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おも詩ろ荘コミュの先人たちのお言葉集

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 雑誌や新聞などで読み、感銘を受けて「自分ひとりじめにしておくのはもったいないぞ」と思われた詩人、作家など創作に携わる人たちの言葉がありましたらぜひこちらでご紹介ください。(その際は発言者と出典を明記してくださいませ)

コメント(13)

 本日の神戸新聞、月一回連載のインタビュー記事「文学に魅せられて」から 詩人、金時鐘(キムシジョン)さんの言葉

「俳句の季語は、感性の統制だと思う」

「植民地少年の私を熱烈な皇国少年に作り上げたかつての日本語と、その日本語が醸していた韻律の叙情とは生あるかぎり向き合わねばならない」

「情感は批判を持たない。だから情感をほだす叙情は怖い」
「ケンセイ・タケゾー曰く」


 昔あるひとが、宮本武蔵に
「武道の極意とはなんでしょう?」と尋ねたという。

 宮本武蔵は剣道だけでなく、仏像彫刻、日本画などにもなみたいていではない造詣があったそうで、これを尋ねた人は、
「ミヤモト先生ったら、ゲージュツにもご理解があるし、きっと人生への省察にあふれたブンカジン的なことをおっしゃるわ」
などと思ったに違いないのです。

 先生のお答えは
 「われは武道は日本一と大高慢にて、対手がだれであろうともけっしてひけはとらじとて、死ニグルヒの覚悟が肝要なり」

 詩人、小説家の川上未映子はいきなり「ユリイカ」に作品を持ち込んで、「載せてください、巻頭がいいです!」と言いタレたそうだが、やはり何の世界でもこういう「ダイコーマン」がないとダメで、ひるがえって自分はといえば、グジュグジュグジュ、、、
・「何よりもまず『詩には作者の気持ちが述べられてある』という《迷信》から抜け出そう。気持ちを述べるのは散文の仕事だ。詩は述べない。詩は問いかけ、詩は求める。詩は探索し、詩は発信する。詩は、言葉で組み上げられた、内的宇宙(インナースペース)の探査衛星(チャレンジャー)だ。

・詩に接するのに《解釈》はいらない。頭で詩を理解しようとすることには、何の益もない。すぐれた絵画や音楽や映画に感動しているとき、私たちは《解釈》しているだろうか。大切なのは、解釈ではなくて、心を開いてメッセージを《感じ取る》こと、《共に魂をふるわせる》ことだ。

 入沢康夫
  『詩のレッスン―現代詩100人・21世紀への言葉の冒険』(入沢康夫・三木卓・井坂洋子・平出隆、編著)冒頭から。


 「意味のない詩を書くことによって、ポエジイの純粋は実験される。詩に意味を見ること、それは詩に文学のみを見ることにすぎない」


↑
春山行夫『北園克衛・白のアルバム・序』
                 より




 「僕が詩に対する態度は自由であると言ふ事を許されない。恐らくは詩はそれを決定する事が可能であるに相違ないと言ふことだけは理解されると諸君が考へる事は正しいだらうが僕がそれを決定することは出来ない。僕は其の関係に於て全く自由ではない。僕は其の点では詩に依つて規定される。そして僕が此の点でも文学を軽蔑する自由を持つ事を諸君は正しいとして呉れ給へ」


↑              上田敏雄
『北園克衛・日本に於るシュルレアリストの歴史』
                 より




 「詩を方法によって書く今では、素材の選択は一種の科学的操作となった。君が一匹の蜂そして一本の薔薇に少しでも執着を感じて詩を書くとしたら君は古くさい」


↑     北園克衛『サボテン島』より




 「反応の観念的倒錯が象徴詩の佳什とされた時代を記憶せよ。完全の象徴詩が正当な情緒をのこしたと考えることは誤謬である。それは譬えばひとつの痒覚をのこしたにすぎない。詩は信仰ではない。論理ではない。詩は行為である。行為は行為を拒絶する。夢の影が詩の影に似たのはこの瞬間であった」


↑              瀧口修造
 『瀧口修造の詩的実験所収・詩と実在』
                 より




 「詩と称せられるもの絵画と称せられるものが、ぼくにはあるとき、一口に言って、二つながらこの世界の重力の原則への反抗、また分厚さ、深さへの反逆であるように思われることがある。詩も絵画も透明性と可能性に奉仕する。周知のようにダリの絵には松葉杖がしばしば出てくるが、足枷を外されるということばを、我々はよく口にする。詩も絵画も足枷を外されたとき、はじめて存立し立ちあがることができるものではないだろうか。この足枷の別名は、シュルレアリストによれば、あの一切の可能性への限界の設定者デカルトということになるだろう。ダリもまたデカルトとセザンヌを否定する」


↑              飯島耕一
『ダリあるいは重力の原則への反抗』より






私にとって詩はいのちである。詩はいのちがひらめくところにうまれる。



現代詩文庫「井川博年詩集」より





 むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて実をそこない、実をこのみて風流をわする。
 これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。
 また言ふ。花を愛すべし。実なほ喰ひつべし。
 なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い実在自然の声があろうか。
 自分にも此の頃になって、ようやく、そうしたことが沁沁と思ひあはされるやうになった。齢の効かもしれない。




 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。

 だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

 詩をつくるより田をつくれといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。

 善い詩人は詩をかざらず。
 まことの農夫は田に溺れず。

 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
 なんといはう。実に、田の田である。詩の詩である。




↑              山村暮鳥
『雲(一九二五年イデア書房)・序』より



 
「僕は詩というのはメッセージじゃなくて言葉の存在感だと思っている。目の前にあるコップと同じくらい確実にそこに言葉を存在させたい、しかもそれが美しい言葉でありたいというのが基本的な考えです。なかなかそうもいかなくて、ついメッセージ的なものが入っちゃったりするんですけど、その境界線というのは結構微妙なんじゃないかな」

 谷川俊太郎
  (「夜露死苦現代詩」著者、都築響一との対談より)
さすが、たにかわ(がわじゃないんだよね。最近気付いた)良いこと言うね。


 読者の誕生は『作者の死』をもって贖われなければならない。しかし、たいていのヒトビトはいまだにボオドレエルの作品とはニンゲン・ボオドレエルの破綻のコトであり、ヴァンゴッホの作品はニンゲン・ヴァンゴッホの狂気のコトであり、チャイコフスキの作品はニンゲン・チャイコフスキの倒錯であると言って片づけている。どうやら、つねに最終的にはただ一人の同一の人物・作者の声が、おのれの秘密を告白しているというのが現代のモノガタリ観のようである。しかし、テクストは、唯一の意味のみを発する語の連鎖や、ただひとつの神憑った(つまり作者がまるで神であるかのように)メッセージを放つモノではない。そうではなく、テクストは多次元的な空間であり、ソコでは多様なエクリチュールが睦みあい、またいがみあっている。ソレラのエクリチュールにはいずれも起源・オリジナリティなどない。テクストは無数の発信地から送り届けられる無数の引用の織物である。読者の誕生は『作者の死』をもって贖われなければならない。作者に代わるのは『書き込むヒト』である。彼(彼女)は自分の内面に情念や気分や感情や印象などというモノをもう所有してはい
ない。彼(彼女)のなかにあるモノ、ソレは巨大な辞典であり、彼(彼女)はソコから、いつ終わるともしれないエクリチュールをただひたすら汲みあげるのである。人生とは書物を模倣するコトにほかならない。そして、この書物もまた記号の織物、つまり、失われ無限に延期される模倣にすぎない。


↑   ロラン・バルト『作者の死』より



本の前書きではありますが、気に入ったので載せてみます。


言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである。

たしかに言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。
だが、言葉にも言いようのない、旧友のなつかしさがあるものである。

少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだ、と思った。Hungry Youngman(腹のへった若者たち)はAngry Youngman(怒れる若者たち)にはなれないと知ったのである。
そのかわり私は、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。
だが、同時に言葉は薬でなければならない。さまざまな心の痛手を癒すための薬に。エーニッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」ぐらいの効果はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。

時には、言葉は思い出にすぎない。だが、ときには言葉は世界全部の重さと釣り合うこともあるだろう。そして、そんな言葉こそが「名言」ということになるのである。
学生だった私にとっての、最初の「名言」は、井伏鱒二の
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ
という詩であった。
私はこの詩を口ずさむことによって、私自身のクライシス・モメントを何度のりこえたか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」という言葉は、言わば私の処世訓である。私の思想は、今やさよなら主義とでも言ったもので、それはさまざまの因襲との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維持を唱えるいくつかのの理念に(習慣とその信仰に)さよならを言うことによってのみ、成り立っているようなところさえ、ある。

「去りゆく一切は、比喩にすぎない」とオスワルト・シュペングラーは歴史主義への批判をぶちまけている。たしかに、過ぎ去ってしまった時は比喩、それを支えている言葉もまた実存ではないと言うことができるだろう。

だが、言葉の実存こそ名言の条件なのである。「名言」は、言葉の年齢とは関係ない。それは決して、年老いた言葉を大切にせよということではなく、むしろその逆である。老いた言葉は、言葉の祝祭から遠ざかってゆくが、不逞の新しい言葉には、英雄さながらのような、現実を変革する可能性がはらまれている。
私は、そこに賭けるために詩人になったのである。言葉はいつまでも、一つの母国である。魂の連帯を信じないものたちによっても、言葉によるつながりだけは、どうかして信じられないものだろうか?

本当はいま必要なのは、名言などではない。
むしろ、平凡な一行、一言である。だが、私は古いノートをひっぱり出して、私の「名言」を掘り出し、ここに公表することにした。まさに、ブレヒトの「英雄論」をなぞれば「名言のない時代は不幸だが、名言を必要とする時代は、もっと不幸だ」からである。

そして、今こそ
そんな時代なのである。



寺山修司「青春の名言」
 わたしはある新聞で子どもの詩の選をしていますが、小学一年生でワープロで打った詩を送ってくる例が、去年あたりからあって、わたしは、大げさに言えばドギモを抜かれました。
 子どもの時からワープロをあやつり、パソコンを自在に使い、そしてコンピューターの性能は、彼らが社会人となるころ、どれほどのものになっていることか。いま、ハイ・テクノロジーが、社会の中枢部に有能な管理者として君臨していますが、その権威はますます増大するばかりでしょう。あらゆる質問に対して、答をくれるのは人間ではなくなるかもしれません。
 その一方で、ハイ・テクノロジーは人間の側からの圧(おさ)えのきかないものを、次々に生み出しつづけています。それが、原子力発電所の大事故などに、真直ぐつながっています。それをわたしは憂います。
 新しい時代をこれから生きている子どもたち、若い世代にとっては、きっと新しい疑問が次々に現れてくることでしょう。彼らの新しい生き方、知恵が、地球を破滅とは反対の方向に導くことを期待するばかりです。

       (川崎洋『ひととき詩をどうぞ』〈1990〉より抜粋)


 ちょっと読んでて鳥肌がたった…。さすがというか何というか…やっぱり「恐るべし」川崎洋だ




 発話の主体とは、ものを言う「わたし」、つまり話すという行為をする個人である。言表の主体とは、文のなかで発話されるほうの「わたし」、つまりすべての個人が用いる文法的名称あるいは代名詞である。言いかえると、「わたし」はわたしそのものと同一ではない。 わたしは、個人としての「わたし」と文法上の「わたし」とに分離している。われわれはこのふたつの「わたし」をひとつのモノとして経験しているかもしれないが、ソレは想像上の錯覚にすぎない。ラカンが劇的に断言しているように、「〈象徴界〉はまず最初に、モノの殺害としてあらわれる」。言いかえると、主体は〈現実界〉を否定するコトによってのみ、すなわち自己という生身の現実を「殺害する」コト、つまり生身の自己をコトバによって表現される自己の概念(たとえばナマエや代名詞)と取りかえるコトでのみ、言語の世界へ参入しうる。ソレユエ、ラカンとジジェクにとって、あらゆるコトバは墓石であり、コトバが表象し、ソレの代役をつとめるモノの欠如あるいは死骸を示している。ある程度はこのおかげで、デカルトの「ワレオモウユエニワレアリ」を、ラカンが「わたしはわたしが存在
しない場所で考える、ユエニわたしはわたしが考えていない場所にいる」と大胆に書きかえるコトができる。「ワレオモウ」のわたしは、言表の主体(〈象徴界〉に属する主体)であるのに対し、「ワレアリ」のわたしは、発話の主体(〈現実界〉に属する主体)である。デカルトのコギトをこのように書き直すコトで、ラカンが言わんとしているのは、主体は言語によって取り返しのつかないほどに裂かれ、バラバラにされているというコトなのだ。




 ↑ 青土社現代思想ガイドブック『スラヴォイ・ジジェク』より

 書き手のナマエは忘れてしまいました。すみませんあせあせ(飛び散る汗)。


・勉強  武者小路実篤


勉強
勉強
糞勉強
煮つまつた勉強だけが
奇蹟をうむのだ
鉛を黄金にも
家鴨を白鳥にもするのだ。

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