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200×年映画の旅コミュの8月上旬号(新作)

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8月上旬に侘助が観た新作映画たちです。

「I am 日本人」(8月6日 新宿トーア)
2006年/監督:月野木隆

【★★★ 原案・脚本の森田健作の企画趣旨には賛同しかねるものの、月野木隆監督の丹念な演出は支持したい】

 わたくしが月に2回ずつ発行しているこの映画感想リポートをご愛読いただいている方のほとんどは、昔からの友人や顔馴染みの知り合いなのですが、中にただお一人、プロの映画監督がいらっしゃいます。友人のキャスティング・ディレクターよしGさんにご紹介いただいた月野木隆監督です。その月野木監督の新作が公開されましたので、公開2日目のこの日、何はさておき単館ロードショーされている新宿の小屋に駆け付けました。
 とはいえ、期待に胸を膨らませていたわけではなく、観る前は不安が大きかったというのが正直な気持ちでした。なぜなら、森田健作が原案・脚本を手がけているからです。
 森田が若い頃に出ていた毒にも薬にもならぬ松竹明朗青春映画も、剣道一直線青年を演じたTVドラマも観たことがありませんし、彼の参議院議員としての活動(今も現役の議員なのか違うのか知りません)にも興味はなく、確か埼玉県かどこかの知事選挙に出るか出ないかで揉めていた経緯にも全く興味は持てないほど、森田という人はわたくしの興味の埒外にいる人物でしたが、彼が「I am 日本人」というタイトルの物語を発想したと聞けばおおよその筋立ては想像できてしまい、それは恐らく日本人としてのナショナリズムに訴えようとする内容だろうと思われるだけに、何やら胡散臭い匂いを感じ取ってしまったのです。
 実際に映画を観ると、物語は案の定、日の丸・君が代を礼賛し民族愛を謳い上げるという、日教組による戦後民主主義教育に毒されたわたくし個人としては賛同し難い細部があり、設定においても森田は妹役の小野真弓と二人暮らししている男ヤモメの役柄で、こともあろうに酒井法子とお見合い場面まで作られているのですから、一体お前はいつまで自分が青春路線で通用すると思っているんだ、と突っ込みを入れたくなるようなお話です。
 一度もお会いしたことはないとはいえ、内心で応援しようと決めていた月野木監督の映画を貶さなければならないのか? そんな思いを脳裏に浮かべながら画面の推移を見守っていたのですが、日本文化に憧れ、武士道の精神が継承されていることを確認するために日本を訪れた、森田の遠縁にあたる日系三世の娘という設定の主役・森本クリスティーナが魅力的で、彼女が理想とはかけ離れた日本の現状に失望しながらも、いつも前向きに日本人たちを鼓舞しようとする姿に次第に説得されるようになります。日本人同士の会話だと生々しくて成立し得ないテーマでも、米国的な合理主義に則ってクリスティーナ嬢が語ると正論が正論として成立し、傾聴に値する理屈として耳に届くようになり、劇中の日本人たちがアメリカ娘にギャフンと言わされてしまうように、わたくしもつい同意を示している自分に気付くのであり、国旗や国歌へのリスペクトを盛んに主張する彼女に対して、否定の刃を突き付けようとは思えなくなりましたし、年長者や弱者に敬意を払わない近ごろの日本人には彼
女と同じように憤っている自分を発見しているのでした。
 彼女の主張は即ち企画者であり共同脚本家でもある森田の考えなのでしょうから、結局はわたくしも森田式ナショナリズムの軍門に下ったということなのかも知れませんが、実はちょっぴり感心したのは、この映画が単に民族愛を国粋主義的に謳い上げるのではなく、中国や東南アジアの若者たちの存在や文化をまるごと受け入れた上で、ハイブリッドな文化環境を作り上げることを称揚していた点で、所詮こうした考え方は教育基本法の中に新たに“愛国心”なる項目を盛り込もうとしている輩たちと歩調を合わせる動きだとは知りながらも、御輿を担いでいる日本風の祭りの行進の後ろから中国風の竜の踊りやタイ風のダンスが続く光景はやはり美しいと思えたのであり、お互いの愛国心を尊重し合うという考え方も、まあ一考に値するとは思ってしまいました。
 映画がこうした説得力を持ち得たのも、お世辞ではなく月野木監督の丹念な演出のお陰だと思います。奇を衒った変化球に逃げず、従って森田が仕掛けた滑ったギャグもそのまま再現しつつ、外角低めのコーナーにストレートを丹念に投げ込む誠実な投球術によって、観客の心のミットにボールの音が心地よく響くようになったのだろうと思うのです。
 こうしたわたくしの見解に月野木監督への贔屓目感情が入っていないと申し上げるつもりはありません。一度は貶してしまう可能性すら脳裏をよぎったのに、結局は暖かい読後感をもたらしてくれた月野木監督のことは、やはり応援し続けようと決意を新たにしたのであり、それが他人様からは贔屓だと見られようと、わたくしとしてはファンとしての心意気を貫こうと思った次第です。


「ラブ★コン」(8月6日 シネ・リーブル池袋1)
2006年/監督:石川北二

【★★★★ 藤澤恵麻と小池徹平のコンビが活き活きとし、CM的でPOPな作りが題材にフィットした成功作】

 前号の「ハチミツとクローバー」の項で、わたくしの古巣である少女漫画が原作になっていることを書きましたが、この映画も「別冊マーガレット」という昔の隣組の雑誌で連載中の漫画が原作です。従って、エンド・クレジットには「ハチクロ」より数多い以前の仲間の名前が記されていました。彼らには「いい映画ができておめでとう」と声をかけて上げたい気分です。
 主人公の藤澤恵麻は身長が高い女の子で、憧れの先輩に告白したものの、彼より背が高いことを理由にフラれてしまいます。一方、小池徹平は身長が低く、自分より背の高い女子に告白してフラれています。二人が同日の同じ場所でフラれる場面を対照的に描き、そこに英語のナレーションをかぶせた上、CM的なCGの使い方で画面処理をする方法論が、イントロから観客を快調なリズムに引き込んでしまいます。
 日本にはまだ根強い、男は女より背が高くあるべしという価値観の中で、藤澤は背の高いことを、小池は背が低いことを劣等意識として持ちながら、この二人が次第に想いを寄せ合うに至るラヴストーリーは、実に少女漫画的な王道を歩む路線なのですが、この映画の作者たちが巧いのは、時に揶揄の言葉として使われる漫画的(マンガチック)な誇張表現を敢えて積極的に導入することによって、お伽話性・虚構性を担保してみせている点で、そうした戯画的な表現は、二人が高校1年生で同じクラスになり、“お似合いカップル”として周囲から囃されることに反発して発する言葉がいちいちシンクロしてしまうという、予告編でも使われた展開の中で強調され、それが巧く物語のお伽話性とマッチして、笑いを誘発させているのです。
 「このデカ女!」「何よ、チビ男!」と常に反発し合う言葉を応酬しながら、お互いの趣味はいつも一致し、“海坊主”という名のラップ歌手(劇中のカラオケ画面に登場する寺島進の怪演が爆笑もの)に盛り上がる二人。
 クリスマスイヴの夜、二人で海坊主ライヴに行く約束をするものの、小池のもとには中学時代の元カノからパーティの誘いがきて、藤澤だけが一人でライヴに行く羽目になり、周囲がカップルだらけの中で藤澤が孤独を噛み締めている時、小池がカップルの波を掻き分けてやってきて、彼女の手を引いてライヴ会場へと駆けつけようとする場面など、少女漫画王道のキュンとした恋情がわたくしのようなオッサンにも見事に伝わり、このあと、藤澤がすっかり小池に夢中になって“キュン死”する気持ちも充分に理解できてしまうのでした。
 温水洋一扮するヅラの担任教師が、同じネタを3段積みにするという笑いのセオリーを正確に実践して場内の爆笑を誘い、ムツゴロウこと畑正憲が動物解説者として突然登場してブレヒト的異化効果を発揮、田中要次の人力車引きがスティール構成のような絵の積み重ねで存在感を発揮するなど脇役たちの見せ場もしっかり用意されているのですが、中でも藤澤の姉という役柄で出演している“南海キャンディーズ”のしずちゃんこと山崎静代が抜群の空気感を周囲に波及させ、役者としても非凡な才能を証明しています。
 夏祭りの夜、いよいよ藤澤が小池に想いを告白しようとする前段での風車が並ぶ中で二人が歩くフォトジェニックな場面は、北野武「Dolls」のイタダキにも思えますが、まあそれは許すとして、藤澤の想いが小池の一言によってはぐらかされてしまう寺の場面など、CGを組み合わせたCM的とも漫画的とも言える絵作りが、物語の虚構性にマッチし、話は少女漫画の王道だと思いつつも、絵の作りの巧さに唸らされます。
 映画の後半になって登場する副担任教師の谷原章介が、「嫌われ松子の一生」での清廉潔白青年イメージをさらに輪をかけた徹底した戯画的なキャラクターとして弾けまくっています。白い歯をキラリと光らせ、「よろしQUEEN!」と人差し指を前方に突き立ててグルリと廻らせるポーズとともに登場する谷原は、二枚目役者としての自己パロディを辞さぬキレた演技で爆笑を誘い、小池の中にある藤澤への想い、藤澤の中の想いを引き出す触媒としての役割を見事に果たしています。
 何しろ、主演の藤澤恵麻が、顔の筋肉を100%以上も活用する表情変化で観る者を巻き込んでしまい、実に魅力的。共演の小池も、男の眼から見ても可愛いと思ってしまう躍動ぶりで、この二人の活力が全篇を引っ張っています。
 「SMAP×SMAP」などヴァラエティ番組の構成作家として出発し、最近はドラマ原作になった「ブスの瞳に恋してる」などの著作でも知られるようになった鈴木おさむが、漫画世界をよく映像に置き換える脚本を仕上げ、石川北二なる聞いたこともない名前の監督が見事にこれを絵にしています。ラストのクレジットを見ると、監督のほかにクリエイティヴ・ディレクターという職種も登場しており、まさにCMと同じ作り方をしていることが察せられるのですが、その作り方が題材に巧くハマりました。「嫌われ松子」の中島哲也もそうですが、今後はこういう作りがもっと増えそうです。


「太陽」(8月12日 銀座シネパトス1)
2005年/監督・撮影:アレクサンドル・ソクーロフ

【★★★ 天皇ヒロヒトへのリスペクトに溢れたお話だが、戦争責任はもっと厳しく追及してもいいのでは】

 別項(欧州旧作)でアンドレイ・タルコフスキーを苦手な監督として追いやり、彼の代表作と言われる「惑星ソラリス」に★1つしかつけなかった人間が、大雑把に言えばタルコフスキーと同じく“思索の人”の系譜に属すると思われるアレクサンドル・ソクーロフには高い評価を下してしまうなどという、一般的な映画史的常識に逆らう振る舞いを演じてしまうのは、専らわたくし個人の偏った価値判断からくるものなのですが、常に退屈と隣り合わせのソクーロフ映画にはどうも魅了されてしまうのは、物語の難解さとは無縁に、スクリーンに映し出された絵の訴求力がわたくしの琴線に触れてしまうからにほかなりません。
 わたくしが初めて観たソクーロフ映画「静かなる一頁」は、公開時ではなく後追いの形で観たに過ぎませんが、ゆったり流れる川の辺りにそそり立つ町並みの外観には、観ただけで戦慄が背筋を垂直に貫く禍々しいまでの凄味があり、その町の中で展開するドストエフスキー的なドラマの重みと、徹底して縦の構図で押してゆくソクーロフの絵作りが見事に拮抗して、一瞬たりとも眼を離せぬ緊密な映画世界を形作っていました。
 その後、デビュー作「孤独な声」や、南の島で人生を送った作家・島尾敏雄を追った「ドルチェ―優しく」、全篇を切れ目なしのワンカットで撮影した野心作「エルミタージュ幻想」など11本のソクーロフ映画を追いかけたものですが、いずれも実に刺激的な映画体験でした。
 この「太陽」は歴史上の人物を掘り下げる4部作の3作目にあたり、ヒトラーを描いた「モレク神」、レーニンを取り上げた「Telets」に続いて、天皇ヒロヒトを題材に選び、終戦決定の御前会議からマッカーサーとの対面を経て、自ら神格を否定して人間宣言を公表するに至る個人的葛藤を静かに浮き彫りにした映画です。
 1945年8月、終戦直前の皇居で、天皇の朝食を老僕が恭しく持ってくるところから映画は始まり、侍従長の佐野史郎に促されて天皇は御前会議に出席のため、着替えを始めます。天皇を演じるイッセー尾形は、口をモゴモゴさせるヒロヒトの癖を盛んに模写し、彼の口癖であった「あ、そう」を連発する様子は、よく言えば天皇の人間性へのリスペクトに溢れた表現にも思え、わたくしたち日本人観客にとっては口当たりのいい馴染み易さを感じさせもする一方、客観的に見れば滑稽さが強調されているようにも思え、この男の名を叫んで多くの兵士たちが命を落としたという事実を踏まえて、ソクーロフは歴史の滑稽さをも糾弾しているのかも知れません。また、着替えに臨むヒロヒトが、盛んに鏡を覗き込む姿を映し出し、最高権力者がナルシストであったことを強く印象づけ、そんなところにも歴史の滑稽を打ち出していることを感じます。
 御前会議の席では、本土決戦を強く訴える阿南惟幾陸軍大臣を鈴木貫太郎首相が制し、首相に促されるように発言したヒロヒトが「四方の海、みなはらからと、思う世に、など波風の、立ちさはぐらむ」と明治天皇が作った和歌を詠む場面が描かれ、平和を強く希求するヒロヒトを表現していますが、史実では、天皇がこの和歌を詠んだのは、1941年9月、対米開戦を事実上決定した御前会議の席だったようで、ヒロヒトはこの歌によって開戦への危惧を表明したということになっているようです。
 天皇が見る悪夢のイメージとして、東京大空襲が再現される場面が、ソクーロフ的な禍々しさに満ちていて鮮烈です。CGや特撮によって作られた場面なのですが、ちょうど「ハウルの動く城」における“ハウル”のような翼を持った鳥が米軍の爆撃機に模されて描かれ、その黒い鳥が大空を飛び回る毎に地上が炎に包まれてゆくというイメージ。それは当然、天皇の平和への願いを引き出すための触媒としての描写には違いないのですが、ソクーロフが描くと、そこには人間の悪魔性が炙り出されるように思えます。
 こうした悪夢と対照的に描かれるのが、戦中といえども平和極まりない静けさに満ちた空間として描かれる生物学研究所や孤独に過ごす執務室の場面でしょう。研究所でヒロヒトは平家蟹の研究をしており、その甲羅に浮き出る歌舞伎の隈取のような模様を美しいと愛でる言葉を呟き、執務室では机の引き出しにしまった写真アルバムを取り出して、ハリウッド・スターたちのポートレイトに見入ります。昭和天皇がハリウッド・スターが好きだったのかどうか、本当のところは知りませんが、ソクーロフはこうした描写によって、平和を希求するヒロヒトの温和で寛容なキャラクターを強調しているようです。
 しかし一方、思わず居眠りをしていた研究所長をいきなり起こしたかと思うと、戦争責任の在り処について滔々と自説を開陳し始め、メモを採るようヒステリックに命じる場面を描き、この独裁者の両面性に目配せすることも忘れていません。
 全篇を通じての物語上の白眉は、マッカーサーと天皇が対面した場面でしょう。晩餐会に招かれた天皇の前で、マッカーサーはドイツ製の豪華な食器を示し、「貴方の親友から奪ったものだ」と呟くと、「親友とは誰か」と応じる天皇。「ヒトラーのことですよ」とマッカーサーが水を向けると、「あんな輩とは会ったこともない」と言下に断じる天皇。また、広島・長崎に原爆を投下した責任について天皇がマッカーサーに非難めいた言葉を向けると、マッカーサーは「自分が命じたのではない」と応じた上、真珠湾を攻撃した責任について天皇に質すと、「自分が命じたのではない」と天皇が言い放つという応酬劇。なかなか見応えある場面でした。
 天皇の写真を撮りにきた米軍兵たちの前で、おどけたポーズをとり、兵士たちがチャップリンとの相似を口にして天皇のことを「チャーリー」と呼ぶのをまんざらでもない様子で聞いているヒロヒト。映画館の中では笑いの声も上がるほどコミカルに誇張された天皇像が示され、観客は人間としてのヒロヒトの豊かなキャラクターを感じて、満足そうな雰囲気が流れるのですが、次第にわたくしの中では、不満が募ってきました。
 このようにヒロヒトに対するリスペクトに満ちた描写が続けられることで、日本人観客にとっては先述したような口当たりのよさを感じることができ、つい最近の靖国メモの件もあって、また昭和天皇ブームが訪れている時期だけに、劇場は立ち見も出る盛況ぶりを呈しています。それはそれでご同慶の至りではありますし、わたくし自身も人間ヒロヒトの善意や寛容を疑うつもりはありませんが、彼の戦争責任という問題について、この映画は今ひとつ厳しさが見られず、彼の名において死んでいった多くの兵士のことを思うと、ただの“いいひと”としてヒロヒトを棚に乗せてしまうようなこの映画には、どこか違和感も覚えたのです。
 現人神として崇められたヒロヒトが自らの神格を否定し、人間宣言をしたあと、疎開していた皇后が帰ってきて、天皇が彼女の肩に頭を載せて甘える場面、そして人間宣言を録音した技師が自殺したという話を聞いて、皇后に手を引かれるように部屋を出てゆく場面を描いて、映画は幕を閉じるのですが、やはりわたくしには、あまりにも甘すぎるという印象が残りました。
 生涯にわたって天皇の戦争責任を追及し続けたままあの世に逝ってしまった脚本家・笠原和夫がこの映画を観たら、さぞ憤慨したに違いないと思いました。


「奇跡の夏」(8月12日 シャンテ・シネ3)
2005年/監督:イム・テヒョン

【★★★ 主人公の子役が小憎らしいくらいに巧いし、よくできた難病ものではあるが、型通りでもある】

 久しぶりに観る韓国映画。韓国人監督による韓国映画は、2月に観た「クライング・フィスト」以来ですから、実に約半年ぶりです。ここ数年間、圧倒的な質量で日本を席巻してきた韓国映画ですが、どうも今年は凶作の年なのか、公開本数も少なくなっていますし、出来のいい作品の割合も減っているような印象です。
 この映画も、脳腫瘍を患った3歳年上の兄を持ったことによって、手に負えないいたずら坊主だった少年が成長を果たすという感動的な物語を、手堅く纏め上げているとは思うものの、これぞ韓流という力技の作劇は見られず、決して悪い出来ではないですが、大満足を得られたとも言えない程度の水準にとどまっています。
 主人公ハニは9歳の小学生。授業中、ウンコがしたいと先生に申し出るもののサボりの常習犯らしく先生から許可を貰えず、本当にウンコを漏らしてしまうようないたずらっ子です。3つ年上の兄もまだ遊び盛りのガキなのですが、その兄が突然頭が痛いと言い出し、病院に駆け付けると脳腫瘍だと診断され、視神経が侵されていることがわかります。
 ハニにはまだ兄の病気の重大さが理解できず、開頭手術を受けて帰宅した兄の耳元で大声を上げたり、兄に雑菌が感染しないようハニとは別々のタオルを使うように言われているのに兄のタオルを使ったりして、わがままを続けます。
 まだ10歳にも満たない無分別な少年が、自分の欲望に忠実に振る舞うのはごく自然なことですが、ハニに扮した子役パク・チビンの芝居があまりにも小憎らしいので、ついつい画面に向かって「病気の兄貴のことを少しは考えろ」などと説教したくなりました。それほどチビンくんの芝居が堂に入って巧いということです。
 ハニのいたずらが過ぎたことが直接の原因ではないでしょうが、兄は再び吐き気を起こして再入院を余儀なくされ、今度は失明を、もしくは最悪の場合は死を覚悟しなければならない二度目の手術に臨むことになります。
 兄の二度目の入院・手術に責任を感じたハニが、ここから献身的な弟として兄に仕え始めるのですが、ここで登場するのが兄と同じような病気で入院しているハニと同年代のウクです。兄が何かとウクのことを可愛がることに反発して、ハニはウクのことを“田舎者”と馬鹿にするばかりなのですが、こうなると物語は、ハニが如何にしてウクとの友情を築き上げてゆくか、ということに焦点が絞られるのだろうと予想がつき、実際のお話もそうした流れに沿って展開してゆきます。さらに、ハニと同級で、優等生ゆえハニとは対立してばかりいる少年との対立氷解のエピソードも盛り込まれ、ハニとこの同級生が兄のために“奇跡の水”を求めて山中を探し回る場面では、「E.T.」ばりに空を飛ぶ見せ場も用意されます。
 まったくもって実によく出来たお話であり、文句をつける筋合いではないのですが、意外性という点では韓流らしい飛躍が乏しく、大体予想された枠内に話が収まってしまうという意味で、予定調和なのではないかという不満も頭をもたげてしまうのです。このところの韓国映画のヴォルテージの高さを知ってしまっているだけに、ハードルを高く設定してしまっているのかも知れません。

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