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200×年映画の旅コミュの7月下旬号(ほぼ新作)

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7月下旬に侘助が観た映画たちです。

「バルトの楽園」(7月22日 丸の内TOEI・1)
2006年/監督:出目昌伸

【★★★ 話は美談のオンパレードで鼻白むが、撮影・美術等のスタッフワークが冴え、カツドウ屋魂を実感】

 出目昌伸の映画を観るのは、それこそ彼のデビュー作だった「俺たちの荒野」以来ではないかと思いましたが、あとで「神田川」も観たことを思い出しました。いずれにせよ、出目が東映に招かれて撮った吉永小百合ものは一切観ておりませんので、出目映画とは本当に久しぶりの再会です。
 第一次世界大戦、ドイツ軍のアジアにおける拠点であった中国遼東半島の青島は、日本軍が連合国の一員として参戦したため陥落し、司令官ブルーノ・ガンツ以下5000名近いドイツ兵が捕虜として日本に送られます。生きて虜囚の辱めを受けず、といったサムライ精神を重んじる明治末期の日本軍幹部は、最期まで抵抗せずに捕虜となったドイツ兵を蔑視した扱いをするのですが、四国香川県に作られた坂東捕虜収容所の所長・松平健だけはドイツ兵捕虜を人間的に扱い、彼らの誇りを尊重しましたとさ、という美談を殊更に強調したお話です。
 松平の聖人君子ぶりばかりが繰り返され、彼自身も会津出身として父ともども明治新政府には虐げられてきたことが、彼を人道主義者にしたのだという背景もしつこいくらいに描かれ、日独間に確かな友情を築き上げた松平のために、大戦の敗北が決まって帰国することになったドイツ兵たちは、ヴェートーヴェン第九交響曲の演奏をプレゼントし、それ以来日本人が一番好きな交響曲は第九になりましたとさ、という美談もくっついてきます。
 お話は、教条主義的で臭いと呼ぶしかない代物で、松平の方針に批判的な阿部寛や、息子を戦争で失ったためドイツ嫌いという設定の馬丁・平田満を登場させてはいるものの、彼らには物語にスリルを持ち込むほどの迫力がないため、結局お話は予定調和の線路の上を走るばかりで、鼻白むのを抑えることができませんでしたが、では退屈するばかりだったかと言うとそういうわけでもなく、結構乗せられて観てしまったのでした。
 それはひとえに、ベタ照明を丹念に排除し、細心の設計で陰影やハイライトを計算した絵を組み立ててゆく撮影部を中心に、限られた予算内でセットから小道具に至るまでフレーム内の装置を揃えてみせた美術部など、東映京都撮影所のスタッフワークの結実ぶりが全篇を支えていたからにほかなりません。
 話には乗れなくとも、画面を見つめているだけで、紛れもなく映画を観ているという実感に浸らせてくれたのであり、こうしたスタッフワークを束ねていたのが監督・出目だったならば、出目にも明らかなカツドウ屋としての熱い血が流れているということなのでしょう。


「ブレイブ ストーリー」(7月22日 サロンパス ルーブル丸の内)
2006年/監督:千明孝一

【★★ アニメ技術としては高いと思うが、話は詰め込み過ぎで駆け足のダイジェストでしかなく、疲れる】

 夏休みはいつもそうですが、アニメーション映画が競い合う季節であり、今年も何本かのアニメーションが揃っています。
 この映画は、推理作家としてヒットを連発している宮部みゆきが初めて冒険小説に挑戦した長編をアニメーション化したものですが、わたくしは原作を読んでいないので、事前の予備知識はありません。
 ある夜、工事が中断されたまま放置され幽霊ビルと呼ばれている廃ビルに友人と忍び込んだ主人公ワタルが、そこで転校生ミツルを見つけるところから映画が始まり、ワタルはそのビルに異界への侵入口のようなものがあることを知ると同時に、ミツルが異界に侵入して自分の運命を変える旅をしようとしていることを知ります。
 ワタルは小学校5年生という設定で、両親は不和で父は家を出ていってしまい、母は病気で突然倒れます。日常生活で相次ぐ不幸に遭遇し、自分もミツルのように運命を変えたいと考えたワタルは、廃ビルにある扉から異界への冒険へと旅立ってゆくのです。
 母が作ってくれる朝食、学校への近道となる狭い路地、父が家を出ていってしまう寂寥感、母が倒れた時の心細さ……こうした日常描写の畳み掛けは、実にリアルに組み立てられていて、最近のアニメ技術は日常を如何にリアルに再現できるかに注力しているだけに、この映画の水準の高さを充分に物語っています。
 異界に足を踏み入れたワタルが、いきなり巨大な動く石像に追われながら、カエルの口に飛び込むことによって第一関門をクリアするくだりなども、導入部としては悪くないと思います。
 しかし、そこで導師なる老人に出会い、勇者の剣と防具、兜を授かるあたりになると、話はまるで「ドラゴンクエスト」そのままの焼き直しに見えてしまいますし、導師の周りにマスコットのような色とりどりの小さい魔物が飛んでいる光景は“まっくろくろすけ”やら“トトロ”の宮崎アニメからのイタダキを感じて、シラけてしまいました。
 「スター・ウォーズ:エピソード2」に登場した“ジャー・ジャー・ビンクス”を連想させる“キキーマ”なる旅の伴侶や、それこそ“レイア姫”のような女性騎士、得体は知れないが活気のある市場など、余所から借りてきたイメージばかりが散乱し、オリジナルな魅力が見当たりませんし、お話のほうも長い原作を駆け足でダイジェストしているだけに、強引に先を急いでいる印象を植え付けられます。話を追うのに疲れてくると、画面が派手派手しく変化していても、逆に単調なリズムばかり感じて、眠気を催したほどです。
 クライマックスが近付き、主人公ワタルにとっては友人だったはずのミツルが直面する敵として浮上し、そのミツルが自分の運命を変えたいと思った理由が、愛する妹を失ったという痛ましい過去の体験だったとわかるくだりなどは、子どもが次々に殺人の対象となる現代の社会病理にまで迫る主題的鋭利さを持ち、さすがは宮部みゆきと思わせる細部もありますし、あくまでも利己的なミツルが己にも刃を向けて自滅したのに対して、主人公ワタルは自分だけの運命を変えることより、旅の過程で友情を育んだ仲間の世界を救済する道を選び、それが彼自身をも救済することに繋がるという、普遍的な主題がせり上がる快感を感じもするのですが、いくらなんでも話を詰め込み過ぎたがゆえの不満を覆すには至りませんでした。


「カーズ」(7月23日 MOVIX亀有・シアター4)
2006年/監督:ジョン・ラセター

【★★★ 自動車が擬人化されることに違和感があるが、自然描写等のリアリズムがしっかりして、見応えあり】

 「Mr.インクレディブル」以来のピクサーの新作は、「トイ・ストーリー」のジョン・ラセターが久しぶりに監督を務めています。
 この日は、中学3年生になる我が家の豚児とカミさんを伴って3人で観に行ったのですが、どちらかと言えば豚児がダシに使われたのであり、観たがっていた主体はカミさんとわたくしのほうでした。ことほど左様にピクサーのアニメーションは子供もさることながら大人の観客を魅了してしまうのですが、それは主人公が玩具であれ、魚であれ、お化けであれ、超人であれ、彼らが置かれた環境や周囲を取り巻く状況が、リアリティ豊かに丁寧に描かれ、主人公が立ち向かうべき主題も明瞭に力強く打ち出されるなど、そこいらの実写大作より遥かに大きな感銘をもたらしてくれることを大人たちが身をもって体験しているからです。
 しかしながら今回の新作では、主人公もあらゆる登場キャラクターも、擬人化されたクルマたちであり、本来なら無機物たる鋼鉄製の移動装置が目や口を持ち、感情すら宿しているという設定には、未だ運転免許すら持たずクルマに対する興味を全く持てないわたくしのような人物にとっては、容易に感情移入する対象とはなりにくく、いささか違和感があったことは否めません。クルマが生活必需品として絶対のものとなっているアメリカならではの発想だと思え、クルマ社会というものにやや批判的なわたくしには無縁のお話に思えたのです。
 じじつ、カーレースで最近メキメキと頭角を現してきて自信満々の主人公が、国内最大のカップ・レースで勝利を目前にしながら、ピットの仲間を信頼せず己の力を過信したがゆえに、タイヤのパンクというアクシデントを招き寄せてしまい、追い上げてきた先輩レースカー2台と同着となり、数日後に3台によるプレイオフを闘う羽目に陥るという冒頭の展開には、巨大なスタジアムを埋め尽くした観客も全てはクルマ、主人公が栄光の先に夢見るCM出演もクルマ広告のパロディといった具合に、何やら鼻につくガソリン臭さが漂ってきそうで、あまり愉快ではありませんでした。
 このあと、主人公はトレーラーに乗って次のレース開催地に向かう途中で、アクシデントによってトレーラーの後方扉から外に出てしまい、高速道路からも外れて田舎道に迷い込んでしまいます。その挙げ句、田舎道でスピード違反しているのを見つかってパトカーに追われ、逃げる過程で引きずってしまったクルマの銅像によって、とある田舎町の道路を傷だらけにするという事態を引き起こします。そして翌朝、この田舎町の裁判に引きずり出された主人公は、傷つけた道路を修復するまで町を出てはならないという判決を受けるのです。
 鼻っ柱の強い傲慢な都会生活者が、ふとしたことで立ち寄った田舎町で人々の人情に触れて改心し、善行に目覚めるというストーリーラインは、これまで数多くのアメリカ製映画やドラマで観たことがあり、この映画もそうした先行作品の走った轍の上を辿る展開となるのですが、土埃、降り注ぐ陽光、空に浮かぶ雲、一面に実った麦、山奥に流れ落ちる滝、といった自然の記号がCG画面にリアルに再現され(「ファインディング・ニモ」の例を持ち出すまでもなく、水や光といった自然を如何にリアルに再現できるかが、最近のCG技術水準の高さを証明する手立てになっており、ピクサーはその技術開発に多くの労力を注ぎ込んできたのです)、そうした自然と触れ合うことが、主人公の心を、そして観客の心を武装解除し、このアメリカの伝統に則った物語に自然に観客を招き入れてしまうのです。
 裁判で主人公の弁護人となる女性ポルシェ(ポルシェに女性も男性もないと思いますが、それはよしとしましょう)や、主人公の親友となるオンボロ・トラクターなどが愛すべきキャラクターとして観客に微笑をもたらし、主人公に厳しい判決を下した判事もまた実は元レースカーの大先輩であることがわかり、主人公を支える一人となって彼の再生に手を貸します。
 こうして田舎町の仲間に支えられながらカップ・レースのプレイオフ当日を迎えた主人公は、勝利を目前にして人道的(車道的と言うべきでしょうか)な振る舞いに出て、さらにはエピローグとして田舎町に福音をもたらすという後味のいいエピソードも用意され、わたくしたちは満腹感を抱きながら劇場を後にすることができるのですが、この映画に最大級の賛辞を捧げる気になれないのは、やはり結局はクルマが好きではないという理由によるものなのでしょう。


「M:i:?」(7月26日 シネマメディアージュ・シアター4)
2006年/監督:J.J.エイブラムズ

【★★★★ 前2作に失望したので、まったく期待していなかったが、徹底したアクションの連鎖に酔った】

 ブライアン・デ・パルマが手がけたシリーズ第1作は、風呂敷を大きく広げたはいいものの収拾がつかず、話の至るところが綻んでも手当てすることもできずに放り出されたような無残な出来の映画でした。香港出身のジョン・ウーが招かれた第2作には巻き返しが期待されましたが、ティームプレイの支え合いが大きな結果を生み出すというオリジナル版「スパイ大作戦」の魅力が消え失せて、トム・クルーズの単身による007ばりのスーパーマンぶりばかりが強調され、アクション場面はスローモーションの多用と思わせぶりな鳩の飛翔で間延びさせられるというジョン・ウー・ショーが、この題材とは不釣り合いであることを露呈するばかりの展開に辟易するだけの映画で、ガッカリしました。
 したがって、J.J.エイブラムズなる聞いたこともない新人監督が抜擢された今回の3作目には最初から食指が動かなかったのですが、この日は仕事のストレス続きで疲れた頭を何も考えなくて済む映画でリフレッシュさせたいという欲求が生理的に生まれたのと、この映画の上映時刻がちょうど都合よかったという2つの理由により、フラフラとこの映画のかかる劇場に引き寄せられてしまったのでした。
 冒頭、椅子に縛り付けられたクルーズの目の前で、悪役のフィリップ・シーモア・ホフマンがクルーズの婚約者役のミシェル・モナハンのこめかみに銃口を向け、“ラビットフット”の在り処を吐け、10数えるまでに吐かなければこの場で女を殺す、とクルーズを脅迫しています。ホフマンを何とか思い止まらせようと必死に懇願するクルーズをよそに、ホフマンのカウントダウンは非情に進行してゆきます。
 詳しい事情を知らせないままいきなり緊迫したクライマックス場面に観客を投げ込み、クルーズとホフマンの芝居合戦を手持ちキャメラによるクローズアップの切り返しで畳み掛けてゆくという作劇構成にド肝を抜かれ、わたくしたちは映画のリズムに引きずり込まれてしまうのであり、早くもこの映画に手応えを感じ始めました。
 このあと映画は時間を遡らせ、クルーズがスパイ育成教官としての素性を隠したままモナハンとの結婚話を進める過程や、二人の婚約パーティの当日、クルーズの教え子である女性スパイがホフマン扮する闇武器ブローカーの周辺を洗おうとして敵側に捕まってしまい、彼女を救出するためにクルーズが再び現役スパイとしてベルリンに赴かなければならなくなる事情が語られます。状況は有無を言わせずにクルーズの決断を迫り、クルーズもウジウジと悩む余裕もなく行動に駆り立てられます。こうした行動すなわちアクションの畳み掛けが映画に快調なテンポをもたらし、観客も前後の繋がりをじっくり吟味する余裕も与えられないまま、クルーズと仲間たちが緻密な連携プレイによって女性スパイを救出する手際を見せ付けられてゆくのです。
 一旦は救出に成功したはずの女性スパイが、ホフマンらによって脳に埋め込まれた小爆弾の爆発で死亡してしまうのですが、ここで復讐の決意を固めたクルーズの対応も実に素早いもので、ホフマンの取引現場を押さえ、ホフマン本人の身柄と取引のブツを一気に握って闇組織を潰そうという作戦を考案し、直ちにヴァチカンでの実行に移してゆくのです。
 ホフマンの顔を至近距離から映した写真をコンピュータが解析して、即座にホフマンの仮面が作られてゆくなどという場面には、荒唐無稽なくせに人を納得させてしまう装置的なリアリティが宿っていますし、完成した仮面を被ったクルーズがまんまとホフマン本人になりきって本物のホフマン誘拐を成功させるくだりなど、オリジナルTVシリーズのケレン味をパワーアップした迫力にも満ちていたと思います。
 こうしたスパイ活動の成功体験は、いわば祝祭的な“ハレ”の時間帯を形作るのですが、わたくしたちは既に冒頭で主人公クルーズが敵ホフマンの前に屈した状況を観てしまっているわけですから、この“ハレ”がいつ何時“ケ”の時間帯に移行するか、既にサスペンスフルな状態に置かれています。
 そして“ケ”の状態が浮上します。死んだ女スパイが残した遺言メモによって、こともあろうにクルーズたちのスパイ組織のボスであるローレンス・フィッシュバーンが敵ホフマンと内通していたことがわかるのです。
 なるほどそう来たか、と感心する間もなく、ここから先は、捕まえたはずのホフマンがクルーズの手をスルリと抜けてゆき、攻勢は守勢にスリ替わり、舞台を上海に移した“守るための闘い”すなわち“ケ”へと移行してゆくのです。
 上海のビルから別のビルへの移行は描きつつ、主人公クルーズがビル内で果たしたアクションはあっさり省略し、冒頭で示したクルーズ‐ホフマンの対決場面に繋げてゆく作劇は巧いと思いますし、いくつかのドンデン返しを経て、「Mr.& Mrs.スミス」みたいな世界観にまとめてしまう展開は如何なものかと思いつつも、映画はアクションであるという原理に自覚的な映画がハリウッドから生まれた事実には嬉しさを隠しきれず、何にも期待していなかったこの映画に感謝の気持ちを捧げたいと思うのでした。
 “ラビットフット(兎の脚)”と呼ばれるブツが何なのか、映画は全く描かないという意味で、ヒッチコック的な“マクガフィン効果”を大胆に援用し、ただただ純粋アクションのみを重ねるエイブラムズなる男は、まさにヒッチコック以来のアクションの伝統に自覚的な男であり、過去に「フォーエヴァーヤング」(主演のメル・ギブソンより相手役のジェイミー・リー・カーティスの存在感が記憶に残っています)や「アルマゲドン」の脚本に参加し、最近は専らTVシリーズの総指揮と演出に関わっているというこの男の資質を見抜いて監督として抜擢したプロデューサーとしてのトム・クルーズの眼力は大したものだと感心しました。
 クルーズは単にプロデューサーとしての力量を発揮しただけではなく、映画のラスト近くで上海の雑踏の中を全力疾走する場面では、頭の位置を一切ブレさせずに一直線に駆け抜ける運動神経のよさと訓練の賜物を見せつけるのであり、これまた大したものだと感心した次第です。


「三池 終わらない炭鉱の物語」(7月28日 ポレポレ東中野)
2005年/監督:熊谷博子

【★★ 三池の歴史と真摯に向き合う真面目な姿勢には感心するものの、中立を貫いたためハートは撃たず】

 この春公開されて一部で話題になっていたドキュメンタリー映画で、春には観逃してしまいましたが、短期間だけリヴァイヴァル公開されたので、最終日に駆け付けました。
 97年に閉山となった日本最大規模の三池炭鉱。映画は、閉山後も大牟田市内に残る炭鉱の跡地を監督の熊谷博子が訪れ、深い地の底から聞こえてくるような炭鉱の声を感じ、映画制作を思い立ったというモノローグから始まります。
 明治時代に開かれた炭鉱は、当初から過酷な労働を強いられる場所として一般人からは忌避され、囚人たちの懲役の場として利用された歴史。その後は朝鮮人が、さらには戦時中には中国人や白人捕虜が駆り出され、強制労働の場となります。
 敗戦後は民営化され、戦後復興エネルギー源の立役者として炭鉱は活性化しますが、石炭から石油へとエネルギーの主役が交代したことによって職場としての炭鉱は合理化の対象となり、1959年12月に出された大量解雇を機に、大労働争議へと発展します。
 熊谷は、こうした三池の歴史を、残された資料映像や生き証人のインタヴューなどによって丹念に掘り起こしてゆきます。その真面目極まりない姿勢は尊敬に値するものではありますが、NHK教育TVを観ているようなモノトーンの味気なさも感じます。中立の立場から歴史を辿ろうとする記録者としての視点が徹底され過ぎているように思えるのです。
 そうした不満がさらに昂じてしまうのが、三池闘争を辿ってゆくくだりでしょう。
 三池における労働争議は、60年安保と時を同じくしていただけに、全国の労働運動家や学生たちを集め社会問題化したわけですが、総評をバックにつけた労組のストライキが長期化する中で、会社側は運動の分裂を画策する一方、生活苦から炭鉱操業を求める第二組合も出来上がり、労働側は会社の思惑通り二分されてしまいます。第一、第二の組合がいがみ合い対立するという事態を経て、裁判所が貯炭場への組合員の立ち入り禁止を命じる仮処分を決定し、一触即発の事態を迎えます。こうした争議の過程について、熊谷は中立の立場から、第一、第二、会社側それぞれのどこにも与しない姿勢でインタヴュー素材を積み重ねてゆきます。そこに記録者としての熊谷の視線が貫かれているわけですが、こうした題材を扱う場合、わたくしなどはどうしてもある一方に加担した熱いパッションを期待してしまうのであり、熊谷の中立姿勢には不満を覚えてしまうのです。TV番組なら、政治的中立性が求められるのですが、映画なのですから、第一組合なり第二組合なり会社側なり、どこ
かの立場に徹底的に加担し、敵を糾弾するといった熱い姿勢を出してもいいのではないかと思うのです。この映画のキャメラマンが「三里塚の夏」で小川紳介、「水俣」シリーズで土本典昭と組んだ大津幸四郎であることから、小川、土本といった作家たちと同じような姿勢を期待してしまったのかも知れません。
 争議が第一組合側の敗北に終わったあとの1963年、炭鉱内で爆発事故が起き、450人以上が死亡するという大惨事となります。事故で生き残った人々の中にも一酸化炭素中毒の後遺症に悩まされる人が多く、熊谷もこの事故の後遺症についても多くの時間を割いて描いてゆきます。しかしここでも、「水俣」の土本に比べると三井鉱山の責任を追及する姿勢は希薄と思わざるを得ず、物足りなさを感じてしまうのです。
 97年に閉山し、今はここに炭鉱があったことすら知らない子どもたちが現れている時代となっているのですから、熊谷が今どきになって三井の責任を声高に追及しても始まらないことはわかっていますが、やはりこの手の題材には、熱いパッションをぶつけてほしいと、ないものねだりしたくなってしまうのです。


「チーズとうじ虫」(7月29日 ポレポレ東中野)
2005年/監督:加藤治代

【★★★★★ 淡々としたホームムーヴィーが、普遍的な力を獲得する。女性監督の繊細な感性に圧倒される】

 「チーズとうじ虫」なんてヘンテコなタイトルの映画だな、と思っていたら、評判がいいようなので、何の予備知識もなく、2日連続で東中野に足を運びました。
 “チーズとうじ虫”とは、イタリアの歴史家であるカルロ・ギンズブルグの著書のタイトルで、この本に登場する16世紀の粉挽き屋であるメノッキオという男が異端裁判で語った言葉が元になっているそうです。メノッキオ曰く、“私が考え信じているのは、すべてはカオスである、すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊になっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ”という、なんだかわかったような、わからないような世界観なのですが、この言葉がそのまま映画の冒頭に字幕で示されます。
 一体どんな映画なのだろうと身構えていると、ディジタルヴィデオで撮影された画面には、人の良さそうな初老のおばさんが出てきて、茄子の漬物を作ったり、歯を磨いたりしています。キャメラの手前からは、「おかあさん、恥ずかしい?」などとおばさんに話しかけている女性の声がしますので、どうやら娘が母親の日常の姿を映し取っているのだということが諒解されます。
 母親は家庭菜園をいじくり、箒の柄にシールを貼って三味線の練習をし、年老いた母や娘のために食事の世話をし、趣味の絵描きに没頭し、遊びにきた孫たちの相手をするなど、ごく平凡な田舎町のおばさんとして生活しており、映画はそうした母の姿を淡々と捉えるばかりで、ナレーションや音楽などを加えることもなく、ただ自然音だけが静かに画面から響いてゆきます。
 なんだよ、ただのホームムーヴィーかよ、などと軽侮の思いも頭を掠めるのですが、これを撮っている加藤治代の母への慈愛が画面から伝わってくるほか、家の周りにある自然(ひまわりの花、家庭菜園の土、遠くに落ちる雷光と数秒遅れで聞こえてくる雷鳴など)をインサートするタイミングが絶妙で、観ていて飽きることがありません。
 それにしても、この平凡極まりない母娘の記録に、何かドラマらしいものがあるのだろうかと訝しく思い始めた頃、加藤は強風に揺れるひまわりの花を逆光で捉えた禍々しく不吉な絵を長々と繋ぎ、このあと映画に訪れる変調を見事に予告してみせます。
 カットが変わると、点滴の薬品が管の中をポタリポタリと落ちている絵で、その点滴の管の先で母親が静かに横になっています。そこで観客は初めてこの母親が何か重病を抱えている事実を知るのです。
 そしてほどなくして、その病気が癌であることが明らかとなりますが、母は笑って癌保険によって下りた現金の札束をキャメラの前で広げてみせ、それを撮っている娘も嬉しそうにその現金をキャメラに収めてゆきます。保険によって手にした金で新車を買い、菜園用の耕運機を買い、この母娘からは重病と闘っているという悲壮感は感じられません。いつしかわたくしたち観客も、この母娘や年老いた祖母のことを近しい者として感情移入していることに気づかされ、この愛すべき母が癌を克服して長生きしてくれることを願うようになります。そして監督であり撮影者である加藤自身も、母の病気克服を信じて疑わないように見えます。闘病中の母が苦しんでいるところは一切出てこないことも、そうした印象に繋がっているのですが、あとでHPなどを読むと、加藤は母が苦しんでいる時はキャメラを回す余裕もなく、看病にかかりきりだったそうです。
 いつ見ても明るそうな母親の姿が映されているとはいえ、加藤のキャメラは、季節の移り変わりとともに痩せてゆき、髪が抜け落ちてゆく母の姿を残酷なまでにはっきりと捉えています。
 入院していた母親が退院し、新しいTV受像機を買って「凱旋行進曲」の演奏場面を嬉しそうに見つめる姿からは、もしかしたら病気の克服も可能なのではないかとすら思えたのですが、その「凱旋行進曲」の長さが逆に禍々しさを帯びてくるのを感じざるを得ず、じじつそのあと、母の顔に白布がかけられた姿が唐突に映し出されるのです。
 母の死によって映画が幕を閉じるのかと思うと、そうではなく、年老いた祖母と二人になった加藤の家が、母の不在という事態を静かに許容してゆく様子までを、淡々と映し出してゆきます。
 これまでわたくしたちが観ていた映画そのものを、祖母がTV受像機から流して観ている様子が映し出され、母が生前楽しみにしていたらしい大相撲を母が不在のまま加藤が観に行き、家の周りには例年と同様にコスモスが咲き乱れ、玄関の突き当りには母の遺影が掲げられるのです。
 加藤のごくごく個人的な動機から撮り始めたホームムーヴィーが、ここまで普遍性を獲得したのは、もちろん込められた思いの普遍性のせいでもありましょうが、的確きわまりないカット選択と編集リズムという、まさに映画作家としての才覚ゆえであるとも思われ、加藤がこの作品のあとにどのような映画を作るのか、興味深く見守りたいと思います。
 加藤が昨年のナント3大陸映画祭でドキュメンタリー部門の最高賞(金の気球賞)を受賞した時、授賞式で審査委員長のクレア・シモンという人は、「加藤監督はチョウのように自由に、どの映像が日常の生と死における恐るべき象徴となるかを選択できる」と絶賛したそうです。わたくしもまったく同感です。


「蟻の兵隊」(7月29日 シアター・イメージフォーラム1F)
2005年/監督:池谷薫

【★★★ 元日本兵の真相解明への執念が乗り移った執念深い演出。毒気に当てられるが、力のある作品】

 「三池」「チーズとうじ虫」とドキュメンタリー映画の鑑賞が続いたので、もう1本観てしまおうと思い、前の週から公開になっていたこの映画に足を運びました。というのも、この「蟻の兵隊」の監督・池谷薫の前作「延安の娘」は素晴らしい傑作で、わたくしは2003年のベストテンの1本として選出したくらいでしたから、今度の新作に対する期待も高まっていたのでした。
 終戦後も中国に残って国民党軍に加わり、共産党軍と戦わざるを得なかった元日本軍兵士を追った映画です。日本政府も裁判所も、彼らは自主的に志願して中国に残留したとしていますが、彼ら自身はあくまでも軍の命令によって中国の内戦に加わったことを証明しようと奔走します。
 池谷監督が追うのは、奥村和一氏という80歳の老人です。
 奥村氏が、靖国神社に初詣にやってきた戦争を知らない若い女性たちと会話するところから映画は始まり、軍人恩給を求めて裁判を起こした元残留兵仲間と会合を重ねたりするあたりでは、淡々と映画が流れているように思えます。
 しかし、結局は裁判が敗訴に終わったことから、敗戦当時、自分たちの帰国に力を注いでくれ、今は寝たきりで口もきけない元参謀に奥村氏が挨拶に行くあたりから、映画は激しいまでの力を帯び始め、観ているこちらも心を揺さぶられます。奥村氏は、当時の司令官が、国民党軍の将軍との間で兵士を残留させる密約を結んだに違いないと確信しているのですが、その証拠が見つからないため、裁判が敗訴したと考えており、この病床にある元参謀もまた、その密約の存在を確信している一人なのです。そして、奥村氏が、自分たちの力不足で裁判が負けに終わったことを元参謀に詫びる言葉をかけると、口がきけず耳も不自由だと思われた寝たきり老人が「ウォー!」と大声を上げて慟哭し始めるのです。元参謀の姿に心を動かされた奥村氏は、密約の証拠を掴むため、中国に渡る決意を固めます。
 久しぶりに中国を訪れた奥村氏は、密約の証拠を探し出すことにも尽力するのですが、それと同じような熱意をもって追究するのが、自分が初めて中国人を殺した処刑現場を探し出すことです。自分が人間としての倫理を捨ててプロの軍人になってしまった瞬間は、初めて殺人に手を染めた時だという認識を持っている奥村氏は、軍隊とは何か、戦争とは何かを見つめるための原点として、その瞬間をはっきり自分の中で蘇らせようとするのです。日本占領下の状況を知る中国人と面会し、日本人に何をされたのかを深く聞き出そうとする奥村氏。この執念の強さに圧倒され、当時の日本軍が少女を輪姦し、共産党の疑いのかかった中国人の首を次々と撥ねていたといったような胸くその悪くなるような話に圧倒されます。
 そして奥村氏が、かつて自分がやったことを確認しようと中国人の話を聞くうち、ついつい元日本軍兵士の気持ちに戻ってしまうところもあり、自分の中に今も軍人としての血が残っていたことに愕然とする奥村氏と同様、観ているわたくしたちも背筋が寒くなるのを感じました。
 司令官と国民党軍将軍が交わした密約の存在は、中国での取材でも確信することができた奥村氏ですが、確かな証拠は入手することなく、帰国します。しかし奥村氏の執念に終わりはなく、今度は、敗戦時に中国から帰還しようとした日本軍兵士が、身元引き受け手がなく残留を余儀なくされた子どもたちを殺したという事件に首を突っ込み始め、当時を知る元兵士のもとを訪ね続けるようになるのです。
 奥村氏の執念も凄いですが、彼を執拗に追う池谷の執念も相当なもので、その執念のぶつかり合いが毒気を発して観る者にしんどさをもたらします。しかしこの映画から目を背けてはならず、この真摯さにはこちらも真摯に向き合わなければならないという思いを強くする映画ではあります。


「王と鳥」(7月29日 シネマ・アンジェリカ)
1980年/監督:ポール・グリモー

【★★★★ 「やぶにらみの暴君」ディレクターズカット版。絵は癖が強いが、多くの思いを誘発する怖い映画】

 スタジオジブリが配給に一役買ったフランス製アニメーションですが、わたくしが興味を惹いたのはジブリとは関係なく、この映画が、かの有名な「やぶにらみの暴君」の出来上がりを監督のポール・グリモーが気に入らず、自分で権利やプリントを買い取ったのちに全面的に作り直したディレクターズカット版だと知ったからです。「やぶにらみの暴君」は観たいと思いながらもそのチャンスに恵まれなかっただけに、ようやくお目にかかる喜びから、公開初日に勇んで足を運びました。
 まず「王と鳥」の前に、グリモーが1947年に作った「小さな兵士」という11分の短篇アニメーションが上映されました。人が寝静まった玩具屋を舞台に、倒立運動をする人形がお姫様人形に恋をするものの、魔術師の人形がお姫様人形に横恋慕して邪魔に入るという筋立てを軸にしたお話ですが、ただの甘いラヴストーリーではなく、哀しみや残酷さが強調されている点に興味を持ちました。
 「王と鳥」のほうも、絵から飛び出した羊飼いの娘と煙突掃除人が恋に落ちるのを、娘に横恋慕した王様が邪魔に入るという、似たような骨格を持った話ですが、独裁者としての王様の横暴と批判者としての鳥オウムの対比、王様の取り巻きの官僚性、絵に描かれた王様(影武者)によって本物の王様が失墜させられるという権力交代劇、地上の楽園としての王国とは対照的な下層大衆が押し込められている地下貧民窟、アジテーターのオウムに扇動されて貧民窟の解放=革命に駆り出されるライオン、すべてを破壊し尽くす大型ロボットなど、政治的な裏目読みをしようと思えばいくらでも出来てしまいそうな細部に溢れ、寓意に富んだ辛口のお伽話が展開しますので、子ども向けに作られた甘口のアニメーションとは一線を画した大人の味がする映画です。
 他人から全く愛されない代わりに自分も他人を一切愛さないという孤独な暴君のイメージは、アドルフ・ヒトラーを連想させるものでしょうし、脚本のジャック・プレヴェールとグリモーにもその意図があったのかも知れませんが、この王様が、下手な横好きの鳥狩りに失敗し、自分に対して心にもない追従ばかり口にする無能な取り巻きを逃れるように、高く聳える城のてっぺんにある尖塔の隠れ家へと現実逃避する姿には滑稽さより憐れみを感じるほどだったのであり、その王様も絵から飛び出した影武者にあっさりと取って代わられてしまい、影武者のほうが横恋慕から発した嫉妬をエスカレートさせ、全てを破壊し尽くすに至るのですから、王様自身が官僚的なメカニズムによって圧殺されたとも思え、真に恐ろしいのはメカニズムのほうだという気もします。
 などと政治的寓意の裏目読みについつい引きずり込まれてしまうのがこの映画なのですが、実はどう解釈されようが構わないと観客に向けて開かれているのがこの映画でもあり、わたくしたちはただ、この起伏豊かなお伽話を素直に愉しめばいいだけなのかも知れません。
 ただし、キャラクターの絵柄は日本人観客には癖の強いものに見えてしまい、わたくしも慣れるまでは違和感があったことを告白しておきます。
 宮崎駿はこの映画に触発されて「ルパン三世 カリオストロの城」を作ったと言われていますが、確かに、聳え立つ城の尖塔のイメージや、城の中に随所に仕掛けられた落とし穴などは、そのまま「カリオストロ」に援用されていましたし、破壊ロボットは「天空の城ラピュタ」に出てくる巨神兵を思い出します。


「時をかける少女」(7月30日 テアトル新宿)
2006年/監督:細田守

【★★★★★ 確かな日常描写に支えられた上質の青春物語。オリジナルとは設定を変え、新しい命が誕生した】

 1983年に大林宣彦監督によって作られた実写版「時をかける少女」は、タイムトラヴェルという荒唐無稽な題材を扱いながら、大林の故郷でもある尾道を舞台にした女子高生の淡い初恋物語が、実に親密感溢れる細部の描写によって活き活きと捉えられ、松任谷正隆の劇伴や妻・由実が歌った主題歌とともに忘れ難い印象を残す青春映画の佳作でした。個人的には大林という男をどうしても好きになれないのですが(ニヤニヤと人の好さそうな笑顔を見せながら、眼鏡の奥の眼はどこか冷笑的に人を射抜いているような、底意地の悪さを感じるのです)、彼の映画には嫌いになれないものもいくつかあり、その代表格が「時かけ」です。
 この題材は角川書店(および春樹)としても魅力的らしく、97年には春樹本人が監督したリメイク版を春樹事務所が製作し、今度は歴彦が製作総指揮という立場でアニメーション化を行いました。原作者の筒井康隆自身、パンフレットの中に出てくる挨拶でこの小説のことを“稼ぎのいい娘”と呼んでいます。
 「時かけ」アニメ版の話はずいぶん前に耳にしていましたが、当初は観たいとは思っていませんでした。しかし、監督を務めたのが「デジモンアドベンチャー」や「ワンピース オマツリ男爵と秘密の島」の細田守だと知り、細田の演出力には注目していただけに、俄然観たくなったのでした。
 今回の映画では、原作や大林版映画の主人公・芳山和子ではなく、新たなキャラクターが主人公に据えられています。野球が好きで、お転婆で活動的、クラスメイトの男の子2人とは友情で結ばれ、そこに男女関係が入り込むことを心のどこかで忌避しているという設定の主人公・紺野真琴は、オリジナル版の芳山和子のおしとやかで受身な性格とは対照的で、その分、物語をグイグイ突き動かす推進力を持っています。
 朝寝坊して、牛乳だけを飲み干してそそくさと学校に自転車で向かう真琴を追う朝の描写は、細田が「デジモンアドベンチャー」で見せた日常描写の細やかさをさらに推し進めており、こうした日常の確固たるリアリティの上に立脚して荒唐無稽なるお伽話へと飛翔してゆくという作劇が、ピクサーと同様にアニメーションを大人の鑑賞に耐え得るものにしています。家の中に差し込む陽光がもたらすハイライトと陰影、ダイニングキッチンから玄関先まで見通せるアングルの的確さと細部を支える美術装置の確かさ、少女が自転車を走らせる心地よい運動感と道路の傾斜、町並みの細部まで描き込むことによって醸し出される空気感……こうしたディテールが活き活きとすることによって、観客を物語へと導いてゆく手並みが鮮やかなのです。
 そして主人公・真琴は、理科実験室から聞こえた物音に誘われて、その部屋で胡桃のような小さな物体と遭遇し、“タイムリープ”と呼ばれる特殊な能力を身につけてしまうのです。
 その放課後、ブレーキが壊れて効かなくなった自転車で帰宅中、踏み切りで自転車を止めることができずに、走ってくる電車に突っ込む形で大惨事を招いてしまったと思いきや、次の瞬間には1分ほど前の時点に戻って命拾いしている自分を発見し、自分が身につけた能力に気づくことになる真琴。
 真琴の性格をお転婆で能動的に設定したことが効いてくるのは、彼女がタイムリープの才能を見つけてからで、まだまだ精神的に幼い彼女は、散々な結果に終わった抜き打ちテストをやり直したり、家庭科の調理実習で天麩羅作りに失敗したミスを他人に転嫁したり、妹に食べられてしまったプリンを我が物にしたりと、くだらないけど切実な生活周りのことにタイムリープの能力を使って、何でも相談できる叔母(この叔母の役名に、オリジナル版の主人公だった芳山和子という名前を使っているあたり、脚本の工夫に感心します)の前で「グワッハッハ」と大笑いする快活さを見せるのです。こうして、実に現代的な“時をかける少女”が誕生したのです。
 彼女がタイムリープ能力を駆使して別の時間に飛ぶと、なぜがゴロンゴロンと“でんぐり返し”して現れるという設定が笑いを呼び、いつもゴロンゴロンと現れては何か障害物に当たって「いてて」と声を上げる真琴が何とも愛らしく演出されています。
 そんな真琴が、いつまでも「グワッハッハ」と快活に笑ってばかりもいられなくなるのは、功介に想いを寄せる後輩少女が現われ、それを機に千昭のほうから真琴に「付き合わないか」という申し込みを受けるという形で、友情で結ばれていたはずの千昭、功介との3人の関係に変容が迫られるようになるからです。男性的な快活さは持っていても恋という感情の処理には全く慣れていない真琴が、一番近い存在だと思っていた千昭から告白されるという事態を迎え、物語に青春もの独特の甘酸っぱさが加味されるのです。
 真琴が、この告白そのものをなかったことにしようという浅慮から、何度もタイムリープを繰り返し、もう一度3人の友情関係を元の形にしようと悪戦苦闘する姿が、逆に本来なら不可逆的なものである青春という時期への見事な考察になっており、それがこの原作のエッセンスでることも思い出させてくれるのであり、奥寺佐渡子が書いた脚本の奥深さに感心します。そして、声優の初挑戦した仲里依紗、石田卓也、板倉光隆らから、実に自然な演技を引き出している細田の演出にも感銘を覚えます。
 ここから先の展開については、語ることを控えておきますが、真琴が理科実験室で遭遇した胡桃のような物体の真相が明らかとなり、真琴の叔母が修復に関与していた絵が物語の上での役割を与えられ、「グワッハッハ」とは対照的な真琴の「ウワーン」という大泣きが画面から響き、甘酸っぱい恋物語にピリオドが打たれるのを眼にしながら、ああ、こうして青春映画はまだまだ作られてゆくのだ、という実感に心を震わせ、それがアニメーションという形で結実している現実に感動し、とにもかくにもいい映画を見せてもらったという充実感に浸ることができたのでした。この夏の、否、今年のアニメーションとして、日本映画として出色の出来であることは間違いないでしょう。


「ハチミツとクローバー」(7月30日 新宿ジョイシネマ3)
2006年/監督:高田雅博

【★★★★ 蒼井優が魅力的で、役者たちのアンサンブルが幸福な和音を奏でている。予想したより出来がいい】

 このところアニメーションやドキュメンタリーが続いているので、実写の劇映画、それも日本映画は久しぶりに観た気がします。
 「ハチミツとクローバー」はわたくしにとっては古巣の少女漫画、それもわたくしが在籍した集英社から出ている原作を映画化したものですが、この映画を観たいと思った理由は、古巣への義理立てからではなく、わたくしのご贔屓女優の一人である蒼井優ちゃんが出ているという一点に尽きます。
 そして実際に観た印象は、やはり優ちゃんの存在感が映画全体を統御していることに改めて感銘を覚えたと同時に、美術大学のキャンパスや寮、教授の家などを舞台に、それぞれ専攻の違う学生たちが繰り広げる恋愛や芸術に対するナイーヴな格闘ぶりが活写されていることの驚きだったのであり、予想していたより遥かにいい出来の映画だと思いました。
 画才に恵まれた寡黙な新入生という設定の優ちゃんは勿論のこと、優ちゃんに想いを寄せる櫻井翔、優ちゃんのよきアドヴァイザーとなる伊勢谷友介、年上の女性に片想いする加瀬亮、その加瀬のことが好きな関めぐみ、優ちゃんの親戚にあたり、みんなに頼りにされる教授の堺雅人など、出ている役者たちがいずれも己のベストに近い演技を披露し、彼らのアンサンブルが幸福なる和音を奏でるという平和な光景を実現しています。
 堺教授の家で開かれた飲み会で、ビールを取りに2階に上がった櫻井が、そこで無心にキャンパスに花の絵を描いている優ちゃんと出逢い、電撃的な恋に陥るという冒頭場面。緩やかにウェーヴした髪にヘッドフォンをつけ、柔らかそうな素材のカラフルな服に身を包んだ優ちゃんが、真剣な眼差しでキャンパスに向かい、パタパタと音を立てて絵筆を叩きつける姿は、櫻井ならずとも人を夢中にさせるに充分な魅力を発散しています。
 櫻井が優ちゃんに想いを告げられないまま、アメリカ帰りで画才には自信満々の伊勢谷に優ちゃんを奪われそうになるといった展開は、少女漫画の常道であり、関が片想いを寄せる加瀬が年上の西田尚美に惚れているという三角関係も、少女漫画では掃いて捨てるほど描かれるステレオタイプではありますが、5人の若者が海に遊びに行ってはしゃぐ幸福感や、優ちゃんが伊勢谷と二人で看板に絵を描きなぐるジャムセッションのような楽しさは、観る者にも幸福を分け与えてくれるもので、こうした役者たちの楽しげな身振りを、厳密にカットを割るのではなく、即興演出のようなタッチで記録してゆく高田雅博なる初耳の監督の作劇も、この題材には巧く機能していたと思います。
 美大を舞台にした話というのは、記憶を辿っても思い出せないくらい稀なものだと思いますが、転がしやすい題材だと思いました。ただし、優ちゃんにせよ伊勢谷にせよ、抽象画を得意とする設定なので、絵を描いている場面でアラが目立ちませんでしたし、素人目には彼らが描く絵もなかなかの腕前に思えたくらいですが、一人くらいは具象画なり、デッサンなり、素人を唸らせるくらいの筆捌きを見せる役者がいてもよかったのではないかと思います。


「サイレントヒル」(8月1日 丸の内ピカデリー2)
2006年/監督:クリストフ・ガンズ

【★★ 話は前半と後半がまるで別の話に思えるほど支離滅裂だが、導入部からの演出には唸らされる】

 映画サーヴィスデーのこの日、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の第2作を観ようと劇場に行ったら、最前列の席しか空いていないと言われたので、隣の劇場でかかっていたこの映画を選択しました。
 予備知識はほとんどなく観たのですが、コナミのゲームが原作になっているようで、コナミもこの映画に出資しているようです。
 冒頭、ラダ・ミッチェル(去年公開された「ネバーランド」でジョニー・デップの妻の役をやっていた女優さん)扮する母親が、家からいなくなった娘を探している様子が描かれ、滝壷に今にも飛び込みそうなところに立っていた夢遊病の娘(つい先日「ローズ・イン・タイドランド」で達者な演技を見せていたジョデル・フェルランドが扮しています)を助ける場面が続くのですが、キャメラを180度縦方向に動かすクレーンワークによってダイナミックな絵を作ってゆく演出が光ります。
 このあと、娘の夢遊癖と奇妙な言動のウラには何かあると考えた母親は、娘が時折呟く“サイレントヒル”という言葉に導かれ、実際に存在するサイレントヒルという街に行ってみることにするのですが、今はゴーストタウンとして立ち入り禁止になっている街に強引に入ろうとした寸前、車の事故を起こしてしまい、母親が気を失っている間に娘は姿を消します。そして、娘の行方を捜すため、白い雪のような灰が降っているゴーストタウンへと母親は入ってゆくことになります。
 俯瞰やクレーン、足元を捉えた移動などの技巧を駆使しながら、不気味な恐怖感を醸成してゆく演出は確かに巧いと思わせ、観ていてゾクゾクしてきます。
 娘らしき人影を追ってゆくうち、街の奥深くにまでやってきた母親ですが、急に警報のような音が街に鳴り響くと、あたりが次第に暗くなり、ついには真っ暗になると、どこから現われたのか、首から上が畸形になった怪物たちが母親を襲うように近づいてくるという不気味さ。これはなかなかよく出来た恐怖映画だ、と思います。
 しかし、この街に髪を乱した中年女性の住人が現われたり、ミッチェルのことを追ってきた女性警官が絡んだりしてから、話は次第に変な方向に進み始めます。
 この街は、30年前に大火災が起きてからゴーストタウンになったという設定なので、その大火事が、突然暗くなると現われる不気味な怪物と何らかの関係を持っていると想像されますし、それが娘の夢遊病にどのような影響を与えているかといった疑問も次第に説明されるのだろうと思ったのに、怪物が出てくる理由も、その怪物の正体も説明されることなく放置され、この街でひっそりと暮らしているらしい人々がたくさん登場したり、その人々が教会に籠って狂信的な祈りを捧げたり、30年前にこの街で魔女扱いされた少女の逸話が出てきたりと、あらぬ方向へと物語が迷走を始めてしまうのです。
 その挙げ句、この母娘が迷い込んだ世界は現実世界とは違うパラレル・ワールドだったことが示唆され、要するにパラレル・ワールドなんだから何でもありでしょ、といった具合に物語が閉じられるに至って、話の支離滅裂ぶりに唖然とするほかありませんでした。
 とはいえ、前半の演出には酔わされたのですから、まあサーヴィスデーの1000円なら充分にモトは取れたと思うのでした。

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