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法華経コミュの解法十界です。。。拝

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「解法十界」について
さて本日はシノギの無い。。。でしょう。。。日中は。。。なので続きを書きます。
導師様の説かれた話なのですが、解り方には十通りの分類が在るってコトらしいです。
有体に書き連ねます。
?.見る   ?.読む   ?.唱える   ?.書く   ?.訊く
?.験す   ?.寝る   ?.考える   ?.顔を洗う ?.眺める

能楽を始めとする習い事には「序・破・離」が在ります。
妙法蓮華経を解ろうとするには、一言では「体読」(タイドク)が在ります。
是等を如何するの?を十界としているとアタシは「是如我聞」したです。

先ずは?.見る のですねぇ。
是はドナタもしている視覚刺激の全てを指してます。
如何様なコトが見るなのかな?と想って見るという似寄漢字を引きますと。。。
「見る・観る・視る・診る・看る」と出てきます。
是等を「見る」と云っているのかな?と解釈しています。
○○を見る・・・存在や現象に五感の刺激感知装置を経由してアタマが発信源に向いて受信装置の「眼」を向けて受信します。
同時に作動しているのが「分析・分類・記録の機能」でございます。
見るは一般用語としての大分類で、観る以降には既に当事者の意思が反映しているのです。

「観る」は、何となくとか?事前にデータが在っての照会とか?で眺めると書いても善い見方です。
「観劇」とかの語彙も在りますとおりに、期待しているモノの某か?が既にあったり、何も期待していないで突然に巡り合ったりの期待心からニュートラル迄の「心持」を指しています。
ところが。。。『ぼんやりとして見る』のがナカナカに出来ないのです。
始終に何かに囚われて見ている、何かに拘泥して色眼鏡で歪曲して見る。。。
(養老孟司さんの「色眼鏡」のタイトルが決定的でしたので、其れ以降は)
(引用させて貰ってます)

『敢えてぼんやりとして見る』から『自ずとぼんやりとして見る』に変わるのは、見事な花や樹木や滝や渓谷や稜線を日輪を恵みに縁って眺める時でしょうかね。
結論は、何も考えない儘に、眺められる自分を常に保つってコトが『解法十界』なのですが、是は「成仏」と同義語なのかな?とアタシは想ってますので、悟る為の方法論と取り敢えずの今は、アタマでは整理しているツモリです。

コメント(10)

?.見る について

さて「見る」とは、最初の言葉であっても実は、視覚能力をはじめ、五感をフル動員しての「モノゴトの捉え方・対処の仕方」を即断即決している、ヒトの営みを司る当たり前だが、凄いコトと云う意味です。
此処で想い浮かぶのが『八正道』の最初の「正見」です。

八正道の最初で、最もムツカシイのが正しく見るってコトだと、アタシは想ってます。
モノゴトの「十如是:本末究竟」が分からないと正しく見えないからですが、是は己の常に立位置を意識して当世娑婆世界を過している方にはムツカシイのです。

が「特定の分野に於いては、先師先哲の残された伝承に縁って察知出来るシステムが在りますので」其の場合では、過去の似寄データを照会して、其の対処法迄をも即座に検索・分類・適用・判断して、行動に移すコトが可能です。
(習い事とは此処だと想います。「序・破・離」とは、指導する側に立ってこそ)
(本当にムツカシサが解ると云うものらしいです)

なので「視る」が次に成ります。
対象物の変化を捉えて観察するコトを云っていまして、時間経過と共に変わる対象物を視つつ、変化速度と変化の過程をデータ収集しているのです。
そして対象を生物世界に移しますと日常茶飯事で起きている、他個体との「諍(イサカ)い」や、個体内で起きている「疾病」などを「診る」ようになります。
更に対象が絞られて「注視していること」を指します。

そして斯様な問題の根拠を更に探ったり、対処療法を駆使する意味で「看る」となります。
医学世界に限らず、アタシのシノギも似寄ですが、必ず何方かの御役には成っているので、其の対価として給金なりをチョボチョボと戴けるってシステムが分業と云うモノです。

「見る」ひとつで赤面する自分が未だに居りますし、「見られている実態」を知っているのか?と問われては、更に赤面するのが、アタシでございます。
「見て迷うよりも、見切って見栄を切れ!」歌舞伎から派生した庶民の過ごし方らしいです。
「持っている」から執着するので、一層のコト「格好付けて使い切る」のが御大尽遊びだったそうです。

現代でも「御大尽」は数多く居られますので、斯様な世界で遊ぶのも経験ですが、アタシには「愉しくない」ので、シノギ延長時間でしか入らない世界です。

徒然なるままに書きました。
見るとは次第に焦点を絞って対象の異変に気付いたら即座に行動してしまう己に成っていれば、先ずは善しってコト。
見られている己をも意識しつつ恥ずかしい行いを戒めれば善しってコト。
を教わった観想を持ってますので、斯様に下手な表記をしました。
(アタマが悪いのを思いますです)
                                   拝
?.読む について

「読む」は「詠む」とも書きます。
黙読(だまって読む)と朗読(声を出して読む)の違いや
精読(前後関係と語彙解読をしつつ読む)と詠読(抑揚を利かせて声を出して読む)の違いが在ります。

対象となるのは、日蓮宗の根本経典『妙法蓮華経』を中心とした「法華三部経」の印刷物や、先師先哲の残された古文書、門跡寺院で保存されている様々な布教の足跡ですが、他の大乗経典も、理化学も哲学も何でも在りが「須らくは方便也」の示現せし姿と見做してのアタシの対象物の定義です。

まぁ。。。手当たり次第に読むのは読んだですねぇ。
御受験に役立つからって理由ダケで、明治の文豪シリーズは一渉りに。。。戦国武将モノや司馬遼太郎センセイは大好きでしたですね。
そして、御他聞に洩れずにアタシも太宰修サンを読んで「俄か刹那主義っぽい風邪」をひいたのです。

身分世界が発生した「何故?」を世界史を宗教史から読む教材が無かったので、イキナリに「プロレタリアートの理想郷」に飛んじゃうから、アタマ整理が付かなかったので、現世否定の「悪しき妄想」を引き摺ったですね。
でも、妙法蓮華経の譬喩品第三を読んで「世間様の有体な姿と個々に繰り返す愚かな行い」を斯様にも見事に言い当てている凄さの前に「吹き飛んじゃった」のを覚えています。
苦界でも人界でも、その場の経験しか知らないのですし、其の生きてきた世界から別世界へと転じる(引っ越す/転職する)為の、出方と出た先の世界を畏れているので、現状の過ごし方にしがみ付いては解決出来ぬ独り善がりな「是」と現実の「非」の挟間にて己への「苦」を招来しているのに気付かずに。。。嘆く。。。
誠に「愚か」とは見事な文字一発表記なのかな?と想ったりします。
愚か。。。「禺」が「心の上に乗っている」心情。。。の表意文字です。
禺とは、広義のサル。。。十二支で云えば「申」。。。の一種類でして、猿を文字表記すると様々に在ります。
「猿」(類人猿),「猱,獼」(アカゲザル),「犹」(オオザルの一種)
「狙」(テナガザル),「猩猩」(オランウータン),「狒狒」(ヒヒ),「癜」(キヌザル),
「然」(オナガザル),「果然」(オナガザル),(サルの別名)等の、霊長類のうちサルと目されるものの全てがその範疇に入る中に「禺」(オナガザル)として在ります。

さて「申」と「人間」の違いは何でしょう?御互いの意思疎通が出来ないので、「申」を見下しがちですが、
此処での使われ方は「猿知恵の猿」の意味で「始終に周囲の危険を察知しつつも樹木の上で奇声を発するケダモノ」となります。

ケダモノは人界にも大勢居られ、自己制御の効かない暴走系が大多数なのじゃあないでしょうか?
アタシも暴走系ですが「申と云う名のモーター」と「制御装置の妙法蓮華経」の存在がアタマで併存しているのに気付きました。

実は知っている筈なのですが、申とは鵜呑み・刷り込みの意味も含んでいます。
其れは一発表記文字の「神」です。
示現し賜える自然現象を「神の御業」と見做すのです。

そして日本人に多いのが、見たコトも無い「西方浄土」と「密教信仰≒汎神合一」と「唯一神教」のごちゃ混ぜに縁って発生して定着している「閻魔思想・地獄思想」の伝統的な刷り込みです。
地獄とは六道輪廻世界と云う刹那も安定しない心情の変化を指していて、どんなコトでも。。。「拘れば地獄・修羅・餓鬼・畜生」。。。
。。。「コトの次第を思索すれば人界・声聞乗・辟支仏乗・菩薩乗・唯一佛乗」。。。
とアタシは見做してます。

読み物は凄く愉しいですね、何時までも自分が読むまで待ってて下さる。

此処を妙法蓮華経に置き換えましょう。

妙法蓮華経は掛け替え無い教えですね。何時までも自分が解るまで読み返せる。

世間を動きも文字や写実媒体を通じて読めますね。
読むとは。。。数字では引き算と割り算が目標を掲げて其処へ向かう為に要るのですし、経営分析は、其れに平均と標準偏差が在れば十分なのです。
読むとは。。。「空気を読む」が昨今で流行ってますが、娑婆を凌ぐのでは誰しもが学んでいるコトですしね。下手が居るから上手も在り得るのです。
正直は何よりも大事と想ってますが、アタシは時として大言妄語も方便足り得ると、歴史著述を読んで想ったです。
自分にはトテモ出来ないので「アタシは導師様の云われたとおりに刹利居士では無い」と想ってます。

?.唱える について

是は勿論、妙法蓮華経を中心とする法華三部経を唱えるコトです。
そして日蓮宗の御作法に従って「御寺では導師様」・「自宅では先達を立てて」アトに続くのですね。
合唱の効用も在りましょうし、御線香の煙に慣れっこになり、正座を小一時間するのが適度な感じでございます。

さて、以前に書きましたが『唱題行』は、『坐禅』と対照的で、心肺機能を高めて呉れて、云わば強引にでも「禅定の疑似体験」をさせて戴ける日蓮大聖人の残された『御作法』でございます。

本当に『南無妙法蓮華経』を三度立て続けに唱えて一呼吸するのを一回として、百回も唱えている間に、下記の様なパターンの幻覚かな???をアタシは感じてます。
(ソンナに自己催眠症候群では無いですよ。実際に身延山久遠寺の結界内では)
(何処でもトリップし易いですし、清澄山や七面山の御来光の場が正に決定的)
(にアタマが「スカーン!」としますです。何も考えない自分が三千大世界の)
(記憶を一点に集めて、御釈迦様の御教示・日蓮大聖人の御法話に傾注しつつ)
(穏やかな慶びを噛み締めているのですねぇ。

?「何かに囚われて、考えている自分の莫迦莫迦しさを感じ、笑いが込み上がる」
?「何かの過去記憶の断片を思い出してくる」
?「何やら唱えている自分を見下ろしているのに気付く」
?「目線を上にあげて、虚空へと次第に昇って行く」
?「雲上はもやが掛っており、蓮の花や見たことも無い花々が咲き誇っている」
?「かなたの先におぼろげながらも三体の光る人物像が見える」
?「御挨拶しようとすると、次第に近付いて来られる」
?「笑顔でおられる様子だが、お声が上手く聴き取れない」
?「ソウコウしているうちに、身体に重力を感じる」
?「フッと、唱えている自分に気付く」

「坐禅」はアタシ如きでもしてましたが、是は『唱題行』よりもキツイと想ってます。
「何も考えるな!」は何もしない儘では辛いのです。
「考えないで起きているのは芸当に近い修行かな?」とも思っちゃうくらいに、坐禅系の宗門様で教えられている教義は、妙法蓮華経を参照したモノが多いのかな?とアタシは鎌倉でほんの少し御勉強したので、
「日蓮宗で善かったな〜w」と想う次第です。               拝
?.書く について

是は、聖典の妙法蓮華経をアタシなりに現代語訳する。。。のでは大間違いに成るので、アタシの噺の根拠に法華金句を思い浮かべながら書くってコトを心してます。
当「電脳世界」は指先の作業で、書き替えも置き換えもハサミ&ノリも効きますので、凄く便利ですね。

で、妙法蓮華経とはじめとする法華三部経を太っ腹にも「無償で掲載」している場所は?と訊ねたら。。。出るは出るは。。。だったのですが、アタシが幼い頃から読ませて戴いている
「平楽寺書店さん」の『真訓両読 妙法蓮華経 並 開結』を素直に全文載せていらっしゃったのは、
「広済寺」様でしたので ttp://www.kosaiji.org/index.htm から有難くハサミ&ノリして、御上人様の載せた時分には表記不可能だった「難字」を改訂しつつ保存してます。

そして与太コメントを付けてアタシなりの読み方でぶっ通したのが440枚回に亘る
「妙法蓮華経をボチボチ通読してみますw」のトピックスです。

今日では「別なる表記も在るかな〜?」と想い始めております。
意味の無い表記の無いのが妙法蓮華経の凄さで、アタシが意味不明の儘に読み飛ばした箇所こそ「カギ」だったりしているのを発見している最中なのです。

当たり前な様で解っていないのが「蓮華」の香りでございます。
実際に聴かれた方は居られましょう。。。但し「開花の刹那」をご覧に成られている御仁は、御宗門のプロ様でも実際に鉢植え等を御趣味に為されていないのでは、ナカナカに見られないモノと想います。

アタシは蓮の花が「ポッ!」と開く様子を。。。ホンの1〜3秒でしょうが。。。其処に「大宇宙の営み」を重ねて観ちゃった感覚に浸りましたです。
たかが「ポッ!」。。。されど「ポッ!」なのです。
周囲に早朝の空気の清涼感と共に、甘き香りが広がって「是が妙なるモノなのかな?」と想う様になってます。

なので(余慶ですが)アタシは「ロータスフラワー・エキス」の香水が大好きでして、実態娑婆世界で御縁を結んだ老若男女様方に対しての御喋りのヒトツとして。。。
「是を付ければ香作用が大いに働いて、ツマラヌ考えや、世間様での諍いの巻き添えを喰らわないで済むかもよw」と勧めてます。

(アタシは元々が斯様な右から左へモノを動かしては娑婆世界のシノギをしてますので)
(相談されれば直ぐに「知っている範囲」を答えます。「勧誘商法」では無いですよw)
(誘導尋問は、電脳世界では文字面、実態娑婆世界では目付きで分かりますので)
(アブナイ投稿の拠り所が分かると参照物の出処進退を十如是に照らし合わせて)
(時には書いたり喋ったりもしますが、概ねの新々佛教系には触らないでいます)

と、余談だらけなのですが、斯様に投稿する自分が好きで書かせて戴いてますです。

?.訊く について

是は電脳世界ではナカナカに出来ないコトで、実態娑婆世界での出逢いの全てを指してます。
皆が完全体では無いが、「一切草木悉有佛性」迄を認める妙法蓮華経ならではの、全面肯定の観想法から申さば、
必ず自分の行いや問いに応える某か?の新たな折り返しが有るのだが、其れに気付か否か?の己の受信装置の程度問題だ、としています。

世間様の殆どは、斯様に想ってます。
変化の方は、常時は刹那刹那で変化為されちゃうので「凄い処」を真似ればよいのね〜wと御気楽気味で居ます。

さて、身延山久遠寺・長栄山本門寺をはじめ、宗門の門跡寺院や、他宗門でも鎌倉時代迄に始まった宗門の施設に於いては「某かの独特の雰囲気」が在りますですね。

主にですが、アタシは御宗門のプロ様への質問は経文読解の仕方を照会する形で「訊いて」ますです。
すると、ニコニコされて「其処が私も修行中の処なのですが。。。」と其れ迄に得られた体感を有体に述べて下さるので、何の飾りも無いのですが。。。凄い経験談を拝聴させて戴いたり。。。なので、有難き次第でございます。

『諸法實相』とは何でしょう?

是に「ワタシの経験から申せば。。。」と即座に答える方は、大智慧者と想います。
精解方法は多岐に亘るそうですが、アタシの分かり始めた処では
「当たり前に観得る現象こそ実態を顕していて、吾を諭しめんとしている」
と想いなさいって矜持と捉えてます。
不快な現象こそ、教えが濃いのですねぇ。

?.験す (ため)すについて

験す。。。何方も為されているのが生きる行為の全般ですが、此処で敢えて「験す」とは、過去記憶にて己の思考回路と身体動作を『妙法蓮華経を読んで、自分の浅識と照会して、スグに行動に移すのを一端留まってみる』コトと指します。

すると「現状の認識が置き換わる」のに気付きます。
困っている方を見掛けると「オンタイム」でも「オフタイム」でも気休めを言いがちなのが「御人好し」ですが、是は喋りたい自分が居るダケで相手の為に成るのか否か?は、観察してみないと大まかな判別の付かないのです。

冷たい様ですが、御釈迦様は、問われれば応える「対機説法」と、解ろうが解るまいが説かれた『妙法蓮華経』を大きく分けてます。

そして日蓮大聖人も広く遍く『国教:妙法蓮華経』の復古を、一身で為さる場合と、個別訪問者からの照会や文通相手への対機説法の場合では、カナリに異なっていたのでしょう。

善く「辻説法では投石などの呵責を受けている図」が残ってますが、当時の僧籍は「御立派な学者・医者・霊能者」でしたので、投石ナンゾで損傷を与えたり、罵声を浴びせる程に大聖人の言葉を分かる方々はアマリ居られずに、騒ぎを起こすコト自体が「治安上での御法度」でしたので、投石では「場合に拠っては致死傷にも成る」ので、実際には僧籍としての自尊心を傷つける程度を意図しての一部の他宗門から云われた檀家の下っ端が「某かの泥団子を投げ付けた」。。。くらいかな?とアタシは想像してます。
大半の方々は、僧籍が無償で仰られるコトには有難い御話が在ると期待して静かに聴いていたモノと想います。

さて、現代人としての自分です。
盛んに他の方々を勧誘する団体さんも在りますが、斯様なドア訪問の場合には、「ウチは日蓮宗ですから御勘弁願います」として穏当に御帰り戴いてます。

そして、最近に大いに改めたのは「自分は刹利居士では無かったのに振舞った報償が来ている」と云う自覚でございます。
シノギと、シノギの延長の「祝言」と、更に延長の「祭礼」で、容易に相談されちゃう。。。のですね。

昔(とは申せども40年前)では、其れなりの作法が町内会や祭礼では有りましたが、現在では知っている方がカナリに減った。

御辞儀や正座や拝礼や御挨拶を教える学校も減った。

先ずは「儒教」・「礼法」を学ばなければねぇ、と想ってます。

極端を書けば「独り善がりなお猿さん」を増殖させちゃった最近の30年なのです。
義務教育機関で、公的サービスと祭礼儀典を教わっていた時分から大きく変わってしまった「瑕疵」(カシ)を思い返します。

ですが「如何するの?」と照会される迄は、放って置きます。
当人は其れで善いと思い込んでいるので、其の当人の常識を儀典の場で糺すのは「恥をかかされた」と云う恨みを買うので、ワザワザに其の場で説くのは「殺生」と想ってます。

イロイロな御仁が居られて娑婆世界は成立してますので、導師の家系を継いでいる迄も無いアタシは、「自分が成仏しちゃうのが第一義だったのよね〜」の、「方便を示現して下さっているモノ」と見直してますです。

?.寝る について

さて「睡眠」です。
此処は「養老孟司」先生に刺激を受けてますので、アタシが死生を彷徨った経験の時に見た夢を「睡眠時でも作動する聴覚・触覚」と「覚醒直前に作動する視覚」の為せるワザと置き換えて、摩訶不思議な夢とは想わぬ様にしています。

「観た?」,「霊的体験をした?」。。。御当人の後付け解釈なので、一種の物語化で辻褄合わせをしているに過ぎず、覚醒時での様々な刺激に対しても大概は受け流しをしており、VIDEOを撮って再生してみると意外なモノが写っているいるのに気付くコトが数多在ります。

人は覚醒時に無意識なのか?過去経験に拠る条件反射なのか知りませんが、無数の判断を行い、動作指示をアタマは司令して、更に外界刺激の変化への対応を計ります。

そんな中で、大事なコトを何故か記憶して「アタマの中に貯め込む」のですね。
膨大な量なのでしょう。
なので「睡眠」に拠って、データ整理を行いつつ、スグに要らなそうなモノは「忘却と云うフィルターを掛けて奥深く仕舞い込む」のではないか?とアタシは想ってます。

記憶と記録はチョイト違うのです。
もっと書けば「DNA」は生命体としての全記録が詰まっている媒体で、同様の形質を持った個体が母体から再生され「両親の形質」を引き継いで今生娑婆世界へ生まれ出でるのですね。
其れに対して外界刺激は物質的なモノや五感を経てアタマへ届いて覚醒時の動揺を誘うモノも在ります。

忘却のシステムを、御釈迦様は「禅定の境涯」で一挙に呼び覚まされて、己の周囲で起こった全ての記録を有難く俯瞰為されたのではないかな?と想像します。

斯様に考えると、アタマの中身をデフラグツールする「小涅槃:睡眠」は大した修行の一環と想います。
アタマを寝たふりにダマス薬物「覚醒剤」は、大脳皮質をはじめ、脳幹機能も麻痺させて、徐々に・確実に壊すので、本当にマズイのです、と御医者様に訊きました。

キッチリと90分の倍数を寝れば。。。って三時半に何しているのでしょう。
明日が思い遣られるのです。

余慶を書いておきます。子供は九時間・大人でも七時間半がベストだそうです。
六時間・四時間半は短いので、アタマに限らず体の代謝回復にも時間が足らないのだそうです。
                                      拝
?.考える について

考える。。。此処が味噌でございます。
「過去記憶」は比較的容易に想い出せますが「過去記録」はナカナカに出て来ないのです。

例えば。。。如何様にして自分は歩き出したのか?のデータ蓄積量の凄さを、何年か前のホンダさんから発表された二足歩行ロボット「アシモ君」に見ます。
足を前に出すと「慣性の法則」と「重心移動」と「足に掛る体重」と「接触先の形状察知」と「足の筋肉調整」をアタマは即時演算して「加減する指令」を出して、其れに「最適具合を肢体は全ての筋肉を動員して姿勢を保つ」のですねぇ。

是が凄いコトなのは、研究者の弛まぬ研究とデータ集積と、坂村健教授の俊足演算OS「Tron」の為せる技でした。

吾身の動作として当たり前と想っているコトは、過去記録を照合して再演算処理しての「凄い賜物」なのです。

五感の全てを使っているのは云うまでも無いのですが、「当たり前」であるコトに何故?を投げ掛けて、其の仕組みや体内システムを探るのが「医学」でもあり、脳内処理の癖から何故を想起するのが「哲学」でもあります。

其の点で佛教、殊に『妙法蓮華経』は、脳内記録が一点に集中して蘇る様子を御釈迦様の「結跏趺坐」と「禅定」を経て、眉間からの発光で『三千大世界』を御弟子様方へ見せた。。。
。。。アタシは自分が斯様にアタマに蓄積している全ての記録を呼び覚ます様。。。
と読み返しています。

なので、考えるには其れなりの「落ち付くポーズ」と「呼吸を整える」条件が要ると想いました。

肢体の安定では?仰向け ?横寝 ?伏せ寝 ?結跏趺坐 ?椅子掛け ?正座の順なのでしょう。
呼吸を整える方法では、先ずは姿勢なのですが、呼吸を整える工夫が要ります。
丹田呼吸法は遠くバラモン教の修行法から在りましたので、是がダントツなのですが、次には。。。が静的には無くって、動的には「一定の声を出す」・「謳う」が在ります。

其処で「南無妙法蓮華経の七文字を三度唱えて一呼吸」の『唱題行』が効くのです。
慣れないウチは、二度で一呼吸になっちゃうのですが、呼吸するコトを考えない迄に唱えるテンポが決まってくると、百回くらいは結構余裕で唱えられます。

斯様に?「静的な呼吸法」 ?「動的な呼吸法」を伴いながら、経典の中身を己の経験と照合するのを「考える」と云います。

様々に記録が出ては消えます。
次第に「何も考えていないのじゃあないの?」のポケー状態が訪れます。
そして「あぁ『一念三千』とは是かな?」の亡羊とした感覚が訪れます。

静的な呼吸法で為すべきなのは「経典の精読」です。
是で過去経験との照合を図るのです。
必ず「引っ掛る御言葉」に出逢いますので、其れを追及して引っ掛かりから理解を始めるのですね。
さて、街中のヨガ教室などでの「瞑想法」に欠けているのは「経典をアタマで読み返す」事前の読経体験と指摘しておきます。
芯に成るモノが無い侭に「瞑想」しても迷ってカラダが躍るダケです。
そして変な想念に頼って「瞑想」すると、其れが心身の深くに記録されてしまいます。
なので「瞑想系統の宗門」では、日常作業全てが修行と規定して、アタマの妄想に拘泥するのを防いでいるのです。
(実態は、市中では非常にムツカシイ、山岳内・結界内での修行法です)

日蓮宗は、唱題行を通じて。。。唱えるコトでの心肺能力の鼓舞。。。ダケでは無く、唱えているウチに次第に拘泥したモノを離れる本当の効果を「公式では無いですが」積極的に奨励しているのです。
此処等辺は御宗門の身近な導師様・御上人様へ訊いてみて下さい。

そうして「無になろうとして考えている自分」を見下ろしている第二の自分を意識し始めます。
是が「考える」行いの結果に顕れる「禅定の境涯」でございます。

と、アタシは感覚的に想ってます。                     拝
?.顔を洗う について

顔を洗う。。。かおをあらう。。。顔とは何でしょう?。。。ツマリはアタマです。

記憶・記録を洗うコトを云っているとアタシは理解したツモリでいます。
コンピュータで申さば「デフラグツールを掛けること」です。
アタマの中の「記録の再割付け」≒「常識の再検証」を行うのです。

是を行い易い場所は、アタシにとっては毎日の仏壇の前と、身延山久遠寺の結界内の至る処と、御宗門代々の先師先哲の継承なされた仏閣の境内でございます。

唱題行を邪魔されないので、容易にアタマにこびり付いたモノを流し去るのが可能です。
(実態は、流し去るのでは無くって持ち方を変える自分を見付け出すのです)
否定が無くなれば、拘りやこびり付きも無くなります。
一切合財が「己を鍛えて下さっているのね〜」と想わば、「嗚呼、有難や〜」に取って代わるのです。

アタシは、幼き頃にしばしば導師様から「顔をキチンと洗ったかね?」と訊かれて「???」でしたが、噴気に満ちていたアタシをご覧になられた時に発せられていたモノと想い出して「是だ〜!」と
(オトナになってから)
慶んだのです。

回向供養の後での酒宴にて、後裔に当たるアタシの兄貴分の修法師様へ
「昔、御先代が仰られていたのはこんなコトだったのでしょうねぇ」
と申し上げましたら、
「そうだね「恥とは何か?」を訊いた時に、親爺が『文字の如し』と応えたのと似ているね」
でした。
其れは
「妙法蓮華経を読み、五感を通じた己の体験を重ね、照会を繰り返して漸くに身体で何かを掴むのだね」
「其れが「耳」で解ったツモリに成る心棒無き「心」が現状を有りの侭に見ない過ちを犯してしまう」
「そして違いを認めない頑強な『我心』の侭に周囲に見苦しき様を見せては、己自身が悩み苦しむ様を『恥』と為す」
「中華文字の凄さらしいですな」
でございます。

顔を洗うとは、妙法蓮華経に登場する様々な問答の進展を己が分かる段階説的に読み、其れとは掛け離れた行動をし始める直前の己を俯瞰し、制御する第二・第三の己が居れば善し、と云うモノらしいのです。

第一の自分とは報身、第二の自分とは法身、第三の自分とは応身です。

生まれながら今迄に過して来た自分が「報身」
正に起こっている事象を俯瞰するのが「法身」
経文照合(自己制御)して最善を為す「応身」

と云うコトらしいです。
何処でそんな作業をするのか?アタマしか無いのかなぁ?とアタシは想ってます。

即断即決を求められた場合には。。。「チョット顔を洗って来ます」。。。と一呼吸置いて、自分の立位置を其の場から一旦離して「報身」→「法身」に変える。
熟慮の時間は無いので、用足し(2〜3分)間に考え付くコトを「最少3種類」は用意する。
そして「法身」→「応身」として課題解決のプレゼンテーションをして、選択権を相談者(上長でも・顧客でも・為政でも・司法でも・家庭でも・国内外でも)に与えて、熟慮を促す。

こんな感じかな?と想ってます。                     拝
?.眺める について

是は「今」を三次元で俯瞰するコトと、「過去」をも三次元で俯瞰するコトの両方を一瞬に行うコトらしいのです。
御釈迦様は何故に「調御丈夫」だったのか?
時間軸を経て、自分に照会しに訪れる方々との再会に当たる「縁起の法」を解って居られたのでしょう。

是の境涯が「眺める」というのかな?がアタシの当て推量です。
今の俯瞰は。。。努力すれば出来そうですが。。。過去を俯瞰するのは。。。アタシにとっては「摩訶不思議世界」ですので、其処等辺は、兄貴分と尊敬する「修法師様の一言アドバイス」に頼ってます。

そして、己独りが御堂に居たり、身延山の結界内で他の参拝者の居られない場所に居ると。。。
 (此処からは。。。アタシの自己催眠なのかな。。。としています)
     『 大小の動植物が此方へ微笑み掛ける 』
     『 中には足元でおねだりするのも居る 』
     『 巨大な御足の傍で獅子が舞っている 』
     『 唱えるアタシを鳥や虫が聴いている 』
     『 アタマの真上から何かが振って来る 』
     『 次第に全身を光彩が包んで昇天する 』
     『 多彩に咲く花の遥か先に大塔を観る 』
     『 諸天善神や大菩薩の音声が聴こえる 』
     『 一斉に唱題行に勤しんでいると観る 』
     『 名付親に誘われて別なる自分と逢う 』
     『 日蓮大聖人からアタマをなでられる 』
     『 御釈迦様・多宝如来を見上げて合掌 』
     『 梵語ながら到達したのを褒められる 』
     『 説かれる内容が解らず終いに涙する 』
     『 御礼に宝塔偈を自ずから唱え始める 』
     『 無意識で唱えている吾に咄嗟に戻る 』       です。  拝

※ 当投稿文書は横ズレしないで読むには、文字表記を「MSゴシック」に設定願います。

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