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お好み焼 味幸コミュの一、國立文樂劇場で『花弘會』を鑑賞して序幕(Prologue)

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の,

 『Motion1(和樂器・Japanese instrum)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 映像は和歌山懸にある、

 『熊野速玉大社』

へ出かけた時のものです。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。





     一、國立文樂劇場で『花弘會』を鑑賞して

             序幕(Prologue)


 その日、朝の五時に仕事を終へて九時前に起きてから、早速「水垢離」ならぬ湯を浴びて身體(からだ)を洗つて湯船で身を清めた。
 それは今年の四月十一日にマイミクの『Q-P DANCE』さんから、

 「來る五月十二日(日)に、国立文樂劇場にて花柳流舞踊會の催し」

 へのご招待があり、以前に觀てみたいと洩らした私の言葉を記憶してをられて、それに招待されたので出かける爲だつた。
 しかし、そのお招きには私の身邊にごたごたがあり、

 「御一報を御待ち申し上げます」

 といふ『Q-P DANCE』さんへの返事が遲れて、結局四月二十九日となつてしまつたが、そんな無禮にも拘はらず私を招待する事を快諾されたのである。
 かくて當日(たうじつ)、開演の午前十一時に間に合せるべく十時前に家を出て、江坂から日本橋へと歩をすすめた。


 初めての國立文樂劇場に聊(いささ)か緊張した氣分で扉の中に入ると、十時半だといふのに人が溢れてゐた。
 一階の文樂の資料館で時間を調整する心算(つもり)だつたが、數珠つなぎの觀客は増えるばかりなので、諦めてその人の群れに流されながらおもむろに二階の受附へと向つた。
 そこには幾つかの封筒が竝べられてあり、その中に私の名前があるのを見つけると、主催者の關係の人らしい品の良い著物姿の御婦人に名を告げた。
 封筒から入場卷を出して劇場の受附嬢に手渡し、パンフレツトを受取ると三番の入口から入つて前から七番目の、それも花道の眞下の席に少しばかり眠氣をもよほしながら身を沈めた。


 パンフレツトを見ると表紙には『花弘會』の舞踊公演とあり、この組織は『花柳流』が主催してゐるのだと諒解できる。
 電子辭書で調べてみると、花柳流(はなやぎりう)は日本舞踊の一流派の家元であり、初世は江戸の人で花柳壽輔(1821-1903)が西川流の家元だつた四世西川扇藏生(1797-1845)に學び、一八四九年(嘉永二)に花柳流を創始し、歌舞伎舞踊の振附師として重きをなしたとある。
 現在は高齡ながら四世花柳壽輔(1931-)が総帥として家元を支へてゐるが、幕末の嘉永二に花柳流を創始したといふ事は、開國を迫つた彼理(ペリイ)提督が蒸汽船で浦賀沖に來たのが一八五三年(嘉永六)だから、猿樂に比べればそれほど古い歴史とは思はれない。


 猿樂はそこから鎌倉時代に歌舞(うたまひ)の劇が生れて能と呼ばれ、猿樂本來の滑稽を主體とするものは狂言となつたが、明治期になつてそれらは『能樂』と改められた。
 『能樂』は科白劇であるが、『花柳流』には科白はないやうで、『常磐津・清元・義太夫』あるいは『長唄』や『大和樂』などに振附ける踊りを主體(メイン)としてゐ、それらは廣義には淨瑠璃(じやうるり)の一流派である。


 淨瑠璃は三味線伴奏の語り物音樂の一つであり、劇中人物の科白やその仕草などの演技の描寫(べうしや)をも含む爲に口演する事を「歌ふ」ではなく「語る」と言ふが、その起源は室町末期ごろの『淨瑠璃姫物語』が始まりで、その名もここから生れたものであり、當初は無伴奏で時に琵琶や扇拍子を伴奏としたやうだが、永禄年間(1558–1570)に琉球から三線が渡來してからは飛躍的に成熟したとものの本にはある。


 淨瑠璃系の音曲をまとめて語り物と呼ぶのは既に述べたが、淨瑠璃の流派には、現在『義太夫節・常磐津節・清元節・河東節・一中節・宮薗節・新内節・富本節』の八流派があると言はれてゐる。
 更にその流れを遡行(そかう)すれば、江戸期になつて杉山丹後掾(すぎやまたんごのじよう・生沒年不詳)と薩摩淨雲(1595-1672)により京から江戸へと齎(もたら)されてから多くの流派に分れて、杉山丹後の門下から『半太夫節・河東節』、薩摩淨雲の門下からは『外記節・大薩摩節・一中節・義太夫節』などに分れ、その後『半太夫節』と『外記節』は『河東節』となり、『大薩摩節』は『長唄』に吸収されてしまつてこんにちに到つてゐる。


 その内、義太夫節を除くものを古淨瑠璃と呼ぶさうで、また江戸を中心にして發達した『金平淨瑠璃』と呼ばれるものは後の歌舞伎の荒事に大きな影響を與(あた)へたと言はれてゐる。
 その『義太夫節』は貞享元年(1684)頃に竹本義太夫(1651-1714)が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹てて、近松門左衛門(1653-1724)を迎へる事によつて淨瑠璃は藝術性の高いものとなつた。


 一方で竹本義太夫と同門の都太夫一中(1650-1724)が『一中節』を創始し、そこから宮古路豐後掾(?-1740)により『豐後節』へと改められたが、心中ものの芝居で江戸に心中が横行した爲に風俗が紊亂(ぶんらん)したのを理由に禁止されてしまつた。
 さうして、その弟子の常磐津文字太夫(1709-1781) が『常磐津節』、富士松薩摩掾(1686-1757)が『富士松節』を創始して『豐後節』の傳統は辛くも殘つた。


 『常磐津節』は歌舞伎の伴奏用淨瑠璃として盛んに用ゐられたが、『富士松節』は弟子の鶴賀若狹掾(1717-1786)により『鶴賀節』を立てたものの、その弟子の鶴賀新内(1751-1771)という名人が輩出して『新内節』が創始された。
 『新内節』は歌舞伎にも用ゐられてゐたが、江戸時代後期からは主として門附けを中心として行はれるやうになつた。
 この他に、『豐後節』の宮古路豐後掾の流れを汲む初代宮古路薗八(みやこぢそのはち・生没年不詳)を祖とする『宮薗節』がある。


 このような豐後節系淨瑠璃は江戸中期以降になつて、常磐津文字太夫の門弟の富本豐前掾(1716-1764)が一派を立てて『富本節』を稱し、その門下から清元延壽太夫(1777-1825)から『清元節』が生れる。
 この『常磐津・富本・清元』は「豐後三流」と稱されるさうで、常磐津は輕妙さと重厚な部分を合せ持つのが特徴で、優艶さを特色とする富本はそこから分派した繊細な持味を備へる清元の擡頭に押されて衰頽の一途をたどつてしまつたといふ。
 この内の『義太夫節』にのせた操り人形で物語を語る傳統藝能が人形淨瑠璃則ち『文樂』なのである。


 『長唄』の正式名稱は「江戸長唄」といふさうで、江戸時代に歌舞伎の伴奏音樂として發展し、『義太夫節』の語りに對して「歌ひ物」といふさうで、江戸時代に歌舞伎の伴奏音樂として發展して來た。
今囘の上演でも半分に當る十三曲が長唄となつてゐる。


註)今囘の記事を完成させてから掲載しようと思つたけれども一萬字を越えさうなので、三囘に分けて掲載する事にした。
とは言つても二囘分しか完成してゐないのだが……。


註) 敬稱は略させて戴きました。


     二〇一三年五月十九日二十二時四十分店にて




      續きをどうぞ

二、國立文樂劇場で『花弘會』を鑑賞して 第一部
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74013599&comm_id=4671861


コメント(2)

熊野速玉大社、随分昔に行ったきりでしたので、
懐かしい映像がありがたかったです。
ご家族の仲良きお姿が微笑ましいですね。

花柳流の検索から始められ、
猿楽、浄瑠璃と、どんどん調べて行かれる辺り、
ケンタウロスさんらしいと思いました。

学生の時、軽く習った程度なので、
とても楽しく読ませて頂きました。
でも本当に、知らないことばかりです。

伝統芸能について、もう少し学校でも教えるべきだと、
自らの無知を棚上げし、思っております。
田楽はおでんの名前ではなかった、とか。

舞踊は、「都をどり」や「加茂川をどり」とか、
宝塚の舞台位しか観たことがありません。

習っていた友人は何人かおられましたが、
流派に関わらず着物代が大変と聞いてました。
伝統芸能を学ぶ機会はほとんどありませんが、
習うとなると更に遠い世界ですね。

時代の流れゆえ、仕方のないことでしょう。
らいら さん。

學校の授業で教へるべきだといふのは、本當にさうだと思ひます。

せめて最低限の知識ぐらゐは教へてほしいものです。

今囘の事で多少の流れが解つた事は良かつたと思つてゐます。

勿論ほんの緒に就いたばかりなんですが。

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