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お好み焼 味幸コミュのわたくし的な魚の食べ方

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

 『Motion1金管楽器・A brass instrument 曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

 映像は岡山懸にある、

 『和氣の藤祭り』

 へ出かけた時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。






       わたくし的な魚の食べ方


 芽出度(めでた)い式などに出席すると、多くの場合に尾頭附(をかしらつ)きの魚料理が出て來て坐を豪華に見せてゐるが、筆者はこの魚が丸ごと尾頭附きで出されると箸が止つて仕舞ひ、大袈裟に言へばその場から逃げ出さんばかりに食卓(テエブル)から離れようとする。
 さうしてそれは自宅の食事においても同じだが、幸ひその時は妻のみゆきちやんが丁寧に取分けてくれるので問題はない。


 けれども、さうではなく外で食事をする羽目になつて、しかも運惡く(?)尾頭附きの魚料理でも出ようものなら、親切な周りの人の厄介になつて身を解(ほぐ)してもらふか、それが儘(まま)ならなければ左右の人に譲つて、麥酒(ビイル)を片手に濟ました顏をして野菜類や漬物で食事をしてその場をやり過ごすしか方法がない。
 それはみゆきちやんと旅行に出かけた時も同じなのであるが、これが刺身だと苦も無くといふか大好きだから、パクパクと人の分まで食べようかといふ勢(いきほ)ひになつてしまふ。


 この魚料理に關(くわん)しては食べられない理由が二つあつて、一つには尾頭附きだと口にするのを拒否してしまふのに、どうして刺身だと大丈夫なのかといふと、皿に盛附けられた魚の目が食べようとする筆者をうらめしさうに睨んでゐるやうな氣がするからである。
 誰もがさう思ふ譯ではない事は、箸で魚を器用に、まるで三枚におろしでもするかのやうに、見た目にも惚れぼれするほど綺麗に捌いて仕舞ふ人がゐて、のみならず、目の裏が一番美味しいと言つて啜(すす)、うツ、こんな藝當(げいたう)は筆者には到底(たうてい)無理な話である。


 こんな事をいふのは氣が引けるが、尾頭附きの魚が食べられない理由を分析すれば、屍骸を口にするといふ意識が働くからではないかといふ著地點(ちやくちてん)が考へられるやうに思はれる。
 當然(たうぜん)、魚以外の植物だつて生物には違ひないのだが、動物と植物とでは同じ生命でありながら見た目が大きく違ひ、牛や豚などの家畜を屠殺する次に、同じ包丁で調理するにしても魚介類に比べ、心理的にも植物の方が屠殺するといふ殘虐な行爲(かうゐ)から遠いところにあるといふ逃避の氣持が働くからではないかと思はれる。


 勿論、命を攝取する存在として魚ばかりが生きものではなく、植物だつて同じものであるのは、誰に言はれなくても解つてゐる事であり、生命を食べるといふ食物聯鎖の中で生きて行く以上、避ける事の出來ない生命を維持する爲の絶對條件なのではあるが、やはりだからと云つて一匹を丸ごと出された魚を食べる氣にはなれず、現實(げんじつ)から目を瞑(つぶ)るやうにして刺身に舌鼓を打つてしまふ。


 さうして更に考へれば、どうもこれは魚といふ事よりも、海産物と考へた方が合點が行くやうに思はれる。
 何故なら、食べるのに海藻類は問題ないが、蟹や海老が姿のまま出て來ると顏を背(そむ)けるといふ尾頭附きと同樣の擧(きよ)に出てしまふからである。
 どうも筆者は見た目といふものに食慾が左右され過ぎてゐるやうなのである。
 あの甲殼類のエビ目(もく)に分類され、幾つもの脚を伸ばした彼らの姿かたちを見てゐると、最初に食べた人の勇氣には敬服するが、だからといつて食べようなどとは考へも及ばない。
 まして蟹味噌……。
 あゝ、駄目だ!


 さて、もう一つの理由だが、これは余が幼少の砌(みぎり)、父上が尾頭附きのお魚を召上られた時に、突然、

 「うツ」

 と呻(うめ)かれて、喉に手を當られた。
 何事かと爺や内膳、家老までが父上に躙(にじ)り寄り、

 「上樣、上樣」

 と口々に聲(こゑ)をかけた。


 ……。
 魚の骨が喉に刺さつたのである。
 それも生半可な状態ではなく、かなり苦しんでゐる父親を見て、筆者は魚を食べるといふ事は恐い事で、もし口にするのならその時は細心の注意が必要であると、暗に刷り込まれてしまつたのである。
 この魚を食べる事を拒否するといふ感覺は、さうとでも考へなければ納得出來るものではない。
 「歴史にもしも」はない(大袈裟な)が、もしあの時父親が喉に魚の骨が刺さつていなければ、筆者の食生活はガラリと變はつたものになつてゐたに違ひないのである。


 とここまで書いてみたものの、

 「そんな嗜好が許されるのは、贅澤の極みだ」

 と讀者に言はれさうだが、それは全くその通りで、もしも原始時代に生れてゐようものなら、筆者などは早々に地上から跡形もなく消え去つてゐたに違ひなく、その言葉を甘んじて受ける意外ないのである。


         二〇一四年四月二十八日午後五時 小雨が降り出した店にて

コメント(2)

現代っ子は、お魚は切り身で泳いでいると思っている。
そう聞いて愕然としたことがあります。

さすれば、牛や豚や鶏も切り身で牧場にいると思っていた。
そう主張できはしまいか。
食物連鎖の頂点にいる申し訳なさに苦しむ身として、つい考えてしまったものです。
情けないですが・・・とほほ。

何年か前に、お魚の頭につける帽子が売られているとも知りました。
お魚と目が合うと怖がる子供の為だそうです。
写真で見ると帽子の目は可愛く笑っていて、
これならば子供も怖がらないだろうと、変に納得したものでした。

かく言う私も、お魚を食べるのは苦手です。

子供の頃は、そも食事自体が苦痛だったもので、
食べるのが大変で、かつ子供の口に合わないお魚は鬼門でした。
毎食父が丁寧にほぐしてくれたものを、渋々口に運んだ思い出があります。

大人になってからは、きれいに食べられないことが問題となりました。
そもそもお箸の持ち方が最悪な上、食事の所作自体がなっていない。
母の指導を悉く無視した、ツケの大きさを今更実感しています。

和食の中でも最高難度である、魚を食す所作。
人前で披露する勇気は現在でもございません。

しかして今も脳裏をかすめるのは、亡き母の言葉です。

      「お魚は残さず食べてあげることが供養になる。」

食べるしか、ありますまい。

ゆえに私は、美しく食べるのではなく、
残さず食べることのみを目標にしました。

目指せ、食品廃棄率ゼロ!

ちなみに、お魚をトコトン食べ切りお皿の上に骨以外残さないことを、

      「猫泣かせ」

と、母は呼んでおりました。

ニャンニャン泣き叫ぶ猫の声を想像しながら、
一つ食っては父の為、一つ食っては母の為、全部食うのはお魚の為。

ケンタウロスさんの御一文を読ませて頂き、
思いつくまま書かせて頂きました。
ほほ。






らいら さん。

これは氣がつきませず失禮致しました。

それぞれの食といふ生活の日常を知る事で、

生樣が浮び上がつたて來るやうに思はれます。

それにしても

「猫泣かせ」

には微笑を禁じ得ませんでした。

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