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トヨタの足元コミュの職人の誇り置き去り カローラの魂<3>

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1949(昭和24)年、トヨタは倒産のがけっぷちだった。賃金カットや相次ぐ遅配。社員は仕事そっちのけで集会をやり、「カネよこせ」とシュプレヒコールを叫んだ。

 野田孝夫(84)は突き上げられる拳を見るたび、思った。「これじゃ会社がつぶれちまう」。妻と乳飲み子の娘を抱えていたが、カネのことより、職工として「ほれた会社」を追い詰める気になれなかった。

 野田は戦前にできた「技能者養成所」の1期生。ときに「会社の犬め」と怒声を浴びながら、会社を守るために走り回ったのが彼らだった。

 夜ごと、社員の自宅を回って、スト回避を説得したり、ビラを配る。熱心な組合員に見つからないよう深夜、人けのない工場で機械に挟み込んだ。

 自宅にガリ版刷りを持ち込み、ビラを刷ったのは当時、入社したばかりの元常務、坪井珍彦(うずひこ)(82)。人事担当の上司の命令ではあったが「養成工の人たちとは気があった」という。

 たたき上げの職人と大卒のエリート。立場は違うが「同じ釜のメシを食う仲間だ、って思いは一緒だった」。そこには職人もエリートも、たぶん労使の区別すらない“一体感”があったのだろう。

 「会社、組合とも相たずさえて努力することを誓う」

 62年、労使が激しく争った経営危機を教訓に生まれた「労使宣言」について、起草した坪井は「なれ合いとはまったく違う、理解と信頼の象徴」とし、「労使がお互いの人間関係の絆(きずな)を強めることが狙いだった」と真意を説く。

 その絆は4年後の「カローラ」発売に結実するが、トヨタの急成長とともに変質していく。

 カローラの初代から3代まで試作にかかわった後、野田は技能教育課長になった。しかし「生産量が増えるにつれて機械化が進み、仕事の質も評価も変わっていった」という。

 野田の教え子が技能五輪で金メダルをとった時、上司に「手作りだからって、高く買うか?」と面と向かって言われたショックは今も忘れない。

 「へこんだよ。技術の高さより、1秒で何個できるか、単価はいくらか。そんなことが評価の基準になっちゃった」

 あの争議のころ、野田たちが「トヨタを守る」ために走り回ったのは、トヨタが現場の価値を高く認め、「職人の心を大事にする」会社だったからだ。

 技能五輪に出た“弟子”たちとつくったそろいのジャージー。野田は定年から四半世紀がすぎても、ところどころ穴が開いたそれを大切に着続けている。 =文中敬称略

 【経営危機】 戦後不況と販売代金の遅延で経営が悪化。50年の人員削減では社員約8000人中約2000人が退職した。豊田喜一郎はいったん「削減はしない」と約束したが、銀行などの圧力に耐えきれず、ほごにしたため、引責辞任した。トヨタはこれ以降、1度もリストラをしていない。

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