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福音主義神学研究会コミュの「福音主義(教会)」ってなあに

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このコミュの基本に関わるしかし素朴な疑問です。
「福音主義」ってなんでしょう。
「福音派」とどう違うんでしょうか?
宗教改革後誕生したプロテスタントの総称のこと?
あるいは特に「ルーテル教会」のこと?
あるいは福音はすべての教会が信じているわけだから
わざわざ「福音主義教会」と名乗る必要もないんじゃないかとか・・・

結局ですね、僕にとってはなじみがないんです。「福音主義」という言葉自体がね。どうか皆さん、そんな僕に教えてください。「福音主義(教会)」ってなあに?

コメント(53)

あっちゃんさん

ありがとうございます。
この信条は、何を根拠にしているのでしょうか?
聖書だけ?
それとも、伝統的な何かでしょうか。

神学は名の通り学問ですから、体系的・網羅的であり、秩序立っていると思うんです。
Wikipediaなどを見ると長く議論されたようなのですが、その論拠と言いますか、議論の内容と言いますか、三位一体の明確な根拠はどこにあるんですかねぇ?

あと、この信条が満たされていれば、どんなものでもキリスト教だと思いますか?
公会議において採用された信条だということです。


ウィキですが「キリスト教」の中に項目がありましたので貼り付けておきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99

これも参考になるかもしれません。

http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/5709/meeting.html

 信条とは公会議において正統なキリスト教信仰というものの基準と言うものを定めたということです。

あっちゃんさん

ありがとうございます。

続きは、VINE AND GRACEさんが作ってくださった新しいトピックの方が適切なようですので、そちらに書き込ませていただきます。

僕としては、三位一体と原罪について、聖書からの明確な根拠を知りたいなぁと思っています。

リンクも参考にさせていただきます。
なんだか、トピズレしてしまったので、聖書主義について

詳しくは良くわかりませんが、福音主義同盟の信仰基準というものがあるんですよね。
そして、その信仰基準を満たしていると、福音主義と呼ばれるとか…

?聖書の神的霊感および神的権威・聖書の充分性
?聖書解釈における個人的判断の権利および義務
?三位一体の神
?アダムの堕落の結果としての人間の全的堕落性
?神のひとり子の受肉・人類の罪のための彼の贖いのわざ・彼の仲保的とりなしと支配
?信仰のみによる罪人の義認
?罪の回心および聖化における聖霊の働き
?霊魂の不滅・肉体の復活・信仰者の永遠の祝福と非信仰者の永遠の刑罰を伴う主イエス・キリストによる世界の審判
?キリスト教伝道者職の神的制定・洗礼と聖餐の二礼典の義務とその永続性

だそうです。
引用は、http://www7b.biglobe.ne.jp/~koumei-m/details1.htmlです。
こちらは、トピック「福音主義神学」の中でよしあきさんが紹介してくださった…作成した?…ページの中の「福音派とは何か」からの引用です。
Wellさん

「福音派」と「福音主義」の定義が必要な気がします。
僕が所属する「日本福音ルーテル教会」は「福音派」ではありません。
しかしわたしたちの教団は「福音主義の教会」という自己認識を持っています。

あっちゃんさん

「福音派」と「福音主義」って違うんですねぇ…
知りませんでした。

何が違うんでしょうか??
Wellさん

元々「福音主義教会」とはプロテスタントー特にドイツにおいてはルーテル教会を指していた言葉であったように記憶しています。僕が所属する日本福音ルーテル教会は「福音派」ではありません。しかし教団名には「福音」という言葉が入っています。それは私たちの教会がルター以降の「福音主義」の伝統と本質を堅持している教会であるという自己認識があるからです。ところが近年広い概念であった「福音主義」を極めて限定的に捉えてしまった信仰グループが誕生した、それが「福音派」であると僕は理解しています。


 一
あっちゃんさん

ということは、やはり上の「福音派」の信仰基準には則っていないということですよね。
「福音主義」の定義もあいまいなので、申し訳ないのですが、上の信仰基準の内、「福音主義」に当てはまらないものってなんですか?

全部??

全部だとすると、「福音派」と「福音主義」は全く異質のものということになりますね。

勉強になります。
Wellさん

?聖書の神的霊感および神的権威・聖書の充分性

いわゆる「聖書無謬説」とか「聖書逐語霊感説」ということをさすのであればそういうことは少なくともルーテルでは強調されません。

?霊魂の不滅・肉体の復活・信仰者の永遠の祝福と非信仰者の永遠の刑罰を伴う主イエス・キリストによる世界の審判

信仰者=永遠の祝福、非信仰者=永遠の刑罰ということもあまり聞きません。

でもこれはあくまでルーテル教会のしかも僕が通った二つの教会(その一つに今所属しているのですが)に限定されるということは了解してください。
あっちゃんさん

僕は、日本イエス・キリスト教団に所属していますが、「福音派」であると思います。

僕としては、とても違和感を覚えています。

僕も、「福音主義」と「福音派」の違いを知りたいです。

…と、こんなコメントでごめんなさい。
Wellさん

何に対して違和感を感じられますか?
あっちゃんさん

「福音派」と呼ばれる教会は、とても律法主義的な感じがするんです。

どうして、そこまで律法主義的に聖書を読み、解釈してしまうんだろう、という違和感です。

なんか、「福音派」は律法主義に陥りやすいんじゃないかって思っています。
これは、一般論ではなく、あくまでも僕の個人的な感想です。
Wellさん
どうしてなんでしょうね。
1つは敬虔主義のせいなんでしょうかねえ。「クリスチャンはこうあるべきだ」というのがだんだん増えていってしまう。

もう1つは個人の信仰を教会が制御していると言うこともあるような気がします。個人がそれぞれの信仰において判断すべきことまで教会が指導してしまう。
そういう教会が「福音派」の教会には多いような気がします。

それが「律法主義」や「行動義認」につながっているような気がします。

もちろん「福音派」全体と言うよりかより「保守的」あるいは「原理主義的」の教会が極端に走っているのかもしれませんけど。

あっちゃんさん

なるほど。そうかもしれませんね。

聖書に忠実であろうとすればするほど、律法主義的になってしまうという…

僕は一時期、律法と命令と何が違うんだろうかと悩んだことがあります。

旧約の人たちを縛っていた律法が、新約の人たちにとっては命令に変わっただけじゃないかと。
命令を行なわないと救われないみたいなのって、聖書の真理となんか違うんじゃないか、命令って本当に教会で教えられる命令なのか?って考えるようになりました。

僕は、律法主義的になるのって、思考停止なのかなって思っています。
だから、ついついそちらに流れてしまうのかなと。
思考停止ってやっぱり楽だから。

あっちゃんさんの集っている教会や関係教会では、そういった律法主義的になってしまうようなことってりませんか?
Wellさん

「思考停止」派ちょっと言い過ぎなような気もしますが牧師やリーダーの言葉をそのまま鵜呑みにするという傾向はクリスチャンの一部にはあるかもしれませんね。旧約の律法と新約の命令、どこが違うのかというと僕は旧約の律法は「人間が守ることができる」ということが前提だと思うのです。しかし新約の命令(イエスに限定しますけど)は「人間は実行不可能だ」ということが前提のような気がします。「わたしはイエス様の子の言葉を守れる」とは誰も断言できない。
わたしたちは「できるようににしてください」と祈るしかないのではと思うのです。「行いによってでは誰も義とされないのです。ただ神様の恵みと憐れみにより頼むしかない、僕はそう思います。「自分は守っている」と言ってしまう人間は結局他者を見下すか裁くようになります。「律法主義」は悪しき「選民意識」と「優越感」、そして「他者への差別」を誘発するのではないでしょうか。

 僕が通ったことのある教会、そして所属している教会はあまりそういう傾向はないです。
あっちゃんさん

いえいえ、福音派が「思考停止」派だなんて言ってないですよぉ。
律法主義的になってしまうのって、形骸化を招いて、で、それって「思考停止」だなってことです。
あっちゃんさんの仰るように、裁き合いになってしまいますよね。

僕は、神の命令とは、イエス・キリストの十字架を信じること、神を愛し隣人を愛すること、の2つだと思っています。
それって言いすぎですかねぇ?

あっちゃんさんの集っている教会ではそんなことはないんですねぇ。
まぁ、僕が集っている教会でもあからさまにあるわけではないのですが、根底に流れているような気がしてしまっています。
Wellさん

 どのような神学的背景を持っているグループがより「律法主義的」になりやすいかということはここでは追求しないことにしましょう。

 イエスの十字架の愛を信じるとはどういうことでしょうか。今の教会に通うようになって牧師のメッセージ等から受け取るのは「イエスが十字架にかかってくださったことによって救いの御業自体は完了しているということを信じる」ということではないでしょうか。もうわたしたちは救われるために何かを行う必要はないのです。ただ行うことがあるとすれば「救われている」ことに対する神への感謝、そして救ってくださったにも拘らず罪を犯してしまうことに対する悔い改め」でしょうか。わたしたちは何をしてもいいはずなのです。しかし神様の愛を知った以上神様を悲しませることはなるべくしないようにしよう、また神様の愛に応える為に「よき行いをなるべくしよう」ということではないかなと考えるようになりました。何をするべきでないか、何をすべきか、それを聖書を通して個人個人に伝えられることではないでしょうか。教会が具体的に指示するようなことではないと思います。

えーと。お話に入らせて戴いてもよろしいでしょうか?お邪魔します。
横レス済みません。
ずっと通して読んでいて、本当に学ばせて頂いてます。

30のあっちゃんさんのご意見に8割がた賛成です。
イエス様が、私たちのどうにもならない罪の為に十字架にかかってくださったことによって救いの御業は完了しているということを頭だけでなく受け入れ、信じる事により、私たちは現在・過去・未来における全ての罪が赦されるし、救われることは曲げようのない事実です。
そして、それを感謝し、「良き行いをなるべくしよう」ということも確かに教会が具体的指示を出すようなことではなく、神様との個人的関係の中で教えられるのではと思うのです。

ただし、「良き行い」となると、この辺は男女の感覚の違いと言われてしまえば(あ、私女性です、一応あせあせ(飛び散る汗))それまでですが、頭で考えて出来るものではないと、個人的には思ってしまいます。
頭で考えてルール、すなわち律法を自分で作って頑張ろうとすると却って苦しいのでは。
祈りや聖書の御言葉から示された、という事で有ればそれはそれで主の御心にかなう事だとしても。
そして、もうひとつ、私たちはクリスチャンとしていくら頑張っても、いくら気をつけていても(ここら辺は私の論理ですが)罪を犯してしまいます。姦淫の罪を犯した女性を石打ちにしようとして、イエス様に「今まで罪を犯した事の無い者が石を投げなさい」と言われて、そのまま何もせず立ち去ったパリサイ人たちと私たちは同じ穴のムジナなのではと思います。
しかし。
例え、罪を犯してしまったとしても(事の大小問わず)。それに気がついた瞬間は苦しくて悲しいとしても、そこには十字架にかかられて復活されたイエス様の赦しと救いが有るわけで。だから「良い事をしよう」というのも、考えるのではなく、心から「そうしたい」と思ってすることなのではないのかと。
私たちにある「救い」って、とどのつまり何だかだ言っても、その恵み&憐れみにしかあり得ない。それが「福音」なのだと思うのです。

なんだか論点がずれていたら済みません・・・・・。
緑茶さん

僕は別トピで「理性的な信仰」が必要だと主張しました。それとちょっと矛盾するかもしれませんが・・・

 僕がキリスト教的な愛ということで思い起こすのは遠藤周作さんの作り出した小説の主人公たちのことです。遠藤周作の小説には同名の登場人物というのが何人かいるのですがその中に「ガストン・ボナバルト」(代表作「おバカさん」)とミツ(代表作「わたしが・棄てた・女」)の二名は自然と相手に寄り添うことができる人物です。もちろん自然といっても葛藤や恐れはあるのですがそれでも彼らは他者に対する愛を貫き通します。そしてその結果2人は死んでしまいます。
遠藤周作は明らかに現代のキリストとして描こうとしたのでしょう。奇跡を行うこともできないし威厳もない、平凡でむしろ生彩を欠く人物です。それは遠藤が意図的に現代のキリストをそのような人物として造形したのです。

 さて彼らの愛は見返りを求めるものではありませんでした。ガストンはクリスチャンですがミツは違います。彼らの愛は神様のためでもないのです。目の前の隣人をほおっておくことができなかったという愛です。時々ホームから線路に転落した人を自分の身を犠牲にして救助した人や溺れている人を救助して自分の方が溺れてしまったという事故のニュースを目にすることがあります。ホームに転落したり溺れている人を目撃した瞬間後先を考えずに救助に向かったのです。それは必ずしも資料深い行動ではないでしょう。しかしそれは愚かではあっても
すばらしい愛だと思うのです。それはクリスチャン、ノンクリスチャン関係ありません。

 その一方で考えてしまう善行にはいろいろな思いが混ざってしまいます。自己満足やら虚栄心、見返りを求める計算などなど、不純といえば不純でしょう。でも瞬間的な善行でない限りわたしたちの善行は100%純粋な思いということはありえないのかもしれません。神様はそういうわたしたちの善行の背後にあるよこしまな、不純な思いも分かっていてくださる、それでもわたしたちを用いてくださる、そう思うのです。わたしたちは純粋な思いを持てないことを神様に差し出しながら善行を行っていく、しかないのではと思います。
>あっちゃんさん
なるほど、と思いながらも痛いところを突かれてる感じがします・・・・ええ。確かに不純な動機が今まで無かったかどうか、と問われたら何も言えないです。
あっちゃんさんの言われる「考えて」って、そういうことだったんですね。
良く分かる事が出来て感謝です。
あっちゃんさん

『どのような神学的背景を持っているグループがより「律法主義的」になりやすいかということはここでは追求しないことにしましょう。』

それは、僕も意図するところではないので、やめておきましょう。


『「イエスが十字架にかかってくださったことによって救いの御業自体は完了しているということを信じる」ということではないでしょうか。』

僕もそのように思います。
そして、キリスト者に限らず、すべての人が罪を赦されています。
しかし、主に引き寄せられない限り、また求め続け、捜し続け、たたき続けなければ、主に出会うことはできません。


『神様の愛を知った以上神様を悲しませることはなるべくしないようにしよう、また神様の愛に応える為に「よき行いをなるべくしよう」ということではないかなと考えるようになりました。』

神の愛を知り、神を愛そうとすれば、神の喜ばれる歩みをしたいという思いは自然と生まれるものですよね。
やはり、このことも、神を愛するということから派生してくることですよね。


『何をするべきでないか、何をすべきか、それを聖書を通して個人個人に伝えられることではないでしょうか。教会が具体的に指示するようなことではないと思います。』

それゆえ、僕は「個の神学」がとても大切だと思います。
だから、僕たちは神に祈り、聖書を読み、神とは誰かということを求め続けて行くのではないかと思います。
そして、それこそが神を愛することであり、キリスト者に求められている命令だと僕は考えているのです。


『今の教会に通うようになって牧師のメッセージ等から受け取るのは』

とあっちゃんさんが仰るように、牧師は、教会を導く必要はあるし、福音を語る義務はあるのだと思います。
そして「個の神学」に踏み込みすぎず、しかし大胆に福音を語り、神理解への手助けをいかにしていくかということが、牧師の腕の見せ所なのだなぁと感じています。
Wellさん

別トピで書いたようにキリスト教は「共同体の信仰」が基本だと僕は考えます。
しかし当然の事ながら共同体に属するのは一人ひとりの信徒でありその信仰は
同じ共同体に属していても多種多様です。つまり「共同体の信仰」とは別に「個の信仰」があるわけです。キリスト教の健全な信仰とは僕は「共同体の信仰」と「個の信仰」の循環がスムーズに流れていることだと思います。もちろん共同体に属する信徒同士の信仰の交わりも必要だしその交わりの中心の場が礼拝ではないかなと思うのです。
主の前に、いわゆる「良い行ない」と「悪い行ない」というものはあるのでしょうか。
僕は無いような気がしています。
正確な表現ではないのですが、もはや僕たちが何が良くて何が悪いという判断は行なわない。ただ、主だけが主権者であり、善悪の判断をなさいます。

また、僕たちキリスト者は裁かれないとも書かれています(ヨハネ3:18)。
この付近の箇所からわかることは、光に来る者は光を求めている者であり、光である、そして、光に来ない者は光を憎む者であり、闇である。それゆえ、この事実こそが自分自身に裁きを行なっているのと同じことだということです。
光に進むか進まないかで、自分が光に属するのか闇に属するのかを示していることになります。

そう考えますと、神の前に僕たちの「良い行ない」や「悪い行ない」というものはないことになります。僕たちは良いとか悪いとかを超えて、光なのです。そういった善悪の判断に振り回されることのない存在になれたのです。

しかし、僕たちは神を愛するがゆえに、神に喜ばれる歩み…行ない…をしたいと望み、そうするように努力します。
重要なのは、「神に喜ばれる行ない」というのは「良い行ない」と同値ではないということです。

たとえば、子供が親を喜ばせようと、盗みをしてしまった、ということを考えてください。盗みは悪いことですが、子供の親を喜ばせようとする思いは良いとも悪いとも言えない、純粋なものであるように思えるのです。

僕たちは、どこまで言っても、悪い方へ傾いてしまいます。どんなに努力しても悪い方に傾いてしまう性質を持っています。
だから、神を喜ばせようと努力しても、「悪い行ない」をしてしまうことは十分にありえますし、ほとんどが「悪い行ない」なのでしょう。
それでも、主は僕たちの神に対する純粋な愛を喜んでくださると思うのです。

人間に純粋な愛は存在するのか。
これも言葉の問題かもしれませんが、僕はあると思っています。
神のような完全な愛はないでしょう。
しかし、神のような純粋な愛を、神の似姿である人間には備わっているのではないかと思います。
それゆえ、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と仰ってくださるのではないかと思っています。

主イエスの十字架は、僕たちを良いとか悪いとかというところからさえも救い出してくださった。そしてそれこそが律法の成就であると僕は考えます。
Wellさん

 僕が「善行」にこだわっている理由。
それは「善行」は神様がぼくたちを用いて下さっているということではないか
クリスチャン、ノンクリスチャンに関係なく
しかし実際わたしたちが何かをなす時に
いろいろな思いがあります。
その思い込みで神様はよしとされるのだと僕は思います。
しかしそのいろいろな思いゆえに
わたしたちは自分に思いあがってはいけない。
また自分を卑下しすぎてもいけない。

神様がわたしたちを用いる時、
僕たちの意思とは無関係に操るという意味ではなく
わたしたちは自意識を持ったまま
決断し選択し行動するのです。
その自意識の部分で不純になってしまう。
わたしたちは人としての限界を感じつつも
神様に委ねていく

ちょっとうまく説明できません。あせあせ

神様の導きとわたしたちの自由意志の
差異がどうしても生じるのではないでしょうか
ですから自分の行動がどうかということに付いては
分析・評価する必要はあるとは思うんですよ。
ちょっと目先を変えてみましょう。

僕はコミュの説明文において「福音主義神学」を以下のように定義しました。

「古典信条を告白するキリスト教会(以下正統的キリスト教会)のそれぞれの神学がコアとして有している神学を意味する」

これは「キリスト教神学」あるいは「キリスト教教理」とほぼ同義であります。
というのは「福音主義」が「福音に基づく神学」という意味であるならば逆に
「福音に基づかない神学」と言うものはありうるのかということなのです。
つまり「福音主義でない神学」と言うものは存在するのであろうか、

この疑問はキリスト教会に対しても言えます。キリスト教会の根拠は福音にあります。礼拝において福音が語られるからこそ教会が教会でありうるのです。言い換えれば礼拝において福音が語られなかればそれはキリスト教会とは呼べないのではないでしょうか。「福音的でない教会」という表現自体が矛盾なのです。
「福音的でない」ということは「教会ではない」のです。

 現実的にはクリスチャンの中には「わたしたちの教派は福音主義であるが**派はそうではない」と思っている者もいます。本コミュの参加者の中にもおられるかもしれません。それは本コミュの「福音主義神学の定義」から導き出される「福音主義でない教会は存在しない」というこの文章で僕が説明した認識とは相反することです。

 ですから「福音主義とは何か」という命題は非常に重要です。本コミュの根本に関わることです。是非皆さんのお考えをお聞きしたいと思います。
「福音主義」とは、「聖書主義」であり、「『聖書のみ』の信仰を表明するということ」なんだと僕は考えています。
…Wikipediaの知識ですが…

聖書に基づかない福音は福音でないとすれば、聖書に基づかない教会はキリスト教ではないですし、その教会は「福音主義」であるはずがありません。

しかし、聖書に基づかない福音も福音だというのならば、すべての教会はキリスト教なのでしょう。
その場合、福音をどのように定義づけるのかさっぱりわかりませんし、すべての宗教はキリスト教だと言えますし、すべての宗教は一つだという主張もできそうな気がします。

そのように考えてくれば、問題は、聖書に基づかない福音はありえるのかという問題に移行します。
そして、この問題に移行した途端に問題になるのは、「聖書」とは何か、という問題でしょう。

で、きっと僕の薄っぺらい知識からすれば、聖書は誤りがあるのかないのかという問題に移行するのかなぁと思うわけです。

それゆえ、聖書には誤りがないと主張する人たちが「福音主義」なのではないかと思います。

ただし、この“誤り”という概念も詳しく論じないといけないとは思います。

そのように、定義し直してしまうと、あっちゃんさんは同意できないわけですよね?

僕の「福音主義」に対する理解はそんな感じです。
Wellさん

当然「福音とは何か」という問題を突き詰めれば「聖書とは何か」ということになります。「聖書」に付いては「聖書と伝統」トピで対話していけばいいかなと思ってはいます。

簡単に僕の立場を書きましょう。
「聖書には誤りがない」というのは二つの側面に僕は分けて考えています。
一つは人間が書いた書物としての「聖書」、これについては当然のことながら「誤り」は存在していると認めています。
もう一つは「神の御言葉としての聖書」です。つまり聖書を読むときに聖霊が働き神の御言葉を伝えてくださる、その御言葉自体には誤りがないと僕は信じています。

「福音主義」=「聖書主義」でいいと僕は思います。しかしその場合もあくまでもよりどころににするのは「神の御言葉」としての「聖書」です。
僕もあっちゃんさんと同意見です。

誤りについての見解も一緒です。

僕たちは、聖書を信じているのではなく、神を信じているのであり、聖書にはその神が啓示されていると信じているわけです。

これが転倒すると、聖書を信仰することになり、聖書が神になります。
それは明らかに偶像礼拝ですし、非キリストですよね。


トピックの主題に戻れば、僕は「聖書のみ」の信仰こそが「福音主義」であり、聖書に基づく神学こそが「福音主義神学」であると考えています。

あっちゃんさんはそうではないですか?
Wellさん

「聖書のみ」というのはどういうことなのかということです。わたしたちが聖書を読むととき「解釈」という行為が伴います。「解釈」抜きで聖書を読むことはできません。この「解釈」が教派や教会或いは個人によって違いが出て来るわけです。よりどころになっているのは聖書ですがその解釈は多様です。そしてその解釈もまた誤りを含んでしまうのです。

 ちょっと僕の書いていることお分かりになりますか?
僕は別コミュで聖書を読むことをラジオを聴くことに例えました。
わたしたちは直接的に神の言葉を聞くことはできません。(まあ預言者とかは別でしょうけど)神の声は放送局から電波を通してそれぞれのラジオ受信機に伝わります。そしてその神の声はラジオのメーカー、性能、或いはどこに置かれているのか、また時間帯によっても違いが出てきます。100%完全な形で神の声をわたしたちは聞くことはできない、僕はそれを「人間の限界性」と呼んでいます。「聖書」のメッセージはこのようにいろいろな要素によって左右されるということです。つまりは純粋に「聖書のみ」という信仰はありえないということです。

 Wellさんと総意があるとすればそのあたりのことかなあと思うのですが
いかがなものでしょうか。
そうですねぇ、そこら辺が違うのかもしれませんね。

でも、実際主張していることは変わらないとは思っています。

聖書を読むとき、必ず解釈しなければなりません。
そして、その解釈は人によって様々です。
基本信条以外で、全く同じ解釈ということの方が有り得ないと思います。


なので、僕が言っている「聖書のみ」というのは、すべての人が聖書から同じ解釈をするという意味では当然ありません。

「聖書のみ」というのは、僕たちの信仰が「聖書のみ」に由来するという意味です。
もしも、僕たちの感性や理性や知性やその他のもろもろが聖書に反しているのならば、聖書に反している僕の感情や論理や知識は捨て去らなければならないと考えるわけです。
…もちろん、捨て去るということも、主によってなされることですが…


僕たちが聖書を解釈するとき、文字面を理解しようとするのではなく、その後ろに流れている本質を読み解こうとするわけです。

ですから、字義通り受け止めるのではなく、必ずそこには解釈がはいるわけで、その解釈は聖霊による助けがなければなされ得ません。


少し脱線しましたが、「聖書のみ」が僕たちの信仰の根拠であり、神が啓示されたものであるわけです。

そしてこれらは決して感情ではなく、意志です。
「聖書のみ」を信仰の根拠にしようという意志です。


しかし、それゆえ、信仰のない人とは基本的に同じように聖書を解釈することはできないと思っています。

これは、あくまで「基本的に」というところで抑えておいてください。
Wellさん

僕はこういう展開になって実はどきどきしていたんですよ。

信仰のない人間・・・僕にとってはこういう言い換えをしたいんです。
「神様から愛されているということを知らない人間」とね。
だれでも聖書を読むときには聖霊が働いてくださっていると思うんです。
でも神様を知らない人はその聖霊が語ることばをよく聞き取れない、聞
き取れても意味が分からない、当然そこに信仰の違いも生じると思います。

あっちゃんさん

「信仰のない人」という表現がマズりましたか?

でも、『神様から愛されているということを知らない人間』というのはちょっと違う気がします。
なぜなら、神様から愛されているということを知っていながら敢えて神に反逆する人もいます。
その人たちに聖霊が働かれたとしても、敢えて聖霊に逆らうとするならば、やはり解釈は基本的に違ってくると思うんです。

聖霊はすべての人に働くのか、キリスト者にしか働かないのか、それは聖霊論の話になってくるかとは思いますので、そちらでお話できればと思いますが、たとえすべての人に聖霊が働いていたとしても、僕たちはそれに逆らう自由はあるわけですよね…と本当は言い切ってしまえないのですが…。

う〜ん、「聖書とどう向き合うべきか」トピックで扱った方がよさそうですね。

あっちゃんさんは、何にドキドキですか??
 Wellさん

「あっちゃんさんは、何にドキドキですか??」

僕のコメントは純粋な「福音派」の人にとっては結構抵抗感があるんじゃないかなと思っているんです。なるべくオブラートで包むようにはしたいのですがそううまくも行かないかもしれません。実は「福音派」の方からメールで対話を求めらrウェ応じたこともあるんです。でも途中でその方は「もういい!」って感じで
打ち切られる。そういうことが何回かありました。またコミュで険悪になったこともたびたびです。

 このコミュではそういうことはしたくない、Wellさんが書かれたように「仲良くケンカしたいのです」、でももしかしたらそういうドキドキ感が付きまとうということです。


 で本論

随分以前のことです。青年会の学び会である人が牧師にこんな質問をしました。
「いかなる罪も許される、ただ聖霊に対する罪は許されないとイエス様が言われています。聖霊に対する罪とはなんですか?」牧師はこう言われました。「それは心のそこから自分は救われない存在だと思うこと、でも安心しなさい。そんな罪は人間はそう簡単に犯すことはできないよ」と、いろんな罪を人間は犯します。また自分は救われないと自殺する人もいます。キリスト教の神など信じないという人も大勢います。しかしもっと心の深い部分ではどうかなと、自殺する人だって、自暴自棄になって残虐な犯罪を犯すものも、神を否定する者も・・・それは神にとって決定的な許されない罪なのでしょうか。僕にはどうもそうには思えないのです。僕は牧師のことばを切って随分心が楽になった記憶があります。
キリスト教の神に逆らうことはできても聖霊に逆らうことはできない・・・僕はそう信じています。

あっちゃんさんのどきどき感は理解しました。

でも、僕はそんなに抵抗感ないですけどね。
やっぱり文章は論理ですから、実際に会ったら殴り合いのケンカになっちゃうかもしれませんが、ネット上なら、文章のみですから、論理的に話ができる人ならば、仲良くケンカは可能だと思いますけどねぇ。


『・・・それは神にとって決定的な許されない罪なのでしょうか。』

僕の理解では、キリスト者もそうでない人も、すべての人の罪は赦されていると思っています。
では、キリスト者の特異性はどこにあるかと言えば、その罪が赦されているという福音を受け入れるか受け入れないかという点のみです。
この福音を受け入れたものがキリスト者であり、受け入れないものが非キリスト者です。
そして、この福音を受け入れるためには、聖霊による以外方法はないのです。
つまり、福音を受け入れているものが聖霊に従っており、福音を受け入れないものが聖霊に逆らっているんだと思います。


<わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。>(新改訳第3版 マタ12:30-32)


僕は、聖霊に従うか、逆らうかは、救済論として、また、神の国論として重要な点だと考えています。

が、これは救済論や神の国論として論じるべきころかもしれないので、別トピが良いかもしれませんね。

やはり、話していくと、さまざまなところに話が散りざるを得ないですよね。
神学や僕たちの思考は完全に分けることはできないですもんね。
Wellさん

もしかしたら既に書いていることかもしれませんが牧師がクリスチャンとノンクリスチャンの違いについて以下のように説明されました。

「溺れているところを救助されて舟に引き上げられたというのが救いである、このとき、自分が助かったことを理解しているのがクリスチャンでまだ水の中でもがいていると思っているのがノンクリスチャンである」

この説明はすとんと僕の中に落ちてきました。既に救われて神の救いの中にいるのです。にも拘らずそのことがわかっていない、分かっていないから船の外に出ようとしたりもする、救われているこ戸を知っているのと知らないのでは大きな違いが出てくるということです。

福音主義とは・・・ごく普通のキリスト教であり福音派とは政治的保守反動宗教運動の一種。
> しのぶさん

以前どこかでお世話になったことがあるかと思いますが、このコミュでもよろしくお願いします。

『福音主義とは・・・ごく普通のキリスト教であり』

というのは納得です。

『福音派とは政治的保守反動宗教運動の一種。』

というのをもう少し詳しくお聞きしてもよろしいですか?
福音派はいつからどのような経緯で出現したものなのでしょうか?
Wellさん
私は福音派のルーツについては詳しく知りません。
ただ遺伝学を肯定し進化論を否定する性格とアメリカ共和党支持者が受け入れやすい性格を併せ持つ。
南北戦争の神学的確執のなれの果てと思うのは私だけでしょうか?
また、ナチドイツのユダヤ人虐殺の思想的背景が進化論を盾にした優性思想だったことから政治的に進化論を葬り去ろうとする動きともリンクしているように見えます。
しのぶさん

なるほど。

僕は福音派の教会に所属しています。
ですが、福音派についても福音主義についても良く知りません。

確かに、遺伝というものには理解を示すが、進化については受け入れられないという性格はあるように感じます。
実感としては、科学との折り合いの付け方が不器用だなぁと感じています。

宇田進氏の「総説現代福音主義神学」などを読んでみたいなぁとは思っていますが。
Wellさん
聖書の真理は様々な異質の文化の中に受肉される。
特に選民意識の高い、そして奴隷によって潤った過去を持つ人種差別の精神風土の文化の中にそれが起こったらどうなりますか?
「まさか奴隷と我々が同じ祖先」と言う科学学説は精神風土として受け入れがたい。
元々聖書(新約聖書)とはギリシャ語で書かれた。
それ故ヘブル的精神風土とギリシャ的精神風土を含有している。
例えば創世記の初めの部分の天地創造の話し、ギリシャ的感覚では一日は日暮れから次の日暮れまで。
しかしヘブル的精神風土では時間的長さの感覚が欠如している。
はっきり言えば最初の一日は天と地を作り始めてから終わりまでの時間です。
だから進化論が成り立つ聖書解釈も、成り立たない聖書解釈も可能なんです。
そして常に伝道者にとって、この精神風土の中の教会で聖書の真理をいかに解き明かすかが問題なんです。

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