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現代人にも通用する仏教思想コミュの023-般若

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 般若(はんにゃ)と書いたので、あの恐ろしい顔をした般若の面を想像する方がおられるかも知れませんが・・そうではなくて、仏教でいうところの「般若(はんにゃ:パンニャー)」は「智慧(ちえ)」という意味に使われます。有名なお経「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の般若ですね。

 この般若という言葉は、仏教的に非常に重要な言葉です。すこし、語ってみましょう。(^_^)v

 智慧を仏教思想をふまえて考えていくと、どうしても悟りの言葉として二つの言葉が浮かびます。それは、「知性」と「智慧」ですね。知性には、この世的響きがありますが・・智慧には、内在された智慧というくらいに、目には見えない違う場所にあるような気がします。まさに、仏教はこの知性と智慧を明確に分けて考えます。仏教用語に当てはめると「知性=識」「智慧=般若」つまり「識と般若」ですね。
 識の力は、どちらかといえば分析力と言い換えても良いかもしれません。しかし、般若の力は、洞察力とか?直感力に相当するでしょう。洞察力に優れた人は、自分も良く知ることができるし、他の人をも見透すことが出来ます。
 たとえれば、般若は灯籠に輝く灯りです。自分も照らしながら、周りも照らし出す力を持っているんですね。智慧の光・・般若の力は自分も照らし、周りの人も照らす力があるってわけです。

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 【無我と善悪不二】
 仏教は無我を説きます。我見、邪見のものの見方を捨てて迷いの自我を捨てなさい。そして真の空を悟りなさい。そういうことですな。般若の智慧に至るのに無我が重要な位置を占めることが仏教が説くところの真骨頂です。無我の境地になると、ちっぽけな自分を離れて自己を見つめることが出来ると説きます。あるいは、冷静に他の人を見ることが出来ると説くんですな。
 これが般若の智慧の偉大な所であって、高所に立って下界を見るような境地になると説かれます。そうすると、「善悪不二」の境地まで高まるということなんですね。良いとか悪いとか、善とか悪とか超越してしまう境地ですね。識だと、こうはいかないで、良いことは良い、悪いことは悪いと分析的になってしまうんだと説かれます。中観派が唯識派を取り込んだのは、そういう面もあるんですな。

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 【如実知見】
 般若の目で見ることを「如来知見」と呼ぶことがあるそうです。如来の立場で物事を見るということですね。これは、八正道の「正見」です。正しい見方で物事を見る。素直な見方で物事を見る。そういうことになります。人間の見方は、どうしても先入観や偏見でものをみる癖が出来てしまいます。白紙のままで物事を見ることを忘れてしまうんですね。これは仏教的精神。つまり「中道」のものの見方に通じるんです。
 これを識の立場で見ると、なんかコンピューターで計算しているような感じになってしまいますね。
 般若の智慧は、まるで鏡に映したように物事を見る。映された画像をそのまま見る。この般若の智慧を「大円鏡智(だいえんきょうち)」と言うんだそうです。

 「般若心経(はんにゃしんぎょう)」に出てくる。「般若」の二文字には、深い深い意味が込められているんですな。

 (^_^)vhttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42698524&comm_id=4273190

コメント(2)

 阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)というのは、難しい漢字を当てていますが、要するに阿毘達磨(アビダルマ)というのは、要するに法(ここでは、存在を表す。)に対する学問の集大成という意味と言っても良いでしょう。単にアビダルマとカタカナで書いた方がわかりやすいと思います。

 ここで述べられている存在論。つまり、仏教で言うところの人間とはいかなる存在か?

 これを、まぁ長々と述べているわけですが・・・その冊数にも唖然としますが、その研究内容の多さにも唖然とします。これが、後世のインド仏教徒にとっては教科書のようなもので、一度は読まねばならないものだったようです。誓願・・・さすがに、一冊が何千円もするものを沢山買うわけにも行かず・・・解説書だけ図書館で読ませて貰いましたが・・・もの凄い量で、途中で諦めましたね。よって、もっと簡潔にまとめたものしかいまのところ読んでおりません。(^_^;)
 まぁ、お坊さんになるつもりはないので、もっと簡潔にまとめたものは無いかと探していると、結構これがネット上で読めるんですね。個人的意見が入っているので、字義のまま素直には読めませんが・・・結構、役に立ちます。「倶舎論」で検索すると沢山出てきます。

 人間とはどういうものなんでしょうか?前にも述べましたが「五蘊(ごうん)」です。「色受想行識」ですね。この内、身体が「色」で「受想行識」が心であるとも言いました。
 また、「五欲」の発生源として、「五境」があるとも言いました。「色声香味触(しきしょうこうみそく)」。この五境に影響を受けるのが「五根」で「眼耳鼻舌身」です。
 この五根に一つ加えて、「眼耳鼻舌身意」で六根と言います。また、五境に一つ加えて「色声香味触法」と言います。この六根と六境を合わせて「十二処(じゅうにしょ)」と言います。
 またこの十二処で認識する世界として六根の後ろに「識」をつけて「六識」とし、全部で「十八界(じゅうはちかい)」とします。これら、五蘊・十二処・十八界を「一切法(いっさいほう)=すべての存在という意。」とするんですな。

 そして、諸行は無常であり諸法は無我である。と、結論づけていたんです。(^_^)v

 「般若心経」にも「色即是空(しきそくぜくう)」「受想行識、亦復如是(しきじゅそうぎょうしき、やくぶにょぜ)」「五蘊皆空(ごうんかいくう)」。つまり、人間のなんもかんも空ですよ。ってことですな。偉大なる智慧、つまり・・この世の一切合切が「空」だと悟れば、「涅槃」にたどり着けますよ。と、言うことでもあります。般若心経には、「遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃(おんりいっさいけいとうむそう、くぎょうねはん=一切の間違ったものから離れば、涅槃を究めますよ)」と、書いてあります。

 本当でしょうか?

 古代インドのお坊さん達は、素直に、この世の者は一切外が空だ。と、思っていたんですが・・・様々なところから議論をふっかけられてハタと困ったんですな。「そうしたら死んだら、なんもかんも、おしまいなのか?悟って仏になれば、なんもかんもなくなってしまうのか?」この命題は、きつく当時のお坊さん達に迫ります。

 結局、この問題は・・後世の哲学者達の努力で、片付いていくのですが・・・いまでも、「般若心経」を読めば、「あ〜!そうなんだ。死んだらみんななくなってしまうんだ。空なんだ。」と、解釈されることが多いんですな。仏教学者でさえ、仏教は無神論だ。唯物思想だ。と、決めつける先生がおおいんです。困ったものです。(^_^;)

 これは・・・なんとかしなければなりません。インド仏教が、イスラム教徒に攻められて滅んだのは歴史的事実ですが・・・その前に、インド民衆から遠く離れたところで教学論争が起こり、見放されていったというのも事実なんだそうですよ。やはりこの「無我」のところがひっかかっていたんでしょう。もし、チベットや中国、タイやミャンマー・・・そして、日本に輸出されなかったら、滅亡したのかもしれません。

 (^_^)v

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