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開催終了島善高対策研究会

詳細

2008年07月10日 00:35 更新

もうすぐテストらしいですが…

テスト?何それ?それっておいしいの?
状態な皆さんだと存じます。

そこで!

勉強会を開き対策を講じようというわけです。

対する敵は島善高!

彼のテストを徹底的にたたきつぶし単位をもぎ取り、強いてはA+とかとってやったりしたろうではないか!!

問題発表あったし皆の力があればいける!

とりあえず開始はおそらく午後です。

がんばるぞーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!






P.Sふつうに島さんの科目以外勉強したいって方もたぶん大丈夫です。

コメント(63)

  • [25] mixiユーザー

    2008年07月10日 02:20

    OK指でOK
  • [33] mixiユーザー

    2008年07月10日 16:16

    歴史学
    〜井上毅が文部大臣になってやったこと〜

    井上毅ゎ明治26年3月7日に河野敏鎌の後を受けて第二次伊藤内閣の文部大臣となる。
    第三高等中学校教授のハミルトン・シャープは『日本の学生ゎ難しいことばかりやろうとして基礎的な教育を嫌う傾向がある』と主張し、帝国大学教授のエルウイン・ベルツは『教育の目的ゎ2つある。1つゎ人格・徳を養成する。もう1つゎ実業教育(実学)である。』と主張した。そこで井上ゎ、ヨーロッパに打ち勝つために石炭、鉄、工業に関する知識の普及が重要と考え、愛国心教育と実業教育を目標に、一つ目に初等教育の普及を測るための財政処置、二つ目に工芸教育の振興をはかること、三つ目に高等中学校を地方大学に再編すること、四つ目に大学の改革、五つ目に高等師範学校の改革、六つ目に女子師範学校の改革、七つ目に私立学校に対する文部省の保護監督の強化という学制改革構想を掲げて教育事業を推進していった。
  • [37] mixiユーザー

    2008年07月11日 00:54

    歴史学
    〜井上毅とドイツ学〜

    明治5年、中央集権国家を目指していた政府は井上毅ら司法省役人を司法卿江藤新平の欧州派遣に伴う随員としてフランスへ留学させた。フランスで井上はボアソナードからフランス流の自然法学を学んだが、その急進的な制度ゆえそれを直接日本に導入することに難色を示した。その後井上はベルリンへ行き、ドイツ流の歴史法学を学んだ。ドイツ法学は漸進主義をとっており、かつ簡易であった。そのため井上は日本のような後進国に導入するのに適しているのはドイツ法学のほうであると感じ、関心を持った。特に井上の興味を引いたのは民法における「局法」という概念であった。つまり、フランスのナポレオン法典が民法を含むすべての法を全国で統一しているのに対し、ドイツは刑法、刑事訴訟法などのいわゆる「国法」を全国統一法に、民法をそれぞれの地域に合わせて制定したのである。こちらのほうが国民の実情を考慮しやすいのだ。このような理由から井上はフランス学からドイツ学への転換を遂げたのであった。
    (421字)

    長いあせあせ(飛び散る汗)  各自削ってくれ手(パー)
  • [38] mixiユーザー

    2008年07月11日 01:19

    民法典論争 訂正



    民法典論争とは、明治二十二年から始まった政界、学界を巻き込んだ論争である。
    内容は梅謙次郎とボアソナードを中心として起草された民法案を施行するか否かを巡るものであった。
    当時の明治政府は欧米との不平等条約改正に臨むため、近代的法治国家体制を急務として確立する必要があり、民法典の整備をする必要性があった。そのため、十分な審議がなされず、その内容をめぐって批判が起きるようになった。その批判の内容として、ボアソナード起草案は個人主義的思想を含んだフランスの民法をモデルとされたのに対し、日本古来の祖先を尊重する家制度を始めとする日本の伝統・習慣にそぐわないと批判した東大教授の穂積八束の『民法出デテ忠孝亡ブ』の論文が注目され、反対派が大勢となり、施行が延期され、議会で家父長的な家族制を重んじる案が圧倒的多数で可決されたことで論争は決着をみた。
  • [39] mixiユーザー

    2008年07月11日 01:21

    ノッチは井上とロエスレル!!を頼む
  • [40] mixiユーザー

    2008年07月11日 02:07

    刑法 ちょっと補足

    まず旧刑法は、フランス法的である。そして大きな特徴として法律に明文されていなければ処罰できない近代的罪刑法定主義とが厳格に定められており、犯罪類型が細かく分かれたり、量刑が多かったりと全体として具体性が強く客観的となっており、裁判官の裁量の余地が狭い。また人権を侵害しかねない危険や、政府の治安体制を強化する政治的な思想も含まれていた。
    一方新刑法は、ドイツ法的である。そして、旧刑法にあった近代的罪刑法定主義が希薄となり、犯罪類型も包括的になっており、全体として裁判官の裁量に委ねることができる主観的になったところが大きく変化し、さらに人権を尊重する構造になっている。



  • [42] mixiユーザー

    2008年07月11日 02:34

    急にやる気が出てきたから今やる指でOK指でOK
  • [43] mixiユーザー

    2008年07月11日 02:44

    明治十四年の政変 おれにはこれが限界ぽい

    明治十四年の政変とは政府の国家体制を大きく変えた事件である。政変前には憲法を基とする立憲体制への移行が自由民権運動で叫ばれており、それに対し政府は漸進的で消極的な姿勢で、明治政府と当時民権運動の中心的人物であった大隈重信らは対立していた。しかし、開拓使官有物払下げ事件で大隈が不正を暴いたことを契機として、さらに対立が深化し、その反発として大隈を政界追放としたが、民権運動は活性化し、政府は非難を受けその批難は収まらず、その代償として立憲体制の樹立の詔を発布し立憲体制樹立を国民に確約することを宣言し、形式として結局政変は立憲体制への移行を貢献する役割を果たした。
  • [44] mixiユーザー

    2008年07月11日 03:50

    多めに調べといたから覚えやすいとこを覚えて手(パー)
    〜憲法構想時の井上毅とロエスレル〜

     ヘルマン・ロエスレルが日本にやってきたのは明治十一年の暮れのことだった。
     これに先立って明治九年、これまで外交顧問を勤めていたお雇い外国人が帰国することになり、政府は新たなる外交顧問として、大久保利通の信任厚いフランス人ボアソナードをこれに充てようとしたが、多忙の由をもって断られたために、新たに国法学に詳しい人物を捜し求めていた。これがドイツ人になるについては、外からはドイツ駐日公使青木周蔵の、内からは岩倉・伊藤の意を受けた井上毅の強い要請があったことは間違いない。しかし、当時は、わが国の司法行政界にドイツ志向の動きはまだ弱かったのであり、ひとり法学の井上毅のみがドイツ主義を推していたにすぎなかった。ロエスレルは井上の法学家庭教師みたいなものであった。
     ロエスレルの存在が俄然注目され出したのは、明治十四年政変の序曲である大隈重信の憲法意見書が提出されたときのこと。これに異論し、退けるために井上毅は、ロエスレルから、プロシア憲法及び法制度について学んだ。ロエスレルに伝授された知識は、岩倉具視の憲法意見書に盛り込まれ、また伊藤博文など政府要路者の政見に強く反映されることになる。
     ロエスレルの当初のお雇い期間が終了すると、今度は伊藤がロエスレルを宮内省に招いて、自らの憲法起草にロエスレルをアドバイザーに起用した。
     明治憲法は、伊藤博文のもと、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎が起草したものといわれるが、彼らの横にはロエスレルがいた。
     明治二三年、憲法の公布を見届けるとロエスレルは祖国に帰った。帰国後四年にして病にかかった。生涯の主要な時期を日本に捧げたという点ではボアソナードと同じだった。
     ロエスレルは、このように明治憲法の実質的な起草者だったが、政府は憲法が外国人の関与によって成立したことを極力表に出すことを嫌った。今では、明治憲法がロエスレルの助言によって作られたものであることは自明のことだが、ただ、ロエスレルは明治憲法の第一条の「万世一系の天皇」について、神話のような表現を憲法にもち込むべきではないと強く反対の意を唱えた。
     
     憲法構想の背景には、井上毅とロエスレルのこのようなやり取りがあった。
  • [45] mixiユーザー

    2008年07月11日 13:40

    明治十四年の政変 おれにはこれが限界ぽい  若干訂正

    明治十四年の政変とは政府の国家体制を大きく変えた事件である。政変前には憲法を基とする立憲体制への移行が自由民権運動で叫ばれており、それに対し政府は漸進的で消極的な姿勢で、明治政府と当時民権運動の中心的人物であった大隈重信らは対立していた。しかし、開拓使官有物払下げ事件で大隈が不正を暴いたことを契機として、さらに対立が深化し、政府はその反発として大隈を政界追放としたが、民権運動は活性化し、国民の不満も激化し、政府は非難を受け、その代償として立憲体制の樹立の詔を発布し立憲体制樹立を国民に確約することを宣言し、結局明治十四年の政変は立憲体制への移行を貢献する役割を果たした。
  • [46] mixiユーザー

    2008年07月11日 16:24

    条約改正 これでいいんかな…


    時系列にそって述べると、まず岩倉使節団は条約改正の予備交渉を目指し海外に渡ったが当時の日本は近代的国家制度が未熟だったことや天皇の全権委任状を持参し忘れたことから交渉は失敗した。次の寺島宗則外務卿は税権回復を目指しアメリカが新条約の締結に同意したが、イギリス・ドイツは新条約締結に反対し、アメリカの条約締結の条件が他国との新条約締結としていたため、発効できず失敗に終わった。さらに次の井上馨外務卿(大臣)は治外法権の撤廃を目標とし交渉にあたったが、外国人判事任用や関税引き上げと大幅な譲歩をしたため政府内からの批判や国民からも反対の声があったこと、極端な欧化政策による国粋主義者からの批判の発生や民権運動の激化などから結局交渉は失敗した。
  • [47] mixiユーザー

    2008年07月11日 16:26

    すまんがノッチ具体的すぎないか?

    まとめ頼むあせあせ(飛び散る汗)
  • [48] mixiユーザー

    2008年07月11日 20:48

    明治十四年の政変


    明治十四年政変前、政府は立憲体制への移行を決意はしていたが移行の時期は未決定で漸進的な姿勢を取っていた。憲法構想は井上毅・伊藤博文を中心として君主制の強いドイツ流の欽定憲法を採用する方向であったがこれも漸進的だった。一方民権派の中心的人物である大隈重信は政党を必要とするイギリス的な君民共治の憲法の提案をしたり、急進的な姿勢だったなどとで政府と対立をしていた。しかし、開拓使官有物払下げ事件で大隈が不正を暴いたことを契機として、さらに対立が深化し、その反発として大隈を政界追放としたが政府は非難を受け、立憲体制の樹立の詔を発布し立憲体制樹立を国民に確約することを宣言し、プロシア憲法の採用に踏み切った。形式として結局政変は立憲体制への移行をはやめる役割を果たしたこととなる。
  • [49] mixiユーザー

    2008年07月11日 22:29

    もうちょっと抽象的な感じにまとめた方がいぃかな

    ってか、みふ〜頑張りまくってるなふらふらありがとう
  • [50] mixiユーザー

    2008年07月11日 23:02

    そうだなあせあせ(飛び散る汗)抽象的な感じで頼む!!

    ちょい今日だけで法制終りにしたかったからさあせあせ(飛び散る汗)

    グーグルで憲法とか井上とか検索すりゃまとまったの見つかるよダッシュ(走り出す様)
  • [51] mixiユーザー

    2008年07月12日 00:17

    歴史学
    〜井上毅と憲法制定〜

    明治19年、初代内閣総理大臣の伊藤博文は井上毅に憲法の調査立案を委嘱した。井上は、ドイツ出身の政府法律顧問ロエスレル及びモッセの助けを受け、憲法の甲案及び乙案を伊藤に提出した。そののち伊藤が中心になって作成したいわゆる「夏島草案」は井上の草案を軸にしていたが、前年度予算制を採用していなかったため、井上は「憲法逐条意見」を提出して修正を提議した。ロエスエルもこの草案に対し修正を求めた。伊藤は井上らの意見を受け、「夏島草案」を修正して「十月草案」を作成した。その草案では井上の意見が多く取り入れられ前年度予算制が採用されていた。そして、伊藤は明治21年、「十月草案」を一部修正した「二月草案」を作成した。この草案では井上とロエスレルの意見を半分ずつ取り入れ、議決を要しない歳出がいくつか明記された。この「二月草案」が「大日本帝国憲法」の元となり、天皇に奉呈された。前年度予算制は成立しなかったものの憲法制定において井上毅は議会の権限を維持するのに尽力したのであった。
    (433字)
  • [52] mixiユーザー

    2008年07月12日 01:05

    ごめん、井上とロエスレルの二人に関する話がなかなか無いあせあせ(飛び散る汗)さっき文のいらなそうなとこを少し省いたけどm(__)m俺のレジュメって今誰が持ってる?

     明治九年、これまで外交顧問を勤めていたお雇い外国人が帰国することになり、新たに国法学に詳しい人物を捜し求めていた。これがドイツ人になるについては、井上毅の強い要請があったことは間違いないが、当時わが国の司法行政界にドイツ志向の動きはまだ弱かったのであり、ひとり法学の井上毅のみがドイツ主義を推していたにすぎなかった。
     ロエスレルの存在が俄然注目され出したのは、明治十四年政変の序曲である大隈重信の憲法意見書が提出されたときのこと。これに異論し、退けるために井上毅は、ロエスレルから、プロシア憲法及び法制度について学んだ。ロエスレルに伝授された知識は、岩倉具視の憲法意見書に盛り込まれ、また伊藤博文など政府要路者の政見に強く反映されることになる。
     ロエスレルの当初のお雇い期間が終了すると、今度は伊藤がロエスレルを宮内省に招いて、自らの憲法起草にロエスレルをアドバイザーに起用した。
     明治憲法は、伊藤博文のもと、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎が起草したものといわれるが、彼らの横にはロエスレルがいた。
     ロエスレルは、このように明治憲法の実質的な起草者だったが、政府は憲法が外国人の関与によって成立したことを極力表に出すことを嫌った。今では、明治憲法がロエスレルの助言によって作られたものであることは自明のことだが、ロエスレルは明治憲法の第一条の「万世一系の天皇」について、神話のような表現を憲法にもち込むべきではないと強く反対の意を唱えた。
  • [54] mixiユーザー

    2008年07月12日 01:31

    ノッチ
    単独で調べればあるんじゃない?
  • [57] mixiユーザー

    2008年07月12日 03:02

    井上毅にドイツ法学を教授したのがロエスレルであったが、ロエスレルは井上が万世一系の天皇の表現の点など天皇を神聖化したシラス論に対し神話に類似した表現を憲法に持ち込むべきではないと強く異を唱えていた。また予算案が内閣と議会で一致しなかった場合の件で、井上は前年度予算案の採用、ロエスレルは君主の採決を主張していた。

    これしかわからんや…
    てか問題なぜ対立だったあせあせ(飛び散る汗)
    本みないとわからんなこりゃたらーっ(汗)
  • [58] mixiユーザー

    2008年07月12日 03:16

    >稲刈り
    レジュメ見てもわからなそうだから大丈夫ウッシッシ指でOK今度のテストの時にでもちょうだぃ

    >Mr.みふー
    だよねたらーっ(汗)対立してるとこなんて見当たらないし冷や汗
  • [60] mixiユーザー

    2008年07月12日 13:49

    出ないことを祈るかウッシッシ手(パー)
  • [61] mixiユーザー

    2008年07月12日 16:41

    一番でそうじゃね?あせあせ(飛び散る汗)(笑)
  • [62] mixiユーザー

    2008年07月12日 23:53

    確かにあせあせ(飛び散る汗)今日ゎ徹夜だ力こぶ夜
  • [63] mixiユーザー

    2008年07月13日 00:27

    歴史学
    〜中江兆民と自由党〜

    中江兆民は自由党の初期メンバーの一人であり、党の機関紙である「自由新聞」の社説を手掛けた。その後、自由党員による激化事件により自由党は衰退し、解党した。明治20年、兆民は保安条例により東京を追放された。国会開設が近づき自由党が再び結成された。議会が始まると自由党は民党として改進党とともに政府と対抗していたが、明治24年、土佐派議員が政府によって懐柔され改正予算案に賛成するということが起こった。これに激怒した兆民は議会を「無血虫の陳列場」と痛罵し、衆議院議員を辞職した。兆民は自由党を脱退した後も改進党との協力を促し、政府に対抗する組織としての憲政党の成立に尽力した。このように中江兆民は自由党を政府に対抗する党であるよう願っていたのであった。
    (323字)

    ちょい足りないかもブタ
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  • 2008年07月10日 (木)
  • 東京都 高橋宅
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