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ミラノ風ドリア(仮)コミュの周藤対策

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ちょっと遅いかも知れんが、やるとこはってこう。かぶってるとこは補い合っていこう。

※社会学入門

コメント(5)

歴史と記憶

一般の人々は歴史は存在したもの、すなわち事実として認識している。ゆえに、歴史は疑いようのない真実であるというのが一般の考えである。これは本質主義の考えであるしかし社会学の考えでは違う。社会学では構築主義という考えの下に歴史を認識する。構築主義とは歴史は人々の手によって社会的に構築されるという考えである。どういうことかというと、歴史はただ事実としての知識ではなく、歴史自体が経歴を持ち、その過程によって成り立つというものである。つまり、その歴史はどのように、‘歴史‘として定着していったのかを考察することによって歴史を認識するのである。その過程は言語によって記述される。これは歴史は事実であり、史料をもとに証明される歴史実証主義とは異をなす。構築主義では、物語られることによって歴史として成り立つため、‘言語的創造物‘とも言われる。これは歴史は客観的な事実ではなく、歴史は様々な解釈、すなわち‘想起‘されることによって成り立つことを示す。従って歴史は言語によっての記述なしでは存在できない。つまり、歴史は記述されることによって存在するため、事実として完結した歴史というのは存在しない。歴史は絶対不変のものではなく、修整され改ざんが可能である。これを歴史修正主義というが、これは国家に利用されてきた。例えばドイツのナチスによるホロコーストは存在しなかったといったことや、中国による南京事件の大量虐殺の存在、従軍慰安婦の問題や、日本の朝鮮統治などが挙げられる。この歴史の構築は国民に‘歴史‘を共有させることによって集団としての記憶、アイデンティティを形作り、しばしば戦争に利用されてきた。歴史は真実とは結びつかない場合もあるのである。そのため歴史は、時は流れるものではなく、蓄積するものであるといえる。ヴィトゲンシュタインは「物語りえないことは沈黙せねばならない」といっている。

マックスウェーバー:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神まずその議論の始まりは、資本家や経営者などの資本主義的成功者にはプロテスタントが多いと統計で判明したこと・カルヴァン主義の国は資本主義が発達していたことであった。この資本主義と宗教の関係は一見対をなすものであるが、そこでウェーバーはこの2つは意図せざる結果であり、宗教と合理的営利主義の関係性・禁欲主義と資本主義の営利活動の関係性を仮設としてうち立てた。仮説を説明するうえでまずウェーバーの唱えたエートスを説明したい。エートスとは何か行為するときのその倫理的原動力である。その原動力は習慣によって作られたのもだが、決して受動的ではなく主体的な選考によってもたらさるものである。このエートスが勤勉節約によって利潤を追求するというものである。これが資本主義の精神である。一方プロテスタンティズムの倫理の特徴であるが、まずウェーバーは宗教は心の救済というマックスシェーラーの定義にもとづく。さて、プロテスタンティズムはカトリックのような修道院・聖職者の特権性を否定し世俗の生活を重視することを特徴とする。神と個人の関係を重視したのである。ところで、ルターやカルヴァンの唱えたものに人間は神は自分の努力により救われるという原罪を与えたため、自分は罪深いと考え祈り働くことで救われると考えた。現在こそが神によって職業を決められたという召命説に基づく転職の考えである。またそれによって得たものは享楽のため使ってはいけないと考えたのである。次に、プロテスタンティズムと資本主義のその関係性についてである。カルヴァンの予定説から述べていく。これは神は救う人間を予め決めているが、人間は救われるか・救われないかは分からない。そこで人間は先ほど述べたように労働をしていれば救われると考え、勤勉に働いた。それによって金銭が蓄積し、その蓄積によって救われたと考えたのである。しかし、先に述べたように享楽のため使ってはいけないため、その蓄積は更なる利益の追求に使われより大きな利潤を求める。これが営利主義の始まりであり、資本主義の発展に寄与したというわけである。そして時代が進行するにつれ宗教の観念が希薄化し利潤の追求時代が目的化したというわけである。総じていうとウェーバーは神の絶対性と人間の無力さ・人間の勤勉の道徳と救い・神の救いと勤勉節約の考えを結びつける弁証法的統合を行った。これによりウェーバーはプロテスタンティズムと資本主義の精神の関係性を明らかにしたのである。
やっつけ仕事だけど 一応うp

犯罪と逸脱

犯罪とは根源的には超越的権威への冒涜という位置づけをされている。つまりある社会に定着している「共通の信念」や共通の価値観を侵犯するとき初めて、その行為は犯罪とみなされ、社会の非難を浴びるのだ。一方で非難をした社会のほうはより一層強い連帯感を持つようになる。このように犯罪は一般的にマイナスなことと捉えられている一方、社会に対しプラスの機能をそなえている。この犯罪が持つプラスの機能のことを犯罪の潜在的機能という。ここには少数の犯罪者とその他多数による社会集団という対立図式が見られる。同様な構造をもつものとして逸脱者と社会集団との関係がある。逸脱とは人間の行為の性質を表すものではなく、大多数の社会集団がある特定の行動を規制しその行動をする者を違反者とみなすことで逸脱者というレッテルを貼るのである。そして逸脱者のレッテルを貼られたものは、それ相応の扱いを受けることで、より逸脱者らしい行動をとるようになっていく。社会集団が逸脱者を生み出そうとする背景には、社会が逸脱者の存在を必要とするというスケープゴート論がある。このように犯罪や逸脱というものは社会における連帯や共通意識を得たいがために、特定の者を社会の外部に追い出すことで生まれるものである。
消費社会

消費社会とは人々の欲求が生産の量的質的拡大を導く社会のことである。そこでは欲望が消費を生み消費が欲望を生む循環によって成り立つ。その消費社会の成立は物質的に豊かとなり、時間的余裕も有する社会が前提となる。そもそもモノの消費はそのモノの有用性だけでは決まらない。ウェブレンは社会は物質的必要を充足された後どうして経済は成長するのか?という問いを立てた。ウェブレンはモノの機能を顕在的価値と呼び、さらに消費の原因となるものに潜在的機能として誇示的消費を提唱した。それは人は集団の中での社会的差異化を求め、その社会的地位を誇示するための消費である。そのモノに付随する社会的な意味・価値を記号価値を定義し、消費社会ではこのコードが消費される社会であると定義した。ボードリヤールはこのウェブレンの学説を継承し、この消費は人々に共有される記号のコードの交換やコミュニケーションであり言語活動であると定義した。このように現代の消費は個人のアイデンティティの規定の問題を含んでいる。それは産業革命時代からの安価な大量生産の差異化の消滅への反抗の中で醸成されたものである。そのため、消費社会は個性が重視される社会であり、その社会的差異化のシステムの中で人々は流行をモードという規範として消費を行う。マーケティングではモノの広告ではなく、イメージの流布を目的として広告を行う。消費は他者と同化することを欲望しながら社会的差異化を欲求するというパラドックスを含む。また消費社会では、複製技術の発展により実物より複製の方が接触機会が多いため、複製が実物に先行するというハイパーリアリティの現象に直面している。
社会学の性質

社会学は社会諸科学の総称である社会科学のone of them にすぎないが、政治学や経済学とは違い異質な性質を持っている。社会学は3つの特質を持っている。まず一つ目は総合科学の面である。政治学や経済学は独立した一つの分野対象を持った個別科学である。しかし、社会学には確固とした学問分野がない。社会学は総合科学としての性質を持っている。社会学は社会諸科学の分野すべてを対象としてしまう科学なのである。他の科学を利用し、そこから新しい科学を創造する。固有の基盤となる分野はなく、他の学問の成果を媒介し、様々な科学と総合して他の科学では見えない新しい観点をもたらしてくれる。ジンメルはこれを二乗の科学と表現した。越境する知としても呼ばれる。2つ目に残余科学としての特質である。社会学は折衷的であることもあり、他の社会科学が対象としない分野を対象とする。そのため残余科学とも呼ばれる。これが2つ目の側面である。3つめは社会学が個別科学としての側面である。これはすべてを対象とするということ自体を固有の特徴としているということである。そのため最後の社会科学と呼ばれる。また社会学は人々の生活や社会科学の在り方など多様な視点で社会科学の基礎となる部分を対象とする。そのため下からの総合という側面もある。

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