これは、アメリカが単に遠くの異なる大陸としてしか知られていないぐらい多くの多くの辺境の地がある大きな世界なのである。しかしマイケルジャクソンは世界中の国のほとんどと触れ合った。そのミュージックスターの50歳の死の木曜日は世界的な出来事である。そして私たちは、なぜそうなったのかを認めるべきである。
その奇抜で、そして結局混乱を招くような、行動の全てによって“キングオブポップ”と呼ばれたり、悪いと“キングオブウィアード”と嘲笑されたマイケルは、ロナルド・リーガンやジョージ・ブッシュやビル・クリントンと同じくらいアメリカの顔として、1980年代と1990年代の重要な位置にいた。
「マイケルは階級や差別、更には人種の壁をも越えて人々をひき連れた。」と、ジョージタウン大学の社会学の教授である、作家でコメンテーターのマイケル・エリック・ダイソンは言った。「彼は、アフリカ-アメリカ文化の天才と強人を世界に投影した。」
アフリカ-アメリカの子供だったマイケルは、その目覚ましい才覚と勢いで大きな成功を収め、大きな影響を与え、莫大な富を得た。
人は、マイケルや彼の曲を、天使と悪魔が戦ってきたアメリカの長く複雑な歴史においてある特別なものと認識し、崇拝する必要はなかった。そしてマイケルは、世界に多分化的で寛容なアメリカの価値と希望を投影させた。
一時は、“OFF THE WALL”や“THRILLER”などのアルバムの爆発的な人気によって、彼は、ポピュラーミュージック界で最も有力な人物ではなかった。彼しかいなかったのである。ソロアーティスト、またジャクソン5のメンバーとしてロックンロールホールオブフェイムに二回もなったマイケルは、13回グラミー賞をとり、ソロパフォーマーとしてのシングル1位を13回とった。また、世界中で、750ミリオン以上のアルバムセールスを達成した。
キーワードは“世界中”である。
マイケルの1991年にヒットした“BLACK OR WHITE”が、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、キューバ、デンマーク、フィンランド、フランス、イスラエル、イタリア、メキシコ、ニュージーランド、ノルウェー、スペイン、スウェーデン、イギリス、ジンバブエ、もちろんアメリカでも1位にチャートインした。
“BLACK OR WHITE”は、“KKK RULES”や“NO MORE WETBACKS”と落書きしてある窓ガラスを割るシーンをデジタル化し、強化された反人種差別主義のメッセージとしての怒りの曲だった。そのユビキタス効果のビデオは、アフリカ人、アメリカ原住民、アジア人、南アジア人、ロシア人と一緒に踊っているマイケルをフィーチャーした。
マイケルは、特別に政治的なアーティストではなかった。彼は1992年にエボニー誌で、「私は決して政治には介入しない。」と言った。しかし、彼の1980年代と1990年代のすごい知名度のおかげで、エイズの人々を丁重に扱うという彼の決意は、政治的にも分化的にも重要な意義を負っていた。マイケルがHIV/AIDSの調査とケアのより多くの資金を求めるために、公共の場(ビル・クリントンの大統領就任式)を使った時、その約束は、ライアン・ホワイトが死んだ時に最も顕著に表れた。
マイケルのチャリティーはたくさんあった。難民や虐待被害者のためのプログラム、ウォーチャイルドのような“WE ARE THE WORLD”プロジェクトや、彼自身のHEAL THE WORLD FOUNDATION、また同じようにTHE NELSON MANDELA CHILDREN’S FUND、赤十字、ユネスコ、そして長年のTHE UNITED NEGRO FUNDがある。
特に近年の彼の奇行は混乱を招き、同時にショッキングだった。それは悲劇と自己破滅の前触れとしての奇行に他ならなかった。その悲劇と苦難はしばらく忘れられることはないだろう。
しかし、エルビスプレスリーやその他の素晴らしいアーティストたちの命が終わった後、彼らの栄光も色あせたが、それは聖像となるだろう。その影響は、人種、階級、性別、国籍を越えて広がっている。私たちがマイケルの話をするとき、それは最も思い出されるだろう。そしてそれは、結局最も重要なことなのだ。