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福音主義神学研究会コミュの聖書とどう向き合うべきか

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旧「聖書とは何か」トピです。
一晩たってちょっと考え直しました。
以下のように変更します。

聖書の読み方にはいろいろあります。信徒と信徒でない人の読み方は違うでしょう。同じクリスチャンでも教派によっても個人によっても違いは出てくるでしょう。その読み方の違いは見方を変えれば聖書の捉え方の違いでもあります。
わたしたちクリスチャンは聖書を神様が御自身を啓示するために人に与えてくださったものという風に考えています。しかしこの考え方が極端になると聖書=神であるかのような信仰になってしまいます。つまり聖書を絶対化してしまうことです。神は存在しないという立場での聖書の捕らえ方も極端ならば聖書を神として捉えてしまうことも極端です。わたしたちは聖書とどう向き合うべきか、ただひたすら奉るべきなのか、批評は許されるのか、など対話していきましょう。

コメント(134)

しのぶさん

確かに、ローマ1:20を読んでみても、ローマ人は本性を求めているが、パウロは被造物を見れば神が存在することはわかると言って、可視的なものに真理を置いているのは良くわかります。

ピタゴラスは数にすべての根源を置き、他にも火や水に根源を置いた人たち、アルキメデスとかを考えてみても、可視的なものに真理…根源…を置いているように見えるが、しかしそれは極めて抽象的なものであって、手で触れられるような実体ではない。

そういう風に見れば、ローマ・ギリシアの人たちは可視的であっても、「奥なるもの」を求めているわけで、それは抽象的であるから可視的ではないとしのぶさんは判断なさるわけですよね。

そして、ヒモ理論など量子力学的考えは別として、ニュートン以来、力やエネルギーなど非可視的なものに真理を置くようになり、聖書的真理の在り方からはより遠くなってしまった。

…という理解でよろしいでしょうか?

で、そこから自由主義神学が出現し、二つの世界大戦で打ち砕かれ、その反動として福音主義が生まれて来たということですよね?


もしも、そういう理解で正しければ、僕もしのぶさんの意見に大きく賛成です。

ちょっと違いますか?
Wellさん
ご理解ありがとうございますm(__)m
やっと議論のスタートラインにたどりつけました。
で・・・福音派と福音主義が大きく異なるのか異ならないのか・・・?
しのぶさん

コミュのトップページに次のように書いております。

「このコミュにおける「福音主義神学」はある特定の教派や信仰グループの神学をさすものではありません。古典信条を告白するキリスト教会(以下正統的キリスト教会)のそれぞれの神学がコアとして有している神学を意味するものととさせていただきます。従って特定の教派や信仰グループの神学という意味では「福音主義神学」という名称は使用しないでください。」

すべての教派が共通して持っている「福音主義神学」とはどのようなものかを探っていくのが本コミュの目的です。どこかのトピで引用したのですがしのぶさんがどこかで書いていらっしゃった「福音を信じていない教会はない」、したがってすべてのキリスト教会は「福音主義」のはずなのです。そういった観点から「福音主義」を再定義していきたいのです。
あっちゃんさん
なるほど・・・私は聖書の観点には科学もギリシャ哲学も無いと断定してしまった。
だから科学にも哲学にも無知な者にとっても福音であると考えます。
しかし・・・あっちゃんさんとWellさんと私の見解の相違はどこでしょう?
そもそも福音とは勝利の知らせ。
イエス様が死に打ち勝った、あるいは・・・我すでに世に勝てり・・・と言う勝利宣言!
もし福音主義の性格を考えるなら・・・宗教改革の精神に遡らなければならない。
1、宗教改革は教会をみ言葉の教会として再建した
2、宗教改革の教会は罪人の教会として再建した。
3、宗教改革は神のあわれみの教会として再建した。
そのいずれもが・・・聖書の中に古い生命の泉の再発見の結果であった。
しのぶさん

お手数お掛けして申し訳ありませんでした。

ようやくスタートラインに立てましたね。
すみません。
あっちゃんさん

なるほど。
『古典信条を告白するキリスト教会(以下正統的キリスト教会)』がキリスト教の最大公約数的教義…定義??…キリスト教か非キリスト教かを分けるものだと言うことでね。

そういえば、当初、信条の話をしましたよね。

ちょっと僕ももう一度確認してみます。
しのぶさん
ルターははカトリック教会の内部改革を願っていたのであり波紋され新しい教会を作ることは決して彼の本意ではなかったと思います。書いてくださったように
「教会の再建」が目的だったわけです。そういった意味では宗教改革の意義をカトリック教会も認めている現代においてようやく宗教改革は結実の時を迎えつつあるといえるのではないでしょうか。
あっちゃんさん

お訊ねしようかどうか迷っていたのですが、宗教改革の精神はカトリックも認めているわけで、そういう意味ではカトリックも福音主義であるということですよね?

そして、あっちゃんさんもそのように福音主義を捉えているということですよね?
Wellさん

「お訊ねしようかどうか迷っていたのですが、宗教改革の精神はカトリックも認めているわけで、そういう意味ではカトリックも福音主義であるということですよね? 」

当然そういうことになります。おそらくこのコミュの最初の出発点は「福音派
神学」という意味で「福音主義神学」と言う言葉を用いていたかもしれません。しかしわたしが前任者からこのコミュの管理人を委譲された時にカトリックを
含むキリスト教全教派の根幹に息づいている神学を「福音主義神学」と再定義
したわけです。言い換えればそれは原始キリスト教会の神学と言うことにもな
ります。

もちろん地域によって、あるいは時代によって、あるいは様々な状況の中で
「福音主義神学」はいろいろ枝分かれしていきました。枝分かれの果てにキ
福音主義を逸脱して行ったものもあったでしょう。それは修正してばいいの
です。その一番大きな修正が宗教改革であったと僕は捉えています。もちろ
ん宗教改革までのカトリックのすべてを否定しているわけではありません。
後世の子していくべきものもたくさんあるわけです。逆に宗教改革以降のプ
ロテスタント教会のあり方すべてが福音主義であったというわけではありま
せん。福音主義を逸脱して行ったものもあるでしょう。それぞれの教会が自
らを省み逸脱して行ったものと正常に成長して言ったものを区別していくこ
とも大切でしょう。

僕はそれぞれの教派出対立する事柄に対しても本当に相容れられないものな
のか、許容できないものなのか、検証していく必要があると思うのです。そ
のためには諸派間の話し合いも必要でしょう。同じものを違う言葉で表現し
ていたと言うこともあるでしょう。本質的でないことの相違点に捉われてい
て本質的な共通点に目が行っていなかったということもあるかもしれません。


このコミュではお互いの相違点を尊重しながら相違点だけに捉われるのではな
く我々の共通点とは何かを探っていきたいと願っているのです。ですから他者
の信仰がどれだけ自分の信仰とかけ離れているように見えてもその信仰を全否
定してほしくないのです。他者の信仰を全否定するとそこに争いが生まれてし
まうからです。






あちゃんさん
なんとなく理解できます。
そもそもルターだってカトリックから出て行くつもりはなかったと思います。
むしろキリスト教が本来の姿から逸脱するのを防ごうと言う内部論争を試みた。
ところが破門されてしまった。
その意味でルターは破門されたカトリックであって、カトリック側から政治的に分かれさせられた。
根は同じキリスト教だったはず。
そしてプロテスタントはあまりにも多くの教派に分かれてしまった。
カトリックのことは良く知らないが・・・あれだけ所帯が大きければ右翼と左翼の相違も大きいはず。
つまり双方とも同じぐらいのバラツキを持つと考えた方が無難だろう。
客観的に確率を考えたら・・・双方とも同じぐらい初代教会からの伝統を重んじていると考えるべきだ。
あっちゃんさん

そうですね。
そうは感じられなかったかもしれませんが、僕の気持ちとしては、あっちゃんさんと同じです。
もしも、これまでにあっちゃんさんの信仰を全否定しているように感じさせてしまったらごめんなさい。

あと、僕はカトリックのことも良くわかっていないので、カトリックがキリスト教会か非キリスト教会かも良くわかっていません。
ただ、宗教改革は当時のカトリック教会に対して行なわれたものであって、宗教改革を考えた場合に、カトリックはどのように取り扱うのかなぁ?と思ったわけです。
誤解を与えてしまったらすみません。

僕は、福音派に属する教団に所属していますが、実際福音派というものも、福音主義というものも良くわかっていません。
なので、僕の個人的な考えとしてここで述べることはできますが、教派として発言するのは、勉強もしていませんし、できないなぁと思うのですが、そこはいかがですか?

どちらにしても、あっちゃんさんが仰っていることには同意しています。

よろしくお願いします。
Wellさん

 教派が同じであってもいや同じ教会に所属していても一人ひとりの信仰は異なります。僕はルーテル教会に所属していますが僕のコメントは別にルーテル教会
を代表するものではありません。僕のコメントはあくまでも僕の信仰から来るコメントです。同様にwellさんが所属しているのが「福音派」の教会であったとしてもwellさんのコメントはあくまでもwellさんのコメントです。別に教派、教団、教会を背負っているわけではありません。
 人とを批判するために最も手っ取り早いのはその人にレッテルを貼ることです。その人自身を見るのではなくではなくそのレッテルを通してその人を判断するわけです。わたしたちの対話はそうであってはいけません。あくまでもその人個人との対話であるということを大切にしたいと思います。

 カトリック教会もいろいろな人がいます。比較的自由な考えの人から保守的な人もいます。一人ひとり違うのです。当たり前のことです。その当たり前の事を大切にしていきましょう。
このトピが聖書とどう向き合うべきか論じるトピなら・・・原点に戻って考えるべきかと思います。
そもそも聖書は無数の解釈が可能です。
そのためにキリスト教の歴史は論争の歴史と言っても過言ではない。
しかし・・・その論争の中で最大公約数的なものは信条です。
古典的な信条・・・それもカトリックとプロテスタントに分かれる前の信条までさかのぼれば同じところまで遡れる。
それが聖書解釈上共通の立脚点ではないでしょうか?
しのぶさん

そうなると、どの信条まで戻ることになりますか?
その意味では使徒信条は重要だと考えます。
神学は・・・どうしても・・・その神学者の立場理論におちやすい。
そして、それが政治的立場だとしも信徒には見分けがたい。
それで相手をリベラルとピントが外れたラベル貼り、不毛な罵りをうんざりするほど見てきた。
そんなローカルな神学は・・・とりあえず棚上げにしましょう。
しのぶさん

では、しのぶさんが仰るように聖書の真理とは可視的なものであるという視点で見た場合、そうでない場合とどのように聖書の見方が変わるんでしょうか?
Wellさん
もう少し質問を具体的に書いていただけませんか?
Wellさん
一口に真理と言っても様々です。
「奥なるもの」を真理と言う場合と「事実」を真理と言う場合がある。
キリスト教の聖書の真理はキリストの事実以外は意味しないと考えます。
しのぶさん

なるほど。

聖書の真理は捨象して行った先にあるものではなく、聖書に記述されている事実そのものが真理である、ということですね。

そう考えれば、聖書を真理として見るためには信仰しかありえないわけですね。

イエス・キリストがこの地上に来られ、十字架に掛かってくださったという一度限りの事実が聖書の真理である。

ふむふむ。

話はズレるかもしれませんが、神学というものは、抽象的概念ですよね。
キリスト教神学は、しのぶさんの仰ることとは矛盾しないですか?
Wellさん
神学とは教会の置かれた状況にあわせて聖書の真理を再解釈する学問です。
ですから時代と立地条件で自在に変わる。
しのぶさん

それはわかります。

ただ、聖書が抽象的概念がそぐわないのであれば、神学というものもそぐわないのではないかと思うのですが、どうですかねぇ?

神学というものは聖書を読む中で生まれて来るものですよね。
そうすると、神学というものは“聖書の読み方”で考えたときに、どう位置づけられるのかなぁ?と思いまして。

う〜ん…
Wellさん
だから神学は抽象概念で語る必要性は初めからありません。
抽象概念で語るのは語る人の資質の問題です。
しのぶさん

なるほど。
使徒信条は、確かに抽象的ではないですね。

そういう意味で、神学は神学者の立場論理に落ちやすいということですね。

そう考えれば、使徒信条などの信条はとても具体的、実際的であるわけですね。
そして、それを説明しようとすると、とても抽象的になってしまうと。

…ということで、神学は棚上げにして、使徒信条を考えようというわけですね。

一つ一つの確認で申し訳ないです。
しのぶさん

あら…
すみません、勉強してきます。
使徒信条は西方教会で告白されているので正教会は除外されてしまいます。ですからコミュの説明には古典信条と書いたわけです。細かいようですが一言。
あっちゃんさん
不勉強で正教会のことを知りません。
正教会と西方教会の共通点は何でしょう?
しのぶさん
僕もくわしくは知りません。正教会の信徒の方がこのコミュにも参加してくださるとうれしいのですが・・・
一応正教会の公式HP貼り付けておきます。
まあ信条のことについては他トピの方がいいかもしれませんね。

http://www.orthodoxjapan.jp/
あっちゃんさん
では本題に戻って・・・具体的な聖書解釈の問題を話し合いましょうか?
しのぶさん

一番問題だと思うのは執筆された当時の科学水準、文化的背景などを全く考慮せずに書いてあることをそのまま受け取ってしまう方たちですね。もちろんそれは個人の自由ですが困ったことにそういう人たちはえてして自分たちとは異なる聖書解釈を攻撃して来るんですよね。
あっちゃんさん
今でも中世の科学の定義?をそのまま使っている教派があるように思います。
つまり科学は神学の奴婢であると・・・・
だから自分達の神学に合わない科学は誤りだと頑張って譲りません。
科学の何たるかを肌で理解している私には決して通用しない。
科学とは所詮ギリシャ哲学から発展した学問です。
現代科学は・・・すでに神学者達には手の付けられない方向に進んでいる。
その正体は本質論です。
その本質論ですら・・・西洋文化圏内のものです。
ただ・・・あっちゃんさんを攻撃してくるメンバーの特徴が高機能自閉症の特徴を示している。
高機能自閉症の特徴は自分で読んだ本の世界から病的に抜け出せない。
その世界に閉じこもって・・・それが信仰だと思っている。
検索の結果現代の精神医学でも治療は難しいらしい。
しのぶさん

信仰を科学に迎合させるのも逆に科学を敵視するのも極端なあり方だと僕は思います。科学に迎合しすぎるのが自由神学だし科学を敵視するあまり自分たちの信仰に都合のいいように疑似科学を作り上げてしまったのが創造科学でしょう。これはベクトルの方向性が違うだけで科学を気にしすぎているという点では同じ穴の狢のようには感じられます。
あっちゃんさん
科学は元々疑問の学問ですよ。
先人の業績に疑問を抱いて画期的な、より精密で現実に合う理論を構築する学問。
だから科学理論に疑問を抱くのは科学者の使命みたいなもの。
科学を信じては迷信です。
その科学を神学の奴婢と考える中世の神学は、当時科学が未発達だったから可能だった。
奴婢というからには科学が神学の監視下にあらねばならない。
この要請から創造科学なる似非科学を案出した。
しかし・・・これは疑問の余地が無いように組み立てられているので科学ではない。
科学とは疑問をバネに進歩する学問だから。
しのぶさん

「進化論を信じている」という表現で進化論に肯定的なクリスチャンを批判する人たちがいます。しかし進化論を「信じている」クリスチャンはいるのだうかと僕は思います。進化論は信じる対象ではない、科学には素人の僕にとって現時点でいろいろな問題を合理的に説明できる仮説として肯定的に受け止めているということであって進化論よりも優れた仮説が出てきたらそちらの方を支持するかもしれません。科学の仮説とはそういうものでしょう。

「奴婢というからには科学が神学の監視下にあらねばならない。
この要請から創造科学なる似非科学を案出した。 」

創造科学は信仰が科学を監視下に置いているように見えますが実は科学によって聖書の記述の正しさを実証しているわけですから科学の方を高次元として捉えているわけです。先に書いたようにベクトルが真逆なだけで科学を信仰の上位とするという意味では自由神学と同じなのです。
あっちゃんさん
見事な分析だ・・・・
その自己欺瞞こそ創造科学の罪の正体です。

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