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おも詩ろ荘コミュの自作を語ろうの部屋

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 こちらは本コミュニティに掲載された作品について作者が、自作に対して語るお部屋といたします。)

 自作の意図したところ、ネタバレのみならず、合評で受けた批評、感想に対して、思ったことなどをどしどしお書きください。
 作品を転載されて、それについて記述するという形式でもかまいません。
(詩-1の投稿作品については。審査期間中の間の当トピへの書き込みは控えてください)

コメント(52)

感想を二ついただいたので、作品で意図したことを書いてみます。

作品全体の内容としては、恋愛→失恋→恋愛と、多くの人が経験するであろう、他者に惹かれ・別れる出来事のある面を切り取った作品です。
しましんさんが書かれたように、ビックバンや星の引力を対人関係に置き換えて表現しようとしました。ただし、最後はビッククランチではなく、手塚の「火の鳥」のように循環するイメージです。

5行の振り分けでは、連なる4行は、起こったことや行動したことを書き、最後の――で挟んだ箇所は、思ったこと(あるいはどこかから聞えてきた声)を表しました。この箇所を第三者的な存在(例えば神の声)にしたほうがよかったのかどうなのかは考え中。

けいきょうさんが書かれたように、もう少し日常の描写を描いて作品世界に入り込ませる技術は、自分でも欲しく思いました。

五行詩にした理由は特にないのですが、それぞれの連だけで成り立つ事が出来るか?を意識して挑戦してみました。いくつかは成功してると思います。

ほんとはね・・・


「蟹と洗濯機」の楽屋裏


私には野望があります。R&Bのような詩を書くこと。歌詞、ということでなく、あの音楽性も含めたエロ切ない感じを詩で表現したいなぁと常々悶々としております。
なもんで、ルウさんから「エロス」の言葉を頂いたときは思わず「得たりブタ」と小躍りしてしまったわけですが、実を申しますと、ルウさんとけいきょうさんの「伊藤比呂美テイスト」とのご指摘は私にとって予想外のチョップでありました。浅学ながら氏の作品を存じておらずググッてみたら…オヨヨヨヨ、けっこうドロドロしているぞ、「産みたい」ってエエエエエ(@_@;)
私としては相手の愛情に確信を持てぬまま体を重ねる関係にグラグラ揺れる女心を描きたかったのだけど「まさぐる」「経血」などの言葉が思いのほか強かったせいで変に生々しさが目立つ結果となってしまいました。う〜む、悔しい。「蟹→満月(大潮)→月経」のベタベタな関連付けもけいきょうさんに拒否感を起こさせる一因になってるやも知れません。反省…。
テクニカルな部分では”」”や”/”の使い方についてご指摘がありましたが、意図の分からなさは何を隠そう私の未熟によるものでございます。改めて読むとあまり効果的に機能してませんね、むむ…。ダメ押しで解説させて頂きますと、

>コインランドリーがあるから」と

「コインランドリーがあるから」だと話し始めが「コ」になりますが、この文の前から会話が続いてるように表現したかったので”「”を抜いてみました。事のついでみたいにさりげなく言う感じで。

>硬い殻の隙間にもぐる/やわい皮膚をまさぐって
>ゆく/
>あなたの手、

あまり間を置かず次々と畳み掛けてゆき「あなたの手」で噛み締めるような感じを狙いました。

 硬い殻の隙間にもぐる やわい皮膚をまさぐってゆく

とか、

 硬い殻の隙間にもぐる
 やわい皮膚をまさぐってゆく
 あなたの手、

だと一字スペースや改行による間がやや長すぎて水の染みこむ速さがうまく表せないなぁと。苦し紛れのスラッシュなのでした。

その他にもyardbirdさんから段落分けについてのご指摘やねむさんから「未熟な読者は端から置いていけ、みたいな距離感」という厳しいご批判等々、勉強になることが多く、参加してほんと良かったなぁと思います。次回、がいつになるか分かりませんが次回またお世話になることがありましたらその時はどうぞ宜しくお願いいたします。
ご静聴ありがとうございました。ペコリ!




>吉兆夢さん

なるほど。
我ながら怖るべき誤読力だと改めておもうのであった、
さらに二つ意見を頂いたので解説を書きます。

吉兆夢さんの書かれた「きみ=・≠あの娘=彼女」に関して、とても丁寧に読んでもらって嬉しい限りです。
狙いとしては、読み手にはある男性の回想のように思わせることを基本としました。ですが、作品全体に込めたイメージは、いろんな男(あるいは他生物)のそれぞれの場面でもあります。書いてる最中は、「俺」を「僕」や「私」にしようかとも考えたのですが、それだとちょっとわかりにくいかと。
それを起承転結の形で繋げてみたのですが、ちょっと安易だったかな。


ねむさんが書かれた「けっこう難しかったです」と思わせないように、わかりやすさを心掛けたのですが・・・。ただし、基本内容としては読んだそのままの作品です。
「あざとさ」については、かなり意識しています。
『リアルな話し言葉を詩にするのはめっちゃむずいで。完全に笑いを目指すんやったら別やけど、共通理解させるのは至難やと思うなあ』となってしまうので、基本的には気取った言葉を使っています。
吉兆夢さん:解説おおきに!

ヒントを元に作品を読むと「あー、なるほど!」と新たに感心させられました。
解説してもらった箇所の 「 を抜いていた点については、「こうかな?」と考えていた通りでしたので意図は読み取れました。 / は「好みの問題になるかな?」と思います。
せっかくなので少しだけ自作について。

けいきょうさんがおっしゃった通り、女性目線での詩作って難しいこともあるけどとても面白くて、ついつい書いてしまいます。変身願望のせいもあるかもしれません。
あとは女性の持つ多面性に惹かれるから。家の顔、会社の顔、昼の顔、夜の顔、友達との顔、女の顔、母の顔、いろんな顔がある。実際に化粧もしてます。男よりもよっぽど複雑であるがゆえに、人間くささを感じるんですよね。人間くささは個人的な詩作のテーマでもあるわけで。

で、今回はちょっとしみったれた女をテーマに書いてみました。
痩せたい痩せたい、けど食ってしまう。結婚に焦ったり、友達を羨んだり、逆に住んでる地域で小さな優越感を持ったり。こういう人がもしいたら、馬鹿だなぁって笑いながらも、なんだか愛しくて仕方ない。てか…………実はモデルとなった友人がいるんですけどね(笑)

しかし説明不足はまたしても反省点です。スカーフのくだりが強すぎて、サイコな感じが出てしまったのも実は本意でなく…ただ羨ましいくてイラッとしただけだし。
「天国にいる」ってのはまったくの嘘です。きのせいですかね。好きなお菓子食ってちょっとテンション上がっちゃっただけみたいな(笑)

みなさまご批評ありがとうございました。
次回はポカマ封印です。
 ねむさん「ゆうこちゃんへ」のご感想いただきありがとうございます。

 ふだんまったく詩を読まない人でも、最後まで飽かずに読むことができる作品は、どんなものだろうか、そういうのを書いてみたいなあと思ったのが、これを書いた動機です。
 で、気がついたのはそういう作品書こうとするとどうしてもポエム臭が入るのね。で、そのポエム臭いところを関西弁でごまかしちゃってるといいますか。そういう意味でも方言というのは便利かもしれない。
 あと、元になってるモチーフやエピソードはほぼ実話です(笑)。コレを完璧フィクションとして作り上げるとなると、それはもう小説の範疇に入るのかもしれないですね。そのあたりの線引きは自分なりにあるのかもしれません。
ホッピーマンについて。





今回もみなさまたからくさんの批評をいただきまして、しかも予想に反して好意的な意見が多くてうれしいです。自信なかったんすよね〜なんか。作風が変わったという指摘をいただきましたがその通り!自分でも感じます(笑)
ぼくは前まで、詩は一種の「美学」だと思いこんでいて、美しいもの美しいものを目指していたわけです(あくまでも個人的には)。しかし、ど〜うにも美しいものが書けない!思いつかない………!!
しかーし!!べつに無理するこたないんだ、自分らしくやりゃいいんだ、と突然開き直っちゃった。酔っ払いオヤジが主人公の詩でもいいじゃん♪と思って作ってみたのがホッピーマンでした。
ホッピーって、安い店だと200円くらいで、おかわり焼酎も200円、ひと瓶で三杯は飲めるから、なんと800円で三杯も飲めちゃうわけ!!安いっ!!ビールに似せてあるってトコとか、黒ビールに似せた黒ホッピーも存在するトコとか、なんだか愛らしい。で、そんな安い酒で酔っ払ってる人を見ると(ホッピーは悪酔いしやすいらしい)、アルコールならなんでも飲んじゃうロシア人のような、可笑しみとたくましさを感じてしまうっすね〜。
と言っておきながら、救いも発展もないオチになってしまったのは、ぼくがホッピーを好きじゃないって理由あるからでしょう(笑)てか飲んだことない〜


自分なりにかなり推敲を重ねたつもりですが、推敲を重ねれば重ねるほど、小さくまとまっちゃう癖があるような気がします。展開の意外性などは、これからも大きな課題であると思っとります。
うーむ…………練習としてホッピーマンで連載はじめてみようかな(笑)
やがてほんとに地球を救っちゃうかもしれません!!
 批評を2つ受けてからというルールを廃し、審査が終わった段階で、自作を語ることができるようにいたしました。
 皆様、どんどん語っちゃってくださいませ。(こちらで合評が盛り上がってもいいと思います)
 ここのことが話題にのぼったので、ていうか話題にしたのワタシなわけですが、ちょっとゲロってみます。何をゲロるかというと、当方の個人部屋にも公開しております「増殖お父さん」について…はいそこ、『何を今さら…』とか思わないっ!

  えーっとまあ我ながら珍作だとは思ってまして、これを書いたことによって「自分の書きたいものは詩の形を借りた詩とは異なるものなのじゃないか」という疑問を背負い続けることになったんじゃないかと思ってるのですが、それについてはまた日を改めて述べるといたしましてですね。まずはネタばれからさせていただきます。

 このお父さんが4人に増えるという発想、実はオリジナルなものではないのです。
 ワタシがミクシィの「顔」として使ってるかねてつ親父、これは「啓蒙かまぼこ新聞」と題し、鬼才中島らもがその昔カネテツデリカフーズの広告に登場させていたキャラクターなのです。で、そのかまぼこ新聞はこの親父とかねてっちゃんのシュールな漫画とらものエッセイで構成されていました。
 で、その漫画は途中からマネージャーで演劇同士のわかぎえふ嬢が描くことになるのですが、その中に、前週分身の術を使った父ちゃん(無職)が、週が明けても元に戻れずてっちゃんをひたすら困らせるというネタがあったのです。

 あぁぁ、言うてしもうた、墓場まで持って行こうと思っていたに……

 初めて読んだときに「いける、これで一編書ける!」と思ったわけではなくてですね。(これ最初に読んだのは学生時代)たしかあれは風呂上がりだったと覚えてるんですけど「父ちゃん4人くらいに増えたら女子高生の子供とか嫌がるやろうな…」とホントふと思ったんですよね。で、まあ書いて、調子こいて「爆発」「スケルトン」と書いて、それかららもの「かまぼこ新聞」の文庫読んだ時に「うぉ、かねてつ親父4人に増えてる!つーか俺パクってる?!」と驚いたといいますか。

 ですから最初に読んだときから、ずーっと印象に残ってたんでしょうね。

 いや、迷うことも多いんですけどね、自分の書いてるものについては。でもなんとなくこの「増殖お父さん」が背骨というかよりどころになってる部分はあるのですよね。

 今のとこ「増殖・爆発・スケルトン・プリン」ときてるのですが、マンネリ上等!でこの困ったお父さんと怒れる洋子ちゃんをもうちょっとペース上げて書いていこうかなあと、洋子ちゃん嫁入りするくらいまで勝手にシリーズ化していこうかなあと、ちょっと本気で思っているのは、今日のこのクソ暑さのせいかもしれません。

 長々と突然のネタばれでした。ご静聴ありがとうございました。

「ダンス」について

詩という言葉が現在のような意味に使われるようになる前は「自由詩」と呼ばれていたそうな。もちろんそれよりずっと前は詩といえば漢詩。

「新体詩抄」は朔太郎が言ったように「行わけ」にしたところに意義があった。
そのあとにソネット(十四行詩)がきて、口語自由詩全盛期には、たしか北原白秋が散文体を行分けにして、なんでも行分けにしたら詩になるのかと民衆詩派を批判した。

口語体で書かれた自由詩は行分けであってもかつて散文詩と呼ばれていましたが、行分けなら行分けという形式が残ります。行分けは連と行間の余白(空白)と上下の余白で構成されている。

前衛詩運動のなかではこれを崩す表記もありました。ダダ詩でも短詩でも立体詩でもいいんだけど。

で、現在でいうところの散文詩はこういう形式を残さない表記に近い形式。

つまるところ、詩にかかわる形式の問題というのはあるわけですね。

一行の長さはどう決定するか、という問題も原稿用紙を前にすると最大の長さは規定されているし、ネット詩であっても無制限というわけではない。用意された既定値の枠内以上に語を重ねることはできないのでそれが長さの限界になってしまいます。

そういうふうに過去に書かれた詩の形式というのはわたしたちが詩を書くうえで表記形式を決定する力をもっていると思ったわけです。

で、この暗黙のうちに決定を働きかける形式性に乗っかって書いているうちは「自由詩」とは言えないんじゃないか、と考えています。

句読点、長音記号、()などの多用、言葉の配置、散文的な叙述の導入、空白の不安定性などはすべて、以上述べてきた形式から自由になるための試みです。

■■■■■

朝から雨が強くてフロントガラスに大粒の雨の滴が揺れたのが(ぷるるん)と震えていたんですよ。言葉にすれば(ぷるるん)です。

今年は沖縄は梅雨明けが早くて、九州でもそろそろだろうなと思いました。その前に大きな雨がきて、雨が過ぎたら夏がくるだろうな、と。雨の音も降り方もはげしいだろう。天候や季節の交代とそれを受け止めるこちらとの関係はアルゼンチンタンゴやキューバのルンバやリオのカーニバルのサンバみたいに思われたのでタイトルはダンスなんですね。

ホテルの上は白く流れていてきっと山の道は視界が悪い。
のは、昔、行ったことのある川沿いのホテルなんですけど、山の下に見えるんです。白く靄がかかって大気を流れている。
山のなかというのはそういう場合濃い霧がでていて視界が悪く運転しづらいんですが、そういうとこを通らないと仕事ができない生活もあるんですね。

不機嫌な傘

とかは見ていた風景ではなく、雨が続いていることからの想像ですね。不機嫌そうに傘を開くひと、不機嫌そうに傘をさしたひとが歩くさま、電車の窓をキョロキョロ見ているひとや本を開いたまま憂鬱な気分で座っているひとなどなど、たくさんの個人。
で、彼らはそれぞれに外へでて、自分が向かうべき方へ向かっていくので、想像の視線を向けているこちらからは遠く見えなくなってしまうのです。絵画の遠近法でいうところの消失点の向こうにですね。ただ、そういう方々はこちらから見えなくなったとしても消えてしまったわけではないんですね。当たり前ですが。

その顔や肌に日差しがあたったり、草の匂いを嗅いだり、鳥の声が入ったりしてくるだろうな。くらいのことです。

で、そんなこんなをしているうちにこれが夏を迎える過程なんですね。わたしは麦わら帽子をかぶって笑う子どもの健やかさが嫌いです。未来があってキラキラしてるように見えてしまう。でもやっぱり嬉しいわけですね。

最初の(ぷるるん)は雨粒からですが、それ以降は、足音や動きや、雨やひとや予感や記憶やそんなもの(→つぶやきや語り)に対して心がつい揺れ動く、あるいはいっしょに見ている日常が揺れ動く(ぷるるん)なわけです。

こういうものと関係を保ちながらいまを過ごす(→踊る)という程度のことなので、ほらね、意味だけ取り出せばめちゃめちゃありきたりなことなんです。もちろん、意味で書ければ詩なんて必要ないんですが。このあたりは佳貴さんときっちょむさんの方が上手く書いてくださっているんじゃないかと(笑)ただし、言葉遊びではありませんのでその点は申し上げておきます。

■■■■■

研究発表ではないですが、現代詩のなかで分かりにくいと思われる文体、書き方をしている作品にも、現代の自由詩であろうとして励んでおられるんだろうと思いました。まあ、それでもなお分からないものはありますが(笑)

以上長々と持ち札公開といたしました。ありがとうございました。




上位に選んでくれた何人かの方からの寸評と、いるかさんからの血の沸くような批評をいただいたので、自作で意図したことを書きます。できるだけ、書いた当時に考えていたことを書くつもりですが、いくつかの箇所では、自分自身でも「ん?」と感じるところが出てきちゃっとります。それでは行ってらっしゃい。


・「生」についての解説文

題名の「生」は、いるかさんの書かれた「絶対法則」というのが的確な言葉だと思いました。
私自身のイメージでは、少し前に流行った「生物はDNAの乗り物に過ぎない」という見解にあるDNAの部分を生に置き換えて(比喩として)作品を書き始めました。
この「生」というテーマは最終行に掛かっていきます。

一連目・二連目ともに、背景は人間がものを食べた後に、それらが吸収されていく様を表わしていますが、人間以外の生物も含めた内容です。

で、特に一連目のイメージなのですが、ドラゴンボールという漫画の中にピッコロというキャラクターが出てきます。皆さんご存知の事として話を進めますが、このピッコロがナメック星でフリーザとの戦いに向う直前、ネイルというナメック星人と同化してパワーアップをします。この同化について、メインの人格はピッコロなのですが、ネイルの人格も少し残っている描写が出てきます。これが一連目の前半部分の内容になっています。

今までに私が食べた生物たちの記憶自体が、私の中に吸収されていると考えたらどうだろう?

一連目の3〜5行目までは、いるかさんが書かれた通り。

6行目は、読み返してみると、ちょいとイメージを飛ばしすぎていると感じるのですが、「肉を食べるのは反対!」だの「鯨を獲るな!」だのいう意見を主張する人たちへの皮肉を含んでいます。自分が食べたものたちの記憶も吸収しているとすれば、何は食ってよくて何は駄目なんて言ってるのが馬鹿らしく思えませんか? といった内容。

7行目。さらに、もしも自分が食べられる側になったときに、そういった執着心は捨てられますか?

8行目は韻を踏んでいきなりカテドラルという単語が出てきますが、これもイメージは繋がりがあって、食べることへの批判→罪・祈り→カテドラル(大聖堂)。で、9行目の「祈り」は三連目に繋がる。


・二連目につづく

二連目は、食ったものが実際の血肉となる様を描いています。

7行目、「昨日の俺の表層が死んでいく」は、動物は特に眠っている間に 身体を作り変えています。
表層から垢として旧い自分が死んでいく。

8行目は、先の韻を踏みながら、食べて取り込んだ生物たちの記憶が取り込まれることを意図しています。
「昨日の俺の表情」の「俺」というのは「己」という意味ではないわけです(ここはちょいと改良の余地がありますが)。

「すべてくいもの すべてくわれもの 〜」については、一連目の初めから二連目の最後を使って言葉を逆転させていますが、これは眠りにつこうとする主体が、眠りの中でさまざまな吸収をした後に起きる様を表わしています。とはいえ、主体が眠っているわけではありません。

この作品の全体を通したイメージは、書き手以外には掴みようがないのですが、一・二連目は眠りの中で巻き起こっている様を描いているものの、主体自体は起きて生物をモグモグと食べているイメージで作品を綴っています。食べている主体が、こういったことを考えていようと考えていなかろうと関係ないという感じです。なので、いるかさんの「絶対法則」という言葉は痺れた。

というわけで、モグモグと食べ終わった主体が三連目の「いただきました おいしゅう〜」という感謝をする。一連目最終行の祈りはここに繋がっています。


三連目3・4行目、「私が死んでも これまでに〜」。
この作品を読み返しながら解説を書いていて、「ん?」と悩んでしまった箇所です。書いた当時は何らかの意図があったとは思うのですが、今の私には、ここだけが作品全体にはまらない。唐突に、なにかかっこいいことが言いたくなっただけの印象を受ける。少々強引にイメージを繋げるとするなら、カテドラルあたりの言葉から、祈り→罪→3・4行目(悟り?)と紡いだのか?

最終二行は「絶対法則」のことを指しています。
これは、弱肉強食の強者や、生存競争での生き残ったものという限定した意味ではなく、糧を食って命を繋ぎ続けようとする行為、すなわち「生」に対して「おまえは生きのこる」を宛てています。

作品解説については以上です。


 複雑にからみあっている。自分のなかでは女人への愛と全人類への愛とは複雑にからみあっている。そんな自分が書くのだからソレが如実にモロに詩に出ている。
 自分は。独りの女人を愛するように全人類を愛す。全人類を愛するように独りの女人を愛す。


 『愛は愛するに足るか?』でツネラレタのは、独りの女人か?、全人類か?、独りの女人がエピメテウスにツネラレタのか?、全人類が放射能をツネッタのか?


 そのドチラも、ドチラもである。


 ちょっとだけ種明かし。






震災以降東北にまつわる話題がネットでもマスコミでも取り上げられていますよね。残念なことに、そして当然のように悲しい内容が多い。

でも私個人として実際にできることというのは限られてる。生活もしなければならないしね。で、個人として生きている限りは、やっぱりうれしいことや楽しいことだってあるんです。なんとも気まずい気分にもなるんですが、やっぱりあるものはあっちゃう。そこのあたりにどうしようもないくらい引き裂かれを感じるんですね。生きてるってことはどうにも過酷だなって思います。




 自作を語るというよりは閑話。


 九分九厘。自分の書くテクストは。その都度その都度対象は変われども。九分九厘。自分の身辺の実在の女人に宛てたモノ。だから。


 雨が吹き込む開いた窓のそば。ボクはキミにキスをした。




 は自分の場合。詩でもなんでもない。ただのレポート。だから自分は。↑を。


 白い漏電を繰り返す蝸牛の開いた心臓のそば。魚の吸取紙は煙草の煙を暗殺した。移設。


 と。べつのしかたにする。のでアル。




 閑話。





 Credo,quia absidum.









 自同律に対してイタズラしてやらうという魂胆がつねに自分にはあるからだろうと思います。




 べ(^^;)




> 諸井さんさん

 君の名は。

「君の名は」



愛は遍在してると理解して良いと思いますよ。異性に対する愛の一面など、とるにたらないものだと思います。そこに愛はあるだろうが、多分に欲望に支配されている。愛の本質とは常に自己を離れた場所にある。なんてね。
> 諸井さん
あの短いタイプだと
何か考えてるように
見えて何も考えてない‥?おもいつきまんま書いたー?


 コレほど核心に近づかれたコトはない。炉心のすぐそばまで迫られた。
 吉兆夢さんの読解はスゴい!。ヤバい!。ヤバスゴい!。ドキドキした!。


 溶融してしまった本心。まるで見透かされたかのようだ。


なんだ、これから神の如き誤読に挑戦するつもりだったのに…


 > しましんさん


 ぜひぜひ〜o(^^)o


 


 『愛は愛するに〜』は

 ミスフィッツというバンド
 の『Astro Zombies』という曲
 と
 金子光晴のある詩集から
 着想を得ました。

 その着想で
 実体験の表装を
 塗りたくった
 わけです


 えーっと、自作についてゲロりたい方、こちらにてぼちぼちとどうぞ。

(たしか感想二つ以上出てからというルールだったようにも思うのですが、流れ見てアバウトな感じで。作者開陳により合評が活性化するのも「それもまたよし!」ってことで)
自作を語る。

詩を書くときに題材が無くて、苦労することはよくあります。そんな時どうすれば良いか?
その答えのひとつが「書を捨て町に出よう」です。
詩においてリアリティを追求する事は大事だと思います。頭で考えただけの情景描写は胡散臭い。例え作り話であっても背後にリアル
が潜んでいるか否かは何となく分かる。無駄とも思われる細部こそがリアリティを支えてるかも知れない。

もう不用になつたストーヴが
白つぽく銹(さ)びてゐる。

中原中也の宿酔はこの一節でリアリティを帯びる。

さて、
今回の「墨堤奇譚」で僕はそれを実践してみました。天気予報では金曜日に雨。咲き誇る桜も週末まで持ちそうにない。詩のヒントさえ見つからないまま、僕は木曜日の朝5時前に家を出ました。

かつての色街である鳩の街商店街を抜けると、眼前を遮る高速道路のすぐ向こう側は隅田川です。左に折れてすぐに小さな野球場が見える。この辺りから街路樹の桜が満開。王少年が白球を追ったかも知れぬ球場を通り過ぎ、言問団子のお店を通り過ぎると墨堤に出ます。川辺の遊歩道に植えられた桜並木は今を盛りに咲き誇ってますが、辺りの空気は不思議と静まりかえっています。左手を見上げると完成間近のスカイツリーの横には朧な半月が浮かんでました。

(ああ、墨堤奇譚は濹東綺譚からとりました。この荷風の私小説の舞台はかつての玉の井、今の東向島。其所が東京大空襲で焼け、その後娼婦たちが糧を得るため居を移したのが鳩の街です)

そこらから、僕の詩情は沸き立つ。


続く。
詩情の囁きを頭蓋に巡らせながら歩を進め、X字歩行者専用橋「さくら橋」の真ん中辺りまで来て、欄干に肘を載せ言問橋を眺めます。

川面には日頃から不思議に感じているカモメが数羽浮かんでいます。優雅に滑空してるやつもいる。何が不思議かと申しますと、河口から随分と離れた浅草までカモメが寄ってくる理由です。江戸の初期はこの辺りも埋め立て前で湾に面していたのでしょうが、数百年も前の話しです。 謎です。それに僕はカモメが好きではない。彼等は白く美しい姿をしていますが、生態は狡猾にして貪欲です。何でも食べる。魚は勿論のこと、動物の死骸も食べる。人の死体でも食べるでしょう。3.11の残骸にカモメが群がっている映像を見たりするとぞっとする。

言問橋は国道六号線を隅田川を渡す大きな橋ですが、かつては「地獄橋」と呼ばれていました。今では耳にすることがない名前です。東京大空襲の時に戦火を逃れるために橋の両岸から多勢の人が押し寄せて、煙や火に巻かれて亡くなったそうです。(参考URL http://www.skoots-place.com/category2/article090114132038187.html)

続く。
さて、僕はさくら橋を台東区側へ渡ります。対岸は運動場で川沿いに浅草方面へ歩を進めると隅田公園にでます。近くに待乳山聖天という寺院があります。大歓喜聖天という夫婦和合の神仏を祀っている。仏教とヒンドゥー教の融合した例でしょう。昔、この辺りの河原は聖天堤と呼ばれ、吉原の遊女が亡くなると、寺院の門前に捨てられるか、この堤に投げらたそうです。金で売られた身には死してさえ戻る故郷は無かった。江戸時代に急速に発展してきた浅草の影の部分です。

このように墨堤という場所は多くの死者の無念が眠る場所なのです。そこに桜が植えられたのは将軍吉宗の時代1717年で、その後は江戸第一の花の名所と呼ばれるようになったそうです。勿論その影には近隣住民の絶え間ない植桜、管理、保護があったのです。だが、その心の奥底にはこの地に眠る死者への弔いの気持ちがあったかも知れない。何代も時を経て、角を落としながら、今も桜を守り続けている。(ソメイヨシノの寿命は60年らしいし、この種は江戸時代末期に作られた交配種である。吉宗の時代は「山桜」であったろうし、墨堤の桜は何度も植樹し直されている)

以上、長くなりましたが拙作「墨堤奇譚」は以上の事実を基に書いたと言われていますが、創作の前に史実の知識があったのか?それとも都合の良い史実だけ後付けしたのか?作者は明言を避けています。逆に言うと知らないのに書けたとしたら、驚愕の超◯力かもしれない。詩人とは職業ではなくシャーマニックな感性を持つ者の呼称であり、そのアンテナは常に外部に向けるべきではないか?
なんちゃって。

了。
 そんなのこだわらなくてもいいやん、と自分でも分かってるのだけれど、やっぱり「ほんま冗談ちがうぞ!ええかげんにせえ!」とも思い続けてるわけです。前に紹介した現代詩詩人協会の理事の方がその会報で書いて、そのHPにも公開していた「詩人とは精神のエリート」「意識レベルの低い人に俗塵を持ち込まれたくない」という文章に対して。
 そして、何の物議を醸すこともなく、この文章を許した、現代詩人協会(詩壇)に属している、詩集も出し、きっとすぐれた詩を書かれているであろう詩人とよばれる方々に。

 また昔から言われてる「詩を作るより田を作れ」という格言にも「なんでやねん」と前々から思ってます。別に田んぼ作りながら詩を書いたってええやんか、そんなお百姓さんの作るお米はきっと旨いぞぉ〜、と。

 『県道素寒ピオーネ』は、この「ええかげんにせえ」と「なんでやねん」という気持ちを特に強く持って書きました。この気持ちについては頑なでありたく、また、いつか認められる作品としてものにしたいという思いを新たにしております。

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