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現代人にも通用する仏教思想コミュの科学理論の99.9パーセントは、仮説?

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 宗教の話で、科学の話をするのは・・・なんかこう場違いな事だと思われるかもしれませんが、それはまったく違いましてね。宗教とか?哲学とか?科学もね。結局、世界とか?人間とかと探求するものなんです。アプローチが違うだけなんですね。

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 話は変わりますが・・・最近、頭が固くなってきたと思っている方はおられませんか?若い頃は、しょ〜もない妄想に夢中になって、様々なことを考えては挫折し、突拍子もないことを考えては否定されるということを繰り返して、大人になってきた・・・そういう経験というものが邪魔をしてね。
 なんか〜こう・・画一的と言いますか、型にはまったような考え方しかできなくなったと思っておられる方が多かろうと思います。
 そういう誓願もね。50をいくつか過ぎてきますと・・・顕著に表れてくる事があります。自分の灰色の脳みそは、まだまだ柔らかいと信じているんですが・・・(^_^;)


 紹介しようとしている「99.9%は仮説」という書籍は、竹内薫という作家さんが書いた科学啓蒙書みたいな本なんですが・・・http://kaoru.to/・・・この書籍の中に、宗教にとってとても重要な示唆を与える記述がありましてね。ちょっと、紹介してみようと思ったんです。「現代人にも通用する仏教思想」にも通じるものでもありますので、ちょっと語ってみようと思います。(^_^)v

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 人間には、思いこみというものがあります。「思いこみ」というのは何でしょうか?まぁ言えば、これだと信じて疑わない事柄とでも言えばよろしいでしょうし、正しいと信じている事柄とでも言い換えればぴったりくるかもしれません。
 ところが・・・信じていたものが、違う見方をすれば・・全く違ったものが見えてくるのが常なんですね。それは何故か?もともと、正しいものという概念そのものがナンセンスなのか?それとも絶対的真理というものがあるはずだと言えるのか?いや・・・世界は、すべて相対的なものなのか?つまり、人によって立場によって正しく見えても、違う人、違う立場に立てば正しさの基準は異なるのか?

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 ここで、いわゆる「科学的」と呼ばれる意味を考えてみましょう。(^_^)v

 科学の定義は様々に語られるので、一言で表すのは難しいのですが・・・あえて、言うとすれば、科学的といえるのは、「反証が可能なものが科学的」だと言えるんですね。言い換えると・・・科学は、常に反証を受け入れる余地があるものと言える。あるいは、いつでも覆すことができる仮説が元になっている。と、しか言えないと結論できる。
 何故?かと言えば、時代が変われば今まで信じられてきたものが覆って、新しい理論が生まれることを防げないものを内に秘めているのが科学だからですね。
 そういう意味で、哲学は科学と親戚だとも言えますね。同じく、時代が変われば・・・哲学も変わっていくからですね。(^_^)v

 科学の理論は、すべて仮説で出来ていると言えば、いや違うと言う人が出てくるかもしれませんが・・・反証不可能な数学とか原理とは違ってね。科学は、今見えているものが果たして正しいと言えるか?と、問えば・・・解らない。と、答えるしかないんです。

 ほんとですよ。(^_^)v

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 それでは、宗教はどうでしょうか?

 これもある意味、変わらないものだと思っていたことが・・・変わっていく面をもっているとも言えます。西洋においては、エジプト、ギリシャ文明の多神教的な宗教から一神教であるキリスト教やイスラム教になっていますし、東洋においてもインダス文明を起源とする宗教形態から世界宗教にまで発展した仏教のような宗教が生まれました。

 時代によって、その時代に住む人々によって・・・宗教もまた変遷をしてきたと言えるでしょう。

 ただ、宗教は統一的な形態が不可能な性質があります。キリスト教徒とイスラム教徒が、お互いの宗教を寛容な心で認め合い仲良くなる可能性はあっても教義が一緒になることは、可能性がゼロとは言いませんが不可能に近いでしょう。宗教が科学的ではないと呼ばれる所以はそこにあります。
 科学は、客観的な事実が無ければ科学とは呼ばれませんので、世界統一基準ができますが・・・いったん科学的でないと突っぱねられれば、つまり客観的な事実がないと認められれば・・・それは、科学以外の範疇に追い出されてしまいます。

 非常に閉鎖的な面を持っていますが・・・たとへ、いったん科学的でないと見られたとしても、時代が変わり客観的な事実が出てくれば、科学の範疇に再度もどるという性質を持っています。それは、コペルニクスしかりガレリオしかりですね。

 宗教も同じく、たとえばキリスト教的だと認められたことでも何千年もたてば、新たな救世主が現れて・・・今までの常識が覆されることもあり得ることなんですね。

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 それでは、常識とは何でしょうか?

 これもねぇ。人の眼(まなこ)に鱗が張り付いている状態のようなものであってね。その常識という名前の鱗を引っぺがせば、まったく違った世界が見えてくるものなんです。
 端的に申せば・・・常識とは、その時代で生活する上で都合がよい考え方とか思想といっても構わないと思います。常識と外れた生活をすれば、生きにくいでしょ。安寧に暮らそうと思えば、常識から外れない生活をすれば良い。

 ただし、常識=真理?これは・・・違う場合がある。

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 真理の探求!

 これこそが、この世に生きる人間が求めてやまないものだからこそ・・・宗教が様々に発展し、哲学がさまざまな思想を生み出し、科学が進歩してきた原動力なんですね。
 そして、さらに言えば・・・真理は、「相対的」であった。絶対的なものであるはずの「真理」は、人が違い、国が違い、時代が変われば変わっていくものに見えた。

 しかし、人が変わっても、国が変わっても、時代がどんなに変わっても変わらない「真理」があるはずだ。その絶対的な真理とは何か?
 これを探すことができれば・・宗教は違っても、民族や国が違っても・・どんな時代であってもね。地球に住む人間達は、同じ価値観の下で仲良く暮らすことができるはずですね。できないから、戦争が起きたり、人間同士が喧嘩をしたり、与野党に分かれて争ったりする。
 民主主義なんてものは、その最たるものであってね。喧嘩をするから多数決で決め負けたものは大多数の意見に従うという思想が生まれる。たとえ、多数決原理に則っておれば、それが真理でなくても・・いっこうに構わない。正しかろうが、間違っていようが一蓮托生だ。

 しかし、内心の自由は・・・たとへ神様でも認めてくれる人間の性質だ。民主主義とは、まったく相容れませんね。(^_^)v

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 絶対的真理は、はたして存在するのか?

 誓願の結論から先に言いますと・・それは、ある!が、しかし・・この世では絶対に解らない!

 それについて・・・これから何回かに分けて、ちょっと語ってみましょう。(^_^)v

 (続く・・・)
 【空と超ひも理論】
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47097307&comm_id=4273190



 

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