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トヨタの足元コミュの一体感どこへいった カローラの魂<2>

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トヨタの原点には「職人の夢」があった。

 1938(昭和13)年9月、日本でも初めての一大自動車工場「挙母(ころも)工場」が愛知県挙母町(現豊田市)に完成した。「どうしてこんな田舎に」。豊田式自動織機を発明した豊田佐吉(1867−1930年)の長男で、創業者の喜一郎は記者の質問にこう答えている。

 「質実剛健な職工を養成し、着実に仕事ができるようにして“安価で良い車”を製造したいのです」

 当時、自動車事業は東京の大資本でさえ参入に二の足を踏んでいた。喜一郎は、こうも言っている。「こんな事業を向こうみずにやるのは余程の阿呆(あほう)」。それでも「国のために役立てば満足です」と。

 養成工1期生の板倉鉦二(せいじ)(82)は喜一郎を「経営者っていうより職人だった」と振り返る。

 技能者養成所(現トヨタ工業学園)に入所して間もないある日。ちょうど昼のサイレンが鳴った時だった。

 「おーいメシだぞ」。現場の組長の呼び声に「おーい」と返し、車の下から這(は)い出してきたのが喜一郎。油でべっとりと汚れた作業着が“一緒に頑張るぞ”と無言で語り掛けてきた。

 日本人の手で日本人のための大衆車を−。夢を果たせないまま喜一郎は52年、脳出血のため、57歳の若さでこの世を去った。

 その3年後、トヨタは初の大衆車「トヨペット・クラウン」を発売。喜一郎の遺志を継いだ従兄弟、豊田英二(現最高顧問)と養成工1期生との座談会で、板倉は「喜一郎さんに、自分の手で東京まででも走らせてほしかった」と泣いた。

 死去から14年後の66年に「カローラ」が庶民に手の届く価格で登場。喜一郎の夢見た「安価で良い車」がついに日本中を走り回った。

 カローラの試作にも携わった板倉は75歳で子会社を辞めるまで60年間、トヨタ一筋に勤め上げた。「僕らはトヨタ一家」。そう信じ、喜一郎が示した道をずっと歩んできた。

 板倉は最近、現役社員からこんなトヨタの今を耳にした。

 「成果主義で人のことは構ってられない。社内の連絡もメール。職場を離れたらお互いプライベートな時間だと思ってますよ」

 もはや社長が油にまみれる時代ではない。しかし、夜ごと、自宅に集まり侃々諤々(かんかんがくがく)やったカイゼン談議には、広く世のためを願った喜一郎に通じるトヨタマン共有の心意気があった。

 OBとして世界一は誇りだが、トヨタらしい一体感が薄らいだように見える今、ふと不思議に思う時がある。

 「みんな何のために頑張ってるんですかねぇ」

  =文中敬称略

 【技能者養成所】 挙母工場完成の翌39年、工場内に開設。喜一郎がいう「質実剛健な職工」を養成するため、主に東海地方から14、15歳の少年が養成工に選抜され、寮生活を送りながら自動車製造技術を学んだ。02年から「トヨタ工業学園」。卒業生は計1万5000人。

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