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悪魔の映画辞典コミュのトピック版【 の 】

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[ノー1]ノア・の・はこぶね【ノアの箱舟・ノアの方舟】《連語》人類の堕落を怒って神が大洪水を起こしたとき、お告げによって義人ノアがあらかじめつくった船。ノアとその家族、動物はこれによって難を逃れ、絶滅を逃れたという。

 
[ノアの方舟]と言って思い出すのはジョン・ヒューストン監督の『天地創造』であろう。
イタリアの大プロデューサーであるディ・ノ・デ・ラウレンティスが製作した旧約聖書を題材にしたスペクタクルである。

この『天地創造』が初公開されたときは、まだ大作というものが、それだけで魅力を放った時代であった。
2時間52分。その前半の目玉が[ノアの方舟]であり、監督のヒューストンその人がノアを演じた。

いまシネ・コンに建て替えられた南街劇場が、この『天地創造』の絵看板を劇場前面に設置したとき、右肩に向かって方舟の舳先が屋上からはみ出すようにそそり立っていた。
ま、これは大作はいつもそうで、「サンダーボール作戦」では例の人間ロケットを背負ったボンドが飛び出していたよね。

『天地創造』はリヴァイヴァルもあったが、初公開とリヴァイヴァルでは異なるヴァージョンであった。
というのも、初公開では芦田伸介が冒頭の天地創造される7日間のシーンでナレーションを務めていたが、リヴァイヴァルではカットされていたからである。
ナレーションそのものが、本来の映画にはほとんどないのである。

 この『天地創造』は初公開時70ミリ映画として公開されたが、実は70ミリ、シネラマなどの超大型上映システムとして最後に登場したD150方式で撮影された映画だったのだ。

1969年新宿プラザ劇場、阪急プラザ劇場と東西にD150劇場が建築されて初めて、正式の上映がなされたわけである。
もちろん、阪急プラザでのリヴァイヴァルには駆けつけたわけだが、取り立てた違いはなかった。
というのもD150の売り物はシネラマよりもスクリーンの彎曲度が146度とほぼ150度に近いということ。
そして巨大なスクリーンが縫い合わせではなく1枚のリボン・スクリーンであることを特長に謳っていたものなのだ。

これくらいの違いはシロートでは分るはずがない。

とくに阪急プラザ劇場は15年程で閉館してしまったが、梅田の阪急3番街にあった800人ほどのスタジアムスタイルの劇場は真っ赤な座席とフロアも豪華絢爛だったが、劇場の上を阪急電車が通っていたものだから、ときおり「ゴゴゴゴ〜」と響いてくる音と震動が、D150の効果かと思い吃驚したほどだ。

おそらく新宿プラザも36年たつのだからスクリーンの張替えを幾度かは果したと思われるが、1枚型のスクリーンを張り替えただけでD150方式という看板ははずしたはずである。
といっても、肝心の70ミリもシネラマも、そういった超大型映画そのものが消滅したのだから、こういう区別も霧と消えた。

『ゴッドファーザー』や『ジャッカルの日』など東京地区ではシネラマ、D150,70ミリなど劇場で方式が違うと宣伝されていたことも懐かしい。

だが『ゴッドファーザー』も『ジャッカルの日』も本来ビスタサイズやスタンダード・サイズの映画を大作ゆえに画面の天地をカットし、ワイドサイズに無理やりしておいてエンラージ焼付けした偽者であったことは皮肉で、『レッド・サン』も同じまがい物であったことは何回か触れたことがある。
それもまた昔の話。
超大型映画が夢の映画であった時代の最後の光景である。





[ノー2]のう・がき【能書き】?薬などの効能を書き記した文書。?自分の得意とするところなどを自分で宣伝すること。

どこの世の中にも能書きオヤジがいる。
日本映画なら往年のいかがわしい森繁久弥、藤村有弘、トニー谷。
だが最近のオリンピック代表選手は自分を鼓舞しているのか、従来の日本的謙虚さを脱却し、カシアス・クレイや金剛みたいに自信を顕わにする発言が珍しくない。
ここ15年くらいの傾向だと思うが、どうだろうか?

イチローや松井秀喜のようなタイプは昔風の古武士タイプ。さしづめ新庄は能書きオヤジタイプ。
若い選手がプレッシャーに負けまいとして能書きを言うのは決して嫌いではない。

では、いくつぐらいまでなら容認されるのだろうか?
新庄のあのマッチョが維持できている間はまあいいか。
いまの時代、努力した人間には、謙譲の美徳より、そういう壮語する権利が暗黙のうちに与えられているのだろう。




[ノー3]ノエル   クリスマス(仏)。
    
『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授や『華麗なる激情』のローマ王の役で有名なレックス・ハリスンの息子はノエル・ハリスン。

あの『華麗なる賭け』の主題歌で、ミシェル・ルグラン作曲の「風のささやき」は彼の持ち歌である。
「0011ナポレオン・ソロ」の撮影閑期にあてて番組が撮影された「エイプリル・ダンサー」というダイアナ・リッグ主演のアンクルものがあった。

そうすると、ノエル・ハリスンはクリスマス生まれだろう。桐島洋子の息子もクリスマス生まれなのでノエルという。
親に感謝したいのは、吉川ノエルと名づけられなかったことだ。

もっともフランス語の知識が皆無だったことも原因のひとつではある。




[ノー4]のべつ・まくなし【のべつ幕無し】《名・形動》[芝居で幕を引かず、続けて演じ通すことの意から]すこしも休まず立て続けにすること。

あれは何年前であったか、下痢の患者さんを診察していたときのことだった。

「それじゃあ、のべつまくなしにトイレに行くわけですか?」と聞いたら「はぁぁぁ?!」と聞き返された。

そういうことが一度ではなく、どうやら当時25歳あたりを境目にして、「のべつまくなし」は死語となっているようであった。

そうなると現金である。

こういう人には「それじゃあ頻繁にトイレに行かなくちゃならないんですか?」と翻訳して話さねばならない。
訝しく、しかも情けなかったけれど、そういう時代なのでは仕方ない。

これも彼らが書物を読まず、年上のひとと話さず、知らないことがあってもノンシャランとしているからだと、諦めた。しかし、こんな言語状況なら、落語や時代劇はそのうちに壊滅していくであろう。

そのうち、韓国スターが美しい日本語表現をさらっとぶちかましてくるだろう。

「どうですか、ペ・ヨンジュンさん」
「ありがとう存じます。皆様はワタクシの家族です。その感謝の気持ちを昨夜も胸に抱いて夜もすがら、とうとう一睡もできませんでした。ワタクシほど幸せなものはございません」・・・、これで高齢者層を中心に日本語を憂う年代に一挙にファンを獲得することだろう。

すべての亜細亜電影スターよ、売れたいと思ったら、美しい日本語をマスターしたまえ。
カネを持っているのは、この層だよ。



[ノー5]ノンシャラン《形動》のんきで無頓着なようす。あっけらかん。(仏語)

フランス語でありながら、なんと日本語に合致しているのだろうか。
「あっけらかん」というのもなかなか使わないが、ぜひ使ってみたい言葉のひとつである。
上方落語で相手の抜け作ぶりに放つ罵倒の言葉に「このアンケラソー」というのがある。
いったいどんな意味合いから発生したことなのよ?
ノンシャランを決め込んでも、あまりの無知ぶりにヘトヘトになって家に帰ったとたんにバタンキューになってしまう奴らを「シャランキュー」と呼んだことは案外知られていない。
そこを指摘されるとつんくつんくするらしい。      

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