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山地元治コミュの★ゆかりの地など★

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山地元治関連の史跡などの情報を教えて下さい。

(関連)
誕生地の高知、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争での東北転戦、胡蝶隊、西南戦争、熊本鎮台、大阪鎮台、第六師団、第一師団、日清戦争、終焉の地三田尻(山口県防府市)

など他にも関連するものがあると思いますので教えて下さいわーい(嬉しい顔)

コメント(12)

誰か知っている方がいれば教えて欲しいのですが、山地元治の墓所はいったい何処にあるんでしょうか?
東京掃苔録や関八州名墓誌といった書籍には青山霊園と記されているらしいものの、青山霊園に実際行った人が当地で問い合わせても確認できんかったみたいやね爆弾

うーん、謎やね考えてる顔
書籍に書かれているのであればやはり青山霊園ですかね。

そもそも元治には元彦という息子がいましたがその後の子孫はどうなっているのでしょうか?

謎です。
高知県護国神社にて胡蝶隊奉献の灯籠に山地(忠七)元治の名前を発見!
山地将軍は西南戦争の時、黒川通軌率いる別慟第三旅団参謀長として出征しました。


黒川通軌

(最終階級)
陸軍中将従二位勲一等男爵

西南戦争に出征。
第三、第四師団長などを経て東宮武官長に就任。

石灯籠は大正天皇即位に際し下賜されたもの。

愛媛県西条市小松町の小松高校への道途中にありました。
蒲田梅屋敷事件では容堂公を罵倒した周布政之助や高杉晋作を相手に山地元治と共に活躍した小笠原唯八のお墓です。



小笠原唯八
(牧野郡馬)

土佐藩士、山内容堂の側近。
野根山事件では討伐隊を率い清岡道之助ら二十三士を斬罪にした。

のちに勤王思想に目覚め倒幕運動をはじめる。

戊辰戦争では伊予松山藩を降伏させ彰義隊戦争、東北戦争などで活躍したが会津若松城攻撃において敵弾を受け戦死した。

高知県高知市西久万の山中にありました。
《五十嵐敬之》

父の五十嵐文吉は志士として活躍した人物で武市半平太も師と仰いだ。

敬之は土佐勤王党に加盟し国事に奔走してます。
勤王党弾圧時には文吉と共に同士の釈放運動に加わる。

武市半平太が切腹となると遺骸を新町の自宅まで運んでいます。

その後、戊辰戦争では山地が隊長を務める胡蝶隊に文吉と共に参加、また日清戦争でも58歳の高齢ながら山地元治の旅順攻撃隊に志願している。

墓所は高知県高知市薊野の真宗寺山にあります。
山崎羔三郎は日清戦争の時、清国軍に捕らえられ凄まじい拷問をうけるも「我れ大日本帝国の臣民なり、何ぞ死を畏れんや」と最期まで屈せず遂に処刑された。後に遺骸が発見された時、山地将軍は深くその壮烈に感激し「忠死」の二字を墓標に書し、将士を会して之を祭り、遺骨を庁外の招魂社内に改葬し、一部を郷里に送った。との記述があります。山崎羔三郎の墓は福岡にあるらしいですが、山地将軍が「忠死」と記した墓標もあるのでしょうか?
とある方のブログで青山霊園に山地元治子爵の墓所を訪ねたがすでに別の人の墓所となっており、改葬、もしくは廃棄されたかもしれないとの事ですが…


もはや墓所は存在しないのかもしれません…。

『華族総覧』
とゆう本で山地元治没後の山地家について少し載っていました。

本によると長男の元彦は陸軍大尉の地位だったが元治の没した明治30年に後を追うように亡くなった。


山地家はその後、元忠が継ぎ、敗戦後は清瀬市で天平建装工房を経営した。


とゆう事です。
他にも何か情報がありましたら教えて下さい。
山地元治誕生地周辺

文献によると誕生地は高知市越前町一丁目にある百々越前(築城の名手と名高く高知城築城に当たった人)邸跡の碑の付近であるらしいです。

それを記す碑などはないですが…
<武田秀山>
嘉永6年(1853年)〜明治35年(1902年)

最終階級は陸軍少将

武田秀山は同郷の先輩である山地将軍にひきたてられ陸軍に身をおきました。

常に山地将軍の言動に接し、山地将軍を尊敬してやまず、小山地元治とまで称せられ本人も「その通りだ」と言っていたそうです。

日清戦争に従軍後に陸軍少将となり
明治35年台湾総督府幕僚参謀長として台湾に赴任するが同年に死去されました。

墓所は高知県香南市野市に先祖の香宗我部秀通の墓所と一緒にあります。
背後には顕彰碑も建てられていました。

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