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福音主義神学研究会コミュの救済論

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キリスト教にとって救済の概念はとても大切です。
このトピックでは、その救済について語り合えたら良いなぁと思います。

みなさんにとって、救済とは何なのかということについて、証しや考えを聞かせてもらえたら幸いです。

コメント(32)

僕は、すべての人…全人類…が救いに与っているのだと思っています。
神を信じている人もいない人も、分け隔てなく、すべての人がです。

しかし、その救いの恵みを受け入れるか受け入れないかによって、神の国に入れるか、入れないかが決定しているのだと思います。

つまり、イエス・キリストによる救いの恵みを受け入れる人は神の国を相続することができるし、受け入れない人は神の国を相続できないということです。

一応、これは「「福音主義(教会)」って何?」トピックから引き継いだ内容にしているつもりです。

僕がそのように考える理由は、?コリ15:22、ロマ5:18です。つまり、アダムによってすべての人が死に定められたように、イエスによってすべての人が救いに与るのです。

しかし、マタ25:31-46、黙示20:15に示されているように、すべての人が神の国を相続できるわけではありません。
羊と山羊が分けられるように、いのちの書に記されている人といない人に分けられるように、神の国を相続できる人とできない人は分けられるのではないかなぁと思うんです。

皆さんはどのように考えますか?
そうですねえ。

僕はクリスチャンになってよかったと思っているし神様からの恵みと導きを信じまた従って生きたいと願っています。僕にとっての第一義的な救いとは現在のこの状態のことです。もちろん死んだ後の永遠お命について考えないわけではありませんがまあそれは神様に委ねるしかないのかなと思っています。今僕が言えるのは僕は永遠の命がほしいからキリスト教を信じているのではないということです。今神様が自分を愛していてくださっている、そのことが分かったから信じているのです。だからそれが僕のクリスチャンとしては弱いところかもしれません。

 さて「キリストによって救われる」ということと「キリスト教によって救われる」ということは同義ではない、と僕は思っています。「教会に行って洗礼を受けてクリスチャンになる」、これはキリスト教における救いであり神の恵みです。しかし「神の救いの御業」とはそれだけでしょうか。キリスト教と出会わなければ神は救ってくださらないのか、聖書を読まなければ救ってくださらないのか、そういう立場のクリスチャンもいます。僕は神の救いの御業はそれだけに留まるものではないと信じています。

もう随分昔の子とですが僕は母教会の牧師に「有限の人生の中でイエス様を信じなかれば永遠のほろ日を与えるというのはちょっとひどいのではないか」と尋ねたことがあります。牧師は「神様は生きているものにとっても死んだものにとっても主なのだ、死んだ後も神様はその人に働いてくださる」と答えました。僕はその答えにほっとしました。イエス様を知らずにキリスト教と無縁だった人も神様は見捨てられないんだとそう思いました。

 人間っていろいろなものを背負っているわけです。簡単に捨てることはできないものもあります。もちろんイエス様は捨てるようにと促しておられます。しかし同時にイエス様は最後まで十字架を捨てませんでした。イエス様はわたしたちが捨てれない心の弱さ、痛み、悲しみを知っておられます。「キリスト教なんか信じない」という人をわたしたちは「救いを拒否した者」としてしまいます。しかしイエス様はその人の心の奥底の叫びに耳を傾けておられるのだと信じています。

 わたしたちは自分が経験した救いを他の人にも知ってもらいたいと願っていますしそのために伝道もします。それは必要なことです。でも「救いの御業」はそれだけではないはずだと僕は信じています。


僕も、神の国に入るために信仰を持っているわけではありません。
神が僕を愛してくださっている、そして、何よりも神が神であるから信じているのです。


この世の命が終わった後に救いの機会があるかどうかは良くわかりません。
僕としては、あって欲しいとは願っています。
煉獄思想みたいなのもあるようですが…
良くわかりません。


ただ、あっちゃんさんが仰ることによると、なぜ「伝道」をしないといけないのでしょうか。
また、キリスト者の特異性とはどこにあるのでしょうか。

すべての人が救われるのであれば、キリストを信じる必要もありませんし、伝道する必要もありません。

そして、聖書を通して神が僕たちに語りかける(啓示する)必要もないわけです。

僕にはここら辺がちょっとわからないですね。

また、聖書には神は死んだものの神ではなく、生きているものの神であると書かれているような気がしますよ。
(マタ22:32、マル12:27、ルカ20:38)
Wellさん

「なぜ「伝道」をしないといけないのでしょうか。」

自分が喜ばしいということを他の人にも伝えたいと思うのは自然なことであり
それが「言葉による伝道」だと思います。
しかし伝道は言葉によるものだけではありません。
僕はなかなかできていませんが
行い、生き様がそのまま伝道になるようなこともあるのではと思います。

「キリスト者の特異性とはどこにあるのでしょうか。」

 絶対的な違いはないのかもしれません。特異性というのであれば「それは救われていることを知って喜んでいる」ということだと思います。

「すべての人が救われるのであれば、キリストを信じる必要もありませんし、伝道する必要もありません。」

これも大昔のことです。神学生を講師にして青年会で修養会をした事があります。神学生は僕たちにこう問いかけました。
「自分が死んで天国に行った。するとその天国に生前教会には全く行かず神様に逆らうようなことばかりやっていた者がいた。あなたはどう思うのか」

答え1「僕は一生懸命礼拝にも出たし献金もして天国に入れたのにあいつは好き放題やって天国に入りやがった、なんて神様は不公平ななんだ、僕も教会なんか行かずに好き放題やっておけばよかった」

答え2「あの人を僕は見下していました。あんなやつは神様が救ってくださるはずない、神様、どうか自分の傲慢さを許してください。そして彼を僕と同じように救ってくださったことありがとうございます。」

答えは僕が今考えましたがいかがですか。

もし神様を信じなくても礼拝に出なく天国に入れるのなら
Wellさんは神様を信じず礼拝にも出ない、日曜日には遊びまくりますか?


「また、聖書には神は死んだものの神ではなく、生きているものの神であると書かれているような気がしますよ。
(マタ22:32、マル12:27、ルカ20:38)」

聖書には相矛盾するような箇所がいっぱいあります。 生きている者にとっても死んだものにとっても主であるというような箇所もあったような気がします。

あっちゃんさん

『自分が喜ばしいということを他の人にも伝えたいと思うのは自然なこと』

僕もこのことには同意ですし、僕たちキリスト者が存在するということだけで十分「伝道」になっていると思います。
しかし、上記のようにかんがえると、「伝道」はしなければならないものではなく、自然としてしまうものであり、してもしなくても良いものになりますよね。


『特異性というのであれば「それは救われていることを知って喜んでいる」ということだと思います。』

つまり、特異性は救いを知っているか、知らないかの違いのみだということですね。


『自分が死んで天国に行った。するとその天国に生前教会には全く行かず神様に逆らうようなことばかりやっていた者がいた。あなたはどう思うのか』

僕は、そうであるならとても嬉しいんです。
たとえば、僕の知り合いの人たちが救いを知らずに亡くなってしまったことを考えると、すべての人が神の国に入ることはとても嬉しいことです。
なぜなら、僕たちにとって神の国こそが最大の幸福なわけですから。

でも、僕の救いに対する認識はあっちゃんさんとはやっぱり異なります。

あっちゃんさんは、すべての人が神の国に入れると仰いますが、それってキリスト者の傲慢ではないでしょうか。
つまり、キリスト者の価値観がすべての人の価値観であるという点においてです。

なぜ、神の国に入りたくない人が神の国に入らなければならないのでしょうか。
神の国に入りたくない人にとっては、神の国に入ることは苦痛で仕方がないことであり、幸福とはほど遠い状態なんだと思うんです。

僕たちには自由意志が与えられています。
それならば、神の国に入る自由も、入らない自由も与えられているわけです。
そして、僕たちキリスト者は神の国に入る自由を選び、そこに希望を見出しているわけです。

神の国に入りたくない人たちにとっては、勝手に神の国に入れさせられることなんて大きなお世話で、神に従うことに嫌悪や吐き気を感じる人もいるのではないでしょうか。

そう考えると、神の国を望む人たちだけが神の国に入れば良いわけですし、神の国を望まない人たちは神の国に入る必要はないわけです。

僕はそのように考えています。
ですから、すべての人が神の国に入れるというのは、こちらの価値観を押し付けてしまっているキリスト者の傲慢なんじゃないかなって思うんです。

それゆえ、僕たちはきちんと救いについて証ししないといけませんし、「伝道」しないといけないのです。
この場合の「伝道」とは言葉によるものではなく、キリスト者として生きるという意味です。

ただし、僕もすべての人が神の国に入れるのならば、それはどんなに喜ばしいことであるかと思っています。


『聖書には相矛盾するような箇所がいっぱいあります。 生きている者にとっても死んだものにとっても主であるというような箇所もあったような気がします。』

参考箇所であげたルカ20:38がそれに当たるかと思います。

ただ、聖書には相矛盾する箇所がいっぱいあるからこそ、解釈が必要になるんですよね?
前にあっちゃんさんもそのように仰っていたかと思います。
そうすると、矛盾しているからこそ、批判的に読まなければならないわけで、こういうときこそ対話が必要になると思います。

あっちゃんさんは、マタ22:32やマル12:27をどのように読まれるのですか?
僕は、ルカ20:38の<みな>とは、ルカ20:35にある<次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人>(新改訳第3版)のことを文脈から考えても示していると思うのです。

いかがでしょうか?
Wellさん

確かにキリスト教の言うところの神の国など真っ平ごめんだと思っている人は多いかもしれません。人間は神様から自由意志をいただいていますしだれにも強制されずに自分の意思で判断し選択しているわけです。その結果キリスト教を選ぶ人もいればそうでない人もいます。それは現実です。

 キリスト教の神の国には行きたくないという人は確かに多いかもしれません。
ではキリスト教という限定を外したらどうでしょうか。心の奥底では誰しも神を希求し平安を願っているのではないでしょうか。表面に出てくることだけでは判断できない領域があるのではないか、神はその心の奥底にも働いてくださるのではないか、

 イエス様はそういうお方であったと思うのです。そこに救いの希望があると僕は思っています。

 ああ、これから外出の準備をしなければなりません。少しでもコメントをしておこうと思いましたが少し中途半端になったかもしれません。続きは帰ってから・・・


最近、体調を崩しておりました…


そうしますと、あっちゃんさんが仰っていることは、特定宗教に関わらず、人々の思想や信仰、哲学等々にも関わらず、今の世界がそのまま次の世界…神の国…にシフトされていくということなわけですね。

できれば、せっかく“福音主義”コミュですから、あっちゃんさんがそのように仰ることの根拠となる聖句を挙げていただけるとありがたいです。
また、その聖句からなぜ、そのように解釈できるのかということも併せて書いていただけるとうれしいです。
あらら、たいへんでしたね。
どの福音書だったか・・・
「主よ、主よというものが神の国に入るのではない、神の御心を行うものが入るのだ」というようなイエスの言葉があったように思います。クリスチャンだから神の国に入る資格があるのではなく、クリスチャンでなくても神の御心を行うものが資格があるのだとも受け止められますよね。イエス自身キリスト教という宗教を作ろうとしたわけでもないしイエスの死後キリスト教会が形成されていったわけです。現在わたしたちクリスチャンはクリスチャンであると言うことが救いの必要条件のように受け止めがちですけどイエス自身が関与していないことをことさら条件にしていいのかどうかという疑問があります。
それは僕も思います。

洗礼を受けたとか、クリスチャンと自他共に認められているとか、そういった行為的なことも、世間的なことも全く関係ない。

神さまとの正しい関係だけが重要なわけです。

では、神さまとの関係が正しいかどうかは誰がわかるのか…?
それは当然神様にしかわからないわけです。

ですから、キリスト者は神さまとの正しい関係を築くために全存在を掛けて取り組まないといけないと考えるわけです。

では、その神さまとの関係の正しさをどのようにして知りうるのかと言えば、当然神さまの言葉である聖書に拠る以外はないわけです。
そこで、聖書信仰が重要になってくる。

という感じに思っていますから、あっちゃんさんとそこは同意見なわけです。

ただし、神さまとの正しい関係とは、もちろん律法主義的なものではありません、ということを断っておきます。


しかし、そのように考えますと、すべての人が神の国に入るというあっちゃんさんの主張とは矛盾しませんか?


P.S.
どうでも良いことかもしれませんが、僕は牛伏寺断層の近く(松本市)に住んでいます。
家族やまわりにいる人たちが不安の中におります。祈っていただけたらとても感謝です。

トピックに全く関係ありませんでした。
私事で申し訳ありません。
Wellさん
神はわたしたちが神と正しい関係を持つことを望んでおられると思うし私たちも正しい関係を結びたいと願っているわけです。そのために旧約聖書にあるようにおびただしい数の律法が制定されました。しかしそれには限界がありました。形骸化です。それは律法の抜け道を作るということにもつながっていきました。イエスはこのように形骸化した律法主義を批判されたのです。そしてわたしたちは自力でkさ身との正しい関係を築く事はできない、神の方からアプローチしてくださるのだと、この「神の方からのアプローチ」ということが重要です。神はすべての人が救われることを願い私たちに働きかけてくださっている、そこに希望があるわけです。僕は自分を救ってくださった神が他の人を救われないはずがないという思いがあるわけです。わたしが信仰告白したから神が救ってくださったのではない、神が私を救ってくださったことを知ったから信仰告白したのです。「神の救い」が先行しているのです。イエスの十字架はすべての人の罪を贖うためだったわけです。イエスはすべての人の罪を贖ってくださったのです。それが救いではないのですか。それともすべての人というのは言葉のあやですか?僕はそうではないと思う。どのような罪を犯そうとも神の事を知らないと言おうとも
イエスはそのような人の罪をも贖ってくださっていると僕は信じています。

 牛伏寺断層と言うのはこの間地震のあった地域ですね。お祈りさせていただきました。
イエス様は律法を批判されたのではなく、律法をむしろ完成させるためにこの世に来られたのではないですか?
あっちゃんさんの「形骸化の否定」はおかしい理論だと思いますよ。それに、ノンクリスチャンでも天国に行ける、という考えも変です!天の国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい、というイエス様の例えにも有るとおりです。

このまま真面目に読んでいるとワタシの悪い癖で、書き込みそのものを鵜呑みにしてしまいますので、この書き込みを最後に退会します。
緑茶さん

それは残念です。
もちろん、このコミュに参加することによって
誰かの言葉を鵜呑みにするようなことがあってはいけません。
それを防止したいのであればおやめになるのも致し方ないかもしれません。


緑茶さん

もちろんイエス様は律法を完成させるために来られたのです。そして律法を形骸化させた当時のユダヤ教指導者を批判したのだと僕は受け止めています。つまり批判した律法自体ではなく「形骸化した律法主義」なのです。

 あとですね。誰が救われて誰が救われないのか、それを決めるのは人ではなく神ではないのでしょうか。ノンクリスチャンは自動的に滅びるというようなことを聖書に書いてあるのかどうか、僕は疑問に感じています。

 緑茶さんの気持ちは変わらないかもしれませんが一言お伝えしたい。
わたしたちは一人ひとり違う人間です。信仰も違います。
同じ教会に属していても厳密に言えば違うのです。
それを認め合っていくこと、
そしてぶつかり合いながらも共存していくこと
それがこのコミュのあり方だと僕は思っています。
違っていてもいいし、また当然なのです。
しかし全く違うように見えながらも共通するものがある、
僕はそれを信じています。
だってみんな聖書という尽きることのない源泉から
命の水をいただいているのですから・・・

もし決心が変わらないのだとしても
またいつか帰ってきてください。
心からお待ちしています。

あっちゃんさん

僕も「神の恵み」は重要だと考えますし、一方的な「神の恵み」がなければ、僕たちは救いに与ることはできません。また、当然、神の国を相続することも不可能です。


『僕は自分を救ってくださった神が他の人を救われないはずがないという思いがあるわけです。』

僕もこの気持ちは良くわかります。
以前も書きましたが、僕もすべての人が神の国に入れるとしたら、それ以上の喜びはないと思っています。
ただ、これについては、聖書にそう書かれているかどうかが重要になってきます。
感情的にはすごくよくわかります。
でも、聖書からそのように解釈できないのであれば、ただの感情論であり、神の主権を侵しているのではないでしょうか。


『イエスはすべての人の罪を贖ってくださったのです。それが救いではないのですか。それともすべての人というのは言葉のあやですか?僕はそうではないと思う。どのような罪を犯そうとも神の事を知らないと言おうとも
イエスはそのような人の罪をも贖ってくださっていると僕は信じています。』

僕もそう思います。
すべての人は贖われています。しかし、神の国に入れるかどうかは別です。
マタイ22:1〜14をあっちゃんさんはどのように理解しますか?

<招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。>(新改訳 マタ22:14)

僕は、すべての人が贖われているのか、ではなく、すべての人が神の国に入れるのか、ということを問題にしています。
贖いは、すべての人に及んでいるというあっちゃんさんの意見には同意です。
緑茶さん

せっかく違う方がコメントしてくださったと思ったら、とても残念なコメントでした。

『変』…とても良い言葉です。素敵な言葉です。僕は大好きです。

僕たちはみんな違います。
神さまがそのように創造されました。
多様性の祝福は聖書のさまざまなところで見られます。

しかし、僕たちの社会は、価値観が多様化してきたと言い、いろんな人がいて良いとも言われるようになってきましたが、内実は全くの逆です。
いろんな人がいて良いという言葉は、無関心を産みます。その人をそれ以上知ろうとする努力を奪い去ります。そして、考え方の似ている人たちが集まり、セクト主義に走ります。教会においても例外ではないでしょう。

『変』どうしがわかり合うためには、対話しかありません。
異端だとか、異教だとか、偶像だとか言う前に、相手が何を考え、何を欲し、どうしたいのか、どうしてその考えに至ったのかを知る努力をするべきなのでしょう。
それが、言語を与えられた僕たちのすべきことだと思いますし、それが愛し合うということなのだと僕は考えています。

これらは、緑茶さんに対して言っているわけではなく、一般論を話しているつもりです。
僕は、緑茶さんという方がどういう方かはわからないので、これから一緒にお話できたらなぁと願っています。
せっかくコメントしてくださったわけですし。

あっちゃんさんも書かれていますが、僕もせっかくですので、またこのコミュに戻って来てくださり、その『変』をぶちまけていただけると、とても感謝です。
やはり、二人だけだと、世界も狭いですしね。

他の方もどんどん参加してくださると良いなぁとも思っています。
Wellさん
マタイ22:1−15節読んでみました。確かに「選ばれる人は少ない」とイエス様言われていますね。しかしそれにしては不可解なのは王子の婚宴に招かれた人は悪人も善人も含めて会場一杯だったわけです。王子の婚宴ですか、らね、人数が数10人という事はないでしょう。数百人、猛者生かしたら数千人という規模でしょう。皆ですから・・・しかし礼服を着ていなくて追い出されたのはそのうちたった一人です。99.9数%は選ばれて0.数%が追い出されたのです。
この数字をどう解釈しますか?イエスはもちろん厳しいことも結構言われています。でも僕はイエスの願いは99.9数%、つまりはほぼ100%の人は選ばれるということにあるのだと受け止められるのではないかなと思うのです。

 確かに「すねての人が救われてほしい」というのは僕の感情的な願いかもしれません。僕の書き方もまずかったです。何か断定しているような書き方だったかもしれません。あくまでも願いです。しかしその願いは決して聖書的な裏付けのない願いではないと思っています。
このコミュに参加している人の中には「福音主義神学」を「福音派神学」と受け止めて参加されている人もいるかもしれません。そして現在このコミュにおいては「福音主義神学」を特定の教派の神学としてではなくキリスト教全体の信仰の核である神学であるという風に位置づけました。参加者の中にはそのことに戸惑っている人がいるかもしれません。僕は神学は大切なものだと思っています。しかしその神学がキリスト者の一致や和解を阻害している要因だとすればそれは問題です。僕たちの信仰の背景はそれぞれ違います。自分から見れば他者の信仰は
「変」なのかもしれません。でも「変」だからもう対話できないのでしょうか。
対立するしかないのでしょうか。もしそうだとしたら悲しすぎます。
お互い「変」だと感じていたけどよくよく対話したら同じところもあるじゃないか、その認識は対話してみないと分からないのです。もちろん「違い」はあります。しかし「同じ」ところもあるのです。その同じ部分をこのコミュでは「福音主義神学」と定義しました。その「福音主義神学」をみんなで探していきたいのです。

 それは不可能なことなのでしょうか?
僕は現在日本福音ルーテル教会に属しています。ルーテル教会は長い間カトッリク教会と対話してきました。その結果1999年「義認の教理に関する共同宣言」を調印しました。現在においても多くのプロテスタント教会においては宗教改革の三大スローガンを強調していることでしょう。しかしそのうち信仰義認は
プロテスタントの独占物ではなくなっているのです。そこまで行くには対話が必要でした。その結果なのです。ルーテル教会とカトリック教会は現在宗教改革500周年に向けて記念事業を行うことが話し合われています。


 対話には痛みが伴います。コミュの説明にも書いたように対話とは誰かを部分的に否定することになるからです。自分が丹か発言するという事は誰かに痛みをを与えることであるということです。不本意ではありましたが結果的に僕は緑茶さんに必要以上の痛みを与えてしまったのでしょう。またwellさんに痛みを与えているし逆に僕もwellさんから痛みを与えられています。ですが痛みを超える喜びがあります。喜びが大きいので痛みがダメージにならないのです。しかし痛みは痛みです。コメントする著気に誰かに痛みを差耐えていることを自覚する必要はあります。しかし痛みと同時にそれをはるかに上回る喜びをも与えているし与えられてもいるのです。対話することで喜びを皆さんと分かち合いたいのです。信仰の違いに傷つくこともあるでしょう。しかし「違い」の陰に共通する財産「福音主義神学」があるのです。それを皆で発見してきましょう。発見する喜びを分かち合いたいのです。

  

あっちゃんさん

なるほど。
あっちゃんさんは、すべての人が神の国に入れるわけではなく、ほとんどすべての人が神の国に入れるという考えなわけですね。
僕は、この数自体には解釈を入れませんが(数は抽象度が高すぎて、多く解釈できてしまうので)、あっちゃんさんの考えを言い換えれば、神の国に入れない人もいるということですよね。

では、この神の国に入れる人と入れない人はどのように分けられるのでしょうか。
もちろん、聖書的に見て。
それは、神のみぞ知るですか?

確かにそうです。
厳密なところ、神しかいのちの書に記されている人は知りません。
(天の御使いは知っているかもしれませんが)
そうなると、僕たちが神の国に入れるかどうかは、ほとんど宝くじに当たるかどうかと同等なものになってしまいます。

まるで、Googleの検索のようです。

僕は、その分けは、キリスト者であるか、ないかだと思っているわけです。

しかし、あっちゃんさんも指摘しているように、バプテスマを受けたからだとか、教会に毎週集い、教会の奉仕もちゃんとしているからだとか、そういったことでのキリスト者ではありません。
当然、キリストに属する者、天に属する者、神に属する者という意味です。


すべての人に救われて欲しいという願いは、聖書的な裏付けのない願いではないと僕も思います。
しかし、願いと、すべての人が救われるかどうかはやっぱり違います。
何度も言いますが、僕もすべての人が救われるのであればどんなに嬉しいことかと思うのです。願うのです。
しかし、もしかしたらそうではないかもしれない、という事実が、宣教や伝道に僕を駆り立てるわけです。
Wellさん

「しかし、あっちゃんさんも指摘しているように、バプテスマを受けたからだとか、教会に毎週集い、教会の奉仕もちゃんとしているからだとか、そういったことでのキリスト者ではありません。
当然、キリストに属する者、天に属する者、神に属する者という意味です。 」

それではWellさんは自分はクリスチャンだという確信はありますか?神様は絶対自分を救ってくだっているという確証は一体どこにあるのですか?

イエス様がわたしたちの罪を贖ってくださり私たちはイエス様の救いの御業を信じて感謝してクリスチャンになったはずです。それでも何かが足りないのでしょうか?「神様は僕を見捨てるかもしれない」という恐れを抱き続けなければならないのでしょうか?そうなると伝道も「神様は救ってくださるかもしれないから信じましょう」ということになってしまうのではないでしょうか?そして「日々精進していけば神様は認めてくださるかもしれないから頑張りましょう」ということでしょうか?

僕は自分の信仰は信用していません。自分の信仰が自分を救うのだとすれば僕は救われません。もし救いがあるとすればそれは僕の信仰ゆえではありません。神様の愛ゆえだと思っているのです。もちろんそれも実証できるようなものではありません。僕がそう信じているのです。しかしその信仰は自分が信じなくなったら終わりだという信仰ではなく僕が神様を信じなくなったときも神様は僕を見捨てないという信仰です。ですから安心しているのです。自分の信仰に根拠をおいていないから・・・

もちろんそういう信仰は生ぬるいかもしれません。自立的でないかもしれません。信仰の成長を求めなくなるかもしれません。そういう弱点はあると思います。

自分は神様から見捨てられるかもしれないという信仰は常に緊張して日々精進し敬虔な信仰者を育てるでしょう。

昔特伝で講師の牧師が猿型信仰と猫型信仰という話をされました。もちろんWellさんもご存知でしょう。僕の信仰は明らかに猫型信仰です。そこに僕とWellさんお違いがあるのかもしれませんね。


 ちょっと挑発的だったかもしれません。申し訳ないです。気を悪くされないでください。結構本質的な領域に突入してきたように思います。だからちょっと力みすぎたかもしれません。ご勘弁を・・・
あっちゃんさん

亀レス申し訳ありません。

救済について、だいぶ本質的な話だと思います。
全く、気を悪くなんてしていませんよ。
ただ、良い機会だったので、救済について再考できたので良かったです。


『それではWellさんは自分はクリスチャンだという確信はありますか?』

もちろんありますよ。確信。
僕が信じているから救われるのではなく、僕が信じている神は、僕を救ってくださる神であると確信しているわけです。

ですから、当然、僕側に救いの決め手があるわけではないですし、神の恵みは完全ですから、人間側が付け加えるものなんて何もないですよね。


『神様は絶対自分を救ってくだっているという確証は一体どこにあるのですか? 』

言わずもがな、かもしれませんが、当然、聖書と聖霊がその確証になりますよね。


『「日々精進していけば神様は認めてくださるかもしれないから頑張りましょう」ということでしょうか?』

僕が言っていることは、そういうことではないですが、あっちゃんさんが明確に救われる者と救われない者の違いを示してくださらないと、あっちゃんさんが言っていることがそういうことになってしまいますよね。
つまり、マタイ22:1〜14から、あっちゃんさんは、救われる者と救われない者がいるということは、認めていらっしゃるわけですよね?
救われない者が世界でたった一人だとしても。
そうしたときに、あっちゃんさんは、救われる者と救われない者の分けはどこにあると考えているのですか?というのが、僕の質問なわけです。


『しかしその信仰は自分が信じなくなったら終わりだという信仰ではなく僕が神様を信じなくなったときも神様は僕を見捨てないという信仰です。ですから安心しているのです。自分の信仰に根拠をおいていないから・・・ 』

あっちゃんさんは、“信仰義認”ということをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか?
ルーテル教会をはじめ、福音主義教会にとっては、とても重要な点だと思うのですが…

また、あっちゃんさんが仰る『その信仰は自分が信じなくなったら終わりだという信仰ではなく僕が神様を信じなくなったときも神様は僕を見捨てないという信仰』を失ってしまったときは、神の国に入ることができるとお考えですか?


『自分は神様から見捨てられるかもしれないという信仰は常に緊張して日々精進し敬虔な信仰者を育てるでしょう。』

これは、皮肉というか、逆説的な言い方をされているのだと思いますが、こんな信仰なら、敬虔な信仰者は育ちませんし、そんな信仰者は、キリスト者ではないでしょう。


『昔特伝で講師の牧師が猿型信仰と猫型信仰という話をされました。』

ごめんなさい。知りませんでした。
なので、調べてみました。

調べてみた僕の感想としては、猿型と猫型は、信仰のわかりやすい例としては良いのかもしれませんが、その本質をきちんと捉えられていない例だと思います。
三位一体をわかりやすい例で示してしまっているのと同じような感じで、わかりやすくしてしまったがために、本質とはズレてしまっているという気がします。

救済について、本当に本質的な部分に近づいて来たので、とても良いと思います。

僕も、もう少し…いや、もっと考えてみたいと思います。
なので、今後も亀レスになってしまうかもしれませんが、そうなってしまったら、ご容赦ください。
Wellさん

僕が敢て「確信」とか「確証」と言うことにこだわったわけはそれはあくまでも自分の信仰上のものですかないということを言いたかったからです。たとえば僕は「岡山県人」です。ではその証拠はどこにあるかと問われれば住民票を出せばいいわけです。あるは日常生活の範囲内であれば身分証明書として社員証、健康保健証、自動車免許証などがあります。それでこの人はこの会社の社員だとかここに住んでいると言うことを証明できるわけです。しかしそういう意味での「救い」の証明書は誰も持っていないのです。持っていると信じているだけなのです。それを「救いの確信」と呼んでいるわけです。

「言わずもがな、かもしれませんが、当然、聖書と聖霊がその確証になりますよね。」

それも確証にはならないと僕は思います。聖書に「わたしはwellを救う」と書いているわけではありません。そうである以上聖書もまた「救いの確証」とはなりません。また自分に聖霊が働いていると自分が信じているのです。でも聖霊が働いているというのを客観的に確かめるすべはありません。

 ですから当然いくら「わたしが神様を信じなくなっても神様は私を見捨てないだろうと信じている」と言ったところで自分がそのことを信じられなくなったら
自分からの視点では神との関係はなくなるわけです。

 ただ違うのは現時点で
「わたしが神様を信じることができなくなったらもう神様との関係は終わりだ」
と言う信仰と
「わたしが神様を信じることができなくなった著しても神様は自分との関係を絶つことがない」と言う信仰ではやはり違うのではないかと思うのです。

wellさんは「猫型信仰」と「猿型信仰」とは本質を捉えていないといわれましたが自分が信仰を失った時にどうなるだろうかと言う意味からは非常にわかりやすい的確なたとえではないかと思いますけど・・・

僕の信仰は徹底的な相対的な信仰ということです。人である限り絶対を得る事はできない、その制限を認めた上での信仰とは何か、福音とは何かと言うことが自分には問われているのだと思います。


 大学の時に一般教養「宗教」の講義で先生がパスカルの賭けの論理を教えてくださいました。ご存知でしょうか。
「神がいないと言うことに賭けた場合神がいたら地獄に行くことになる、神がいなかったら自分がいなくなるだけ。逆に神がいると言うことに賭けた場合神がいなかったら自分はいなくなるだけ、神がいたら永遠の命が得られる、と言う事は神がいることにかけたほうが絶対に有利である」と言うことです。数学者、物理学者らしい論理ですが信仰というのは賭けのようなものかもしれません。神様にすべてを委ねるかどうかという賭けです。ぼくは神様がいる、そして僕を導き恵みを与えてくださっていると言うことに人生を委ねました(賭けました)。永遠の命については死んでみないとわかりません。しかし生きている今がどうであるかと言う意味でなら僕は神様に委ねたことを後悔していないし満足しています。






Wellさん

 神はある人たちを滅ぼすのかという問題に対し僕は「すべての人を神は救うと信じたいが聖書にはそうとは言えない箇所がある」という風にコメントしました。しかし「見失った羊のたとえ」はどのように解釈したらよいのでしょうか。羊飼いは99匹を放り出してでも見失った1匹を探すと言うのです。常識的には99匹を安全な場所に避難させた上で探したと思いがちですが聖書にはそんなことは書いてありません。「九十九匹を野原に残して」とあります。「見つけ出すまで探し回らないであろうか」ともあります。つまり見つけ出すまでは99匹は野原に放り出されているのです。もしかしたら狼やコヨーテに襲われるかもしれません。でもその危険を考えることもなく見失った羊を探しているのです。その羊はおそらく勝手に群れから出て行ったのでしょう。でも「出て行ったのは羊の勝手だから俺は知らない」と羊飼いは思わなかった。見つかるまで探してくれるのです。当然ながら羊飼いは神、羊は人間にたとえられています。
100匹の羊とはもちろん全人類のことです。ならば羊が迷った理由や見失った羊の商品価値に関係なく探すという事はどういうことのたとえでしょうか?

 その少し後の「放蕩息子のたとえ」も同様です。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」のです。息子が話すのはその後なのです。これはどういうことでしょうか。父親は息子が悔い改めする前に息子を憐れみ許したという事です。

 もちろん聖書は江の二つのたとえ話とは相反するような箇所もいくつもあります。でも僕はこの二つのたとえ話にあるような神の愛に自分の人生を委ねたのです。それが間違っていたとは思っていません。
あっちゃんさん

すみません。高熱のため、ダウンしていました。。。


『僕が敢て「確信」とか「確証」と言うことにこだわったわけはそれはあくまでも自分の信仰上のものですかないということを言いたかったからです。』

あっちゃんさんが仰りたいことはわかるのですが、一応…
証明書は、ある限られた範囲で用いられます。
日本でしか使えない証明書は、海外では使うことはできず、証明書にはなりません。
聖書もこれと同じです。
キリスト者の中では証明書となります。しかし、キリスト者でない人たちにとっては、証明書にはなりません。

<十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。新改訳?コリ1:18>

「客観的」ということを、「すべての範囲で」ということで仰っているのでしたら、すべての範囲で使用できる証明書はないでしょう。
そして、これらの証明書は、この限られた範囲の中の人たちの、合意によって成り立っています。
この合意は、信仰となんら変わりはありません。
つまり、信仰または合意によらない証明書は存在しないということです。

そのように考えれば、聖書は十分に証明書足るのです。


『聖書に「わたしはwellを救う」と書いているわけではありません。』

日本国憲法にも、日本の法律にも、僕の名前をはじめ、誰の個人名も載せられていません。
しかし、すべての日本国民に対して適用されます。
同じように、聖書に特定の人以外の個人名は書かれていませんが、全人類に適用されるのです。


『ですから当然いくら「わたしが神様を信じなくなっても神様は私を見捨てないだろうと信じている」と言ったところで自分がそのことを信じられなくなったら自分からの視点では神との関係はなくなるわけです。』

これは、一般的な立場で書いていらっしゃいますよね?


『ただ違うのは現時点で』

で、この『現時点』というのは、信仰者の立場として、ということですよね?


『「わたしが神様を信じることができなくなったらもう神様との関係は終わりだ」
と言う信仰と
「わたしが神様を信じることができなくなった著しても神様は自分との関係を絶つことがない」と言う信仰ではやはり違うのではないかと思うのです。』

前から気になっていたのですが、あっちゃんさんは、信仰を失ってしまうのが前提なんですね。
あっちゃんさんの論理では、

    私は信仰を失ってしまうかもしれないが、
    神が私を愛する愛によって、
    神が私との関係を絶つことは決してない。

    こんな私を愛してくださっている神ならば、
    すべての人を愛していないはずはない
    それならば、すべての人との関係を絶つはずがない。

    それゆえ、すべての人は救われるのだ。

ということでしょうか? 


『僕の信仰は徹底的な相対的な信仰ということです。』

ごめんなさい。
ここでの相対と絶対は、何に対する相対と絶対でしょうか?


『大学の時に一般教養「宗教」の講義で先生がパスカルの賭けの論理を教えてくださいました。ご存知でしょうか。』

この話なら聞いたことがあります。


『神様にすべてを委ねるかどうかという賭けです。ぼくは神様がいる、そして僕を導き恵みを与えてくださっていると言うことに人生を委ねました(賭けました)。永遠の命については死んでみないとわかりません。しかし生きている今がどうであるかと言う意味でなら僕は神様に委ねたことを後悔していないし満足しています。』

一般的立場ということであれば、確かに一種の賭けでしょう。
しかし、そういう言い方をすれば、すべての人がその賭けに乗っているわけです。
そして、すべての人はその賭けに乗った上で、後悔しない良い生き方を望んでいるわけですよね。
そういう意味では、あっちゃんさんはとても幸福な人生を歩んでいるということになりますよね。

でも、信仰的立場としたらちょっと違うのかなぁ、という気がしています。

僕たち信仰者は“今”を生きているのではなく、“永遠”を生きているはずです。
僕たち信仰者は“私”を生きているのではなく、“教会”を生きているはずです。

今の世界は、悲しみや苦しみで溢れ、公義は曲げられ、虐げられている人が多いわけです。
特に、先進国に住む僕たち日本人は、その張本人なわけです。

それゆえ、すべての人が幸福で、公平な神の義のみがなされる神の国を、僕たち信仰者は待ち望むのではないでしょうか。
僕たちには、どれに賭けるかなんていう選択肢なんてない、神しかいない、十字架しかない、神の国しかない、そう思うのです。
あっちゃんさん

ルカの福音書15章ですね。ここの1〜3節に次のように書いてあります。

<徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
 そこで、イエスは次のたとえを話された。(新共同訳ルカ15:1-3)>

つまり、ここでの100匹の羊のたとえも、銀貨10枚のたとえも、放蕩息子のたとえも、ファリサイ派と律法学者の徴税人や罪人に対する不平に対するたとえなのです。
そう考えれば、迷った1匹の羊も、失くした1枚の銀貨も、放蕩息子も、徴税人や罪人を表しています。
そして、このたとえは、徴税人や罪人が救われることは、ファリサイ派の人々や律法学者が救われるよりも大きい喜びが天にある、というふうに読めます。

このたとえは、マタ9:9-13、マル2:14-17、ルカ5:27-32と同じで、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人であり、主を必要とするのは正しい人ではなく罪人である、ということを示していると思います。

そして、99匹も1匹も、9枚も1枚も、兄も弟も、価値はすべて同じですが、天での喜びが違う、というたとえなわけです。

もちろん、あっちゃんさんが仰るような解釈もできると思います。
ただ、素直に読んだ場合、救いに対するたとえというよりは、喜びに対するたとえではないでしょうか。


『その少し後の「放蕩息子のたとえ」も同様です。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」のです。息子が話すのはその後なのです。これはどういうことでしょうか。父親は息子が悔い改めする前に息子を憐れみ許したという事です。』

確かに、3つのたとえの中で放蕩息子のたとえは異色です。
僕にとって重要なのは、父親は遠い国にまで弟を探しに行かず、自分の家で待っていたという点です。
たしかに、家までまだ遠かったのに、父親は弟を見つけました。
しかし、父親が弟を見つける前に、弟が父親を必要とし、その足を家へと向けたのです。
僕の解釈では、弟が足を家に向けたときに、悔い改めが弟に訪れたのです。
そして、弟の悔い改めの言葉ではなく、その事実だけで父親は弟を家に受け入れたわけです。

<求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタ7:7)>

ここも、「ください」とか「どこですか?」とか「入れてください」という言葉ではなく、「求めている」「捜している」「たたいている」という事実が重要であることを示している箇所だと思います。


『もちろん聖書は江の二つのたとえ話とは相反するような箇所もいくつもあります。』

だから、解釈が必要になると思うんです。
…この続きは、「聖書とどう向き合うべきか」トピックに書きたいと思います。
Wellさん

すべてにRESするのはしんどいのでちょっと抜粋します。
確かに日本国憲法や民法に個人の名前が列挙されているわけではありません。しかし法律的な手続きによりわたしたちは戸籍や住民票をもっているわけです。それによって日本国民であり**に住んでいることが証明されるわけです。キリスト教において戸籍や住民票に相当するものは教会籍です。しかしそれはある個人がある教会に所属している事は保障してもその人が進行を維持しているかどうかの証明にはなりません。特に主観的な信仰を重視するプロテスタントではその傾向が強いかもしれません。しかしわたしたちは常に自分の信仰を保っていけるとは限りません。信仰から遠ざかることもあるでしょう。主観的な信仰だけでは限界があるのです。神様から洗礼という恵みをいただいたという証明である教会籍はわたしたちの信仰を背後から支えるものにもなっているのではないかなと思います。

 別に僕は信仰を失うことを前提としているわけではありません。しかし失う可能性を否定する事はできないのです。その時神様はわたしを探してくださるという安心感を僕は今もっているということです。

相対的な信仰とは主観的な信仰ということです。自分というフィルターを通した信仰ということです。自分というフィルターを通さないのが絶対的な信仰といえるでしょう。でもそのような信仰を人は持つことはできません。


あっちゃんさん

『キリスト教において戸籍や住民票に相当するものは教会籍です。』

いや、僕たちの国籍は天にあるわけですから、教会籍なんてものは救いについて何の役にも立ちません。
あっちゃんさんの仰るとおりです。
あるとすれば、いのちの書でしょう。
もちろん、これらを僕たちは参照することも、垣間見ることも決してできないわけですが…。


『しかし失う可能性を否定する事はできないのです。』

僕は、これが前提としていると思うのですが…
なぜ、信仰を失ってしまうのでしょうか。
さまざまな理由はありますよね、きっと。
でも、それは、神を信仰することよりももっと大切なものが自分の中にあるからではないですか?

僕は、神を必要としない人々が神の国に入るということは、不幸でしかないと思っています。
神を必要としたいけれども、自分の罪深さや、弱さによって、そうとは思えない行為に及んでしまう場合はあるでしょう。
しかし、その場合は結果論であって、本質的に神を必要としていないわけではないと思うのです。

しかし、自分の意志を持って、神を必要としない人々がいます。
神をちゃんと理解した上で、神を必要としない人々がいます。
確かに、僕たち人間にとって、本来的には神が必要です。
しかし、それでも尚且つ、神以外のものを求める人々がいるわけです。

そういった人々が、神の国に入ったとしても、不幸であると僕は思うわけです。


『その時神様はわたしを探してくださるという安心感を僕は今もっているということです。』

この安心感は、僕にもありますよ。
神は決して僕を離されはしないという安心感。
でも、それは僕やあっちゃんさんが本質的に神を欲しているということをちゃんと理解しているからだと思うんです。


『相対的な信仰とは主観的な信仰ということです。自分というフィルターを通した信仰ということです。自分というフィルターを通さないのが絶対的な信仰といえるでしょう。でもそのような信仰を人は持つことはできません。』

そういう意味で言えば、人は相対的な信仰しか持つことはできませんよね。
その通りだと思いますし、この意味では、絶対的な信仰というものは、信仰ではないと僕は思います。

絶対的な信仰とは、具体的にどのような信仰のことを言うのでしょうか?
Wellさん

こちらのトピのコメントも気付きませんでした。申し訳ないです。


絶対的な信仰とは自分と言うフィルターが機能していない信仰のことだと考えます。つまりある教義や聖典の解釈を教えられたまま自分に受け入れていくというような信仰です。ですからそのような信仰は受け手による差異も生じません。100人いれば100人とも同じ解釈、同じ信仰となるわけです。1000人でも1万院でも変りありません。もちろんその教団においては絶対的な信仰なわけですから個人によって相違があってはならないのです。

ですから絶対的な信仰をすべての信徒に伝えるためには自分と言うフィルターを
取り外す必要が出てきます。つまりは洗脳でありマインドコントロールの手法です。

 僕はキリスト教信仰においてもこのようなことはおきうると考えています。
「疑ってはならない、信じなさい」、「聖書に書いてある事はすべて正しいのです。すべて受け入れなさい」、それは表面的には敬虔な信仰を奨励しているように聞こえます。しかし実は自分で考えることを良しとしない、疑うことが不信仰なことでありとにかく受け入れればいいということになってしまう危険性があります。


 
あっちゃんさん

お久しぶりです。
僕自身もコメントが遅かったので、申し訳ないです。

あっちゃんさんの仰る『絶対的な信仰』というのは、やはり信仰ではないですよね。
そこでは相違はないわけですよね。

しかし、あっちゃんさんが仰るところでは、『絶対的な信仰』とは『客観的な信仰』であり、『相対的な信仰』とは『主観的な信仰』になりますよね。

でも、コメント25では、『主観的な信仰』では限界があると仰っています。
そして、『絶対的な信仰』は洗脳であると仰っていますよね。

ここら辺をもう少し整理していただけたらありがたいのですが、いかがでしょうか?
重要な点だと思いますし…。
Wellさん

既に書いたことかもしれませんが僕はエキュメニズムに非常に関心があります。と言うか僕のクリスチャンとしてのライフワークの一つかもしれません。
初代教会から2000年近く経った現在、数多くの教派が存在しています。まず西方教会と東方教会、西方教会はカトリックとプロテスタント、プロテスタントも多くの教派・教団に分かれています。これら諸教派はすべて正統的なキリスト教会には違いありません。しかしそれぞれの教義に付いてはさまざまな相違点が存在します。教派や教団を擬似人格と見なすならばそれぞれの教派や教団はそれぞれの信仰を持っているということです。それはキリスト教全体から言えば主観的・相対的な信仰だということです。どこかの教派・教団が絶対的な信仰を有しているということではないのです。それぞれがそれぞれのフィルターを通して聖書を解釈しているわけです。自分の教派・教団は絶対的な真理を有していると言ってしまったらそれとは違うことを主張している教派・教団は間違っていることになってしまいますからね。

 もちろんわたしたちクリスチャンは完全な真理を手に入れたいと望んでいます。しかしある教会に属しているという時点でそれは望めないのです。それが限界だということです。それが現実だということであって「悪い」ことでも「悲しむべき」ことでもありません。

 エキュメニズムを手っ取り早く実現させようとすればどこかの教派・教団の教義を唯一絶対的なものとしてすべての教派・教団が自分たちの教義を捨て結ういつ絶対的な教義を受け入れればいいのです。もちろんそんな事はできませんし手法的にできたとしても行ってはいけません。それはWellさんが指摘されているように
信仰ではありません。

 しかしキリスト教会全体では難しいことであっても小さな共同体であるなら可能です。洗脳やマインドコントロールを使えばいいのです。信者に疑問を抱かせない、教職者のメッセージをそのまま鵜呑みさせる、あるいは教職者に従うことは神に従うことであるという風に植え付けていく、そうすれば信仰共同体の中では絶対的な信仰を共有できます。でもそれは間違った信仰です。人工的に絶対的な信仰を作っているに過ぎません。いわば擬似絶対的信仰です。

一人ひとりの人格が違う以上信仰は相対的にならざるを得ない、それは人間の限界である、自分たちの信仰はその限界をもっている相対的な信仰であるということを十二分に認識しておく必要があると思うのです。そうでないと不健全な教義論争に明け暮れていくようになります。同じ教義論争なら自分たちの信仰は相対的なものであることをわきまえて行えば実りのあるものになるでしょう。
あっちゃんさん

ありがとうございます。

僕はエキュメニズムについて詳しくわかならいのですが、福音派からの問題視として、エキュメニズムは自由主義神学を前提に展開されているから問題があるというのを聞いたことがあります。

僕はこの問題について良くわからないのですが、ただ、僕の関心ごととしても、すべてのキリスト者の最大公約数的な教義は何なのだろうか、ということがあります。
そういう意味では、あっちゃんさんと似ているのかもしれませんね。

ただ、何でもあり、ではキリスト教では無くなってしまうと思うのです。
すべてがキリスト教であり、すべてがキリスト教ではない、という解釈はおかしいと思っています。

それはともかく、ここは救済論トピックなので、救済論として話を続ければ、現実問題、あっちゃんさんはすべての人が救われると言い、僕はキリスト者だけが救われると言っているわけです。

この場合、エキュメニズムではどのように解決するのでしょうか。
Wellさん

「福音派からの問題視として、エキュメニズムは自由主義神学を前提に展開されているから問題があるというのを聞いたことがあります。」

少なくとも現在の日本のキリスト教会で自由主義神学を教会の神学としているところがどれだけあるのでしょうか?全くないとは断言できませんがあっても微々たるものではないかと思います。自由主義神学はもはや過去の遺物と言う風に思っています。

「すべてのキリスト者の最大公約数的な教義は何なのだろうか」

それをこのコミュでは「福音主義神学」と仮称しているのです。


「ただ、何でもあり、ではキリスト教では無くなってしまうと思うのです。
すべてがキリスト教であり、すべてがキリスト教ではない、という解釈はおかしいと思っています。」

特に断らなくても大丈夫だと思って言及しなかったのですが
キリスト教会がキリスト教会であるという定義は存在していると思います。
その定義から外れる教会は正統的なキリスト教会とはいえないでしょう。
エキュメニズムは当然正統的キリスト教会内の話です。

「それはともかく、ここは救済論トピックなので、救済論として話を続ければ、現実問題、あっちゃんさんはすべての人が救われると言い、僕はキリスト者だけが救われると言っているわけです。」

正確には「僕はすべての人が救われるという立場ではありません。僕が信じるイエス様はすべての人を救おうとされているしその力があると僕は信じているという立場です。

「この場合、エキュメニズムではどのように解決するのでしょうか。」

エキュメニズムは特定の教派ではありませんしある神学を支持するということもありません。多種多様な立場のキリスト教会が一つになる道を探っているということです。

 その一つの通過点として食卓を共にするという目標があるわけです。これは救済論とは直接関係ありません。むしろ問題になるのは聖礼典論(洗礼と聖餐)の方でしょう。






Wellさん
エキュメニズムが自由主義神学を前提としているという論は福音派の政治的立場だと考えます。
しかし、もしキリスト教が政治的立場を超えたものであるとするならば・・・共に聖餐に預かれないというのはスキャンダルにほかならない。
しかし・・・完全に解決するには・・・500年から1000年要する問題だと認識しています。

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