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原発性アミロイドーシスの根治をコミュの管理人ニャンカイの手前味噌

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私は、自称「書き魔」です。
亡くなった夫のことを、ブログにも書いてきました。
その中から、「いのち輝かそう」という募集原稿に送った原稿を、大変厚かましいのですが、ここに掲載させてください。
闘病の様子などの参考に(ならないと思いますが)あせあせ(飛び散る汗)

          夫の手のぬくもりを忘れない  
 私はブログを書いています。猫、合唱、ミュージカル、パッチワーク、ガーデニングなどの好きなことを気軽に書いていくつもりでした。ところが、2006年の秋のことです。
★体 チョイ悪おやじ (2006年9月13日の抜粋)
夫が「体 チョイ悪おやじ」になってしまいました。1月の人間ドックでとある数値に問題が生じ、札幌の病院に何度か通院したのですが、原因がわかりませんでした。それで、お盆休みに1週間ほど検査入院したのです。
 夫の病気は、カタカナがたくさん並ぶ、いわゆる難病らしいです。さすがにそれがわかった夜は、ネットで病気調べをしてへこみました。でも本人が割りとテヘーッとしているので、私も考え込まない事にしました。
 夫の病気は、自分で努力して改善できる部分がきわめて少なく、対症療法しか無いのが辛いですが、末永く「チョイ悪おやじ」でいられますように。まちがっても「チョウ悪おやじ」や「極悪おやじ」になりませんように、です。★
この日が、夫と私の「アミロイドーシス」との闘いの始まりでした。現代医学では原因不明で治療法も無い、100万人に4人と言われている、きわめて致死率の高い血液の病気です。「アミロイド」という変なたんぱく質が作られて、体のあちこちの細胞にくっ付いてしまい、その機能を低下させて死に至らしめるという、恐ろしい病気です。
夫は診断がついた時点で、腎臓・心臓・腸管への付着が認められ、症状も出ていました。すぐさま医大病院で、データ上は20%の患者の進行が止まったという治療を受けることになりました。治療の翌日のブログです。
★12日以降のスケジュール (2007年1月13日の抜粋)
移植から一夜が明けました。ぐっすり眠るつもりだったのですが、頭が興奮していたのか、何度も目が覚めてしまいました。
 昨日夫が受けた治療の名前は、「自己末梢血幹細胞移植」と言います。自分の血液の中の成分を自分に戻すだけなのですが、病気そのものと、前段階の抗がん剤治療で心臓がひどく弱っているので、かなり危険であるとの衝撃的な数字も示されていました。だから、準備のための様々な処置が施されて待っている間は、とても居心地悪かったです。
 3時頃から、移植が始まりました。移植と言っても、点滴で入れていくだけですから、私も横でずっと見ていました。赤いトロリとした液体が、少しずつ夫の体に入っていきます。医者の「息苦しくありませんか?」の問いに、夫は「別に、何ともありません。」と。 息苦しかったのは私です。ドキドキして、肩で息をしたい程緊張していました。心電図・脈拍・指先の血流を示す機械を見ながら、祈ることしかできませんでした。
 小一時間で終了。医者の「もう大丈夫です。」の言葉に、嬉しさがこみ上げました。もちろん、全快したのでは無いのはわかっているし、これからたぶん、たくさん問題が起こるだろうと思います。でも私には12日以降のスケジュールが存在していなかったのに、今日という日がやってきたのです。★
退院後の2ヶ月間の自宅療養期間は、治療は成功したに違いないと信じて、まるで宝石のような束の間の幸せをを感じていました。その後夫は職場復帰しましたが、残念ながら間も無く病気の進行が認められました。心臓が弱りすぎているため再びの移植は無理とのことで、わずかな望みをかけて、薬による治療が始まりました。のんびりしたいからと、休職を決心した矢先のことです。
★ちょっとキツイ (2007年8月18日の抜粋)
ブログにでも書かないとやってらんない、ちょっとキツイことになっていました。
昨日、休職することになった夫と、職場の机などの片付けに行きました。夜は、去年参加できなかった、地域の夏祭りに行って、ご機嫌良く焼き鳥を食べました。なのに・・・
 お風呂がちょっと長過ぎたのですが、上がってパジャマを着て自分でベッドに横になったとたん、気を失ってしまい、白目をむいてけいれんを起こしてしまいました。私がパニックになってしまい、救急車を呼んで、地元の病院に運ばれました。救急車が来る前に意識は戻ったのですが、それは私にはとてつもない長い時間に感じられました。私はひとまず家に帰ってきましたが、眠れず、朝はご飯も喉を通らずでした。
 倒れる原因は、血圧が低すぎて脳貧血を起こすからで、急にどうこうでもないだろうと、とりあえず運ばれた病院に入院して様子を見ることになりました。★
数日後、胸水がたまっている夫は結局医大病院へ戻り、懸命な対症療法を続けました。11月に入り、ようやく小康状態が保たれるようになったので、地元の病院に移り、外泊を経て退院という明るい道筋が示されました。実際、11月末から12月初めにかけて、2度の外泊をしましたが、それが夫が生きて家に帰った最後になってしまいました。
12月中旬から、夫の容態は目に見えて悪化していきました。でも夫は、全てを受け入れているかのごとく、「自分は寝ていれば良いからどうってことないよ。」と、淡々としていました。逆に日に日に追い詰められて、点滴と安定剤の世話になっていた私を、いつも気遣ってくれました。毎晩病室から帰る時に、夫の横に寝そべって、頭や背中を「良い子、良い子。」と言って撫でてもらうのが、私が1番心なごむ瞬間でした。私の心はいつも病室にあり、昼御飯と夕ご飯を持って病室に出かけ、年賀状を書き、編み物をし、一緒に旅番組やグルメ番組を見て、持ち込んだサマーベッドで昼寝もしました。
夫はどんな状態になっても、口から食べ物を、それも自力で摂ろうとし、又、おしっこの管を入れることは断固拒否しました。初めに病気の説明を受けた時に1度だけ「どうして、こんな病気に?」と言って涙を見せましたが、その後は取り乱したり、自暴自棄になるなんてことは1度も無く、最後まで柔らかい表情と言動を貫きました。
2008年2月11日のことを、後日ブログにはこう書きました。★自分で食べる事にこだわった夫が最後に食べたのは、森永のぶどうゼリーを1さじ。私が食べさせてやりました。午後8時9分、スプーンが入ったままのゼリーは、もうそれ以上減ることはありませんでした。★
でも、夫は生きるつもりだったのです。亡くなる前の日に「干ぴょう巻が食べたいから、買ってきて。」と電話をくれました。「満開の芝桜を見たいから、まだ死なないよ。」と言っていました。去年たくさん植えたイチゴで、ジャムを作るのを楽しみにしていました。家の周りを、バラでいっぱいにするんだと張り切っていました。3匹の猫に囲まれてゆったり暮らすつもりだったのです。
時々、ショパンの「別れの曲」のメロディーに乗せて、歌って泣きます。
  光が溢れる家に いつか還ると
  あなたは 病院のベッドでいつも言った
  私を気遣い 自分は平気だよと
  命が消えゆくことを 知りながら
  背中を撫でてくれた 手のぬくもりを
  忘れない 愛を込め
  ありがとう ありがとう ありがとう
闘病中の夫の姿が蘇ると切なくていたたまれなくなりますが、それこそが命輝いていた日々だったのです。もう姿は見えないけれど、声は聞えないけれど、思い出は決して消える事はありません。夫の命を手繰り寄せ、寄り添い紡いで、私は生きていくのです。いつか夫に「ずっと見てたよ。今日から又一緒だよ。」と迎えてもらえるその日まで。
               2008年 夏

コメント(8)

続いて、地元新聞のコラムに書いた原稿です。

         偉そうですが 管理人のわたし
 インターネットを利用したネットワークの中でコミュニティーを作ると、その人が管理人と呼ばれます。わたしも2つのコミュニティーの管理人をやっています。その1つが、夫の命を奪った病気のコミュニティーです。
 夫の病気は「原発性アミロイドーシス」と言い、現代医学では原因がわからず、したがって根本的な治療法も無い、きわめて致死率の高い難病です。認知症を引き起こすβアミロイドもその一種らしいですが、アミロイドたんぱくが作られて、体のあちこちに付いてしまい、機能を低下させてしまって、死に至らしめるという、100万人に4人の病気と言われている難病です。
 治療は、進行を止めることが第一です。止まれば、ゆっくりと回復するのではないかと考えられています。夫も受けましたが、心臓のダメージが大きくて、強い治療を受けられなかったのも一因なのか、だめでした。
 夫の死と一緒に葬り去ってしまいたかった体験や記憶ですが、半年くらい経って、何だかそれではいけないような気がしてきたのです。だから、思い切って「原発性アミロイドーシスの根治を」というコミュニティーを作りました。
 しばらくは、元々知っている人数人のコミュニティーでしたが、少しずつメンバーが増えてきたのです。患者本人、そのご家族、応援してくれる人などですが、みんな情報が少なすぎることで、不安を抱えているのがわかりました。残念ながら亡くなった人もいますが、コミュニティーのおかげで、元気になったと言ってくださる人もいます。
 だからわたしは、偉そうに聞えますが、管理人なのです。
                200年7月3日付け
さらに、アステラス製薬が「病気が教えてくれたこと」という原稿を募集していたので、書いてみました。
事後承諾になりますが、皆様が書いてくださったことを、一部引用させていただいています。

    病気が教えてくれたことは 自分の心から目を背けない生き方
 私はインターネット上で、「原発性アミロイドーシスの根治を」というコミュニティーの、管理人をしています。
 夫は2008年2月53歳で、この病気で帰らぬ人になりました。現代医学でも原因すらわからない、100万人に4人と言われている、致死率の高い血液の難病です。人間ドックで腎臓に異常が発見され、精密検査で診断がつき、告知の際に「どうして・・・」と絶句して涙を見せた夫でしたが、それから1年半に渡り、自暴自棄になることも八つ当たりすることも無く、最後まで穏やかな表情と言動を貫きました。自分のことよりも、私を気遣いながらの闘病でした。
 ネットで病気を調べて、その内容に震え、あくまで最悪の場合なのだと思い込もうとしました。眠れなくなり、食べられなくなり、へたり込んで動けなくなり、安定剤や点滴のお世話にもなりました。認知症の母も、高齢の夫の両親も、弱音を吐ける相手にはならず、一人で泣き、泣いても辛さは増すばかりでした。
 逃げ場の無い看病生活の果ての、最愛の人を失った喪失感の中で、夫の魂が病気の肉体を離れて自由になったのなら、私も忌まわしい病気のことはすべて忘れてしまいたいと思いました。でも半年ほど経った頃、この病気の理不尽さを封じ込めたままで良いのかと、怒りに似た感情が頭をもたげてきたのです。なぜ人一倍健康な夫でなければいけなかったのか。よりによって、なぜ治療法の無い病気なのか。なぜ夫を奪われるのが、この私でなければならなかったのか。
 インターネットを通して、以前から同じ病気の方や関係者といくらかの交流はあり、大切な人を亡くした傷も癒えない人が、ボロボロの私のために、一緒に年越しをしに、遠くから来てくれました。だからこそ、私自身がそうであったように、病気の渦中で不安や辛さを抱える人達に、それを吐露できる場所を作りたいと思いました。それは同時に、病気への敵討ちのようなものでした。
 こんな気持ちをプロフィール代わりに、原発性アミロイドーシスのコミュニティーは、ひっそりと誕生しました。きわめて珍しい病気だけに、大きな期待はありませんでしたが、ジワジワと人数が増えてきて、1年たった今36人にもなりました。
 メンバーが書いてくれることは、心からの言葉です。「先日、私も大切な彼をこの病気で亡くしました 。33歳でした。 悲しい結末で終わってしまい、 現在闘病中の方もいるこのコミュへ 私が参加すべきかどうかすごく迷いましたが・・・」「皆さんの自己紹介コメントを涙を流しながら拝見し・・・」、「こちらのコミュを見つけることが出来、話せる場がある、とわかっただけで励まされました!!」、「今日、なぜかしら(導かれるように)検索して見つけたこのコミュとの出会いは、とても意味ある事だと思ってます。」
 患者数が少ないだけに、癌などと比べると後回しにされる宿命でしょうが、当事者にとって、苦痛や絶望に優先順位はありません。だから、この病気を多くの人に知ってもらうことが、夫が確かに生ききったという実感に繋がるのです。アミロイドーシスが根治できる日は、夫と私の勝利の日とも言えます。
 まだまだ夫を思うと十秒で泣ける私は、良くなって来ているメンバーの報告に、嬉しい気持ちと同時に、嫉妬を感じてしまうのです。最初は優等生っぽく書き始めたエッセイを、何度も何度も書き直すうちに、自分の本音が見えてきました。嫉妬すらひっくるめて、病気が教えてくれたことは、私自身の心から目を背けない生き方に他ならなかったのです。
       2009年 夏
泣きました。

みっつとも胸が締め付けられるような、それでいて何故かあったかい文章でした。

私にとって病気が教えてくれたものって何だろう?
ただの苦痛以外に何かあるのだろうか。
あるのかも知れないし、ないのかも知れない。
少し探してみようかとも思う。
蒼龍さん、つたない(おまけに短くない)文章を読んでくださって、ありがとうございます。
「病気が教えてくれたもの」って、きっと主催者は「命の大切さ」とか「支えてくれた人達への感謝」とかを期待しているのだと思います。でも実際は蒼龍さんもおっしゃるように、「ただの苦痛」というが本音ではないでしょうか。
去年は、そんな気持ちを押さえ込んで、自分がおかしくならないよう、淡々と書きました。自分で感じた違和感は、そんなところにあったのだと思います。
今回は、主催者にうけないことを覚悟で、かなり思ったままを書きました。その時々で、生の感情を書いておくことも大切だと思うのです。
来年は、どんな風に思っているか、自分でも楽しみ(?)です。いつか本心から「命の大切さ」とか「支えてくれた人達への感謝」が書けるようになれば良い、と思っています。
この文章を読み、泣きました。

今回、大好きな父が、何故?何故?よりによって、難病だなんて!と今も思います。
ニャンカイさんの気持ちが痛い程、分かる分、前を向かなくてはと言う気持ちにもなります。

余命、数日しかない父。
今は、ただただ、ありがとうです。
琉海さん、大変な時に読んでくださったのですね。ありがとうございます。
私自身が、記憶の遠い部分になっていたかもしれないトピでした。
琉海さんのお父様の事は、折に触れて気にかかっています。
今こうして、自分が書いた事を目にして、様々な想いに改めて気付かされました。
お父様のそばに、いてさしあげてください。
励まされると思ったのはおかしいでしょうか?
私も旦那様と同じく心アミロイドーシスです。
少しは進行をとめれたこと、退院ができたことなど、
ただの絶望だけではなかったような気がします。
最愛の人を悲しませる側の立場の私ですが、
自分を心配してくれる人がいることは、
どんな言葉よりも強い励ましになります。
人間っておかしいですけど、自分のためにがんばるより
好きな人を悲しませたくないと思うほうが力がでるんですよね。
旦那様も同じお気持ちだったのではないでしょうか。
このコミュニティを作っていただいたことに感謝しています。
>>[243] そんな風に読んでくださって、ありがとうございます。
難病と言う、非常にデリケートなコミュであり、それぞれの立場によって、言葉がお互いを傷つけあう危険さえあるのです。
私自身が、夫の闘病中に流行った「千の風に乗って」が大嫌いというより、恐怖の曲になってしまった体験があるからです。
人は人のために生きている、この頃つくづく実感できます。

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