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おも詩ろ荘コミュの現代詩感想の部屋

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 「現代詩鑑賞の部屋」でご紹介した詩の感想はこちらにどしどし書きこんでくださいませ。
 
 

コメント(61)

「受け入れ」→「受け入り」
失礼しました- -;
泣きたいやつ  石原吉郎

感想、と云うよりは共鳴が近いのかも。
自分も丸まって転げ落ちそうに感じてしまう。
「泣いてくれえ」と、呟いて。


なんてな。なんてな。ヽ(。・ω・)ノ電球電球
 さらば、テンポイント 寺山修司

 寺山の競馬詩を紹介させていただきました。
 5〜6年に一度くらいで世間的な彼のブームが訪れる(出版社が作る)ような気がしています。
 たしかに「時代の寵児」ではあったのでしょうが、厳しい見方をすれば「生きてた時代だけが賞味期限」「イタイ前衛芸術家」「ただの山師」「文章以外のところで評価されすぎ」なのではないかとワタシは思うのです。

 己の出生すら「虚構」でコーティングしていた彼よりも、競馬をまるごと受け止めて、その詩やエッセイを(実はツッコミどころがたくさんあります)ロマンチックに書いていた彼の方が、ワタシはよほど好きなのです。

 「競馬が人生の比喩なのではない。
    人生こそが競馬の比喩なのだ」 ―寺山修司―
ココアのひと匙      石川啄木

この作品1911年の作品なんです。
今からおよそ100年前です。
作品の生々しさは現代でもまったく遜色ない。
石川啄木といえば、短歌「東海の小島の磯の・・・・」と「飛行機」しか知りませんでしたが、このような詩もあるとは驚きました。

ガザ地区の問題のことも考えさせられた。
100年前と今と比べて人類は何が進歩したのであろうか?
 連凧 川崎洋

 川崎洋という詩人のものスゴイところは、誰もが「たましい」の部分で分かっているのだけれど言葉にできないことを、子どもにでも分かるような平易なことばで、作品として誰にも伝えてるところだと思うのです。
遅ればせながら「ニューカマーのお部屋」で引用させていただきました、ためいきさんの「太陽の下に」についての感想をばブタ

この作品を初めて読んだのはちょうど詩作を始めたばかりの頃だったんですが、いやぁ…素人目にも衝撃でした。文字と文字、文と文の間に光や空気が凝縮している。文法を崩したり難しい言葉を使ったりせず、こんなに深く印象的な詩がつくれるなんて目とびっくりした記憶があります。

そしてここ最近、改めて読み直してみたのですが、生と死の対立項の置き方とか視線の運び方とか、感動してしまいました。拙いながら、ちょむ吉的分析を以下に↓(長いよ)


第1連
生き物を象った無生物、ただ「在る」ものとしての彫像には光が、古い雑誌には影が射す。これらのゆるやかな動きで物語は始まり、

第2連
室内から丘へ(内→外)、花の集落から樹の葉へ(下→上)、視線は歩行する。
ひしめく「生」の中に匂う「死」。それは「暗い」「恐い」みたいなマイナスイメージのものではなく、同じ光のなかで「生」と等価なものとして在り、

第3連
川→堤防(下→上)に移動。小道には光と影が交互に現れるが、このイメージは第7連1〜2行にも共通しており、作品の主題ともなっている。
生きるための方向を示すための道しるべは、同時に死を背負わされ、

第4連
道→丘→板(屋根?)と近景から遠景に視点を移動させることで墓標が並び立つ様子を喚起させる。その後、大地(遠景)→空の高み(上)→道の先の廃屋(遠景)と、あたかも振り返るような切り替えで次のパートに繋げる。巧いなぁ。
生死を等しくもたらす太陽の暴力を甘じて受ける「無償の大地」、そこに並ぶ「見えない墓標」。最初は草木の影を指してるのかと思ったけど、第2連を考えるとしっくり来ない。字義通り「見えない墓標」は、光の中に透明な姿で存在するものと捉える方が良さそう。

第5連・第6連
第5連は上方に、第6連は下方に視点が固定される。また、前者では生、後者では死をモチーフとしたガジェットが置かれる。このように二つの連は、空(第5連)・海(第6連)の青色を軸としてシンメトリーを描く。
むむむ…この絵画的な美しさには溜め息が出てしまう。第5連はルノワールの「犬を抱く少女」、第6連はダリとかシュルレアリズムの絵が思い浮かんだり…
(続く)
(続き)
第7連
この作品の山場。一つの面から次の面へと反射光が移り変わるように、波打ち際の少女たちから水平線へと光は飽和し、通り過ぎる。二人の少女が暗示する「生」と「死」、この両方を孕む光に照らされることで初めて私たちは此処に存在する。

第8連
午後になって森の沼地は生死の輪郭が和らぐ。呼吸によって紡がれる時は太陽と連動しつつも、より水草に寄り添うものとしてある。私には私の時間が、あなたにはあなたの時間が。けれど獣たちの道はからみあいながら他者の道へと交わる。それは激烈な生死を薄めた「日常」という場所で生きる私たちの姿と重なる。

第9連
マクロな第8連からズームアウト。生物を、無生物を、生を、死を、すべてのものをただ「在るもの」として等しく照らす太陽をフォーカスし作品は終わる。


以上、まとまりない鑑賞文でした。読むたびに発見のある作品って良いなぁブタ

しましんさんの書き込みより
「春の問題」  辻 征夫

この詩を、以前けいきょうさんが取り上げていらしたのを思い出しました。私も好きな詩です。多くの人に愛される詩ってこういうものなのかなと思いました。
「孤独な泳ぎ手」 衣更着 信

「荒地」の同人。戦後、故郷香川県に住み続け、都会的な「荒地」の中では異色の詩風で自然を詠みあげた。

本当に独特な詩を書く。
手紙の中の告白のようであり詩のようであり、難しい言葉を避け平易な言葉に徹している。稚拙のようで内容が深い。意図的なものかどうかは分からぬが、こういう詩は僕にとって新鮮だった。英米文学の詩や小説も多数翻訳したらしい。2004年没。

気がついた点は、
・ 「・・・のです」→「・・・んです」
・ 「、」は多用するが意地でも「。」は使わない
・  一連を三行に区切っているが、少々無理矢理。

最終4連に心打たれました。
「埴輪」

さすが谷川先生ですね。19歳でこんな詩を書くとはすごい。
ぼくが思うに埴輪は土。土は地球の象徴。
人間は土と水ともう一つの何か(宗教的にいうと秘蹟)で進化し文明を獲得し地球に君臨してる。埴輪は人間の作ったものですが、純粋に土であるが故に人間にない霊性を備えているのかもね、とそんなイメージを持ちました。

ともあれ巧い。
 「決心うどん」 清水哲男

 …いいねえ、いいねえ、いいねえ。

 映画監督の井筒さんが「あんまりいい映画を見ると、『あそこは良かった』とか、『あの場面の演出は・・・』とか言うのはどうでもよくなる」てなことを言ってるのを見たことがあるのですが、この詩は自分にとって、まさにそんな感じです。
 
 一行として無駄な行がありません。
 全ての言葉がキレキレに生きています。
 ちっきしょう、こんなの書きたいなあ。
> けいきょうさん
うっふっふ。そうでしょう、そうでしょう!!単に紹介しただけなのに、やけに誇らしいです。
男らしい作品なので余計に憧れます。いいねえ。
 「宝物」 平田俊子

 「決心うどん」に続いてたたみかけられてしまった・・・

 この詩人にとって世界でいちばん美しい言葉は、圧倒的に「コンセルトへボウ」だったのです。
 自分の中に在る、自分だけの言葉を表現することで、その言葉を殺す。だけどその言葉は読むものによって新たな命を与えられる。そんなことを思いました。
 ああ、やっぱりうまいこと言えないなあ・・・

 最終二行の切なさには本当に胸が苦しくなるほどです。
 「本物の恋愛詩」を読むことができました。
オランダ語でコンサートホールの意みたいですけど、そんな言葉の意味は重要じゃないんすよね。
本物の恋愛詩、僕もそう思いました。あっちのコミュの人にも読んでほしいなぁこういうの……。
わーお。「宝物」についての皆さんの感想と、私の感想のギャップが面白いです。
私はこれを恋愛詩として捉えるより、「語ることで鮮やかさを失う思い出」に注目して読んでいました。そのせいでしょうか、作品全体に、それが真実であるにせよ、空々しい印象を受けました。語るに落ちる乙女という感じで。また、その空々しさが作者の意図だとも思いました。
「宝物」
ぼくも最初は切ない失恋の詩かな〜と思ったのですが、読み込むと考えが変わってきました。最終連から推測すると別れて間も無くの気がする。前半の言葉へのロマンティックな想いと後半のバッサリ捨てちゃう潔さが、女性ならではの現実主義あるいは冷酷さを表していて少し怖かったです。
男はこうはいかないんだよね。
 うはは、ワタシの書き込みから刺激的におもしろいことになってて嬉しいです。こういうことをネット上でやりたかったのだ、うむ。
 
 「宝物」。こういう詩を書かれると、男読み手はどうしても女書き手の意図からずんずん離れて読んでしまうのかもしれないですね。
 後半についてはワタシはしましんさんの言われている「バッサリ捨てちゃう潔さ」とは読まずに「反語として歯を食いしばって書いている」と読みました。最終二行などは「女みれん、演歌の世界」と言ってもいいのではないかと。だからやはりこの詩はワタシにとって、喪失の恋愛詩として立ち上がってくるのですねえ。

 いろんな読み方をさせることができる、というのも優れた詩の持つ力なのではないかとあらためて思った次第です。
「海」 アンリ・ミショー

 皆さんのお好きな現代詩とはやや傾向が違い、かつ海外のものなので、少し場違いかとも思いましたが、たまには毛色の違ったものもよいかなと思い。

 アンリ・ミショー、フランスでは、戦後最大の詩人の一人と目されている、とか。詩の場合、翻訳するとどうしてもオリジナルの持っている香気がとんでしまうのではないかと思いますが、ミショーの作品は非常に散文的なので、翻訳によって失われる部分が少ないのではないかと推測しています。(詩を鑑賞できるほどどんな外国語もできないので、あくまで推測に過ぎませんが)

「それはどんな海か?だが、それはわたしが、どうしてもはっきり述べ得ないことなのだ。 」

 この作品もそうですが、彼の作品にはいつもある種のなぞ、不可知なものが含まれています。皆さんはどうお感じになるでしょうか?
「海」アンリ・ミショー

これは詩人の生活・仕事に対しての暢気さが読み取れて、思わず笑ってしまった。ミショーさんは船乗りに海で仕事があるのに驚いている。
凄まじい浮世離れ・・・・・・
それにがっかりした彼は寄航した港で黙って船を後にする。
他の船員からすれば「さっさと居なくなってほっとした」ところだろう。
そんな感想を持ちました。(かつて漁船員だったゆえについ熱くなってしまった)

追記:「偽装」は「艤装」の誤記と思われる。
しましん さん

×偽装→○艤装

うへーしくじりました。早速訂正しました。
「宿酔」(しゅくすい)   中原中也

有名な詩です。
一連目、三連目が同じ内容。
二日酔いで朝の光を浴びて、頭ががんがんする様子なのか?

「千の天使が
   バスケットボールする。」

この一文が他を寄せ付けない光を放つ。
「しゅくすい」の「す」を「さ」に変えたい気もする。

ps. ブルハーツのマーシーが着ていたTシャツにこの詩がプリントしてあったのは、ファンの中ではあまりに有名な話。

ps2. この詩も横書きより縦書きのほうが断然よろしい。
「わすれた」

う〜む。
右脳と左脳を見事に表現している気がする。
(↑昨夜からマイブームなんですけどね)

夢の中では右脳が働いて、通常夢では見ることの無い色とされているものも、世界(宇宙)と直結している右脳では「実は」見えているのかもしれない。
ただ、目覚めて左脳の言語域で色を言葉に置き換えようとすると、とたんにその色の記憶が真っ白な無に消えてゆくような・・・

深い意味を感じてしまった。
 「四千の日と夜」

 けいきょうさん、ほかにも田村隆一の作品を転載されていましたよね?相当お好きなのでしょうか。私にとってもこの作品、田村隆一の作品のなかでも最も好きなものの一つです。久しぶりに読んで詩の「音」に対する感覚の豊かさでは田村隆一、戦後詩の中でも一番ではないかと感じました。(谷川俊太郎がいますが、私、谷川俊太郎はよくわからない)

 「四千の日と夜」なのですが、実はとりたてて好きというわけでもないのです、この作品。何か大上段に振りかぶりすぎてるように思いますし、「言葉の音とインパクト」で勝負しすぎてるように思うのです。なんだかアジテーション演説聞かされてるような感じもしたりですね。同じようなテーマの彼の作品では「帰途」の方がよほど好きです。

 でも紹介させていただいたのはですね、時々むちゃくちゃ読みたくなるんですよ、この詩。この詩人の宣言というか覚悟に触れたくなるときがあるのです。「喝入れてくれ!」というような感じでしょうか、あるいは「ケツバットお願いします!」とでも言いますか。
 「詩を書くものが読み継いでいかねばならない詩」というものがあるならこの詩は、間違いなくその範疇にはいる作品なのではないかと思うのです。

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