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伊伎國見聞録コミュの−16−

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高天原は対馬から壱岐に移動した

 神々の動向(どうこう)から、高天原(たかまがはら)も、葦原中国(あしはらなかこく)も壱岐島内にあったと考えられますが、その前に、「高天原は対馬から壱岐の北部に移動した」と考える根拠を説明します。

一、天の神を名乗る神社
 対馬には「天」のつく神社が数多く存在しています。延喜式内社では、天神多久頭魂神社、天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)、阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)の三社ですが、「対州神社誌」によれば、それ以外に二十一社「天」のつく神社があるそうです。二十一社のうち、天神宮として後世の菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする神社が二社あり、それを除けば、対馬には「天」の字を戴(いただ)く二十二社社もの神社があることになります。

 一方で、高天原の主要な神々(天照大御神、天忍穂耳命、天兒屋根命、天手力男命、天宇受賣命など)の名にも「天」の字が冠(かん)せられており、神社の「天」と無関係とは思えず、高天原の神々の本籍地は「天つ国」即ち、対馬ということになります。

(参考)壱岐で「天」のつく神社は式内社では、天手長男神社、天手長比賣神社の二社、式内社ではない神社の中に、天満神社が五社ありますが、何れも後世の菅原道真、菅相国、吉祥女を祭っています。
しかしながら、天つ神の行動の背景は、あきらかに壱岐の風景を背景にして描かれており、高天原の神々の本籍地は対馬、現住所は壱岐という構図がみてとれます。神々が対馬から壱岐に移住したことを示唆する傍証(ぼうしょう)もあります。


二、神域の伝承
対馬は山国で、南北に細長く続き、約九十?山林で覆われ、最高峰は矢立山(やたてやま)の六四九?です。
魏志倭人伝では『土地山険、多森林、道路如禽鹿(きんろく)径(土地は山険(けわ)しく、森林多く、道路は獣道(けものみち)のようだ)』と記され、中世の日本の室町時代のことを記した朝鮮の書・海東諸国紀では、対馬は次のように紹介されています。

『南北に高山あり、皆天神と名づく。南を子神と称し、北を母神と称す。その俗は神を尚び、家々素饌を以て之を祭る。山之草木禽獣を敢て犯す者無し。罪人は走りて神堂に入れば、則ち亦敢て追捕せず』とあり、天つ神は対馬の高山と関係ありそうです。

二つの山を神格化し、周辺一帯は「神域」になっていたという記載は、対馬の霊峰・竜良山(たてらさん)(天道山)の雄獄(おだけ)(南)と雌獄(めだけ)(北)に重なりますが、同じ状況が壱岐の谷江川の流域(現在の芦辺町)にもあります。

男岳(おだけ)(一六八?)、女岳(めだけ)(一四九?)と呼ばれる一対の山があり、夫々の山頂には男岳(男獄(おんがけ)とも呼ばれる)神社、女岳神社があって、周辺一帯は今も神域になっています。

 即ち、対馬の風景がそっくり壱岐にあり、赤島、黒島などの小島の名前も共通しており、対馬の「天つ神」が、故郷の景色を壱岐に持ち込んだものと考えられます。

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