,テイストのそれらを得るとしてもそれ自体は誤認ではなく,その感覚者は(少なくとも時に)視覚情報が与えられた時にテイストの感覚なりクオーレ/クオリアを得る少数派である,というだけのことです.(そこからの外界の状態を想定によって構築する際に誤つ可能性は彼/女にありますが.)
 クオリ/クオーレアは,心的諸性質の中で内観によって直接認識者に与えられる意識の現象的な存在者乃至存在様態のことですから,たとえ>>実際と異なろうと<<あるいは>>実際にはない場合<<であろうと,その現象的存在者が認識者の意識内に現出しさえすれば,当のクオリア/クオーレは存在する,といわれて然るべきだ,と私には思われます.
> 44 2008年08月18日 02:50 ピアノフォルテ
> 初めまして。最近コミュに入った者です。僕自身も正確に理解していないと思
> いますが、クオリアというのは、グレよしさんが「見えると認識している感覚
> それ自体(ありますよね?w)」のことだと思います。

 ピアノフォルテさん,クオリアは 「見えると認識している感覚それ自体」つまり(見ているという)認識の認識・メタ認識ではありません.それは,認識に立ち現れている客体(の内から物質的諸要素をそしそれが共存しているならば差し引いた残余)です.

ふと思ったんですが、「絶対音感」もクオリア現象の一つなんでしょうかね。
いや、ふと思っただけなので深い意味はないですが・・・。
こんばんはー。 はじめまして。
まだ入りたてですー。


いろいろ考えてて、クオリアは、変化率、かも、と思ったんですが、
クオリアを関係性の視点から見たい、と思いました。

自信は全くないので、

同じようなことを行っている人はおられるでしょうか?
意見も聞きたいです。
記憶の中から思い出す映像は、実際物を目で見ているものと違うのでしょうか?
自分で注意してこの両者を比べると、どこかが違うように感じます。知覚での像は目から脳まで、脳内でのさまざまな分野での働きの結果で、クオリアと呼ばれるのでしょうが、目を閉じて記憶から出来上がる像は、想像ですが、脳の記憶部位からそれを取り出した部位で出来た像で、クオリアとは別の部位のものかもしれません。長期記憶からの像は、不完全ですし、時間経過にも変化が少ない。比べてクオリアの像は鮮明で、目を閉じれば消滅する。
視覚上のクオリアは、目という器官を使っていること、目からの信号に支配されている脳状態から生まれるのであり、目を閉じれば脳状態は変わり、クオリアは消滅する。クオリアは感覚器官とその信号を認知している時の脳状態特有の現象だと思われますが如何なものでしょうか?

ログインすると、残り32件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

クオリア 更新情報

クオリアのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング