吉村虎太郎
{生没年}
1837年(天保8年)5月22日〜1863年(文久3年)11月8日
{出身}
土佐藩(現:高知県高岡群津野町)
天誅組総裁であり、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太と並び幕末の土佐四天王の一人。
庄屋の長男として生まれる。
間崎哲馬に学問を、武市半平太に剣術をまなび尊皇攘夷思想に傾倒。
1861年(文久元年)武市半平太が土佐勤皇党を結成するとこれに加盟。
1862年(文久2年)寺田屋事件の関連により土佐で禁獄、8ヶ月後に政情が尊皇攘夷へ傾くと釈放となる。
1863年三条実美や真木和泉らの画策により天皇の大和行幸の詔が発せられると吉村は謹慎させられていた中山忠光を大将に戴き京を出立(天誅組)
大和国へ進み五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を斬り討幕の兵を挙げた(天誅組の乱)
だが同年に八月十八日の政変がおこり三条ら尊皇攘夷派の公卿が失脚、大和行幸の詔も偽勅とされ天誅組は孤立した。
討伐のために派遣された諸藩の大軍の攻撃に奮戦するが、中山忠光を逆賊とする詔が下ると募兵した十津川藩士の多くが離脱する。
吉村は壮絶な戦いをしたが味方の誤射により歩行困難となり駕籠に乗せられ運ばれる途中、幕軍に包囲され銃撃により戦死した。
{辞世の句}
吉野山 風に乱るるもみじ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ
明治10年(1877年)
名誉回復
明治24年(1881年)
贈 正四位
天誅組の挙兵は失敗したが、この事件が明治維新の導火線になったと評価されている。