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悪魔の映画辞典コミュのトピック版【 と 】

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[トー1]と・いき【吐息】《名・自サ》落胆したり、心配したり、安心したりしたときに吐く息。

そうすると「桃色吐息」というのは想像もつかないなぁ。
桃色遊戯とか桃色事件という言葉には「戯れにする男女間のできごと」という意味合いがあるから、そこから敷衍していくしかない。
こういう抽象的な一件は、ぜひホーム・ルームで討議してはどうかしら・・・と、『ロマンス』のキム・ハヌル先生は大きくない胸を痛めていた、らしい。



[トー2]と・いた【戸板】人や物を乗せて運ぶためにはずした雨戸の称。
 
むかしアイドル歌手の有名なタレント同士がコトに及び、あろうことか○痙攣のために離れられない状態になり、救急車を要請するもストレッチャーに乗らず、救急隊員が戸板を持ってきて大学病院救急外来に搬送したという「炎のメモリアル」にも匹敵するご苦労様逸話が残っている。
その頃ヒットしていた「イルカに乗った少年」になぞらえて「トイタに乗った少年」やないかと噂されたのじゃそうな。(注:だからといって「イルカに乗った少年」を歌った城みちるや、戸板女子短大に通っていた松本伊代がそうだということではないのでお含みおきくだされや。)



[トー3]トイメン【対面】麻雀で卓を隔てた向かい側のひと。

あまり強くはないが麻雀は好きである。
むかし雀荘に行き、役萬が出ると「おばさん、スーアンコ出たよ」と奥に声をかけると、ハイ、オメデトゥサンとコーラをくれたものだ。
これを役萬コーラと呼ぶ。
いまは4人揃う時代ではなくなったから、雀荘は多くはない。だが、例外は市役所などのトイメンにある雀荘で、冗談抜きで午後5時5分には満卓になってしまう。
昼休みにもやってるんじゃないかと思いたくなるほど慢性習慣化している雰囲気がある。
これが、ボクの住む町だけのことであることを祈る。



[トー4]とう・あん【偸安】[文]先のことを考えず、目先の安楽を貪ること。「−の夢」

何回も書いたことだが、大学受験の前日も訪れた町で映画を見ていた。
もちろん受験当日も夜行までの時間を映画に費やしていた。あれは結局逃避以外の何者でもなかったなぁ。
「偸安の夢」そのもので、危機感を生じせしめぬことがリラックスに繋がるとゴリガンで信じていた。
その結果「答案」は夢まぼろしの如くなり・・・、となるはずだったが、どういうわけか引っかかったのである。
それは、もしいるのなら「映画の神」のちょっとした悪戯心であったのかもしれない、と思う。



[トー5]とう・い【当為】[哲]「あること(存在)・あらざるを得ないこと(=自然必要性)に対して」そうあること。そうすべきこと。

どうしようもないヤツだとは思うが、たったひとつ映画を、映画に関するすべてのものを全身で愛していた。
どんなことでも平らげてみたかった。
それしか誇るものもなかったのである。
しかし、そのことは、自分の胸の中だけで成立することだと理解していたように思う。
そのバランスはそのまま映画というものが置かれていた1970年代初頭のスタンスでもある。
映画を見ることが時代を代弁していたかの時代・・・、故に現代においては二度と再現され得ぬ状況である。



[トー6]とう・かい【韜晦】《名・自サ》?自分の地位、才能、本心などをごまかしかくすこと。

この韜晦には行方や消息をくらませて、身を隠すことの意味もある。
あれはいつのことだったか、大学祭の役員を務めたことがある。
といっても、医学部在学6年間のうち、映画についてはボクがやったのだから、ずっと務めていたことになるのだが。
長い間やってると、実行委員会の主要メンバーが最初は先輩であり、あるときは同級生であり、ずっと下級生であったことになる。
ある年、実行委員会のうちの一人がいなくなった。
会計かなにかを担当していたと思うが、なんか少ないと、皆で真剣に考えて、そいつを思い出すのに随分時間がかかった。
それほど印象の薄いヤツだった。
杜撰な処理でカネが足りなくなったことがどうやら背景にあったようだ。
噂では高校時代の仲間には大学祭実行委員長をやるみたいな説明があったらしい。
『韜晦の顔役』であったわけだ。
いま、彼が医者に成れたのか、どうやって金銭の処理をしたのかどうかは、いまは誰も知らない。
(ここは「俺は用心棒」の語り・左右田一平のムードで読んでいただきたい)




[トー7]とう・ぎょ【闘魚】観賞用熱帯魚。

そのむかし『夜の闘魚』という日本映画もあった。
タイワンキンギョなどの雄は敵と見れば激しく攻撃するという。
新宿歌舞伎町はいまや亜細亜地域のマフィアたちが入り込み、「夜の河」に蝶ならぬ「闘魚」を放ち、ボッタクリ泳法を教えこんでいるらしい。
そんなことは実は映画を見ていれば察しがつく・・・、こういうのを「畳の上の水練」というのである。



[トー8]どう・きん【同衾】《名・自サ》ひとつの夜具にいっしょに寝ること。ともね。

妻妾同衾というインモラルな状態を知ったのは山本薩夫の『華麗なる一族』でのことだ。
その数年前、同じく山本薩夫の『戦争と人間』第1部が鳴り物入りで封切られたとき、高橋悦史に凌辱されてタンカを切る栗原小巻にのみならず、高校生の劣情をいたく刺激したのは映像ではない。
満州伍代(芦田伸介)が本家(滝沢修)の家の女中(水戸光子)の腰を撫でながら言う「お主、近頃兄貴に抱かれていないな」という台詞にであった。
なにしろ国語辞典の「性交」どころか「抱擁」でも鼻息荒くなる高校生だから、こういう情痴にはイチコロだ。
そういえば情痴大学・・・という学校さえあるじゃないか。「情痴」という北欧ポルノ映画さえあった。
「愛撫」でも鼻息はチョッピリ荒くなった、かな、かな、大山加奈。




[トー9]どう・けい【憧憬】《名・自他サ》「憧憬(しょうけい)」の慣用読み。あこがれること。

「憧憬」といって真っ先に思い出されるのは、(この水路の読者でもあられる奈良県桜井市の)友人Mさんが四半世紀前に黙々と発行しつづけていたミニコミ誌である。
これは極めて特殊なものであった。
というのも、すべて映画監督・前田陽一に捧げられたものであったからだ。
そのときは、その凄さに気付かず、好きだなぁと思っただけだが、自分の人生のなかで、ここまで一人の人間にこだわった時間を持ちえたことがあるかと自問すると、否であった。よくもまあ、あのヴァイタリティがあった。
しかし、ボクも上京するまでが、いちばん映画に燃えていた時期であり、地方に在住する映画ファンが中央を見据えて、中央の垂涎の映画状況に対してナニクソと、ペンを走らせていたのではなかったかと思う。
そんなパワーはもうボクにはないし、そうしたくなる映画人も死に絶えた。
なにより、自分自身がくたびれたおっさんになってしまった。その青春の日々に対して憧憬!



[ ト−10]どう・こく【慟哭】《名・自サ》悲しみのあまり、声をあげて激しく泣くこと。

韓国映画はいまや世界一の映画国で、勢いがあるから、どんなジャンルの映画にもパワーがあり、面白い。
そのなかで、所謂2文字タイトルのエロス・ムービーが陸続とリリースされていることを、おそらく賢明な読者のほとんどがご存じないだろう。
「情事」・「寵愛」・「蜜愛」・「欲望」・「情愛」といった塩梅だ。
どことはなしに上品なのが特長で、これも間違ってマダムたちが買ってくれないか・・・、というスケベ根性が介在していることは言うまでもない。




[トー11]とう・さん【嬢さん】「いとさん」の「い」が脱落し、「と」が長音化した語。大阪方言。

こら番頭、もういまは古きよき船場とはちゃうねんで。昔の言い方はすんなってお父さんが言うねん。おとうはんはええし、「お」をつけるんなら、おとうさんもええねん。
そやけど、かんたんに「とうさん」だけは言うてくれるなって。
だからわたいのこともね、「とうさん」ちゅう言い方はせんといてな。
「とうさん」とか「はさん」はもう廃止やで。




[トー12]とう・じ【杜氏】酒をつくる職人。 
 
うまいことできてるなあ。というのは「杜氏」がつくった酒を呑み倒して「当事」者であることを忘れて「蕩児」となった若旦那は芸者と「湯治」に行き、ついには店を倒産させて道端で「陶磁」器を商っている風景は「当時」決して珍しいものではなかった。
こんな、どてカボチャだけに年を越せず「冬至」辺りで夜逃げした・・・。
こんなん出ました、けど。




[トー13]とう・じょ【倒叙】時間の流れと逆に、後の物事から先に順次記述していくこと。

倒叙ものといって、真っ先に思い出すのは、なんといっても『刑事コロンボ』である。
簡単なように見えて、全話すべて開巻と同時に犯人を呈示するというのは、それだけ自信がなければ出来ないことである。
その日本版である『古畑任三郎』もしかりであるが、こちらはいくつかはっきりとつまらない回があった。
最初は『警部補・古畑任三郎』だったが、いつのまにか役職名が消えた。
やはり警部というと警察権力であっても正義の味方である。明智小五郎、蘭光太郎(七色仮面)、佃三郎(火曜サスペンス)などとイメージは同じなのだ。
しかし任三郎とは・・・、やはり三谷幸喜は敬愛する伊東四朗に捧げたのじゃないのか。
古畑ニンッ三郎というわけだ。




[トー14]とう・なす【唐茄子】かぼちゃの別称。

「唐茄子屋政談」は「茶の湯」と並ぶ先代の三遊亭(出っ歯で禿げの)金馬の代表的噺である。
江戸落語と上方落語にはギャグを中心に据えるかどうかで、はっきりと線引きがなされるところがある。
滑稽噺でもどこかに薀蓄の匂いが漂う江戸に較べると、上方は徹底的に笑かすという貪欲な姿勢がある。
そのどちらも捨てがたいし、はまると抜けられなくなる。「唐茄子屋」はそんな中でなかなかのレベルであるが、それでも上方の「次の御用日」や「二番煎じ」などに較べると役人を笑いのめすパワーに遠慮がある。
ここに将軍さまのお膝元である武士の町・江戸と、商人の町・上方の決定的な違いがある。




[トー14]トー・シューズ つま先で立って踊れるようにしたバレー用シューズ。

家庭平和のために玉置浩二コンサートに行った夜、本来の目標であった「イッセー尾形・桃井かおり二人芝居」の券は、ボクの職場の女性に転売した。
彼女は趣味で狂言を習っているような女性で、突然申し出て、いくらイイ席でも1枚だけの切符を買ってくれる女性は、そういるものではない。
30分ずつ4つのオムニバスであった芝居は、2メートル前に二人が立っているという状況で、彼女が言うには「桃井かおりがね、立ったままね、トー・シューズを体揺らしもせんと履きはるんですわ」思えば桃井かおりをはじめて知ったのは浅丘ルリ子とルノー・ヴェルレーが共演した『愛ふたたび』のルリ子の妹役だった。
あれから35年。推定年齢55歳のかおりがそんなことできるなんて、鍛錬以外の何者でもないなぁ。
横っ腹後ろの贅肉を『グレート・スタントマン』のバート・レイノルズのようにつまみながらおじさんはため息をつくのである。



[トー15]ドキュメンタリー 虚構を用いず、そのまま記録するもの。

たしかに映っているものはほんとうにあった映像で演技や作為的に写したものではないが、ドキュメンタリーというものほど作者の意思を反映する映画はない。
この事実に気付くのに、ボクは50年近くかかったのだ。
記録映画は事実を撮影してはいるが、伝えてくるのは作者の意図した真実である。
そして、こういう映画に入場する観客は大抵作者の真実を信じてもいいと心の奥底で思っている観客であるから、成立する。




[トー16]どざえもん【土佐衛門】溺れて死んだひと。水死して膨れた死体が江戸時代の力士成瀬川土佐衛門に似ていたことから。


ほんとうに水死体は膨れ上がるものである。
窒息はもっとも急性の呼吸不全だから、急激な呼吸循環不全に陥った人体は面輪が変わってしまう。
デビッド・リンチの『ツイン・ピークス』のような美しい死体はない。
ジャック・ニコルスンとダイアン・キートンが出た『恋愛適齢期』ではニコルスンが心臓発作でキートンの家で倒れる。そのとき人工呼吸によって九死に一生を得るのだが、このときどういう撮影をしたのか一瞬顔が膨れて見える。
改善により血色も良くなる。
キアヌ・リーブス医師が「バイアグラは服用していないか」と尋ねる。
狭心症に対して治療するときバイアグラそのものが降圧剤として開発中に他の効用(見れば一目瞭然だ)に気がついて薬剤となったものだから、知らずに治療されると血圧がバババ〜ンと低下して、正真正銘のお陀仏になる。
厄介な時代に人間は生きているのである。




[トー17]とち・めん・ぼう【栃麺棒】トチノキの実の粉に、米の粉、小麦粉などを混ぜてそばのようにした食品。すぐに固まってしまうので、伸ばすときには手早くしないといけないことから、とちめん坊と、あわてん坊からの転ともいう。

それでわかった。
いわゆるキーストン・コメディーに『○○の栃麺棒』と名付けられた映画があった。
意味が分らなかったのである。
マイク・セネットから、スターで言うならローレル&ハーディ、ロスコー・アーバックルみたいな綺羅星のごときスターたちがでていた時代のものだ。
小津映画の「突貫小僧」こと青木富夫へ対抗したのか、エディ・カンターという役者は音読みで「幹太頑張る」みたいな呼ばれ方をしていたことがある。
そりゃそうだ。むかしの人ならシュアルツェネッガーなんて絶対に喋れない。
さしずめ「豪傑ウド吉」とか言われたことだろう。



[トー18]ドッキング 《名・自サ》ふたつの事項がひとつに結合すること。

ハマちゃん風に言えば「合体」である。
しかし、どこの学校でも会社でもモテるヤツはいるもので、そんなヤツに限ってボディ・ビルなんかやっちゃって、凄いムキムキだったりする。
結婚を前提に考える交際というものが影がうすくなってきていて、それには二つの理由がある。
ひとつには、女性が結婚に頼らなくとも経済的に生きていける時代になったからである。
そしてふたつには、これが最大の理由だが、本来結婚しなくてはできなかった「秘事」がいくらでもできる時代になったからである。
男の経済力や包容力など、美徳のひとつとされたものが、それだけでは結婚生活と引き換えにする重みにはならない。
野村芳太郎監督の『張り込み』の高峰秀子は結婚してはいるが、後妻であり。吝嗇な夫に隷属されたに近い生活だ。しかしそんな彼女のもとに東京で罪を犯して逃げている田村高広が会いにくる。
大木実の刑事は彼女たちの逢瀬に心を痛めながら田村を逮捕し、高峰にいまから帰れば旦那に知られずに元の生活に戻れると諭す。
なんの楽しいこともない生活へ、である。
いま『張り込み』をそのままドラマ化しても共感を得られるはずがない。
高峰のような不幸な人生を強制させるような時代は、いくら崩れようと、現在の女性のおかれる立場の方がよっぽどいい。
ただ、むかしなら鬼のような旦那に従うだけで問題は生じなかったが、現在の女性は自己責任、自己管理を余儀なくされるのである。
どっちが苛酷か、一概には言えない。
閑話休題、もてるヤツの通ったあとには草も生えないようなこともある。
大きな会社などで、目ぼしい女性はすべてドッキングされて、みんな姉妹となっている場合もある。
そんなとき、男性社員が立ち上がって彼をドッキン法違反で訴えたことは表向きにはまだない。




[トー19]トップレス 胸の部分を露出した婦人用水着。

上を着けないのがトップレス。下を穿かないのがボトムレス。
しかるに何にも着けないのを「全スト」と呼ぶのは、ひとえに国語力・英語力の拙劣なるがゆえでありまして・・・、むかしワタスが「変しい、変しい、新子さま」と手紙を読んだ時代となんら変わらないわけです。
このあいだ見たグォン・サンウの『同い年の家庭教師』ではsometimesをソメチメと発音しておった!



[トー20]トトカルチョ スポーツの試合に賭けておこなう賭博。

なんかさぁ、いかにもって感じぃ。
博打にうつつを抜かして借金して家庭崩壊なんでしょ。「父(とと)借る貯(金)」からかな?




[トー21]」とねりこ モクセイ科の落葉高木。

うぉー、星よぅ、伴だ。俺たちが活躍したころ、バットはトネリコの木で作られていたんだぞ!
漫画も馬鹿に出来んわい。
『ゼロ戦レッド』の貝塚ひろし先生の『父の魂』にゃ、そんなことも描かれてたもんじゃい。
昔の漫画は役に立ってたもんじゃのう。




[トー22]どの【殿】《接尾語》他人の指名や役職などにつけて尊敬を表す言葉。「さま」よりはあらたまった言い方で、公式の場面や手紙に多く用いる。

ボクが研修医を務めていた大学病院の診療情報提供書(紹介状)には○○病院○○科○○先生殿と印刷されてあった。
これはどう考えてもおかしいことで、先生様みたいな誤用だと思う。
またご丁寧に○○先生殿御侍史と脇付けを書く医師も沢山いた。ワキツケには机下、足下、尊下などがあるが、すべてこれそのものが謙譲語である。
侍史とは本来貴人の側に仕える書記のことであり、直接この手紙を渡すことははばかれるので書記を通じてお渡ししますの意である。
恥をかいているとわからないまま笑われているなんて、耐えられない。
なまじっかカッコよく使おうとする見栄から出発した恥である。
おビールと同じくらい、こっぱずかしい。




[トー23]どら・ねこ【どら猫】うろつき歩いて食べものなどを盗む、ずうずうしい猫。

アニメの『どら猫大将』はなんといっても声優が素晴らしかった。
谷幹一に三遊亭歌奴、立川談志、田ノ中勇、鈴木やすしの主題歌もごきげんだし、洒落ていた。
『宇宙家族』『恐妻天国』『珍犬ハックル』『早射ちマック』『わんわん保安官』『ヘッケル・ジャッケル』『キャスパー』などアメリカの子供向けアニメの果した功績ははかり知れない。
中国・韓国に嫌われているなら『ドラえもん』を輸出して子供から教育したらどうかと思っていたら、とっくに放送されていて、みんな日本製とは知らされないまま見ているという。
それはODAに3兆円費やしても、まったく感謝されない筋書きにどこか似ている。



[トー24]どろ・がめ【泥亀】「すっぽん」の別称。

「アン真理子のヒット曲“悲しみは駆け足でやってくる”」
「うんうん」
「まあ皆さん、聞いててこんな馬鹿にした曲ありまへんで」
「へぇ、それはどういうこと?」
「明日という字は明るい日と書くのね」
「ええ歌詞やんか」
「もうわしも還暦やぞ。目上のもんに漢字教えてええ気になっとったらあかんぞ」
「そんなこと言うて、怒ってきはったらどうすんねん」
「あやまったらしまいや」
懐かしい人生幸朗・生恵幸子の漫才のさわりである。
ぼやき漫才として最晩年を人気のうちに送ったひとだった。大抵はぼやき倒して、生恵が切れ、
「あほなことばっかり言うてたらあかんぞ、この泥亀!」
と恫喝してやっつける。
この漫才ほどルーティンの楽しさを味わえるものはなかった。
この漫才には必ずお別れの挨拶がついていた。
「わがまま勝手なことばかり申し上げましたが、そんなおもろない漫才聞きとうないわい、というお叱りの声もなく、(なに言うとんねや、このアンケラソウ)皆様のご健康を祈りつつ、本日のぼやき講座予定終了でございます」
ド近眼の人生幸朗に「泥亀」という形容のうまさ!
この味を残す漫才師は東京のあした純子・ひろしくらいかもしれない。




[トー25]とろ・とろ《副・自サ》溶けてねばりのある液体になる様子。

ネーミングの上手さには定評があるのが、昔からピンク映画の業界である。
ロマン・ポルノにも「十三段こんにゃく締め」なんていうのがあって、一度聞けば忘れられない。
それが継承されているのがAV業界だ。傑作なのがあった。「となりのトロトロ」というのである。




[トー26]どろ・みず・かぎょう【泥水稼業】遊女の境遇・社会。

「山吹屋お勝」は「鬼平犯科帖」のなかでもいい話である。2005年2月オン・エアされた吉右衛門主演のスペシャルではもと悪党で捕縛されて罰を与えられるところを鬼平に更生の道を与えられて密偵となった男(吉田栄作)が使命を帯びてある茶屋に出向いたまま行方不明となる。
そこで名前を変えて引き込みに潜入していたお勝が、子どものときから慕いあった仲であったために、出奔したのである。
タイトル・ロールのお勝を床嶋佳子が演じ、おやじたちの紅涙を絞った。
そのなかで、五郎蔵、粂八、伊三次、おまさなど、鬼平の密偵たちが探索にあたり、事実を知る。
いまや悪党の元締めからも狙われることになったふたりの恋がなんとか成就するように心を砕くのである。
「生まれてこのかた、泥水啜って生きてきた俺たちだもの・・・」というのである。
池波正太郎の着眼点は泥のなかに咲くハスの花を思わせる。それがまた、鬼平の一番の魅力である。

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