ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

福音主義神学研究会コミュの礼拝とは何か

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
礼拝とは何かということについて話し合いましょう。
現代インターネットの普及によりいわゆるインターネット礼拝とかヴァーチャルチャーチとか行っているところもあります。そういう時代にあって礼拝とは何かを問い直すことも重要かなと思います。

コメント(9)

礼拝とは何か、
最低必要なのが御言葉が語られるということと聖礼典(カトリックでは秘蹟)が行われるということの2点だと思います。
また礼拝に必要な最低限度の人数は2人であると僕は考えます。御言葉を語るものと御言葉を聴く者の二人です。もちろん現実の問題として開拓が始まったばかりの教会の礼拝にはだれも礼拝に訪れないということはありえます。あくまでも原則としては二人必要だということです。この2点から見るとインターネット礼拝は礼拝ではない、あくまでも礼拝に出られなかった人或いは出られない人のための救急用のものであるということです。

あっちゃんさん

なんか、あっちゃんさんの礼拝は、カタチが重要な気がしてしまうのですが、いかがでしょうか?

カタチよりも、「聖徒の交わり」が重要だと僕は考えています。
でも、「聖徒の交わり」にもさまざまなカタチがあって、あっちゃんさんの仰るカタチは基本的なカタチであるとは思っています。

そう考えますと、ネット上でも「聖徒の交わり」は可能な気がします。

でも、ネット礼拝の是非については、もう少し考えたいと思います。
Wellさん

「なんか、あっちゃんさんの礼拝は、カタチが重要な気がしてしまうのですが、いかがでしょうか? 」

その通りです。僕の母教会はごく一般的なプロテスタントの礼拝を行っていました。現在所属しているルーテル教会では式文というものを用いて礼拝を進めます。この式文を使うというのがまあ特色だと思います。それが他の教派から見れば「形式的」に見えるのかもしれませんね。

 僕には式文を用いた礼拝の方がしっくり来るのです。これは人それぞれだと思います。ただ僕は「形」は非常に重要だと考えています。僕は以前キリスト信仰をワインに例えたことがあります。ワインだけでは保存することもできないし飲むこともできません。ワインだけをテーブルの上に置いたらどうでしょうか。たちまち滴り落ちて床に一杯広がってしまうでしょう。ワインを保存するためには
容器が必要です。この容器が「キリスト教」という宗教であり「キリスト教会」というわけです。わたしたちはワインが入ったビンを指して「これはワインとその容器」だなんてことは言いません。「これはワインだ」と言うでしょう。キリスト信仰とキリスト教も厳密に言えば別物ですが普段そのことをわたしたちは意識していないし通常はそれは十分なのです。

「キリスト礼拝」もそうです。大切なのは中身であって形ではない、しかし形と中身は分離することはできないのです。形のない礼拝はどうでしょうか。もちろんそんな礼拝はありえません。しかしこういう礼拝は現在でもあるんじゃないでしょうか。すなわち決まった式次第はなく賛美も乗ってくれば何回でも繰り返すし南極も賛美する、祈りは次から次と示された者が何回でも祈る、そういう礼拝が向いている人もいるでしょう。でも僕は形が不定形過ぎて落ち着きません。


 キリスト教の礼拝にとって最も大切なのは「聖徒の交わり」であると僕も思います。だから「ネット礼拝」は無理だと思うのです。「同じ場に集められる」ということが重要だと僕は思います。

 
ここでも、あっちゃんさんと差異があって面白ですね。

ワインのたとえはしっくりです。

でも、ワイングラスのカタチはそれぞれで、正しいカタチなんてないことを考えれば、いろんな教会、いろんな礼拝があっても良いですよね。
ここはきっとあっちゃんさんと同じだと思います。

それでもやっぱり、カタチによって「聖徒の交わり」が阻害されるのであれば、カタチは必要に応じて変えるべきだと思います。

あっちゃんさんは、

<イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」>(新改訳第3版 ヨハ4:21-24)

をどのように理解されますか?

僕は場所は重要ではないし、<霊とまことによって父を礼拝する>ことこそが真の礼拝であって、同じ場所ということにも限定されないのではないかと思います。

もちろん、僕たちはこの肉体を持って生きているわけですから、言葉における交わりだけではなく、直接会うという交わりも必要だとは思います。

ただ、インターネット上でメッセージを聞けば礼拝というわけではなく、このコミュのように対話したり、Skypeで交わったり、電話でも良いかもしれませんし、メールでも良いのかもしれません。
そのように、ネット上の礼拝についての僕の認識は決して一方的なものではなくて、双方向的、多方向的なものを想定しています。
Wellさん

基本的には異論はありません。
インターネット礼拝でも構わない、その方がわずらわしくないという人にとってはありがたい礼拝形式だと思います。

ただその場合問題になるのが聖礼典の執行です。聖礼典は象徴的なものに過ぎないという教派にとっては何の問題もないかもしれませんけど・・・
皆さんはどのように考えられますか?
そうですね。
皆さんはどう考えていらっしゃるんですかねぇ?

聖礼典は重要ですよね。

そうするとやっぱりネット礼拝は不可能ですね。

すごく、くだらないことを言うかもしれませんが、たとえば各自がパンとぶどう酒を用意して、ビデオ有りのSkypeとかで聖礼典を行なうというのはやっぱり無しですかねぇ。
あ、そうすると、洗礼ができないか。

やっぱりネット礼拝はダメな気がしてきました。
…もう少し考えてみます。
Wellさん

各自が聖餐を用意できるのか、という問題もありますね。
そうですよね。

牧師や司祭などの位置付けの問題にもかなり深く関係していますよね。

ネット礼拝はあり!っていう方はいらっしゃらないんですかねぇ?
重要なことが欠けてるようなので付け加えます。

日曜日ごとに行われる礼拝とはキリストの復活を讃える祭儀です。

だから本来聖餐も毎週行われなくてはいけません。

日ごとの礼拝については詩篇を歌って神をほめたたえ祈りを献げて日々の生活を神と人とのために清めることが初代教会からの伝統です。

具体的に礼拝論を見ると初代教会では旧約を朗読し詩篇を歌いそののち新約聖書を朗読し聖餐に移るというのが初代教会の礼拝(ミサ)だったそうです。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

福音主義神学研究会 更新情報

福音主義神学研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング