曾我祐準
{生没年}
1844年(天保14年)2月13日〜1935年(昭和10年)11月30日
{出身地}
柳川藩(現:福岡県柳川市)
{最終階級}
陸軍中将 子爵
陸軍反主流派、四将軍の一人。(他の三人は谷干城、鳥尾小弥太、三浦梧楼)
柳川藩士、曾我祐興の次男として生まれる。
元治元年
長崎で洋学を学ぶ。
維新後
海軍御用掛となり
明治2年
箱館戦争には海軍参謀として出征。
明治6年
鎌倉での初の天覧演習で総指揮官を勤める。
明治10年
西南戦争に征討第四旅団長として出征。
その後、陸軍中将まで昇進するが山縣有朋や大山巌ら藩閥主流派に反発し反主流派を形成しており
明治14年の「四将上奏事件」などの結果、陸軍を追われ
明治19年に職を辞した。
明治21年
明宮(後の大正天皇)の御教育主任となる。
枢密顧問官、日本鉄道会社社長など歴任。
明治24年
貴族院議員となり土曜会の中心人物として活躍。
大正3年
シーメンス事件では第一次山本権兵衛内閣打倒に関与した。
大正13年
隠居
昭和10年
熱海の小嵐亭で逝去。