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200×年映画の旅コミュの7月上旬号

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侘助が観た7月上旬の映画たち、僅か8本にしか過ぎませんが、その感想たちです。

「初恋」(7/8 シネカノン有楽町)
2006年/監督:塙幸成

【★★ 60年代末風俗の上っ面をなぞるだけ。宮崎あおいの旬の魅力に★1つオマケ】

 1968年12月10日に府中刑務所近くで発生したいわゆる三億円事件は、わたくしが中学生の時の出来事ですが、まだ政治的関心にも社会的意識にも目覚めていなかったガキンチョにとっても、この事件にはどこか痛快さを感じていたものです。既に高度経済成長の只中にあったとはいえ「私が棄てた女」が撮られた68年の日本はまだ貧しかったのですから、三億円は高嶺の花だったという厳然たる事実もあったでしょうが、警察の鼻をあかしてまんまと完全犯罪を成立させてしまうという知能犯ぶりがカッコよく見えたのであり、わたくしがその後新サヨク思想にかぶれ警察権力を忌み嫌った時期などは事件の犯人をヒーロー視したものです。
 この映画は、三億円事件の実行犯はうら若き女子高校生だったという仮説の上に書かれた小説を映画化したもので、ポスターや予告編でその設定を知った時は、何と馬鹿げた発想かと呆れる一方で、世の中には突飛な発想する奴がいるもので、だからこそ世界は面白いのだと思う自分もいたのでした。しかも、事件の犯人に扮するのが、今が旬の宮崎あおいなのですから、塙某なる監督の名前には聞き覚えがなかったものの、前売り券を購入して公開を待っていたわけです。
 冒頭、60年代末の新宿界隈を映したスティール写真に続いて、地下にある薄暗いジャズ喫茶を移動キャメラで捉えた絵に、主人公・宮崎あおいのモノローグで、三億円事件は自分にとっても時代にとっても一瞬の輝きだったとかなんとか、勿体ぶった言葉が語られ、早くも鼻白む思いを禁じ得ませんでした。具体性を欠いた抽象的な懐古調の科白で始まる映画にロクなものはない、という体験に基づく個人的な感触です。
 このあと映画は、1966年とクレジットされた新宿駅東口大ガード前を再現したCG画面を映し、卑猥なネオンが瞬く歌舞伎町で可憐な女子高生みすず(宮崎あおい)が “B”という名のジャズ喫茶に入ってゆく様子を描いてゆきます。店には、女にモテモテの色男リョウ(彼は実はみすずの実兄であることが後に明らかになるのですが、演じているのは、宮崎あおいの実兄である宮崎将。「ユリイカ」以来の兄妹共演です)、その彼女のユカ(小嶺麗奈)、作家志望のタケシ(柄本佑、モデルは中上健次だそうです)、武闘派のテツ、気の優しいヤス、そしてリョウの友人・岸(小出恵介)らが常連としてたむろしているのですが、彼らにからかわれたミスズは「大人なんかになりたくない」と吐き捨てて店を出てゆきます。
 大人なんかになりたくない、という科白に作者は60年代末の時代と向き合いつつ喘ぐ少女の実感を込めようとしたのでしょうが、なぜ主人公がその言葉を吐き出さなければならなかったのかを、映画はまったく描いておらず、みすずという少女に感情移入することができません。リョウやその仲間たちにしたところで、来るべき70年安保の自動延長を前に緊迫しつつあった66年の政治状況に対する焦燥や、世界同時多発的に若者たちを駆り立てていた“異議申し立て”の熱情なども感じられず、映画は時代風俗の表層を舐めるだけで、さらりと受け流しているように思えます。このあと、夜の女と一夜を過ごしたリョウが、岸に向かって、「ゆうべはハッパやって、LSDやって」などという言葉を発する場面もありますが、当時の青年たちがこうした薬物から得られていたはずの神秘体験・幻想体験に対する洞察を一切欠いた薄っぺらい風俗現象だけを掬い取る姿勢には、政治の季節を迎えようとしていた時代と斬り結ぼうという歴史認識が欠如した作者の下品な根性が透けて見えるように思えました。
 主人公みすずが帰宅すると、この家にはどうやらみすずにとっては叔母・叔父に当たる人物が住んでいるらしく、しかも彼らはみすずのことを疎ましく思っていることが、「どうせあんな女の娘ですから」「血は争えないな」などという紋切り型の科白で説明されるのですが、このように凡庸極まりない科白を吐かせて平然としているというだけで、この映画の作者たちのことは信用することができないという思いになってしまいました。
 こうして、冒頭から10分も経過しないうちに底が割れてしまった気がして、あとは映画に集中力を傾ける気力が失せてしまったのですが、みすずが実兄の親友の岸に惹かれるようになり、彼の薦めに従って三億円強奪の実行犯として育成されるに至る過程も、時代に挑戦しようという気概を欠いた甘ったるく平板なラヴストーリーでしかなく、女子高生を事件の犯人に仕立て上げるという荒唐無稽な設定だけが妙に浮いた形で観客に提示されるばかりだったのでした。
 映画について悪口を書き連ねるのは愉快な気分ではありませんので、これ以上欠点をあげつらうのはやめておきます。
 むしろ魅力的な点を挙げておくと、このところ女優として、女性として、成長著しい宮崎あおいの旬の姿を観られたことは、やはり映画ファンとして感謝を捧げておきたいと思います。“かわいい子”というレヴェルから“いい女”というレヴェルに脱皮しつつある時期の女優の姿をフィルムに永遠に刻印することもまた、映画の大きな魅力なのであり、このあおい嬢をフィルムに収めてくれたことに対して★1つオマケしておきます。


「間宮兄弟」(7月8日 銀座シネパトス3)
2006年/監督・脚本:森田芳光

【★★★ このところ演出的な衒いが鼻についた森田が、軽い題材を選んだことで巧くはまった】

 森田芳光の映画はこのところ、「39 刑法第三十九条」にせよ「黒い家」にせよ、余計な演出的衒いを排して撮れば傑作になったろうに、奇矯なアングルの採用、動かし過ぎのキャメラ、思わせぶりな編集など、下品とすら呼びたい自己顕示欲を露わにした演出によって映画を台無しにしてきたと思いましたし、そうした奇を衒った演出は抑え気味にしていると思えた「阿修羅のごとく」においても、表面的な軽さの裏に隠された残酷さという主題に対して、結局は表層をなぞるだけだった森田の演出姿勢が巧く機能していないように感じられました。題材の持つシリアスなマジメさに、森田の斜に構えた演出がフィットしていないというのが、最近の森田映画の特徴に思えたのです。
 しかし今回の新作は、題材自体が徹底した軽さを要求するもので、外見はまったく似ていない兄弟が、いい年をして少年のように仲良く振る舞いながら日常のあらゆる局面で相似形を形成してしまうという、ズレから生まれる笑いを追求すべきお話ですから、森田的な演出の衒いが物語と巧くマッチし、不自然には感じられなかったのでした。
 冒頭、自転車が1台停まっているのを俯瞰で捉えた場面にもう1台の自転車がやってきて、2台が平行の相似形を形作って駐輪します。自宅では兄の佐々木蔵之介と弟の塚地武雄が左右対称形でTVの前に座り、ヴィデオに見入ったり、横浜ベイスターズ戦のスコアブック記入をしたりしています。ここまでしつこく相似形を押しつけられると、正直なところ辟易するのですが、佐々木、塚地の容姿のアンバランスさがオフビートな可笑しさを醸し出し、つい笑いを誘われることも事実です。
 兄はビール工場の品質管理員で、佐々木が目線の高さにビールグラスをかざして無表情にテイスティングする姿がまた妙に可笑しく、弟は小学校の用務員として不器用そうながら運動具の片付けに格闘する姿がユーモラスです。この兄弟がいい年をして仲良く商店街に買い物に行き、グリコ、パイナップル、チョコレート、とジャンケン遊びに興じる姿を、森田はいささかやり過ぎの演出で誇張してゆきますので、兄弟を取り巻く世界が浮き世離れしたお伽話として観客に提示され、観客もそれを所与のものとして受け止めるのです。
 二人は枕を並べて寝る間柄ですから、生々しい性の匂いは巧みに画面から排除されているのですが、そんな二人も異性には敏感であり、塚地は学校の同僚である眼鏡女教師の常盤貴子を兄の相手にどうかと思ってホームパーティに誘い、佐々木のほうは行きつけのヴィデオ屋のバイト娘・沢尻エリカを誘います。兄弟に欠けていた性の匂いは女性たちが映画に導入し、常盤は薄着の肌を晒してさりげなく兄弟を誘惑しますし、沢尻のほうは兄弟の前ではおとなしく振る舞うものの、こっそり付き合っている佐藤隆太とは彼女にしては大胆とも思えるベッドシーンを演じます。常盤のほうもベッドシーンこそ演じないものの、同僚教師と結婚を前提とした肉体関係を結んでいます。
こうして女たちの大胆さを描いているがゆえに、兄弟の性の未熟さ、ガキっぽい純情さが強調され、観客は佐々木や塚地に憐れみに近い共感を寄せることとなり、この奇妙なお話に入り込んでゆくのです。
 このところシリアスな題材を小手先でこねくり回してばかりいる印象の森田が、ようやく彼本来の調子を披露してみせ、長編デビュー作「の・ようなもの」を想起する軽みを獲得していると思いました。団地の明るい午後、部屋には戸外を飛ぶヘリコプターの音が聞こえるあたり、森田本人としては代表作「家族ゲーム」の再現を目論んだとも思えます。しかし、軽さの向こう側に構える退屈なる日常という恐怖を見据えるところにまでは到達しているとは思えず、まだまだ「家族ゲーム」の調子まで取り戻したとは言えません。しかし、このところの低調から森田が脱したことは察せられ、これからの彼に期待したいと思いました。


「インサイド・マン」(7月8日 日比谷みゆき座)
2006年/監督:スパイク・リー

【★★★ よく出来た完全犯罪ものだが、スパイク・リーらしい社会性に欠け、物足りなさも感じる】

 常にアフロ・アメリカンとしての出自に自覚的で、ニューヨーカーとしての矜持を抱き続けている黒人作家スパイク・リーですが、今回の新作は、ここまでエンタテインメントに徹していいのだろうかと訝しく思えるほどの題材であり、正直なところ呆気にとられましたし、物足りなさも覚えましたが、実に面白い完全犯罪ものであったこともまた事実でしょう。
 冒頭、クライヴ・オーウェンが監獄内かと思えるような狭い室内でキャメラに向かってモノローグを始め、自分が完全犯罪を実行する過程を語り始めると、いきなりインド風の音楽がテンポよく流れ出し、オーウェンが率いる銀行強盗団がニューヨークの街を車で移動し、マンハッタン信託銀行の一支店へと向かう様子が短いカット割りによって描かれます。耳に強く残るインド風の音楽は、インド映画「ディル・セ〜心から〜」の主題歌だそうで、選曲の妙が光ります。
 銀行に到着したオーウェンら4人の強盗団は、塗装業者のふりをして行内に入り込み、中にいた従業員や客30数人うぃ人質にとり、彼ら全員に自分たちが着ているのと同じジャンプスーツを着せ、行内に閉じ込めます。そして強盗団は、さっさと金庫から金を奪って逃げるかと思いきや、備品室に籠もって何やら床に細工を始めます。
 銀行に異変が起きたことは直ちに警察の知るところとなり、犯人交渉役としてデンゼル・ワシントンが現場に派遣されるとともに、ウィレム・デフォー率いる機動部隊も配置され、いざという時の突入に備えます。如何にして人質を無事に確保するかに警察が頭を抱える中で、犯人が要求するのは、逃亡用のジャンボジェット機の用意です。直ちに用意できるものではないだけに、警察は時間稼ぎをして犯人の更なる出方を待っているのですが、一方で、この支店内のセイフティボックスに何やら重大な秘密を隠し持っているらしい銀行会長のクリストファー・プラマーは、それを無事に回収することを第一義として有能弁護士のジョディ・フォスターを雇い入れ、警察や行政当局への圧力をかけ始めるのです。
 まあこうして粗筋を素描しているだけだと、単なる銀行強盗と警察の攻防戦でしかなく、実際の映画もそうしたやり取りに終始するのですが(特にオーウェンとワシントンが前面に立ち、フォスターの見せ場は極めて少ないと言えましょう)、犯人グループがダミーで流す行内会話が欧州の小国の言語であったり、行内からメッセージ要員として解放される人質がアラブ系の人間であったがゆえにテロリストと間違えられたりするといった具合に、細部にはスパイク・リーらしい人種差別的な要素が散りばめられ、人種の坩堝としてのニューヨークの現在が浮き彫りにされており、飽きずに観ることができます。
 リーの演出は、ステディキャムを多用し、行内を自在に往来する手持ちキャメラの長回しで緊張感を高めつつ、役者の芝居の応酬は複数キャメラの同時シュートによって芝居の呼吸を活かす撮影法が貫かれ、ワシントン、オーウェン、フォスターら芝居上手な役者たちを巧くコントロールします。
 一方、映画は途中から人質たちへのワシントンによる事情聴取の場面が挟まれるようになり、ということは、人質が解放されたのちの話が現在進行形のドラマの中にインサートされるのですが、そうした演出的工夫は、いまひとつ有効に物語の流れに貢献しているとは思えず、観客をやや混乱させるだけだったような気がします。
 ともあれ、こうして警察とオーウェン側の攻防の末、ついに警察が行内に突入した時には、犯人たちは同じ服装をした人質の中に紛れてしまっている上、主犯格のオーウェンの姿は消え去り、さらには行内の現金や有価証券には一切の被害がないという、呆気にとられる結果となったのであり、では一体犯人たちの目的はどこにあったのか、ということに映画の興味が絞られることになります。
 ここから先については詳述は控えておきますが、観終わって、ニヤリとする面白い仕掛けが用意されていると言っていいとは思います。
 冒頭に流れたのと同じインド風のテンポのよい音楽に身を任せながらエンドクレジットを眺めつつ、なかなかの観応えだったなどと反芻している一方で、そうは言ってもスパイク・リーがこのようなエンタテインメント一色に染まった犯罪映画を作って悦に入っているというのは、今のアメリカ映画の弱体化を進行させるばかりではないか、という思いも頭を擡げたのであり、やはりリーには、「25時」における9.11への言及くらいの芸当をしてもらわないと、この国の映画は活性化しないのではないか、というお節介な感想も漏れてしまうのでした。


「カサノバ」(7月9日 銀座テアトルシネマ)
2005年/監督:ラッセ・ハルストレム

【★★ カサノヴァが過去をなげうってたった一人の女性に尽くすという白々しい嘘に乗れず】

 ラッセ・ハルストレムは、大味になるばかりのハリウッドにあって、「ギルバート・グレイプ」「サイダーハウス・ルール」「ショコラ」「シッピング・ニュース」など、親密な味とでも言いましょうか、人物の心情を繊細かつ丹念に描いており、親近感を覚えてきました。スウェーデン時代の映画は「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」しか観たことがありませんので、偉そうなことを言う資格はありませんが、ヨーロッパ映画的な心理描写を担保しつつ、ハリウッド的な通俗性を適度にまぶしながら、人の柔らかい部分に訴える口当たりの良さを獲得してきたのです。
 そんな彼が歴史的な女誑しであるジャコモ・カサノヴァの物語を編むというのですから、スウェーデン出身者としての性の解放思想のようなものが、どのようにハリウッドと折り合いをつけて表現されるのか、興味を持っていました。
 ヴェネツィアを追い出された女役者(当時の女優は娼婦とほぼ同義語だったことが映画の冒頭に示されますので、日本の河原乞食と同様、ここでも役者は差別の対象だったようです)の息子として生まれたカサノヴァが、あっという間に長じて早くも女誑しとして名を成している様子を描く冒頭、彼の能天気なプレイボーイぶりには、被差別者としてのわだかまりも母への思いもなく、どうも嫌な予感が走ります。
 その彼が、淫蕩の罪から逃れてヴェネツィアで暮らし続けるために、ある令嬢との結婚を決意する一方、その令嬢の家の真向かいに住んでいる女権伸長主義者にして純粋愛を支持する女性フランチェスカに出逢い、強く惹かれることによって、非可逆的な変容を迫られるというお話。
 人生に1000人もの女性と関係したと自伝で語ったとされるジャコモの人生にそのような女性の存在があったはずがありませんので、このお話は、知られざるジャコモの裏話をデッチ上げようという法螺話なわけですが、ジャコモはフランチェスカに対して、自分がカサノヴァ本人であるという身分を隠し、彼女の許婚であるジェノヴァの商人になりすますという嘘をつくこととなり、その嘘は彼の真情から発したというより、単なるその場の思いつきでしかないのですし、その嘘が次なる嘘を呼ぶといった展開は、所詮は誠実さを欠いた遊戯としての嘘つきごっこにしか見えないため、白々しい思いに駆られてしまいます。
 ハルストレムの作劇は、よく言えば流麗とも形容できそうな、停滞のない語り口で徹しており、それはそれで褒めて然るべき輪郭に収まっているとも思えますが、ハルストレム映画に感じてきた親近感の根拠たる“人物の心情を繊細かつ丹念に描く親密さ”を欠いた大味な展開に白けてしまったこちらの気持ちは修復しようがなく、あとは退屈な時間となってしまいました。
 そもそもこの映画におけるカサノヴァも、冒頭では母と引き裂かれる場面が置かれ、配給会社が用意した惹句も“恋愛至上主義”を掲げ、“官能を極めること、それが何よりも重要だった。私は女性のために生まれ、つねに女性を愛し、愛されるよう努めた”という彼の回想録の言葉をチラシやHPで紹介するなど、彼の女性体験の豊富さに隠された信条を描こうとしているように思わせていたにも関わらず、実際のお話はたった一人の女性のために全ての過去を擲ってしまうプラトニック性を前面に打ち出してしまうのですから、まあ看板に偽りあり、というお話だったのであり、まんまと騙されて劇場に足を運んでしまったわたくしのほうがバカだったということでしょうか。


「ローズ・イン・タイドランド」(7月15日 新宿武蔵野館2)
2005年/監督:テリー・ギリアム

【★★★ ギリアムらしい毒と悪臭に満ちたお伽話。主演の子役が無邪気と残酷さを体現し、圧倒的】

 昨年公開されたテリー・ギリアムの「ブラザーズ・グリム」は観逃してしまいましたが、どうやら同じ路線に位置するのがこの映画のようです。
 この「ローズ・イン・タイドランド」は予告編を観ただけで、「アリス・イン・ワンダーランド」をモティーフにしたお伽話であるとは思いましたが、ギリアムが単なる可愛らしいお伽話を映画にするはずがなく、そこには悪意や頽廃なども織り込まれたダーク・ファンタジーとも呼ぶべき世界が広がるに違いないのであり、どうやらそういう傾向は前作「ブラザーズ・グリム」にも広がっていたもののようなのです。
 映画の冒頭、主人公ジェライザ=ローズが黄金色に輝く草原を走り、横転したバスの下に潜り込んで、そこに多くの首だけがもがれたバービー人形の首だけを何体もお守り代わりに持っており、その人形の首と会話を交わすことを日常の癖にしている少女。子供は無邪気さと同時に残酷さを持っているものですが、この物語ではそうした残酷さのほうが強調されています。
 場面が変わると、ジェライザ=ローズは汚いアパートの一室で両親の世話をする日々に縛り付けられており、ヘロイン中毒の父親にはヘロイン注射を用意してやり、我侭でヤク中の母親にはおやつのチョコレートを独占されながらも身の周りの世話をしてやるなど、無邪気な善意を両親に利用されて生きています。
 しかしある時、母がヤクの摂取多量によって急死してしまい、ジェライザ=ローズは父親と一緒に彼の生まれ故郷である田舎村に移住することになります。その田舎村というのが、冒頭に出てきた黄金の草原を持つ村です。廃屋寸前の父の生家に住み始めたジェライザ=ローズと父ですが、父はすぐにヘロイン摂取過多で母のあとを追ってあの世に行ってしまいます。
 ジェライザ=ローズは、近所に住む父の幼馴染で黒魔術か何かにとり憑かれた魔女のような女デルと、その弟で知恵遅れのディケンズに囲まれながら、盛んな想像力を膨らませながら生きてゆくことになるのです。
 死んだ父の遺体を魔女デルが解体してミイラ状にして保存しようとする様子、首だけのバービー人形が少女の想像力の中でヒラヒラと空中をさ迷う様子、ジェライザ=ローズが地中の穴の奥深くに落ちてゆく悪夢のようなイメージなど、おどろおどろしく撮れば不気味なホラーとして成立しそうな光景なのですが、いずれも残酷にして無邪気なる少女の眼を通して描かれるため、ファンタジー性を失っておらず、まさしくダーク・ファンタジーとして観客にも許容されます。こうした悪と頽廃が同居するファンタジーというジャンルほどギリアムに相応しいものもなく、それほど多くの予算はかけられていないがゆえに、どこかチープな感触が残るセットやCG処理も含めた世界観のすべてが、ギリアム的なギミック描写にピタリとはまっています。
 こうした不気味さを忌避する向きには、決してお薦めする映画ではありませんが、一度でもギリアムの邪気に興味を持ったことがある人には、面白く観られる映画なのではないでしょうか。かく言うわたくしも、結構面白く観たクチです。
 物語はラスト近く、この田舎村の近くで起きたカタストロフ的な大事故によって、少女を現実世界へと連れ戻すことになります。田舎の中に隔絶していたと思っていた黒魔術のお伽話世界が、実は現実世界と隣り合わせに存在していたことを示すことによって、ギリアム的な邪気はわたくしたち観客の身近にもヒタヒタと及んでいることを感じさせ、なかなかどうしてスリリングです。
 ジェライザ=ローズに扮した子役のジョデル・フェルランドは、ギリアムが惚れ込んで抜擢しただけあって、無邪気さと残酷さを併せ持った少女の小悪魔性を見事に体現し、ちょっと役柄は違うものの「ユリイカ」で登場した時の宮崎あおいの鮮烈さを思い出します。


「やぶにらみニッポン」(7月15日 ラピュタ阿佐ヶ谷)
1963年/監督:鈴木英夫

【★ これまでに観た鈴木英夫監督作の中では例外的に演出が弛緩した映画で、脚本が酷すぎる】

 ラピュタ阿佐ヶ谷での“銀幕の東京〜失われた風景を探して”という特集の一環で上映された映画です。わたくしが贔屓にしている鈴木英夫の監督作であり、未見の映画でもあったため、勇んで駆けつけました。ラピュタは僅か48しか座席のない小屋ではありますが、この日は満席の盛況で、鈴木ファンが着実に増殖していることを実感しました。
 さて映画の中身ですが、恋愛映画だろうがサラリーマンものだろうが、常に画面をサスペンスフルにしてしまう鈴木英夫の作品群にあって、この映画は脚本が粗雑極まりなく、鈴木演出も例外的に弛緩した部分を露呈してしまっており、これまでに観た鈴木映画の中では残念ながら全く買えない代物でしかありませんでした。鈴木でもこのように弛緩したフィルムを作ってしまうことに、まあ彼も50〜60年代を生き抜いた多くのプログラム・ピクチュア作家たちと同様、やっつけ仕事をしてしまう面があったことを思い知らされ、ちょっと安堵した面もあります。
 冒頭はハワイから日本に向かう旅客機の中。ガムの懸賞に当たってハワイ旅行を楽しんできたという若水ヤエ子と、隣席のジェリー伊藤との会話の中で、ジェリーが初めて父の祖国の土を踏もうとしている日系二世であることを説明するエピソードが組み立てられるのですが、会話は間延びし、カット割りは凡庸で、映画的なリズムを欠いた画面の推移に、早くも愕然とします。
 羽田空港で出迎えているメンバーの中には、週刊誌記者の宝田明がいるのですが、若水らをハワイにエスコートしたというガイドの白川由美は、ちょうど折りよく宝田とは恋人関係にあるという都合のいい設定で、こうした都合のよさは、宝田やジェリーが顔を出す場所にちょうど都合よく白川も来ているという形の“ご都合主義”として全篇にわたり徹底されています。
 実は有名な物理学者であるという設定のジェリーがお忍びで父の祖国を訪ねたところに遭遇した宝田は、彼に東京滞在記を書いてもらう約束をとりつけ、ジェリーがお気に入りになったらしい白川をエスコート役として付けるのですが、ジェリーが滞在記を書いている場面など一度も出ることなく、そもそもガム会社のガイド役だったはずの白川がガム会社の仕事などそっちのけでジェリーのお供をしたりしているのも、噴飯ものと呼ぶしかないいい加減さです。
 脚本の本意は、東京オリンピックを目前に控えて、一挙に国際化を進めようとしている日本の生活様式、文化状況、経済体制、都市計画などの中に点在する矛盾を突き、右へ倣えとばかりに国際化へと靡く日本人たちを茶化そうという点にあり、それを人物同士の会話の随所に織り込んでゆくのですが、そうしたエピソード集をテンポよく繋いでゆくという面では快調に思えるところもあるにも関わらず、物語の本流を形成する男女の四角関係の部分の破綻が全篇に波及してしまうという欠点を晒します。
 ジェリーが白川に恋慕する一方、宝田との間では倦怠期に入っていた白川もジェリーの誘惑にその気になり、さらには宝田のほうも偶然知り合った二世女性ムーザ・ケマナイ(この女優さんは初めて観ましたし、その後も映画出演した形跡はありませんので、これ1本だけで消えた人のようです)に入れ揚げ、ここにジェリー−白川、宝田−ケマナイというカップルが誕生するかに思われるという四角関係が仄めかされるわけですが、こんな四角関係は観客の誰一人として感情移入することがあろうはずがなく、そんなことは百も承知の鈴木英夫も脚本全部を直す気力もなかったのでしょう、無残なまでにいい加減な話が平然とフィルムに納められてしまったのです。
 まあこのようなお話に目くじらを立てるのも如何なものかとも思われ、こういう映画に対しては、寺内大吉や十返肇といった文化人が結構一所懸命に芝居をしているじゃないか、とか、若い頃の木の実ナナの踊りが結構サマになっているじゃないか、といった細部を愉しめばいいのかも知れません。


「ゆれる」(7月16日 アミューズCQN・シアター1)
2006年/監督・脚本:西川美和

【★★ 役者も好演、演出も的確だが、兄弟愛の影に隠した形の同性愛という主題の扱いが中途半端】

 西川美和のデビュー作「蛇イチゴ」は、3年前だか東京フィルメックスで観て、デビュー作としては上々の出来だとは思いながらも、デビュー作にありがちな騒々しさ(画面上の騒々しさ、言葉としての騒々しさ)が鼻につき、今いちという印象を受けました。しかし今回の新作は予告編を観るだけでも、腰の据わった演出が窺え、期待が高まっていました。
 冒頭、洗面器に揺れる水面にメインタイトルが出たあと、あるマンションの一室で洗顔中だった写真家の主人公オダギリジョーが、助手たちにあとを託して車に乗り、実家のある山梨の田舎町に向かう様子がクレジットバックとして描かれます。音楽に引きずられるようにして推移するカット割りからはリズム感が感じられず、正直なところ、冒頭はあまり感心しませんでした。西川という作家には映画監督として必需品のリズム感が欠如していると思えたのです。
 しかし、死んだ母親の1周忌に出席したオダギリが、父親の伊武雅刀との間に険悪な空気が流れるのを、オダギリの兄・香川照之が間に入ってとりなす様子を、父が荒らしたお膳を片付けようとして必死に拭いている香川の背後から、兄のズボンにかかる酒の雫を見つめるオダギリの視点から描くといった細部が生き生きとし始めてから、映画は確かな歩みを始めます。
 自分が東京に出てゆく際に捨て去ってきた故郷の持つダサさと確かな生活感を、父の後を継いでガソリンスタンドの店長となって朴訥と生きる兄が表象するのを、やりきれない憎悪の対象として、それでいて愛おしいものとして見つめるオダギリの視点。
 愛憎が半ばするこのアンビヴァレントな視点が全篇を通じたオダギリの感情を左右し、その感情の揺れがタイトルにも反映されているのですが、さらに、この弟による兄への愛憎の視線には、明らかにアブノーマルなものを感じます。
 それは、ほかでもないホモセクシャルな思いであり、女性作家の多くが明示的にせよ黙示的にせよ自作の中に取り入れようとする主題に西川美和も敏感だったと思われます。
 弟からの想いを受け止め、そこに揺れをもたらす香川の芝居が相変わらずの凄味を発揮し、その芝居に触発されたオダギリもこのところの表層的な芝居を脱して、「アカルイミライ」で見せたような繊細さに達しているように思われます。そして西川演出は、そうした兄弟の間に流れる繊細な揺れの変化を、長回しのキャメラによってまるごと捉えようとして成功しています。ここではデビュー作に見られた騒々しさは影を潜め、予告編で散見された腰の据わった演出が貫かれているのです。
 弟の兄に対する禁断の同性愛という主題は、オダギリの幼馴染という設定の真木よう子の存在によってはっきりと浮き彫りになってくるのであり、しかも同性愛的な視線は弟から兄への一方通行のものではなく、実は双方向のものであることも浮き彫りにします。
 オダギリが真木を誘惑する時に呟く「俺、嫉妬しちゃったよ」という言葉は、あたかも真木への密かな想いを吐露しているかのように思わせながら、兄と睦まじく並んでいる真木への憎悪から発した言葉に違いなく、だからこそオダギリは、この後に起きる真木の転落死にも動じることなく、ひたすら兄を庇う行動にばかり駆り立てられることになります。
 一方、香川のほうも、真木の転落死に直接的に関与したのは、自分が真木に向けた想いを拒絶されたからだという、わかりやすい理由からだと思わせていますが、香川が弟に向ける視線に宿った粘着性が明らかに物語っているのは、兄弟愛などという家族関係を超えたプラトニックな“純愛”に違いないと思われ、香川が真木に向けたのも弟を奪い去ろうとする異物への憎悪だったのだろうと思います。
 それにしても、こうした兄弟関係を照射する触媒という役割だけを与えられてあっさり殺されてしまう真木よう子は、あまりにも可哀想に思えます。そもそも母親の不在という状況から物語を始動したこの映画では、女性性という主題はこの真木だけに付与されていたはずですが、西川の冷たい仕打ちを見ていると、この女性作家には己が身に纏った性には関心がないらしいことが明らかになるばかりです。この物語における真木の役柄は、二人の男性に愛された幸福なものでは決してなく、二人の男に疎まれて舞台からあっさり退場してゆく哀れな女性像なのであり、「パッチギ!」で「うりゃー!」の掛け声を発してカッコいい跳び蹴りを披露して以来わたくしにとってマドンナの一人になっていた真木を、このように冷たくあしらうばかりの西川には敵意を覚えたほどです。
 とはいえ、これまで黙示的にしか描かれなかった禁断の兄弟愛という主題が、この後どのような変遷を辿って観客の前に明示されるのだろうということに興味を絞って画面の推移を見守っていたところ、西川脚本は、法廷ミステリー路線に色気を覚えたのか、黒澤明「羅生門」みたいなことを始める有り様で、観客の視線をズラしてしまいます。
 兄弟関係がいよいよ引き絞られると期待した留置場での会話場面も、突然の香川の豹変を導入して観客の眼を眩ませるばかりで、主題への斬り込みは巧妙に避けられた印象ばかりが残りました。
 さらには、真木の死によって画面から一掃された女性性という主題がついに浮上するかと思われた母親の残した8ミリフィルムには、母親は一切登場することなく、兄弟関係の秘密に触れるような細部もそこには描かれていなかったのであり、あの8ミリ画面に向けて涙を流すオダギリの心情がまったく理解できずに当惑するばかりでした。
 したがって、ラストでオダギリが必死に叫ぶ「にいちゃーん」の言葉にも、その弟に曖昧な微笑みを返すか側の芝居にも、わたくしには何やら思わせぶりで舌足らずなものしか感じられず、妙にシラけた思いばかりを胸に残し、劇場をあとに
したのでした。
 わたくしには、西川の個人的な思いが充満した脚本第二稿までの段階で映画にしてしまい、第三者の眼を交えた決定稿にはしなかったのではないか、という疑問を呈したくなったのでした。
 役者の力、それを引き出す演出は素晴らしいだけに、脚本の吟味を怠ったように思えることが残念でした。


「胡同のひまわり」(7月16日 Bunkamura ル・シネマ2)
2005年/監督:チャン・ヤン(張揚)

【★★ 文革世代を称える作者の気持ちはわかるが、父の横暴さが目に余り、息子の従順さに苛立つ】

 2001年に公開されたチャン・ヤンの「こころの湯」は、滅び行く北京の昔の街並に郷愁を寄せる老人世代に対して、若者世代が理解を示すという融合に、どこか微温的なわざとらしさを感じながらも、心地よい読後感を得られた映画でした。中国第六世代に属するチャンが、先輩世代に贈ったエールのような映画だということもできたでしょう。
 今回の新作は、1967年に北京の胡同(フートン)で赤ん坊が生まれる場面から映画が始まり、生まれた病院の周りには向日葵が咲き誇っていたことから、赤ん坊にはシャンヤン(向陽=ひまわり)という名がつけられるのです。そこで映画は1976年まで時間を飛ばし、今は9歳になったシャンヤンのもとに、長らく自宅を離れていた父親が帰ってくる場面を描きます。中国に文化大革命の嵐が吹き荒れた60年代末〜70年代半ば、この父親は文革の犠牲者として農場での強制労働に駆り出されていたのです。胡同に住む隣人たちは彼の帰還を讃えますが、シャンヤンにすれば顔も知らなかった父親の突然の帰宅であり、数年前のロシア映画「父、帰る」の少年たちと同様、父親に馴染むことができず、帰還の初夜、母がこの男と同衾して喘いでいる声を聞いたシャンヤンは、「母さんをいじめるな」と声をぶつけることになるのです。
 文革が残した傷跡と向き合うという主題は、チャンの先輩に当たる第五世代(ティエン・チュアンチュアン=田壮壮、チェン・カイコー=陳凱歌、チャン・イーモウ=張芸謀ら)の専売特許だと思われてきましたが、第六世代のチャンは、不在だった文革被害者の帰宅という題材によって、その息子の視点からこの主題と向き合う方法を見つけたのです。それはそれで立派なアプローチだと思います。
 しかし、この父親像、強制労働の農場で右手の指を潰され、画家としての商売道具を失ったという絶望があるとはいえ、息子に対して画家の夢を押し付け、嫌がる息子に強引に絵筆を握らせようとした上、息子が19歳になって友人や恋人と自立を求めて広州に逃げ出そうとした時も、息子の意思を無視して強引に北京に押しとどめ、さらには息子の恋人が妊娠したと知るや、息子に無断で堕胎を強要する有り様で、いくら中国が儒教的倫理に貫かれた国であろうと、あまりにも強引に息子の人生に関与しようとする姿勢は、見ていて愉快に思えるものではありませんでした。
 息子も息子で、何度も父親に対して絶縁を宣言しながらも、結局は父親の敷いたレールの上を妥協して歩む人生を選択するばかりであり、彼の没個性的な生き方にもつい反発を覚えてしまいました。これが父子愛だなどとは決して思えません。
 物語は結局、胡同という壊されることになった北京の下町風情に己を重ね合わせた父親が、今は画家として大成した息子に道を譲るかのように、残りの人生を自由に過ごしたいと北京を離れ、息子のほうはようやく子供の父親になる道を選び、今は放浪している父親への思いを馳せるという形で、文革世代の先輩たちへのエールを送るような形に収まってゆくのですが、なんとも生温い展開には鼻白むのを抑えることはできませんでした。「父、帰る」のアンドレイ・ズヴャギンツェフが実践した“父殺し”ほど直接的な形をとらなくてもいいですが、ここに描かれているよりもっと苛酷な闘争が肉親との間に演じられなければ、シャンヤンの人生は敗北でしかないと思います。

コメント(4)

胡同のひまわりは「父の秘めた想い」がわからず、息子への押さえつけが不快でした。
それが気になり映画に入れなかったです。
胡同の生活から現代への町の変貌には目を見張り、向陽の作品は不気味なんだけど、一度みたら忘れない印象の強い作品でした。

「ゆれる」はぜひ観たいと思ってます。
パンダさん、

いつも書き込みありがとうございます。

胡同のひまわり、やはりあの父親像、ついていけませんよね。
トキさん、

インサイド・マンのアラブ人、疑いの目をかけられる点もさることながら、ターバンを警察官に奪われたことにこだわりまくっているあたり、スパイク・リーらしい皮肉が効いていました。

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