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rufu's room るふの広がる部屋コミュの 【32】rufu's room//2009-07-29 [仏教入門] 二辺見(にへんけん)と「四句分別(しくふんべつ)」

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2009-07-29
[仏教入門] 二辺見(にへんけん)と「四句分別(しくふんべつ)」


 二辺見(にへんけん)

 二辺見(にへんけん)とは、世間一般のモノの見方です。
 これは外道(仏教以外の西洋宗教や哲学等)から発生
 しています。結論から言うと、間違ったモノの見方です。



仏教では「四句分別(しくふんべつ)」を説いて「二辺見」の間違いを
しっかり破折(論破)しています。この、間違った「二辺見」の考え方が、
実は我々も世間に埋もれているうちにしっかり根付いており、外道生活を
してしまっているのが現状です。

実は、日蓮大聖人様がこの事につきまして詳しく述べられた御書が比較的
少ないのは、大聖人様御在世当時の日本人は、(間違っているなりに)
仏教思想で生活を営んでいたために、「内外相対(ないげそうたい)」
を心得るのに時間がかからなかったらだと言われています。よって、
「権実相対(ごんじつそうたい)」から入る御書が比較的多くあるようです。

※内外相対(ないげそうたい)
=宗教の正邪を判断する基準の5つ(五重の相対)のうち、一番はじめの、
登竜門的な判断基準。内道(仏教)と、外道(仏教以外)を比較し、自分の
生命の内側(内)に原因結果を教える(道)仏教と、自分の外面(外)
=架空の神などに全てを委ね、原因結果を教えない(道)キリスト教や
イスラム教など。もちろん、内道がすぐれている。

※権実相対(ごんじつそうたい)
=五重の相対のうち、三番目にあたる判断基準。仏教の中でも、真実を説く
「法華経」と、それ以外の「方便」を説く仏教の比較で、もちろん「法華経」
が優れており、大聖人様御在世当時の日本人の多くは、この部分で迷って
いたため、仏教世相が混乱していた。

ところが、特に明治維新の「文明開化」や「廃仏毀釈」により日本人は、
仏教の内道思想を失い、西洋思想・外道義に侵されてゆくことになります。
このあたりから日本人は「内外相対」が理解できなくなり、「文明」「西洋」
「神」という存在に振り回されながら、内道思想が崩壊してゆきます。
そして「拝外」と「排外」
参照ブログ)
http://www.webrush.net/rufu/p_20090713221051572162

を繰り返しながら、まずは「国家神道」路線の太平洋戦争で大きく
ズッコケます。
大きな敗戦により弱気になって属国を免れようとした日本は、
「アメリカの子分」になってしまい、すっかり西洋思想にハマって
いくわけです。GHQを基幹とした現在の日本の法律と、秘密結社の
介入による所謂「日本の壊滅化」路線ですっかり「和の心」「内道」
の心を持った日本人は少なくなってしまいました。西洋思想は「文明」
「文化」「経済」「科学」といった目に見えるモノしか信じない思想
のため、内にある「心」のあり方が理解できないのです。

参照ブログ)
http://www.webrush.net/rufu/p_20090703000512863246
http://www.webrush.net/rufu/p_20090703001812237801

また話が脱線してしまいましたが、このようなことからも、本当に
仏教の教えが心に浸透する日本人でありたく、現代はこの「四句分別」
と「二辺見」を学ぶ必要があるのではないかと思い、今回はあくまで
「学習的」にそれを述べてみたいと思います。

●「二辺見(にへんけん)」
インドのバラモン教がはじまり。
現代の世間や外道では一般的なモノの見方。

・有(う)…何かが有る・存在するという見方→常見(じょうけん)
・無(む)…何かが無い・存在しないという見方→断見(だんけん)

という2つのモノの見方です。
(例えば)
1)茶碗の中に ■有る お茶を→飲んだら □無く なった。
2)1個のお菓子を食べたら0個になった。
3)鈴木君がそこにいる。あそこには佐藤君がいる。
4)鈴木君が笑っている。今度は鈴木君が泣き出した。
5)左の穴のモグラが右の穴から顔を出した。
6)1+1=2 1-1=0 

これが二辺見です。一見普通に思えますが、
仏教でこれをなるべく正確に表現すると、

1)については、
仮に土のような因縁で和合(作られた)「茶碗」と名付けられた部分に、
仮に葉などで因縁和合(作られた)「お茶」と名付けられた液体が、
因縁として和合していた(茶を点てた)が、
因縁によって(飲んで)仮に離散していった。

=これが「二辺見」では、実際に茶碗というものが存在し、
そこにお茶が存在して、飲んだら消えていったように錯覚する。
つまり、有るか無いかの判断基準しかないのです。

しかしこれは単なる一生活レベルの人間目線の短絡的な見方であり、
仮に和合した(作った)物体や液体を「茶碗」とか「お茶」と名付けて、
それを見ているだけの話で、それら自体が「個」として存在している
わけではなく、仮に和合=寄せ集まっていて形に見えるということです。
そして、茶碗の原料の土や、お茶の原料の葉も、仮に和合しているだけ
であり、そこに存在しているわけではないということです。

4)については、
仮に鈴木と名付けられた因縁が、仮に因縁で笑っている。
仮に因縁で泣いている仮の鈴木は、笑っていた鈴木とは別物である。
つまり、名付けられた「鈴木」というネームには変わりはないが、
実際は過去の鈴木さんと現在の鈴木さんとは別人であり、「鈴木さん」
が存在しているわけではないのです。
これは、「イモムシと蝶」、もしくは「鶏と玉子」程の違いがあるのです。
例えば、「アゲハチョウ」と名付けられた生物は元々「イモムシ」だった
(その前は卵)。イモムシを「アゲハチョウ」とは呼びません。アゲハチョウ
の幼虫と呼びますが、決して「蝶」ではありません。又、アゲハチョウを
「イモムシ」とも呼びません。

赤子の頃の鈴木さんと、老体の鈴木さんの、2枚の写真を見た他人は、
「同一人物」と告げない限り決して同じ人には見ません。蝶の一生は半年、
人間は80年という時の流れの差によって、一瞬前の変化に気付かないだけ
でいるということです。

5)についても同じで
左の穴のモグラと右の穴から顔を出したモグラはすでに別ものなのです。

6)「数字」もこの域に入ります。
 数字は便宜上の例えであり、本来「数字」自体は存在しません。
ですから、何もかも数字だけで「存在」を表現するとなると、「有」か「無」
の判断しかできなくなってしまいます。ちなみに、我々が普段使っている
「桁」は「十進法」で、元来人間の手の指の数が10本だから10を一桁にした
のが始まりです。
人間の指の数が違っていたら、桁も違っていたはずです。

・十進法(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E9%80%B2%E6%B3%95

¶∵∴小さなリンゴの種∵∴の中に、「リンゴの木や実、葉は存在するのか」
という問いかけに、この二辺見では、存在するかしないかでの説明がつきません。
「存在するなら出してみよ」と問いかけると「今は無い」としか答えない。
では、「無いなら存在しないのか?」と問いかけると、「水を与えると出てくる」
と答える。では、出てくると言うのなら「有るのか?」と問うと、「有るけど今
は無い」と、矛盾した答えしか出てこないのです。「有る」か「無い」かだけで
判断するとこのような見方しかできないのです。
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 
これはまるで、
A「キミ、お金有る?」
B「あるよ」
A「じゃあ10000円貸して」
B「実は、今はないけど来週給料入るから有るよ」
A「じゃあ今は無いじゃん!」
B「今は無いけど来週になれば有るよ」

と話しているようなものです。
普通は、「今は持ってないけど来週になれば給料が出るよ」と言いますね。

本当は「働いたという因を作り、その因が具わっているため、
給料日という機が熟すると会社・口座を縁にお金という報いが発生する。」
のが適切でしょうか。

★火打ち石の中に、「火」は有るのか無いのか。
 =「火」自体が石の中に有るわけではなく、因として具わっているため、
   槌で打つと(縁すると)、「火」を生ずる。
◎心の中に「怒り」や「喜び」は有るのか無いのか・・。
 =因として具わっているため、縁してはじめてそのような感情を発する。

我々の生命の「十界」も「仮に具わっている」わけで、「有る」でもなく「無い」
わけでもないのです。

我々はどうしてもこの「二辺見」=有るか無いか、自分は存在している、
という目線で物事を見てしまうために「天界の中の三界」につかまってしまい、
不幸になってしまうのだそうです。

↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 

では、仏教の初門である
◎「四句分別(しくふんべつ)」を簡単に。

---------四 句---------

・有(う)…(前述)
          |---------------「二辺見」
・無(む)…(前述)

・非有非無(ひうひむ)…「空」=有るわけでも無いわけでもない。

・亦有亦無(やくうやくむ)…「中」=ある時は仮に有り、ある時は仮に無い。


そして、「有」の字は全て「仮有(けう)」であり、「有る」のではなく、「
具わる」が正しい表現ということです。
これは仏教の初門なのですが、我々が信ずる妙法は「一心法界一念三千」と
言いまして、とりあえず「存在」という考え方を離れ、「本質はない」と
いう考えを認識する必要があります。

<現象の集合>
因・縁・果・報
諸因・諸縁・生起
とありまして、因・縁・果・報のみではなく、諸因と諸縁により仮に和合して
何かを生起している、この繰り返し。個人・物も独立して存在しているのではなく、
諸因と諸縁によりとりあえず「仮に有る」と捉えます。
次の瞬間!!諸因と諸縁がまた変化し、離散している「仮の姿」であると。

★映画は「1秒24コマ」の8ミリ映像であるが、感情移入するとその世界の
虜になります(「おくりびと」良かったですね)。我々の人生も正にその
ようなものです。1コマ前と後ではフィルムが違うように、人生も一瞬前と
今は全く別世界な仮の世界なのです。

西洋哲学では
経済問題にぶつかりますと、有るか無いかの執着に捕らわれ、便利・文化を追ってしまいます。「無くて苦しい時」は得る(有)に囚われ、「有って苦しい時」は排除(無くす)」に囚われて、結果、どうあがいても苦しむ事になります。
そして、「生老病死」から逃れようとする=対立する考えに囚われます。
仏教は、「生老病死」「四苦八苦」「六道輪廻」と対立しないで「転換」もしくは「脱する」ことを教えます。

以前のブログで、
ユングやフロイトの心理学はせいぜい「七識」を広く浅く、
言葉多くして論じているに過ぎない、と述べました。
http://www.webrush.net/rufu/p_20090627012510829788

世間では「無意識」の世界を論ずるユングの心理学は、フロイトの心理学を包摂しているほど「大きい」とされていますが、「個人的無意識」「集合無意識」にせよ、ユングの論ずる「無意識」や心理学は「二辺見」の域を出ず、結局は「我」「エゴ」「自己」「セルフ」「夢」「イメージ」自己の元型」「遺伝情報内の大量の経験データ」「人類の心に普遍的に存在する=先天的な元型の作用力動」といった言葉を多く用い、八識に至らない「有・無」の論で終わり、心の奧の「業」や「非有非無」を理解したくても理解しようがなかった、ことがわかります。当然です。

さて、以前のブログで
九識‐その4 埋もれたダイヤモンド「九識(仏)」と書きましたが
http://www.webrush.net/rufu/p_20090629020937558876

この 埋もれたダイヤモンド「九識(仏)」も、実は我々の命の奧に「具(そな)わっている」が正しい表現です。「有る」と言う論では修行の必要がなく、とうの昔に全世界の人間が成仏しきっているはずです。もちろん「無い」わけでもありません。
「実際に具わっている」事をお姿で明確にお示し下さったのが日蓮大聖人様であり、末法(釈迦滅後2000年以降)に於いて初めて「仏界」たる御本尊様が表されたのです。
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 
これは、「人界」の中に成道の道があるということで、声聞・縁覚・菩薩といった世界の修行をせずとも成仏が叶うということです。これは、末法の修行である、
日蓮大聖人の御図顕された九識本法の法体である
「御本尊」を信じて、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え行じるこで叶うのです。

尚、かつて創価学会が、「声聞界・縁覚界とは、医者・学者・芸術家のような境涯である」ということを言っていましたが、これは違います。医者・学者・芸術家のような立場であっても、せいぜい天界の中の更に三界での出来事、即ち欲界から色界へ移動しただけなのです。しかも多くは人界所具の天界(十界互具)内での出来事であり、世間的に高い地位や職業が、六道の世界から出でることなどあり得ません。

総本山での七万五千大総会も大成功しました!!
この感激を一人でも多くの友に伝えたいです!

難しい話は私も苦手です。どうか、幸せになりたい人は
「日蓮正宗」の寺院の門をくぐりましょう!そして、難しい話も悩みも
まずは御住職に相談し、信仰を始めて一つ一つ解決してゆきましょう!

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※一般者対象のため個人的見解・比喩表現が多々混じっており、説明不足・表現が適切でない箇所がありますことはご了承ください。

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