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200×年映画の旅コミュの8月下旬号(新作ばかり)

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8月下旬に侘助が観た映画たちです。


「紙屋悦子の青春」(8月22日 岩波ホール)
2006年/監督:黒木和雄

【★★★★ 漫才のような日常会話が繰り返されるうちに浮かび上がる戦争の悲劇。黒木の長回しが威力を発揮】

 黒木和雄の前作「父と暮せば」は、恋をすることに躊躇する娘・宮沢りえと、彼女の恋を後押ししようとする父・原田芳雄との会話の中から、広島の被爆という悲劇を浮かび上がらせた井上ひさしの原作戯曲を、演劇的な演出を施しながらも、繊細な照明設計によって見事に画面にしてみせた上、役者から最良の芝居を引き出してみせた佳作でした。ちょうど2年間の夏に公開された映画でしたが、わたくしは深い感銘を受け、その年の個人的なベストテンの1本として選出しました。
 今度の新作「紙屋悦子の青春」も、前作に続いて戦争を主題にした戯曲を映画化したものらしいことを聞きつけ、期待を寄せていたところ、この映画の完成直後黒木が75歳で亡くなってしまい、これが遺作となりました。
 冒頭、ビルの屋上に置かれたベンチが超ロングの構図で映し出され、そのベンチに年老いた夫婦が腰掛けているのが見えます。「お前、寒いんじゃないのか、膝掛けを持ってきたほうがいいんじゃないか」「お父さんのほうこそ寒くないんですか」などという他愛ないやり取りが延々と繰り広げられるのを、キャメラはゆっくりと左方向に移動しながら映しとってゆくのですが、何せロングの構図ゆえ人物の表情は窺えず、ただ話し声だけがスクリーンから響いてくるのを耳で受け止めるしかありません。あまりにも極端なロングが続くので、いささか疲れてきたことは否めず、今度の黒木作品は相当に頑固な作りなのかも知れぬと覚悟を決めて画面に向かいました。
 キャメラがようやく二人に近付き、ミディアムサイズで二人を切り取ると、その会話から、夫の永瀬正敏が入院している病院に妻の原田知世が見舞いに訪れたところであることが観客に示され、二人が近くで咲いている桜の花を話題にしたことから、二人が出会った頃に咲いていた桜のことが共通の記憶に浮上して、物語を1945年3月末へと導いてゆきます。
 ところは原田扮する紙屋悦子の実家がある鹿児島県の地方都市。満開の桜の脇を抜けて帰宅途中の悦子を素描したのち、キャメラは彼女の帰りを待つ家の中へ。家では悦子の兄・小林薫とその妻・本上まなみが夕食を囲んでいるところで、やれ芋の煮物がやや酸っぱくなっていないか、とか、配給になった高菜の漬物が旨い、とか、他愛のない日常会話が延々と繰り広げられ、小林と本上による薩摩弁の極端なまでのエロキューションに違和感を覚えつつも、まるで夫婦漫才のような掛け合いに微苦笑を禁じ得なくなるのであり、この二人芝居の呼吸をまるごと映し出すために黒木が採用した長回しの徹底に圧倒されてしまうのです。
 そうした夫婦漫才の過程で、悦子のもとに急な見合いの話が持ち込まれたという情報が、兄・小林によって観客にもたらされます。悦子が長い間憎からず想っていた海軍将校が、自分の親友である士官を悦子の結婚相手としてどうかと縁談を持ち込んだというのです。悦子とは女学校時代から親友として気心を通じ合っている義姉・本上は、縁談を持ち込んだ当の将校こそ悦子の結婚相手として相応しいと小林に詰め寄る中、悦子本人が帰宅し、見合いの話をあっさり受け入れてしまいます。
 こうして、翌日には海軍将校・松岡俊介が親友の士官・永瀬を連れてくるという形で、悦子とのお見合いが行なわれることになります。小林・本上による夫婦漫才に呼応するように、松岡・永瀬の二人が悦子とどのような会話を交わせばよいかを巡って漫才のような掛け合いを展開し、黒木がワンカットの長回しを貫くことによって役者二人の呼吸が見事にスクリーン上に反映され、観客席からはまたしても笑い声が絶えないこととなります。
 黒木和雄という監督は、多くの登場人物をフレーム内に出し入れすることによって画面にテンポをもたらすような器用さを持ち合わせた人ではありませんが、前作「父と暮せば」にせよこの新作にせよ、二人芝居を愚直なまでに長回しで押してゆくという、己の不器用さを自覚した方法論によって画面に説得力を持たせ得ることに気付いたのかも知れません。
 かつて悦子を一目見た時から一途に想いを寄せていたという永瀬の実直さが観客の胸にも届き、内心では松岡のほうに断ち切り難い想いを抱きながらも永瀬のストレートさを受け止めようとする悦子にも、観客は清々しさを感じることになります。そして松岡のほうも悦子に対する想いを胸に秘めながら、戦局が悪化し米軍によって占領された沖縄を奪還すべく特攻隊に志願するという義勇に駆り立てられる形で、戦時下に置かれた青年の悲劇を体現して、観客に感銘を残します。
 おはぎ、弁当箱といった小道具を見事に活用しつつ、日常の他愛ない会話を展開しながら、じんわりと戦争の悲劇を浮かび上がらせる原作戯曲も素晴らしいのでしょうが、見た目の地味さから逃げず、現代の病院屋上と戦時下の鹿児島の民家という2ヶ所に場面を限定して、他愛ない会話を繰り返すという冒険的な作劇に挑んでみせた黒木も立派でした。
 生前の黒木は、この作品に続いて映画監督・山中貞雄の伝記映画の準備に意欲を燃やしていたそうです。山中のような日本映画史上最高クラスのテクニシャンのことを黒木みたいな不器用な監督が映画にするということに、わたくしは違和感を拭えずにいましたが、黒木が亡くなった今となっては、山中伝記映画を作らせてあげたかったという思いが湧き上がっているところです。


「ゲド戦記」(8月23日 日劇2)
2006年/監督:宮崎吾朗

【★★★★★ 少年が引き裂かれた自己と格闘し自己同一性を回復する物語は冷静に観られず、強い印象残す】

 わたくしの周囲の評判では、どちらかと言うと辛口評が多いようですから、あまり期待していませんでしたが、この日は銀座シネマ・ポイントカードでシールが6枚貯まってタダで観られたため、足を運ぶことにしました。
 荒れた海の上を竜が2頭飛び交い、1頭が他方を食い殺すといった事態を描くイントロから、やたら派手な音響で画面を飾り立てるものの、肝心の絵には音ほどの迫力や躍動感がなく、評判通り大した映画じゃないかも知れないと思いましたし、この国の王様が閣僚を集めて自然の異変について対策を講じようとする展開も、映画を観終わった今となって考えてみると全体の物語の中で有効に機能していたとは到底思えません。
 そんな中で、王の息子アレンが突然父たる王を刺し殺すという事件が起き、一切の事情も説明されないわたくしたち観客はただ茫然とするほかないのですが、このアレン少年による“父殺し”という尋常ならざる事態を招いた原因が次第に明かされるのだろうと画面の推移を追っていると、その原因は一向に説明されることなく物語が進んでゆくものの、ハイタカという名の魔法使いの老人や彼の古い友人であるテナーという中年女性、テルーという名の顔に痣がある少女などとアレン少年が出会う一方、死への恐怖が募るがゆえに永遠の生を手に入れようと邪悪なる能力を人間界に及ぼそうとする女魔法使いクモとその手下たちによって、ハイタカやテナー、テルーらがトラブルに巻き込まれるという事態と直面するうち、暴力衝動を抑えられない“もう一人の自分”に怯えるという形で心が引き裂かれたアレンが、周囲の人々との触れ合いの中で次第に己の自己同一性を回復してゆく過程が描かれるのであり、つい最近心を病んでしまった息子を持つ身であるわたくしとしては、この少年
のことを他人事として批評的に見ることなどできず、ひたすら息を詰めて画面を凝視するほかありませんでした。
 “もう一人の自分”に圧倒された時のアレンは、普段のおとなしい表情を一変させ、眼を剥くように見開いて凄まじい力を発揮する一方、普段の時は自分の“影”に怯え、その影によって自分が乗っ取られることの恐怖に苛まれているのですが、彼が苦しんでいる様子は観ていて憐れでならず、冷静に画面を眺めることなど出来なかったのです。
 善と悪との境界線が明確に引かれ、一度は悪に心を奪われそうになった少年アレンが、テルーの手引きによって“影”との同一性を獲得し、悪と対決する中で、死んだと思われたテルーが、己の生への意欲を昇華させた末に竜へと変身するというカタストロフを経て、悪の権化たるクモを倒すに至るという物語構成は、あとから考えてみればあまりにも直線的に単純化され過ぎているようにも思えますし、グウィンの書いた原作は未読ゆえ偉そうなことは言えないものの、恐らく壮大なものであろう原作世界を矮小化してやしないか、という憶測も働いてしまうのですが、映画と向き合っていた時間の中では、わたくしの中にはそうした冷静な判断が働く余裕などなかったのであり、わたくしにとっての“いま・ここ”と強烈に切り結ぶ印象を残してくれたのでした。その意味で、わたくしにとっては特別な映画だったのであり、謹んで★5つを献上したいと思います。


「グエムル 漢江の怪物」(8月24日 シネマメディアージュ・シアター13)
2006年/監督・原案:ポン・ジュノ

【★★★★ ポン・ジュノらしい社会性を帯びた寓意に満ちた上、エンタテインメントとしても上出来の面白さ】

 わたくしの勤務先が主催する試写イヴェントでこの映画が上映されたため、一般公開の前に観てきました。
 韓国気鋭の監督ポン・ジュノの映画は、あるマンションにおける子犬連続失踪事件をモティーフにした可笑しくも哀しき小市民人間喜劇から韓国の現代人が抱えた閉塞感や諦念を浮かび上がらせたデビュー作「ほえる犬は噛まない」、1980年代後半に韓国で実際に起きたという連続婦女暴行殺人事件をモティーフにした刑事の悪戦苦闘ぶりの中から韓国の高度経済成長の陰に隠れた暗部を浮かび上がらせた「殺人の追憶」の2本とも、ウェルメイドなエンタテインメントとしてキチンと成立させながら、背景となった時代と切り結ぼうとする社会意識をしっかり持ち、映画にリアリティと迫力をもたらしてしまう語り口に唸らされたものです。
 そのポン・ジュノが、今度はこともあろうに怪獣映画に取り組んだらしいことは風の噂に聞いていましたし、その映画が本国では記録的なヒットとなり、去年から今年にかけて韓国歴代興行記録を塗り替えたばかりの「王の男」を早くも追い抜く勢いでヒット街道を驀進しているらしいことも聞いていました。 しかし、なぜポン・ジュノが怪獣映画というジャンルを選んだのか、わたくしには訝しく思えたことは事実で、正直なところ期待半分、不安半分という状態でスクリーンに向かい合ったのでした。
 2000年、ソウル市内にある米軍基地遺体安置所。米軍科学者は、埃をかぶったまま放置されている大量のホルマリン壜の中身を廃棄するよう韓国人係官に命じます。これを棄てればソウルの中心を流れる漢江に流出してしまうと警告する係官の言葉に耳を貸さず、ホルマリン廃棄を主張する米軍科学者。大量の空き壜を横移動で捉えた絵がゆっくりフェイドアウト。
 場面が変わると、漢江で釣りを楽しんでいる男性二人を捉えたロングショット。一人が川の中で奇妙な動物が泳いでいるのを見つけたらしく、持っていたバケツに動物を掬い上げます。そしてもう一人がバケツに手を突っ込むと、動物が指に噛み付いたらしく、咄嗟にバケツを放してしまう男。フェイウドアウト。この間、キャメラは一貫してロングの構図をフィックスで捉えたままです。
 さらに場面が変わると、2006年とクレジットされ、大雨の中で一人の中年男が、漢江にかかるジャムシル大橋から飛び降り自殺しようとしています。それに気づいた友人たちが駆け寄ると、中年男は川の中に異様な物体を発見したらしく、これから恐ろしいことが起こるぞ、と警告を発したまま、川の中に飛び込み自殺してゆきます。男が飛び込んだあとの川面に不気味な渦ができているところにメインタイトルがかぶります。
 冒頭の3シーンを、ザラついた画質で統一しつつ、アップとロングの構図を巧みに組み合わせながら組み立て、来るべき怪物の存在を見事に暗示してしまう語り口によって観客を虜にするポン・ジュノ演出が、出だしから快調です。キャメラは韓国が誇る名手キム・ヒョング、相変わらずキャメラワークからルックの選択まで見事です。
 ここからが映画の本題となるわけですが、前のカットにおける暗い雨の場面とは対照的に、明るい陽光が差し込む漢江沿いの売店の店先で、涎を流さんばかりに居眠りしているソン・ガンホの間抜けさが微苦笑を誘います。ポン・ジュノは前作「殺人の追憶」においても、連続猟奇殺人事件の合間に、ソン・ガンホという稀有な才能を見事に駆使したのどかなユーモアによって映画に人間臭さを付与してゆくという独特の語り口を披露したのであり、今回もガンホ氏の髪を金髪に染めさせ、売店のお釣りをチョロまかしたり、客に出すスルメ焼きの足を1本誤魔化して食べちゃったりさせるというだらしなさを巧みに織り交ぜながら、この怪獣映画に人間の体温を与えてゆくのです。
 このガンホ氏に加え、家長で父親のピョン・ヒボン(「ほえる犬は噛まない」のマンション警備員、「殺人の追憶」の警察班長などポン・ジュノ作品のほか、「ラブリー・ライバル」の校長先生、「クライング・フィスト」でリュ・スンボムを教えるボクシングのコーチなど、声も渋い名脇役です)のとぼけた持ち味、ガンホ氏の妹でありアーチェリーの選手であるペ・ドゥナのオフビートな芝居の間合いなどが、ポン・ジュノ映画らしいユーモアを画面から醸し出しています。
 こうして、のどかな陽光の中で、ガンホ氏の一家がTVでドゥナ嬢のアーチェリー大会の様子を観ているという呑気な空気を打ち破るように、漢江のほとりでは早くもグエムル=怪物が登場し、惨劇が展開することになるのですが、明るい日常と隣り合わせのところに惨劇を置き、わざとらしいおどろおどろしさを排した陽光の下で怪物を跳梁させるポン・ジュノの作劇に唸らされます。怪物が次々と人間たちを襲う様子を、これみよがしのアップの積み重ねで見せるのではなく、ロングのスピーディーなキャメラの動きの中に怪物をCG処理して見せてしまう力技。まさに白昼の惨劇が、本編が始まって15分も経たないうちに観客のド肝を抜くのです。
 こうした状況の中で、ガンホ氏一家がアイドルのように育てている娘コ・アソン嬢が怪物によって攫われてしまい、その怪物の口の中に納まってしまう事態を迎えます。アソン嬢は死んだものと思い、被害者たちの合同葬儀の席で号泣するガンホ氏一家(この時は、ガンホ氏の弟という役柄のパク・ヘイルも葬儀の席に駆けつけています)。怪物が得体の知れぬウィルスを宿しているというニュースが、米軍からもたらされたことによるガンホ氏の隔離入院。しかしその入院先で、死んだと思っていたアソン嬢から携帯電話がガンホ氏にもたらされます。娘が生きていた! 興奮するガンホ氏のことを軍関係者も医師団も信用せず、ガンホ氏を隔離入院させ続けるのですが、これに対してガンホ氏の一家が団結して、漢江のどこかに潜んでいる怪物のもとでそっと生き延びているアソン嬢の救出に向かって立ち上がるというお話が展開します。
 日本の怪獣映画を見慣れた者からすると、軍や警察は根拠のはっきりしないウィルス情報に振り回されるばかりで、怪物そのものと対決する姿勢を見せようとしない展開にはもどかしさすら感じますし、怪物のほうにしてもせいぜい体長数メートルの大きさに設定されたナマズのお化け程度にしか見えない(口が4つに割れて人間を襲うところは、「トレマーズ」の怪物とそっくりですらあります)という物足りなさを感じないでもありません。巨大な怪物が街を蹂躙し、建物を破壊して人々を恐怖に陥れ、これに対して国家権力たる軍や警察が全力を挙げて怪物退治に取り組むというのが、わたくしたちがよく知る怪獣映画のパターンですから、大して大きくもない怪物に対して軍が無力というこの映画の筋立てには、日本人好みの細部は含まれていないとすら言えましょう。
 しかし、人々を襲ってはその胴体の中で咀嚼し、棲み処に戻っては骨だけを吐き棄てるというここでのグエムルの不気味さがわたくしたちの興味を惹きつけるのは、そもそもの怪物の成立経緯が米軍基地の科学者によるホルマリンの大量投棄だったことが象徴するように、この怪物が米軍またはアメリカ合衆国そのもののメタファーとして作用するという、実にポン・ジュノ的な社会性を纏った存在として登場するからです。
 こうして星条旗に身を包んだかのような怪物が我が物顔で漢江を独り占めし、韓国の軍や警察は検問に対しても袖の下を要求するような官僚的な硬直さを示し、国や権力が何もしてくれないなら、自分たち家族が何とか事態を打開するしかないとばかりに、ガンホ氏を中心にした一家が力を合わせ、老父は生命を賭してまでして怪物に立ち向かうのを見て、残された家族はさらに一体感を強めてゆくという、きわめて韓国的なホームドラマが、まるでお伽話のような象徴性を纏って展開するのです。
 ポン・ジュノの映画に魅せられた経験を持たぬ観客は、こうしたあからさまな寓意をわざとらしいものとして忌避するのかも知れませんが、前2作を心底愉しんだ者としては、事前の不安などどこへやら、この新作もまた間違いなくポン・ジュノ印が刻印された彼の映画であることを確認し、嬉しくて堪らなくなってしまうのです。
 それにしても、ポン・ジュノという男は、徹底して“386世代”としての自己同一性に拘る男で、米国の象徴たる怪物に立ち向かう次男パク・ヘイルに武器として火炎瓶を用意しているところなど、笑いを通り越して感動を覚えてしまったほどです。一家の中で比較的地味な役柄を与えられていたと思しきペ・ドゥナにも、最後の最後でキチンと見せ場を用意してあるあたりの、エンタテインメント作家としての呼吸も大したもので、構図設計から人物・怪物の動きなどのヴィジュアル面も含め、この監督の職人としての巧さに唸らされます。ポン・ジュノの映画は、娯楽としての巧さを持った上で、骨太な作家性も併せ持っていることが魅力なのです。
 韓国の観客たちは、この映画に露骨に込められた米国批判に敏感に反応したせいか、ヒット街道を驀進しているようですが、日本では恐らくヒットはしないでしょう。しかし、ポン・ジュノ・ファンとしてのわたくしは、子犬失踪事件、連続婦女猟奇殺人事件、怪獣騒動と続いた彼の映画世界が、次にどこへ向かうのか、大いに期待を寄せたいと思います。


「マッチポイント」(8月26日 シネスイッチ銀座1)
2005年/監督・脚本:ウディ・アレン

【★★ 巧い語り口のラヴ・サスペンスだが、アレンのスノッブらしいシニカルさが透けて見えて好きになれず】

 わたくしはウディ・アレン映画の熱心な追跡者ではありません。彼がダイアン・キートンと蜜月時代に作った「アニー・ホール」や「マンハッタン」「インテリア」といった作品は公開当時に追い掛けたものの、ミア・ファローに乗り換えてからの「カメレオンマン」や「カイロの紫のバラ」あたりからは、わたくしが映画から遠ざかり始めた頃の作品でもあったため敬遠するようになり、時折ヴィデオやTVで「ブロードウェイと銃弾」や「誘惑のアフロディーテ」などに触れる機会はあったものの、劇場では長らくアレン映画にはお目にかからない時期が続きました。しかし、彼がハリウッドの大物俳優を次々と招いて作ったオールスター映画「世界中がアイ・ラヴ・ユー」や「地球は女で回ってる」などは、顔ぶれの豪華さに惹かれてフラフラと劇場に足を運んだのでした。
 アレンみたいにハゲでチビの冴えない初老男になぜ名うての美人女優(ジュリア・ロバーツ、デミ・ムーア、ミラ・ソルヴィーノ、ウィノナ・ライダー、シャーリーズ・セロン、ヘレン・ハント、ティア・レオーニ)が口説かれてしまい、男優たちも彼の映画にはせっせと奉仕してしまうのか理解に苦しみ、ああいうインテリぶったスノッブのニューヨーカーには西海岸の人間は昔から弱かったんだ、などとやっかみ半分の愚痴をこぼしながらも、アレンの法螺話めいたコメディ路線は物語の組み立てが巧く、観ている間は木戸銭に見合った満足感を確実に与えてくれるウェルメイドな映画ばかりなのですから、あとに残るものはないとはいえ、充分に愉しませていただいたのでした。
 今回アレンの毒牙にかかったのは、わたくしも応援している肉厚唇女優スカーレット・ヨハンソン。今度はアレンの相手役ではありませんが、ヨハンソンがアレンによってどんな風に料理されてしまうのか、まずはじっくり拝見しようと思いました。
 物語の主役は、先日観た「M:i:?」で地味なドライヴァーに扮していたジョナサン・リース・マイヤーズ。プロテニス・プレイヤーの彼が、選手としてツアーを重ねる生活に疲れたため、ロンドンのテニスコートでレッスンプロとして働き始めるところから映画は始まります。教え子の中に金持ちの御曹司マシュー・グッドがいて、彼にオペラに連れて行ってもらった際に妹のエミリー・モーティマーに紹介され、モーティマーは最初からすっかりマイヤーズくんに一目惚れしてしまい、彼女の言いなりになって肉体関係を結び、テニスのコーチなどより安定した仕事をという彼女の薦めのままに、彼女の父親の会社に入社し、トントン拍子にいわゆるセレブの仲間入りしてゆくマイヤーズくんを、アレン演出は小気味いいまでのテンポで描いてゆきます。今回の題材はいつものような法螺話コメディではなく、ヒッチコックばりのラヴ・サスペンスなのですが、アレンの話術の巧さは相変わらずの腕前です。ただし、コメディと違って登場人物たちが真面目くさって芝居するアレン映画には、心が弾まないこともまた事実で、自分の社会的地位のためにモーティマーの真心を弄ぶマイヤーズの“しんねりむっつり”した表情には魅力を感じられませんでした。
 こうしてモーティマーという金蔓を手にして、彼女との結婚も目前に控えたマイヤーズが彼女の別荘を訪れた際、モーティマーの兄であるマシュー・グッドの婚約者という設定のスカーレット・ヨハンソンに出逢います。ピンポン台の前に立ち、賭け試合を男性相手に仕掛けているブロンドで妖艶な女性ヨハンソンの放つ魔力のような視線には、観客も引き込まれてしまうのですから、マイヤーズとて一気にのめり込むことになります。義兄の婚約者に心を奪われながら、金蔓たるモーティマーと別れて自立する勇気も持てぬ男マイヤーズ。
 サスペンスもののネタを明かしてしまうのは、ルール違反でしょうから、ここから先は映画を既に観た人しか読むべきではないでしょうが、ある時、売れない女優としての才能を婚約者の母親(つまりグッドの母たるペネロープ・ウィルトン)にバカにされたヨハンソンは、失意の中で、慰めてくれた義妹の婚約者、すなわちマイヤーズと肉体関係を結んでしまいます。ますますヨハンソンの魔力に引き入れられてしまうマイヤーズ。しかし、モーティマーによって約束されたセレブの地位を棄てることもできず、結局モーティマーと結婚します。
 ところが、ヨハンソンと結婚するはずだった義兄が、母親の忠告に従って彼女との婚約を破棄してしまいます。心奪われたヨハンソンが今は“フリー”の身になったことで、またぞろ揺れ始めるマイヤーズ。一度はロンドンを離れていたヨハンソンが再びロンドンに戻ってきた時、偶然再会を果たしたマイヤーズは、一気にヨハンソンに接近し、彼女との性に溺れてゆきます。そして、妻モーティマーとの間にはなかなか果たせずにいた妊娠が、ヨハンソンとの間ではあっという間に成立してしまい、ヨハンソンは自分との結婚を求めるようになるのです。
 こうして粗筋を素描すれば誰にもわかる通り、この物語は、セオドア・ドライサー「アメリカの悲劇」(ジョージ・スティーヴンス「陽のあたる場所」の原作であり、石川達三原作、神代辰巳映画化による「青春の蹉跌」の原形でもあります)を元ネタにした翻案ものと言ってよく、貧しい出自の男が金持ちの娘がもたらすセレブへの誘惑に負けて、糟糠の恋人を蔑ろにするお話なのです。ただし、ウディ・アレンの映画ですから、そこには皮肉なヒネリが加えられています。
 あれよあれよという間に進んでゆくお話は、前述したようにアレンの語り口の巧さを証明しており、飽きずに観ることができることは事実ですが、物語の皮肉な展開には、インテリのスノッブとしてのアレンのシニカルな性格の悪さも露呈しており、読後感はよくありません。好きになれない映画ですが、巧さに免じて★1つオマケ。


「ユナイテッド93」(8月26日 日比谷スカラ座)
2006年/監督・脚本:ポール・グリーングラス

【★★★★ ドキュメンタリー映画的な厳粛さと、死んでいった人々へのリスペクトに貫かれた誠実な映画】

 2001年9月11日に合衆国東海岸の中枢部を襲った同時多発テロ事件から、間もなく丸5年が経過します。
 この間、ハリウッドでは、俳優でもあるショーン・ペンが欧州人プロデューサーの求めに応じてオムニバス映画「セプテンバー11」の一挿話を作ったという例外を除いて、直接的に事件に言及することはなく、黒人監督スパイク・リーの「25時」、メキシコ人監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ「21g」、カナダ人ポール・ハギス「クラッシュ」、ユダヤ人スティーヴン・スピールバーグ「ミュンヘン」等々、間接的な表現で事件の影響を考察する映画ばかりが作られてきました(マイケル・ムーアがドキュメンタリーとして作った「華氏911」は、ハリウッド製品と呼ぶことはできないでしょう)。
 しかし事件から5年を迎えた今年は、この映画のほかにもオリヴァー・ストーンの「ワールド・トレード・センター」の公開が控えているなど、事件そのものを題材にした映画が相次いで作られています。こうした傾向には、そろそろほとぼりが冷めたので、事件を商売にしてもいいだろうという、ハリウッドらしいあざとい算盤勘定が働いているような気もする一方、あの事件が何だったか自省する姿勢がハリウッドに地殻変動をもたらす可能性もあるのではないかとも思え、そのどちらが実態に近いのか、自分が根っからの社会派好きであることを自覚するようになったわたくしとしてはこの眼で確かめたいと思い、早くから前売り券を買って映画の公開を楽しみにしていました。
 映画はまず、夜明けが近づいた薄暗いホテルの中で、アラブ人の若者たちが一心不乱にコーランと思しき教典を読み上げている場面から始まります。これから展開するであろう話から類推するに、彼らが事件の実行犯として航空機を操縦し、自爆テロを実践した若者たちなのだろうと察せられるのですが、手持ちキャメラによる短いカットが畳み掛けられるドキュメンタリー・タッチの作劇には迫力があり、実行犯の事件当日朝の光景など見た人間がいるはずがないので、所詮は作者側の想像の場面だとはわかっていても、実際にこんなことが行なわれたかも
知れぬと思わせるだけの説得力を持っていたのでした。
 続いて場面はニュージャージー州ニューアーク空港に移り、事故機となったユナイテッド航空93便に乗り込むための操縦士、キャビン・アテンダント、乗客、それに事件を引き起こすことになるアラブ人青年たちが続々ロビーに顔を出してゆきます。さらにはハーンドンにある連邦航空管制センターの係官やボストン、NYの空港管制官らも、朝の航空ラッシュ時を迎えてテキパキと日常業務をこなしてゆくのですが、最初に異変に気付いたのはボストンの管制官でした。ボストン発ロサンジェルス行きアメリカン航空11便のコックピットとの連絡が取れなくなり、機がハイジャックされたらしいことに気づいたのです。この情報は直ちに連邦航空管制センターやNYの管制官、さらにはNYにある軍の北東地域防空指令センターにも伝えられ、臨戦態勢が整えられます。
 この間、ユナイテッド93便のほうは朝の空港ラッシュにつかまり、離陸が30分程度遅れており、まだニューアーク空港で離陸の順番待ちをしているところです。
 コックピットとの連絡が途絶えたまま、針路を変更してNYに向かうアメリカン航空11便をレーダーで追いながら、機に一体何が起こったのかわからずに混乱する各管制官や軍関係者たちを、ドキュメンタリー・タッチの描写を小刻みに畳み掛けて見せてゆく迫真性には、わたくしは息をつめて見守るほかなかったのですが、あとで映画のエンドクレジットを眺めていたら、管制官や軍関係者たちのキャストは“HIMSELF”すなわち9月11日の事件に遭遇した当事者本人が多数出演していることが判明し、つまり彼らは自分のやったことをスクリーン上に再現していたのであり、この映画が持つ迫真性は、事実としてわかっていることは丹念に調べ上げて再現するという手法が徹底されていたことに起因するのだと気づかされたのでした。
 そしてアメリカン航空11便はワールド・トレード・センター北棟に突入、さらに、ユナイテッド航空175便(ボストン発ロサンジェルス行き)、アメリカン航空77便(ワシントン発ロサンジェルス行き)も次々とハイジャックされたことが判明、ユナイテッド175はワールド・トレード・センター東棟に、アメリカン77はペンタゴンに突入する自爆テロが実践されてしまうのです。
 こうした事件の推移と並行して、ようやく離陸を果たしたユナイテッド93便の機内の様子が描かれてゆくのですが、こちらは残念ながら生き残った人がいませんから、当然ほとんどの描写は作者側の推測によって構成されています。しかし、作者は乗組員や乗客の遺族から徹底した聞き込みをしたと思われますし、アラブ人の犯人たちのキャラクターや役割にも丹念な想像を働かせているのであり、リアリティと説得力あふれる描写が成立していると思います。
 そして、アラブ人たちはハイジャックを実行し、乗客たちは次第に彼ら犯人が自爆テロを画策していることに勘付き、犯人たちが目標として定めた首都ワシントンの議事堂への突入を阻止し、コックピットを奪い返そうとする勇気を見せ付けてゆくのです。
 監督・脚本のポール・グリーングラスという男は、わたくしが観ていない「ボーン・スプレマシー」なるアクション映画を手がけた人ですから、当初は事件を商売にしてひと儲けを企む山師ではないかと疑っていましたが、この映画を観る限り、彼にはそうした下品な下心があるとは思えず、知り得る範囲の事実に即して誠実に再現するというドキュメンタリストの姿勢に徹する一方、事態と誠実に向き合った人々(乗客、管制官、軍関係者ら)を称揚しつつ、混乱するばかりで的確な対応策を打ち出せなかった軍・政府首脳を痛烈に批判しているのです。
 そうしたグリーングラスの姿勢は、キャメラマンとして、ケン・ローチ映画のパートナーであるバリー・アクロイドを招き、アクロイドもこのオファーを受けて力の限りを発揮していることからも看て取れるでしょう。
 何の罪もなく死んでいった人々への強い思いが全篇に貫かれ、観ていて厳粛な気持ちにさせられました。グリーングラスのことを山師のように考えた己を恥じたいと思います。
 しかし一方、グリーングラスは生粋のアメリカ人ではなく、イングランドからアメリカ映画界に招かれた人材なのであり、ハリウッドが業界を挙げて事件の相対化に向けて動き出したとまでは言えないと思われ、9.11という主題をハリウッドがどう位置づけるか、暫くは注視し続けたいと思います。


「親指さがし」(8月29日 シアターN渋谷・2)
2006年/監督:熊澤尚人

【★ 「ニライカナイからの手紙」の熊澤尚人監督作ゆえ期待したが、大ハズレ。途中で帰りたくなった】

 まだ夏休み中の渋谷で、この映画を夕方の回に観に来ていたのは中高校生ばかりで、オヤジとしては肩身の狭い思いをしたのですが、そんな思いをしてでもこの映画を観たいと思ったのは、監督が「ニライカナイからの手紙」の熊澤尚人だったからにほかなりません。
 「ニライカナイからの手紙」は、沖縄・竹富島生まれの蒼井優が、病気療養のため東京に出て行ったままの母親を探し出し、写真家になる夢を追いかけるため、東京に出て孤独に暮らす姿を描いたお話でしたが、竹富島の自然、蒼井優の静かながら確かな存在感、素直な肉親愛などがストレートに観客の胸を打つ佳作で、わたくしは昨年のベストテンで第4位に選出したほどです。監督の熊澤尚人の名は、しっかりとわたくしの脳にインプットされたのでした。
 この「親指さがし」という映画のことは、公開前日に新聞に載った広告で知ったに過ぎませんが、監督名に熊澤と印刷されているのを見て、何はともあれ観ておこうと思ったのでした。
 ところが、20歳になったという設定の三宅健が、8年前に“親指さがし”というオカルト遊びをしている最中に行方不明となってしまった級友の女の子を探すため、小学校の同窓会に集まった仲間4人(このメンバーも8年前にオカルト遊びをした同士です)に声をかけて、8年前と同じ廃墟のホテルで“親指さがし”を始めるなどという、まあ子ども騙しとしか思えぬ物語も酷い代物ですし、これを思わせぶりでテンポの悪い演出で綴ってゆく熊澤の演出も「ニライカナイ〜」の演出家と同一人物とは思えぬものですし、V6の同僚である岡田准一とはこうも存在感に落差があるのか、と思わざるを得ない三宅のサマにならない芝居にも辟易します。久しぶりに途中で席を立ってしまいたくなったほどですが、なんとか堪えて最後まで観通してしまったのは、三宅の級友役として出ている伊藤歩ちゃんの魅力ゆえでした。
 こんな映画を観てしまうと、「ニライカナイ〜」での熊澤の透明感溢れる演出は、まぐれでしかなかったのかも知れないとも思え、秋にも公開される予定のもう1本の熊澤監督映画「虹の女神」(市原隼人、上野樹里、蒼井優らの出演)への期待が一気に萎んでしまいました。

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