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面 omote /アートと学問のより道コミュの作品と作者の関係は?

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sichihuku さんから、新しいトピックのアイディアをいただきました。ウインク

「作品と、作った人の人格はイコールであると思うか」。

アートの分野でも学問の分野でもしばしば問われることですし、
作り手だけじゃなく受け手の側でも考えられることですね。
すごく広がりのある問いだと思います。

まずは sichihuku さんの方から、少し補足というか、
どういうことから、この点が気になりだしたのかを書いてもらうといいかもしれませんね。

コメント(31)

はじめに言うと、
イコールではない、というのはもう分かってはいるんですよね。
ブルースの歴史には欠かせない演奏者(の名前は忘れちゃったんだけど)だって
女と子どもを手にかけた殺人者だったし、
素晴らしい物をつくってきた人に対して、私自身ガッカリしたこともありましたので…。
作品を見て「〜さんらしいね」ということはあるかと思います。
その逆の「らしくないね」の場合も、やはりその人自身が色濃く反映されてるだろうし
強い関係があるのも確か。



こういう考えをするのが私の子どもじみた部分なのかもしれないんだけど
なるべくイコールでありたいなって思いが自分の中にはあるんです。
精神矯正、って言葉があるかわかんないけど、そんな気持ちで高校時代描いていたからなお更なのです。

かつてkikuchさんが話してたように、基本の根っこは変わらないし、
そこを上手く調整して生きていくべきなんでしょうね。
そういうところを、自分のしているところと結び付けようと
みんなしてるのかなとか、ふと疑問に思いました。
実生活と、制作するものと、切り離して考えてたりするのかな、と。

あんまり理屈っぽくなるのは嫌いだけど、
みんなが自分を振り返るときってどんなときなんだろう?


よろしくおねがいしまーす!
sichihuku さん
補足ありがとうございます!

他の分野も含めて、実際にものを作ってる方々のお考えを色々と聞きたいところですよね。
少しインタビュー的なやりとりをしながら、他の方の書き込みを待つことにしましょうか。

///////

sichihuku さんの考え方、私は子供っぽいというのは違うと思うんですが、
確かに作者と作品を切り離して考える方がクールだぜ、という風潮はあるような気がします。
(僕が学生の頃、つまりポストモダンが流行ってた頃には、そういう風潮が今以上に強かったです。)

sichihuku さんが実際にものを作っていても、
作り手だとか、メディアや評論家の中に、そういう風潮を感じる部分があるんでしょうか。
まずはその辺からお聞きしたいんですが、いかがでしょう。
kikuch さんのコメント、色んな点でぎょっとしたり、しびれたりしました。
日記の書きぶりからして、登場はしばらく先かなあ、と思ってたのですが、
心配は無用でしたね。あっかんべー

sichihuku さん、僕の質問に縛られず、好きに書いてください。
風潮の話になると、話が不必要にささくれだってくるような気もしますしね。
水の向け方がちょっと下手だったかもしれない。

/////
kikuch さんが「論文」も作品の中に入れてくれたので、
僕も少し応答させてもらいます。

学問というのは一般に、かなりルールの細かい世界で、
「その人らしさ」をある意味では抑えなきゃいけない面があります。

その人の行なった推論や実験の手順を「誰もが」同じように辿ってみることができなければいけない、
というタテマエがあるので、
あまりに「個性的な」議論の進め方、つまり、
その人や、その人と感性の近い人にしかわからないような議論の進め方をしてしまうと、
もうちょっと何とかしなさいよ、と言われてしまう。

個人的な感情を排して理性的に考えよ、という暗黙の(?)ルールもあるし、
ある意味では「自分」を消して、あるがままの事実を透明に映し出す鏡となりなさい、
という教育をされる世界、だと思います。

これ、タテマエにすぎないという面はあるし、うさんくさいよなあ、と思うところはありますが、
学問の世界に身を置いている人間なら、多少ともすりこまれている部分はあると思います。

学者の書くものは面白くない、と言われることが多い理由の一つは、たぶん、
そういうタテマエに従う結果として、書き手の人間味とか体臭みたいなもの
(sichihukuさんや kikuchさんが言ってる「人格」はそれに近いと思うんだけど)が感じられない、
ということがあると思います。

長くてごめんなさい。 こういう冗長さ、まさに私の「人格」ですね。
作品は、作者の人格の一部に含まれているんだと思います。
イコールで等しくなる関係ではないけど、一部ではある。
一部である作品が、全人格の何パーセントなのかは自分にも人にもどうにもわからないと思いました…。
あきおホリデーさん、実はひそかに待ってましたうれしい顔
そう、「人格」って言葉、どうしてもある種の全体性を感じさせるものですからね。

確かに、その断片が入り込む(入り込まざるを得ない)、と考えるといいのかもしれない。

てか、この時間に起きてるメンバーが他にいましたか。
こんにちは〜。

ほかの方々が言っていることとかぶりますが、
ひとの人格って、自分でもよくわからないくらい、いろいろな面があって、
そんなにきれいにはまとまってないよなあ、と思うんです。

たとえば僕のばあい、
書きものをしているときの自分って、明らかに自分という人間のひとつの面だと思うんですが、それは家族と会っているときの自分とは、けっこう違う。先生稼業で人前でしゃべっているときの自分とも、やっぱり違う。

で、だれかとあれこれ議論を楽しむときは、
自分のなかのある一面を、おたがい見せあっていて、
しかも、議論を楽しみたいから、ほかの面はまあまあ抑えている、というようなところもありそうです。

だから、最終的にできあがった文章って、
それが(タテマエとか、型どおりの事務的な文章じゃなくて)
本気で書いている文章なら、
たしかに、自分の人格の一面かな、と思います。
それがアカデミックな書きものとしてどれくらい成功するか、
というのはまたちょっと別の厄介な話が入ってきそう。

それで、
けっきょく自分の人格の全体像というのはよくわからないので、
書きものをしてるときにも、発見があったります。
おお、俺はこういうことを言っちゃうのか、とか。
これは俺らしくないぞ、いや、これが俺なのか。とか。
それはいい意味だったり。悪い意味だったり。
ときに楽しい経験だったりします。
僕のなかには、書きものをすることって、
そんなふうに自分と向きあう、という面がすごくあって、
それがきっかけで、自分が少しは変わるんじゃないか、
という期待もちょっとあるんです。
それは、sichihukuさんが言ってた「精神矯正」ということと、
もしかすると、どこかつながる話なのかな。
自分というものを変に統一したくない気もするけど(たぶん無理)、
その一方で、ときにリクツっぽく考えたり、それを書きとめたりすることで、
何だかよくわからない自分の人生に向きあっている、向きあおうとしている、という面はあるのだと思います。
(いまこの文章を書いていることじたい、たぶん、そういう面をもっていそう)

あきおホリデーさん、はじめまして! pockleyといいます。
どうぞよろしくお願いいたします。
皆様ありがとうございます。確かに、これは私の超個人的な範囲の話なんですよ。一個の作り手としての疑問でした。個人的過ぎて今更恐縮してるくらいです!!

高校生の時に「自分のことが好きじゃないなら絵を描け」「描けば上達するし、上達したら自分だってそれについてくる。
他人がどう思うか知らないけどお前が納得する自分にはなれるはず」
と言われたことがあるんですよ。
それに食らいついてきてある今現在。逆に言えば逃げ場のない、代用できない自分だから興味が沸き、単純なようでよくわからない自分をすきになって行きたいから描いてきました。
それ以来人生は楽しいし、正直悪くないよな、とも思ったりしてました、が…。

他人が鏡だというのが…最近ね、本当にそう思うんですよね!!!!!!
おかげさまで、色んな職種、世界に住む老若男女と知り合うことができてるんですけど、社会一般的なことを含め「あたしコレで本当にいいのか!?」と自分で自分を心配してしまうことが多くなってきたんです。
超基本的なことが欠落してるっていうか。すごくそういう部分が怖いぐらいに目立ってきた。
イコールなら、絵にも表れてるはずなんです。不安なんですよ。いいのかなって。
この絵は私なんです!と言って来たから、絶対そうありたい願いがあります。
ただ「これってこのままでいいのか」と思うほど、結びつかない部分がでてくる。矛盾を調整しながら探るような毎日です。


同じように、グラフィックの方、学者の方、音楽の方、踊る方とか色々様々な事をされる方はあるんだろうか、との疑問だったわけなんです。
お仕事と向き合ってきたことで、自分が変わっていくことを意識したりしたのかなって。

あきおホリデーさんがおっしゃるように、一部だということもあるのかもしれない。私が100パーセントのつもりでいても、本当のところはどうなのか気づかなかったりする場合もあるんでしょうね。
100なんてありえない。だから続けるんだとも言いたいんですけどね。

kikuchさんの“殺人を犯した人物が一概に悪い人格だとは…”というのは
目からウロコだったし、
作品に対してのお考え、何だかメチャクチャ励まされました。分かってるようで分かってなかったよ。
どうもありがとう。ウルッときたのは深夜だからですかねぇ。

suibaさんやpockleyさんのいうように、感情を抑えた部分を必要とされるケースもあるんですね。
整然とした世界で、深く追求していくなかにも、それぞれご自身と重なる部分もあるのかと思ったんですが、これこそ私の知らない世界なんですよね!
興味深いです!!
あきおホリデーといいます。宜しくお願いします(挨拶があとに)。
私は演奏が仕事です。みなさんの書き込みを読んで、なぜ自分は作品は人格の一部かと思うかとゆうと。
まず今の自分の演奏がイコール自分のすべて(限界値含む)なのだとしたら、希望を失うのです(笑)。
まだこれは一部なんだととらえておきたいという気持ちがあるせいで、こうゆう言い方してるのかなと思いました。

一期一会であるコンサートを、たくさんあるコンサートの一個に過ぎないと思っているのではなくてね。
超・個人的なものを追求していくと、どこかでポン、とベクトルがひっくり返って、
かえって多くの人に伝わることがある・・・てなこと言ってたのは、確か坂本龍一だったかな。
sichihukuさんの悩み、すごく共感できるところがありますよ。

「も少しマトモな人間になりたい」っていうの、明らかに僕の研究生活の一つの動機にはなってますもん。
自己表現というよりは、自分を作っていく、直していく、というね。
「まだまだ」っていう、あきおホリデーさんの向上心とも通じると思うんですけど。

ほぼ同業者である pockley さんとの感覚の違いに、ちょっとびっくり。
僕はまだまだ、ガクモンの言葉が自分のものになってない感覚が強くて。
自分の問題意識のそばに学問の言葉を使って降りていくことが、全然できてない感じです。
でも、kikuchさんの言い方によれば、そうやってぎこちなく喘いでいる状態も、
今の僕の「らしさ」なんでしょうね。

それと kikuch さんの「人格」の捉えかた、前回のコメントも含めてすごく面白いと思いました。
モノをつくることで、そこに人格を生み落としてるって感じなのかな、と。
勝手にイメージを膨らませると、
私の人格ってのが「こちら側」にデン、とあって、それが外側に表れていく、ということじゃなくて、
むしろ他人のいる「向こう側」に向かって、どんどん生まれていくという感じ。
それを全部100パーセントの自分だと言い切る態度、プロだなあ、オトナだなあ、と思いました。
向上心!?になるのかなあ。
私は受け手になる場合でも。
一枚の絵、ひと綴りの文だけをみて、その人の百パーセントだとは判断しないんです・・。自分が未完成だから(笑)?
とりあえず生きてる間は絶え間なく変化していくはずだから、ある季節のものをみて人格とゆうか、キャラクターを限定したりしたくないかな。つくりてに失礼だと思っちゃう。
同じ作家さんでも、なるべく何回もみたいし過去の作品、未来の作品、違う時期のもふれてみたいと思うのです。
一回しか見なかったらほんとのその人の個性まではわかんないと思ってるとゆうか。人のつくったものの色をその日の自分の気分だってあるのに、簡単に決めつけるのは尊大な感覚だと思うので自分はやりたくないな。。


話しずれてて恐縮ですが『つきつめると反転する』、反転起こせたら一番嬉しいですね。
そっか、向上心というよりは、変化の余地とか多面性を認める、って話でしたか。。

あきおホリデーさんは演奏家として、人の作品を演奏するという場面が多いでしょうし、
僕も人が書いたものを理解することから考え始める、という場面が多いので、
単独の作品から作者をまるごと理解した気分になんか到底なれないし、
そりゃ失礼だ、というのは同じでしょうね。

この場合、作者から見れば作品の「手前」、
受け手から見れば作品の「向こう側」に、茫洋として捉えがたい人格がある、と想定してますよね。
kikuch さんの場合は、そういうのとはちょっと違う意味で「人格」を捉えてる気がして、
それが面白い、と思ったんです。

常にそれが「100」として受け止められる覚悟で行く、とおっしゃるのも、
基本的に作り手としての気概とか気迫の問題であって、
特にデザイナーという仕事が一回勝負、瞬間勝負という性格が強いせいもあるんじゃないかと。
・・・オマエが勝手に言うな、って話ですが。あせあせ
レスありがとうございますexclamation

…音楽も一回、一瞬で判断されてませんか〜(笑)?(白)何かしでかすと次がないのは音楽の仕事もそうですよ。毎回オーディション気分です。カリスマじゃないのがつらいとこだわ〜。カリスマ憧れますわーい(嬉しい顔)
現実は今のところ私にはけっこう厳しい(笑)のですが、自分があじわう仕事の厳しさをなるべく人にはむけたくないのですよ…。

私は、人の作品を採点したりオーディションはしたくない。審査員しにいくのではなくて、ゆっくりと豊かな楽しみ方をしたいからです。
そういうふうに作品をゆっくりと見たいと思ってでかける人間もおります。

皆さんの書き込みを読んで色々自分の考え方のクセみたいなのが発見できて嬉しいです。
今回は、“受け取り側”よりも、“作る側に関して限定”の話で、皆さんはどうなのかなって思ったのですが、
作ってしまったものに関してなら決まってしまうんですよね。
絵の場合でしか話できないんだけど…。


自分たちがいつ熟すのかは全く分からないし、反対に未熟なのは分かりきっている。
続けていけるのは、「その先」があるからです。
身体は年とっても、作品(=精神)は成長していくんだと思うから。

逆を言えば、未熟な今だからこそ出来る作品なりスタイルがあります。
18歳のときの100%、20歳のときの100%、27歳のときの100%という具合。
私は未だに高校3年生の頃描いた便所の作品を越えられないんですよ…。けどどの絵もギリギリの所でつくってる。

もちろん、あきおホリデーさんも、一つひとつのステージは全力で演奏されるでしょう?
そこは絶対同じですよね!
…形に残らないステージ上での緊張感ってどんなだろう。とてもシビアでしょうね!


展示会だってわざわざ時間作って交通費なりガソリン代なりかけてきてくれる。
仕事ならギャランティーが発生してやり取りされるのですから100%でやるし
その上、「コイツやるな」とショック与えたいし、その先の発展も欲しいから
20%は上乗せしたい気持ちなの。それがやりがいなので暑苦しいほど、全力ですよ!
下手したら切られるのは一緒かもね。それを怖がっててもやってられないところはあるけれど。

ただ、それがそのまんま100相手に伝わるかといったらそうじゃない。
でもやるっきゃないから100で投げてる高校球児みたいなもんです。
半べそかいてグラウンドの砂袋に詰めるときもあるんだけど…。
イラストの仕事だと、依頼主に振り回され妥協せざるを得ないところもあって正直歯がゆい!

作品を見てもらうとき、単純に「いいね」って感じてもらえたらそれでいい。
作り手の個性をみてくれ、人生を感じてくれ、とまでは思わない。
軽くでいいの、軽くで。逆に「佐藤の絵って暑苦しくて胃もたれするわ」でもいいわけ。じゃなきゃ気軽に楽しめません。
一枚の絵も、日によって感じ方が違うはずだし、楽しめるものは沢山あるはず。
心に残ったんだったら、それでいい。
あんまり多くを望んでないんだけど、kikuchさんはどう?
殺人はしちゃいけないことだよね笑

ってか、やっぱり生んだものはその人自身なんだな。
良くも悪くも、その人なんだ。その時の、その人自身なんだ…と思いました。

pockleyさんは学者や講師のお仕事から「自分と向き合おうとしてる」実感があって、
suibaさんは、それらが言葉が自分のものになってない気がするんですよね。
模索中って感じなんでしょうか?
迷走中(笑)

そして、そのいまだ使い慣れない言葉で、
日曜日に発表をしなければいけないという状況。。
でも、こんな時だからこそ皆さんとキャッチボールさせてもらって、なんか救われました。
結局は、好きだからやってるに決まってるんですからね。

「胃もたれする絵」って、なんかいいね。
>あきおホリデーさん

確かに、音楽もそうですね。
しかし僕も時々プロの方とご一緒させてもらってますけど、
プロとアマの違いは何といっても打率の違いだなあ、と実感してます。

こないだも、リハでピークを迎えちゃって(笑)
どうしたら本番の「その一瞬」にピークを持っていけるの?・・・てのはまた別な場所で教えてください。
shichifukuさん

心に残ったんだったら、それでいい。
私もそう思います!
好感ばかりじゃないだろうけど(笑)いちいち全部、飲み込みきってくれ〜みたいには思わないかな。
つくる感覚でいくと、繊細なものはしぶとくないと表現できない、激しいものはデリケートに表現しないと様にならないみたいな感じがしています。
前にでている音と逆の真後ろにひっぱるベクトルもこっそりもっていて、バランスとらないとコントロールできなくなる感じ。

歯がゆさに負けたくないから(笑)、縛られてるくせに『自由だもん』と自分に見栄をはってがんばるときあります。
甲子園の砂の気分のとき、甲子園のテーマソングのコブクロ買ってうぐっ泣き顔て泣きましたし。
全力じゃないと流されちゃうから、自然と全力になります。もっとゆとりあったら、それもかっこいいのにな〜。
kikuchさんの、『ひとり財界さっぽろ』焼き付きました(笑)。

suibaさん、私も打率あげたいですチャペル。レコーディング直前にやりとりできて私も救われてます。

pockleyさん、院は中退し研究者にはむいてなかった自分ですが、宜しくお願いしますわーい(嬉しい顔)あなたのは論文じゃなくて雑誌エッセイだねと言われたことが忘れられません手(パー)
演奏でもにたようなこと言われますあせあせ(飛び散る汗)
おはようございます。
僕も感動してます。
それにしても皆さん、いったい何時に寝てるの?(笑)

suibaさん
ご存じのとおり、僕はそんなに学問と人格くっついてないですよ。
妙に抽象的なことをモヤモヤ、モヤモヤ、考えるのって、
たしかに自分の一部としてあるなあ、って思うんですが、
それって、あくまでも一部にとどまっていて、浮遊しているし、
それに、そこでの思考はアカデミックな学問からは程遠いとも思ってるんです。
だから、アイデアを論文というかたちで仕立てるときは、相当に苦労する。
とても難しいし、だからこそときにやりがいを感じたりする。
suibaさんの悩みとそんなに違わないんじゃないかなー。

sichihukuさん
100%の全力投球の話、心うたれました。
書きものにかんして、僕はそういう意気込みがどうも足りないんです。
急いでまとめないで、もっと熟成させよう、というようなことが多くて、
それが70%(?)投球の言い訳になってたり、とか。
たぶん、講師業のほうが100%勝負というような面があるのかな。
相手の関心をひく、相手の思考回路に食い込む、
相手のモチベーションを高める、
そうじゃないと、負け、というような職業だと思うんです。

kikuchさん
suibaさんも指摘してましたが、
僕にとっても、kikuchさんの人格ばなし、衝撃的です。
受け手の心をよくもわるくも揺らす、動かす。
そういうところではじめて、人格ってものを語る意味があるわけですよね。
そういうのを抜きにして自分の人格をとらえようとしても、
なんだかぜんぜんよくわからない。
たぶん、ひとりよがりな自己イメージにしかならない。
そんな実感って、僕もあるんです。
うまく言葉に出せなかった感覚に、ピタッとする言葉をあてはめる。
ありきたりの観念にとらわれてた思考をひっくり返す。
まさに哲学です、哲学。えーと、なんか興奮してきました。

あきおホリデーさん
そうですか、院に行かれていたんですか!
僕はむしろ、エッセイを書く才覚がほしいなあ、とつねづね思ってるんです。
論文というかたち(メディア?)だと、受け手がすごく限られるし、
受け手の心を動かす力ということでみても、
エッセイには到底かなわないって、思うんです。
繊細なものはしぶとく、激しいものはデリケートに、という話、
ものすごく興味そそりました。
自分が悩んだときのヒントになってくれそうな気がします。
pockleyさん
ここ数年、研究に際してはかなり自覚的に文体や話し方を改造してる面があって、
実際、昔を知ってる先輩にも、「ずいぶん変わったね〜」と言われるんです。
前はホント、思いっきり自分の感性を乗せて書き、しゃべってましたから。
で、君の文章はまるで森だ、と先生に言われる始末(笑)。
いま、伐採しまくってるところなんですね。
pockleyさんのコメントを見て、「改造」計画は間違いではないにせよ、
ちょっと初心を忘れてるところがあるなあ、と。
違いにビックリ、というよりは「ドッキリ」、という感じかな。

いや〜、しかし楽しい。
suibaさん
ふりかえると、僕も紆余曲折してきたと思いますが、
ここ最近は、一人称的な体験にこだわりたいって気持ちが、すごく強いんです。
哲学はそこから始まるし、うまく公共性を獲得できたとしても、
そこから離れられない。離れちゃいけない。って感じ。
それなのに、ぜんぜん森にならない僕の文章・・・。サバンナ?(笑)。

エッセイの強みは、自分をさらけだしているところなのかな。
そういう勇気、力に、憧れるんです。芽
pockleyさん
「わかる」って簡単に言っちゃいけないかもしんないけど、
すんごく、わかる!
付き合い長いけれど、
ある意味ではお互い反対側から歩いてきて、
いま改めてばったり会ったという感じ、ですね。

さて、ここははたして、森かサバンナか。
はじめまして。大変興味深いお話に展開してますね。
指導に出かける残り時間までにどれだけのことが書けるかな・・と思いつつついついコメント書きたくなりました。

ミクシーのプロフィールは今、思うところあってほとんど何も書いてません。何物か怪しくて申し訳ないのですが、私は太極拳にかかわる仕事をしてる、20代後半の女子です。太極拳の、指導、普及、選手として成績を残すこと、子どもの育成・・などなどを生業としています。
私にとって作品とは、自身の身体表現であるのかもしれません。仕事にかかわる、事務や会話や営業や、仕事全般が作品といえば作品だけど、広義すぎてわけわからなくなるので、太極拳の演武が作品とすれば、こないだ夏の全日本大会では、正しい太極拳に加えて、表現したい太極拳を見つけて、満を持して優勝確実!と臨んだ結果、精神的弱さからミスをし、3位となり、自分の落ち込みようったらなかったです。それは多分自分の作品を思うように作れなかったから、期待していた作品に対する評価を得られなかったから。それって自分と作品がイコールな感覚かもしれない。

けど、だからって作品の価値と自分の価値を同一視する、というようなことはしたくない。自分の価値、人間の価値、なんてことを10代の頃よく考えてたけど、太極拳の考え方にある、「自分は大きな円を構成する要素で、大きな円全体でひとつだ」って考え方を受け入れるようになってからは、自分は何もしなくても、何かしても、評価されてもされなくても、円を構成している役割を担っているから、価値とか、意義とか、考えなくなった。自分の意地とかはあるから、成績とりたいとか、集客したいとか、欲望はあるけれど、自分の作品が評価されてもされなくても、失敗しても成功しても、自分の存在は円の一部であって、誰かの眼や耳や心や頭に必ず影響を与える。その影響がまた誰か違う、円の構成要素に影響を与える。そうやって繰り返したり連鎖したり、影響しあうものだと思う。作品=自分、もだけど、もっとなんかでかいなにかとつながってる気がする。

だから、私は集団行動が苦手で、偏屈なとこがあって、社会一般にはまれなくて、社会人として欠落してるとこあるかもしれなくて、収入も少なくて、・・・って、数え上げればキリがないほど欠点やら至らないとこあるけど、円の構成要素として、そういう人がいることで、影響を与えている、と、かなり勝手な自己正当化解釈をするようになっています。だから、何でもオッケー、偏屈オッケー、理解不能オッケー、欠落オッケー、殺人や、人を取り返しつかなく傷つけることは、オッケーとは断言できないけど、それも必ず意味があることで、それが起こった背景や、それの影響、因果、そういうものをそれに触れた全ての人が感じ、考えることで、その人が行動を変えたり、思想を変えたりする。そういう風になってるんじゃないかと理解してる。

昔、あまりに大学生活になじめなくて、「フェロモンどおり動けるアリになりたい。集団生活しなきゃいけないなら、なんで人間に心を作ったんだろう」って真剣に悩んで苦しかったんだけど、そういう風に考えるようになってから楽になって、自分の中の異常性や異質性も受け入れられるようになった。

モラトリアム卒業したての、初々しいこどもっぽい意見、かしら?

あうち!そろそろ仕事に出かけなきゃ。もし皆様の不愉快でなければ、また参加してよろしいでしょうか?
eurekaさん、はじめまして!
子どもっぽい意見じゃぜんぜんないと思いますよ。
比べると、僕などは、自分が人にあたえる影響というやつを、
そもそも考えないことが多くて。
それで自己嫌悪になることも。30代後半なのに…。
なんというか、独りよがりになりがちなんです。
自分を壊さず、変えようとすることもなく、勝手に自己完結、というのかな。
そんなふうだから、個としての自分の意識なんてちっちゃいぞー、とか、
他者との関わり方、といったようなテーマがトラウマのように心にひっかかり、
もやもや考え続けているんだと思っています。

太極拳についてはまったくと言っていいほど無知なので、
円の思想の話、すごく新鮮に響きました。
今後ともよろしくお願いします。ウインク
eurekaさん

はじめましてわーい(嬉しい顔)。
なれなれしいとか、知ったかぶりするつもりないんだけど、異常とか異質って全然おもわないですあせあせ(飛び散る汗)。

太極拳はいつぐらいにはじめられたんですか↑個人の質問(笑)。

円て光とか放射能みたいだなって思いました。お日さまの光が無差別にあたるように、お互いの光が照らしたり重なったりで、放射能みたいに影響するけど目に見えなくて。
変な放射能にあたると具合悪くなるし体やお肌(笑)にいいものもありそう。

自分の肉体表現そのもので光を放つのだと思うから、学生のときも、周囲の体がだすいろんな波長にも、敏感にならざるをえなかったんじゃないかなと思いました。
あ、eurekaさんだ。

大きな円の解釈は「生きる意味って何だろう」だの「生まれてきてすみません」みたいな悩める人に聞かせたいねー。

“作品=自分、もだけど、もっとなんかでかいなにかとつながってる気がする”か。
それも、自分で分かってるつもりだったのだけど、こうして別観点からいわれるとハッとするのは何でだろう。
一定方向でしか考えられない頭の固さの表れかなー。
多方面から得た確信は何より強く響くものだよね。

前一緒に飲んだ時、絵は持久力、音楽や太極拳は瞬発力みたいな話したじゃない?
違いがあっても表現の根底は一緒なはずだからとても興味があったんだよ。
絵は、紙なり布なりの上から描いて出来上がる「物」でしょ?
で、太極拳は身体表現でもあって、こちらより波長とかもろ日々感じてやってる気がした。
絵も、そういう波動は出しているはずで、
そういう意識をもっと多方面から得て自覚したいと思うんだ。
そしたらもっと豊かになれるはずだから。
目に見えるものだけじゃない何かを確信したいんだよね。
見えてくるもの沢山でてきそうな気がする。

評価はつねにシビア。自分にとって大切なものでも、他人が要らなきゃいらないんだ。
だからそのとき自分はどうあるべきかってことでもあるよね。
自分を大切にしたら、他人も大事に出来る。
表現でメシを食うのも、通じる話だと信じてるよ。

eurekaさん、書き込みありがとー!これからもよろしく〜
suibaさん、あたしこのトピ立ててよかったよね揺れるハート
私がいない間にも、しっかり回ってたんですねえ〜
皆さんありがとうございます。

eurekaさん、ようこそいらっしゃいました。
何というのかな、偉そうな言い方かもしれないですけど、
どんな観点から眺められた世界にも、語られるべき価値があると思うのですよ。
私自身、自分の発言についてもそういう構えでいますしね。
ともあれ、楽しんでって下さい。

sichihukuさん、良かったともさ!
ベクトル反転したじゃん!
二度、書き込みにトライして操作ミスにより全消滅・・・めげずに3度目に挑戦中です・・・

pockleyさん
ありがとうございます。私は、自分が常に変化しているものだと考えているので、確立した守るべき自己があるというのは、すごいなと思います。どっちがいいとかではなく、意見交換するのが楽しみだな、と思います☆よろしくお願いします!

あきおホリデー さん
こんにちは!太極拳は、5年ほどかな?父が空手の先生で、物心つくまえから武道精神やら体力的なことは仕込まれ、殴られ蹴られしながら稽古し、クラシックバレエも10年ほどやってたのが基礎となり、かなり早いペースで習得できたようです。ぶきっちょな私には太極拳しかありゃあせんので、感謝感謝なのです。趣味でジャズやポップスのボーカルをやっているので、音楽のことでも、色々教えていただけたら嬉しいです!

sichihuku さん
も〜〜〜〜!!!何度も消えて、私、あきらめるの早いタチだからこの三度目のトライまでに何日かかったか・・・ダッシュ(走り出す様)けど、興味深い方々と交流できる場に誘ってくれてありがとう!私はこの仕事肉体労働だし、「私の性格&頭でむつかしく考えても墓穴ほるだけ!!」と経験上悟ったので、普段、こういった堀下がっていくような論理的思考はあまりしないんだけど、考えながら書いてるうちに整理される、ってのを感じるね。すごくいい感じする♪

suiba さん
ありがとうございました。
そうですね。自分にとって当たり前の考えも、分野が違うと新鮮に聞こえたりしますからね。なんだか皆様受容的な方々で嬉しいです!これからよろしくお願いします☆

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