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伊伎國見聞録コミュの−14−

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二、異国の襲来
 六六三年の白村江の敗戦により、任那と制海権を失って以来、日本は守勢にまわることになります。壱岐には十四箇所の狼煙(のろし)台(だい)を設置し、防人(さきもり)を置き、城を築くなどの防護を固めましたが、充分な備えではありませんでした。


 防人は大和朝廷が新たに支配下においた東国の農民をあて、人数も壱岐・対馬を合わせて三百人程度に過ぎません。


 八九四年、新羅の賊が壱岐を襲い、官舎などが悉く焼き払われ、九世紀にはこのほかにも、新羅や正体不明の海賊が壱岐、対馬、北九州沿岸に度々侵攻しました。

たのみの大宰府は自分の身を守るのに窮(きゅう)して、賊を追尾(ついび)し、外敵を討つだけの力はありませんでした。

九九七年、奄美などの賊が壱岐、対馬の沿岸を襲い、民家を焼き、財物を掠め取っています。


*刀伊の襲来
一〇一九年、賊(ぞく)船(せん)五〇隻が対馬を襲い、引き続き壱岐を襲いました。


*蒙古の襲来
一二七四年、文永(ぶんえい)の役(えき)と呼ばれる元の大軍の襲来があり、一二八一年、再度元軍の来襲がありました。(弘安の役)
襲来は予め予想されていましたので、九州本土は防備を固めていましたが、対馬・壱岐の防備は狼煙(のろし)台(だい)を設け、見張りの兵を置いた程度に過ぎず、異国の襲来の度に主要施設は焼き払われています。



三、祭神の分祀
 忘れ去られた決定的な原因は別にあります。
 顕宗(けんそう)天皇(てんのう)の三年(四八七年)二月、天皇の命令を受けて、阿閉(あべの)臣事代(おみことしろ)が任(みま)那(な)に使者に発(た)ちました。

途中、壱岐に立ち寄った際、月(つきの)神(かみ)が人に憑依(ひょうい)して『我が祖先の高皇産(たかみむすひ)霊(のみこと)は天地の創造の際に大変功績のあった尊い神であるゆえ、我(月神)に都の土地を献上しなさい』と伝えました。

阿閉臣事代は都に戻って詳しく伝えた結果、朝廷は山背国の葛野(くずの)郡にある歌荒樔の田を献上し、壱岐の県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)は壱岐の月読神を分霊(ぶんれい)し、京都(松尾大社の南)にお祭りしました。

押見宿禰は都に出仕し、単に卜占(ぼくせん)を行ったわけではありません。卜占は中国から伝来した占術(せんじゅつ)ですが、中国や古代の日本では、本来、科学と呪術は一体のものであり、天文や医術の分野においても最先端の知識を身につけており、更に近隣諸国の事情にも明るいこともあって、卜占に限らず、多方面での知識を合わせ持っており、三顧(さんこ)の礼をもって迎えられたはずです。

(参考)歌荒州田の卜部(うらべ)家の秘本(通称・松尾社家系図)によれば、天児屋根命の十八代の孫として押見(おしみ)宿(のすく)禰(ね)の名前が見え、今も所縁(ゆかり)の人たちは、京都から壱岐の月読神社に参集し、押見宿禰を偲(しの)んでいます。

四八七年四月、阿閉臣事代が対馬に立ち寄った際にも、日(ひの)神(かみ)が人に憑依(ひょうい)し、「磐余(いわれ)の田を我が祖・高皇産霊に献上せよ」と伝え、朝廷は言われるままに、田・十四町を献上し、対馬の下(しも)県(あがた)直(のあたひ)が日神を分祀し、出仕しました。


 壱岐の月神が月読神で、分祀したのが月読神社であり、対馬の日(ひの)神(かみ)は、照(てる)日権(ひごん)現(げん)で、分祀したのは、対馬の下県郡にある阿麻氐留(あまてる)神社であるとされています。


 中央に進出した「照日権現」は、後に、天照大御神として伊勢神宮の内宮に祭られ、全国民の篤(あつ)い尊崇(そんすう)を受け、月読神社も併設されていますが、壱岐の月読神社、対馬の阿麻氐留神社が親元であることは忘れ去られ、分祀だったはずが、いつの間にか遷祀(せんし)に変わってしまったことになります。

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