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200×年映画の旅コミュの6月下旬・フランス映画(これだけ)

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「セーヌの詩」(6月17日 フィルムセンター)
1957年/監督・脚本:ヨリス・イヴェンス

【★★★ パリ人の生活に密着したセーヌの姿を活き活きと捉え、絵葉書映画にしていないところがいい】

 1971年10月に観たことのある映画ですから、実に35年ぶりの再会となります。その時の印象は今も残っており、セーヌの流れと周辺の人々の様子を詩情豊かに描いた、ゆったりとした映画のリズムが心に刻まれたものです。
 今回久しぶりに観直して、セーヌ上流の川面から始まった映画の前半、鉄屑を運搬する船、セメント運搬船などが行き交い、川辺ではそうした船から荷物を下ろしている人々の労働の様子が映され、仕事に使われる川としてのセーヌの側面を強調した作りに、ああ、そういえばこんなシーンがあった、などと昔の記憶を呼び起こされていました。
 仕事場としてのセーヌ川、市民の憩いの場としてのセーヌ川、男女の恋の語らいの場としてのセーヌ川、等々、生活に密着したセーヌの姿を、観光絵葉書としてではなくリアルに映し出す絵に、セルジュ・レジアニの渋い声によるジャック・プレヴェールの詩の朗読がかぶることから生まれる豊かな詩情。
 久しぶりに観て、やはり美しい映画だと再確認しました。


「ジャンヌ・ダルク裁判」(6月17日 フィルムセンター)
1962年/監督・脚本:ロベール・ブレッソン

【★★★★ 裁判の様子を淡々と描くばかりの映画だが、実にスピーディーかつスリリング。高密度な映画】

 この映画は、1969年にATG系で公開された当時、確かパゾリーニ「奇跡の丘」のリヴァイヴァルとの2本立てで観たことがあり、それ以来の再会です。69年といえばわたくしは中学生で、ゴダール「ウイークエンド」や大島「少年」などの薫陶を受けてはいたものの、ロベール・ブレッソンの映画を観るのは勿論初めてのことで、ただひたすら裁判の再現とジャンヌが収監されている独房の間を往還する展開には面食らうばかりでした。
 あれ以来37年ぶりの再会となった今回は、“オルレアンの少女”として百年戦争さなかの民衆から祭り上げられたジャンヌ・ダルクについての歴史的背景などへの知識が中学生時代より増えたわけでもなく、ジャンヌが裁判官と応酬する言葉には理解が及ばないことも多かったため、ちゃんと事前に歴史の予習をしておけばよかったという後悔に襲われてしまったのですが、37年前と違う点はこちらにはそれなりのブレッソン鑑賞体験が積み重ねられているということであり、一切の装飾的表現を削ぎ落として冷厳に作劇を進めるブレッソンらしいストイックな語り口が観る者をグイグイと画面に引き込んでしまうことに、他のブレッソン映画と同様に圧倒されてしまったのでした。
 映画は、神の託宣を受けたと主張するジャンヌと、彼女から異端者としての自供を引き出そうとする裁判官とが攻防を繰り広げる言葉を、残された裁判記録をもとに忠実に再現する形で展開し、火刑をほのめかす裁判官の揺さぶりに、当時わずか19歳だったジャンヌが動揺してしまうあたりは実にスリリングです。リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフの原点への回帰を主張し、映画的な技巧を排した画面が、ジャンヌと裁判官たちとのアップの切り返しという単調なものに見えようとも、そして職業俳優を排して起用した素人たちが演じる科白のエロキューションが稚拙に聞こえようとも、映画に流れるパッションを高密度に維持するブレッソンらしい作劇の凄味には、ほかの誰にも真似のできぬ作家性が刻印されています。
 この日の上映後、トークショーのゲストとして登壇した映画監督の青山真治は、実にスピーディーな映画だったと感想を洩らしていましたが、確かに、一見すると画面の推移は単調なのに映画内時間がスピーディーに進むことによって観客をグイグイと引き込んでしまうあたりがこの映画の魅力だったことは事実だと思い当たり、青山もさすがにうまいことを言うものだと感心しました。


「可愛い悪魔」(6月17日 フィルムセンター)
1958年/監督:クロード・オータン=ララ

【★★ 中年男が若い肉体に溺れるという紋切り型のお話を、やや型にはめて作った古臭い映画に思えた】

 クロード・オータン=ララの映画を観るのは「赤と黒」「肉体の悪魔」に続いて3本目ですが、前の2本は大昔に観たので詳細は忘れてしまいましたし、高校時代のわたくしには古臭くてピンとこなかったというのが正直なところでした。
 この「可愛い悪魔」は、ヴァディム「素直な悪女」によって彗星のごとく登場した新しいセックス・シンボルのブリジット・バルドーを、タイトル通り中年男を弄ぶ小悪魔に配し、彼女に入れ揚げてしまう男を御大ジャン・ギャバンに演じさせる映画で、要はBBのコケットリーと狡猾さを見せる風俗劇なのですが、中年男が若いピチピチした性のミューズに溺れるという主題自体は古今東西に共通するものだけに今観ても通用すると思う一方、ギャバンが糟糠の妻を蔑ろにする展開や、BBが中年のギャバンに飽き足らず、若いフランコ・インテルレンギの肉体を求めてしまう流れなどはいかにも作り事めいたステレオタイプを感じてしまい、やはり古臭い映画という印象を持ってしまいました。
 友人の女の子と一緒に玩具のピストルを入手し、遊ぶ金欲しさに老夫妻が営む宝石店を襲ったBBは、老婆から思わぬ抵抗を受けたため、頭を殴って怪我を負わせてしまいます。BBは裁判を有利に進めようと有名弁護士のギャバンを訪ねるのですが、依頼金もコネもないため、己の肉体をギャバンに投げ出します。そしてまんまとギャバンを篭絡し、ギャバンはBBのアリバイを証言する偽の証人を立てるという綱渡りすら演じて彼女を無罪に導きます。BBを愛人として囲うことになったギャバンは別宅や召使まで与えてやるのですが、BBのほうは以前の恋人インテルレンギの肉体が忘れられずに彼のアパートを訪ねた挙げ句、別れ話のもつれから無残にも殺害されてしまうというお話。
 BBの奔放な生き方が中心に据えられるのではなく、彼女の“新人類ぶり”(死語ですね)に翻弄されるギャバンの自業自得に作劇の主軸が置かれています。中年男が若い女に入れ揚げることの危険性を指摘する、その教条的な説教臭さが
、映画全体の古臭い印象を導き出しているのだと思います。
 脚本のジャン・オーランシュとピエール・ボスト、監督のオータン=ララといえば、批評家時代のフランソワ・トリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」という論文の中で“良質フランス映画の伝統”と皮肉たっぷりに位置づけ、文芸小説を単に絵解きしただけの薄っぺらい世界として痛烈に批判し人々ですが、トリュフォー・ファンとしてのわたくしの勝手な思い入れが働いたせいか、物語の形式だけは整えながら若い世代の内底から湧き上がっていたはずの怒りや焦燥を掬い上げることなく、ただの気紛れな小悪魔という役柄に押し込めてしまったこの映画の作劇に対して、反発を覚えてしまったのでした。


「いぬ」(6月18日 フィルムセンター)
1963年/監督・脚本:ジャン=ピエール・メルヴィル

【★★★★ 男の友情と裏切り。虚実の狭間を巧妙に往還しながら語られるメルヴィル的な夜の世界の魅惑】

 お恥ずかしい話ですが、ジャン=ピエール・メルヴィルの名高いこの傑作を観るのは初めてのことです。
 冒頭、原題について解説される文章が字幕で示されます。曰く、原題は“帽子”を意味する俗語だが、この言葉はヤクザや警察では“スパイ”を表わす隠語として使われているというのです。帽子……あのメルヴィル的な暗黒街映画において男たちが自分の分身であるかのように拘り続けていた装身具には実はそんな意味も込められていたのかと感慨を覚えているうちに、映画は魅惑のオープニングを迎えています。
 暗いトンネル(というより、高速道路の側道として走っている歩道みたいなところ)を、トレンチコートのポケットに両手を突っ込み、メルヴィル的なソフト帽をかぶったセルジュ・レジアニが歩いてきます。何か思い詰めたような表情で歩くレジアニをフルショットで捉えたまま、キャメラはひたすら後退移動してワンカットで追い掛けるのですが、バックにはサキソフォンが奏でるポール・ミスラキ作曲の哀愁溢れる旋律が静かに流れ、早くもわたくしたちはこの映画のリズムにすっかり心を奪われてしまいます。
 この冒頭のタイトルバックについて、わが敬愛する映画評論家・山田宏一氏は「山田宏一のフランス映画誌」(ワイズ出版刊)の「夜は帰ってこない――ジャン=ピエール・メルヴィルの世界」という文章の中で、次のように書きます。
 “この静かな、ひたすらな、長い長い、直線的な移動は、あたかも死にむかって突き進んで行く男への、悲しみをこめたバラードであるかのようだ。”
 じじつ、トンネルを抜けて小さな一軒家にやってきたレジアニは、鏡に向かって帽子のツバを直してから、死を賭けた暗黒街の男の闘いへと身を投じてゆくのです。
 山田氏は、この一軒家に着く直前、パリ郊外の風景を映したショットにかぶせられた字幕に着目します。日本語字幕では“今日こそ奴を殺(バラ)してやる”という内容でしたが、山田氏は、原語字幕に書かれた文章がルイ=フェルディナン・セリーヌの小説「夜の果ての旅」からの引用であることを指摘しつつ、“どっちかに決めねばならぬ、命を絶つか、ごまかすか”というこの言葉が、「いぬ」という映画の、ひいてはメルヴィル映画全体に通じる原理だと看破するのです。
 “追いつめられて逃げ道を失った男が、窮鼠猫を噛んで地獄に道連れの覚悟で破滅するか、それとも生きのびるために猫撫で声をだしておいて寝返り、ひらきなおってしまうか、この二律背反のなかに生きる男たちの運命のドラマが、メルヴィルの暗黒街映画の真髄である。心意気と卑劣さが表裏一体なのだ。”(前掲書)
 物語は、刑務所帰りのレジアニが、冒頭で到着した一軒家の中で、収監中に女房を寝取った裏切り者を射殺するところから始まります。殺された男は盗んだ宝石を細工しているところだったのですが、彼が使っていた電灯が、男の射殺によって倒れた勢いで大きく揺れ、明部と暗部が画面の中でダイナミックに入れ替わる大胆な照明を、硬質の画質の絵に導入してゆくニコラ・エーイェのキャメラが、モノクロ独特の映画美を実現し、見事と言うほかありません。
 レジアニは、このあと仲間のジャン=ポール・ベルモンドを誘って、ブルジョワの民家に忍び込んでの大胆な金庫破りを計画するのですが、その計画が警察に筒抜けになっており、レジアニは逃亡の過程で刑事を射殺することになってしまいます。レジアニは、ベルモンドが警察のいぬに違いないと確信し、観客のわたくしたちもベルモンドが警察とヤクザの間を綱渡りして生きる様子を観ながら、彼がいぬだと思うのです。したがって、ベルモンドが、レジアニの愛人や、ヤクザ社会を裏で操る大親分ミシェル・ピッコリ、さらにはヤクザ社会を追い詰めようとする刑事ジャン・ドザイらの間を巧みに立ち回りながら罠に仕掛けてゆく様子には、「椿三十郎」のような痛快さを感じていたのですが、物語を観続けてゆくうちに、ここでのベルモンドは三十郎氏のように単純明快な正義漢ではなく、己が信じる友情のために、嘘や裏切りも辞さない心意気の男であることが諒解できるようになるのです。
 “命を絶つか、ごまかすか、二律背反のなかに生きる男たちの運命のドラマ”と山田氏が呼んだのは、まさにこの男の友情に殉じるメルヴィル的世界のことだったのです。またまた長くなりますが、山田氏の文章を引用します。
 “メルヴィル映画の人物たちは、みんな生きのびるためにウソをつく。殺しや犯罪はそのウソが生んだささやかな結果でしかない。ジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画そのものも、きわめて巧妙に嘘をつく。ジャン=ピエール・ベルモンドが親友のセルジュ・レジアニに口早にことの次第を説明する巧妙に錯綜した回想シーンなど、嘘か本当なのか、まったくわからないまま、サスペンスを盛り上げていく。しかし、これらのウソをつく悪党たちにも、真実があり、信念がある。それは、友情である。『いぬ』の主人公シリアン(ジャン=ポール・ベルモンド)が、殺人を重ねるのは、ムショ帰りの親友フォージェル(セルジュ・レジアニ)を苦境から救うためのアリバイ工作なのである。そのために殺しもやる。女も容赦なく殴り、縛り上げ、拷問する。フォージェルは一時はシリアンが自分を裏切ったと思いこみ(事実シリアンは彼を裏切ったのである)、ムショのなかで知り合った殺し屋にシリアン殺しをたのむのだが、このシリアンの見事な友情あるアリバイ工作に仁義を返す
べく、こんどは自分の死をもってこれをあがなうのである。”(前掲書)
 ラスト、人違いでレジアニを射殺した殺し屋が待ち構える家に入っていったベルモンドが、まんまと殺し屋の居場所に気付いて彼を倒したものの、最後の気力で殺し屋が放った銃弾を図らずも背中に受けてしまい、瀕死の状態の中で情婦に電話をかけてデートには行けない旨を告げたのち、鏡を覗いて帽子のツバを直して絶命する場面は、「勝手にしやがれ」のラストでゴダールがやったことの後始末であり、のちの「サムライ」に連なるメルヴィル的暗黒街映画への水先案内であり、さらにはメルヴィルが愛したハリウッドのB級暗黒街映画へのオマージュ
の結晶だったのでしょう。
 冒頭のトンネル場面に象徴される長回しと、小気味よいカッティングで畳み掛ける場面をリズムよく配し、簡潔に物語を紡いでゆくメルヴィルの語り口はラオール・ウォルシュのように明晰であり、ニコラ・エーイェのキャメラがそれを見事にサポートしています。


「立派な詐欺師」(6月18日 フィルムセンター)
1964年/監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール

【★★ ゴダールらしい韜晦した語り口に唖然とせざるを得ない短篇。ゴダールは長編向きの映画作家だと確認】

 この映画は1971年10月に京王名画座で観たことがあります。「カラビニエ」「女は女である」という、ゴダール映画の中でもとびきり魅力的な長編2本と一緒の鑑賞でしたので、どうしてもこの短篇の記憶は曖昧にならざるを得ず、細部はすっかり忘れていました。
 モロッコのマラケシュにやってきたアメリカTV局の報道リポーター、ジーン・セバーグがホテルの一室で新聞を眺めている冒頭の姿は、「勝手にしやがれ」の延長線上にあることは疑いないでしょう。
 ものの本によれば、オムニバス映画「世界詐欺物語」のモロッコ篇としてゴダールが発注を受け、当時イスラエルで実際に起きた偽札事件(偽札を大量に刷った犯人は、それを貧しい人々に配って生活の糧にしてもらおうとした、という事件だったようです)を新聞で読んだゴダールがそれを映画に利用しようとしたそうですが、映画の興行的価値向上のためのスターとしてのセバーグ起用なのか、詳しい台所事情は知らないものの、偽札作りの犯人とそれを貰う貧困民衆を直接対峙させるのでなく、媒介としての米人ジャーナリストを登場させるあたりがゴダールらしいところです。セバーグ起用が決まった段階で、ゴダールには「勝手にしやがれ」で彼女が演じたパトリシアの“その後”をモティーフとして使おうと思っていたのでしょう。じじつ、ここでの米人ジャーナリストの名前もパトリシアです。
 彼女は、マラケシュの街中に16ミリ・キャメラを持ち出して人々の表情をフィルムに収めるうち(人々の中には現地人に変装したゴダールの姿もあります)、貧しい民衆に偽札が配られている光景に遭遇します。警察によってセバーグが偽札事件の犯人として間違われるといった事態にも遭遇するのですが、つてを辿って犯人との直接的なコンタクトに成功したセバーグは、犯人シャルル・デネルと対面します。
 二人の対話は、文化人の政治参加(アンガージュマン)という、60年代のパリで盛んに話題となった主題を巡って、ゴダールらしい韜晦した言葉の応酬として語られますので、耳には難渋に響きますし、2006年を生きる日本人にはピンとくるものではなく、いつものゴダール映画と同様呆気にとられてしまうのですし、セバーグとデネルのクローズアップを律儀に切り返しつつ、時折ゴダールらしい繋ぎ間違いのようなカットをインサートする作りにも、そこに意味を読み取ろうとする観客を置き去りにするゴダールならではの異化装置が組み込まれ、
茫然とせざるを得ません。
 こういう短篇を観ると、ゴダールという人はやはり長編向きの作家だと思います。


「虎は新鮮な肉を好む」(6月18日 フィルムセンター)
1965年/監督:クロード・シャブロル

【★★★ チープな作りに苦笑するが、シャブロルの戦略的な生き方も垣間見える。ダニエラ・ビアンキに陶酔】

 「いとこ同志」によって“ヌーヴェルヴァーグの長兄”として颯爽と世界映画史に登場したクロード・シャブロルが、いくつかの興行的失敗のあと、世界中でヒットした007シリーズを模したスパイ・アクション映画をプロデューサーから依頼されてこの映画を作った時には、“商業主義への妥協はシャブロルとヌーヴェルヴァーグの死を意味する”と罵倒されたそうです。
 確かに、「いとこ同志」や「美しきセルジュ」のシャブロルからは、彼がスパイ・アクション映画を演出する日がくることは想像もできませんが、のちのシャブロルの歩みから考えれば、この映画のような雇われ仕事でコツコツと生活費を稼ぎながら、密かに自分の情熱を傾けるべき題材との遭遇を準備するという、映画黄金時代を過ぎた時期に生きざるを得なかった数多くの監督たちに共通する戦略的な生き方を感じることができるのであり、彼のしたたかさを看取することができましょう。
 わたくしがこの映画を観るのは今回が初めてですが、この映画の続編に当たる「スーパータイガー 黄金作戦」は1969年に3本立て名画座の1本として観たことがあります。中学生当時のわたくしは、007とは比較にならぬほど安い予算で作られたと思しきセットや仕掛けのチープさ、ハリウッドでは当たり前の説明的表現を排した繋ぎ間違いのようなオフビートな編集リズムに戸惑ったことをよく覚えています。
 今回初めて観たこの映画も、フランス製のジェット機輸入を検討するため機種の資料映像を上映しているトルコの首脳会議に何者かがあっさり侵入して、首脳の一人を呆気なく暗殺した上、犯人がトルコの街中を駆け足で逃亡してゆくというオープニングから、安っぽさばかりが目につき、苦笑を禁得ませんでした。
 物語は、ジェット機輸入を進めるトルコの商務大臣を暗殺して輸入を阻止しようとするスパイ一味が、渡仏した大臣とその家族を暗殺しようと空港で待ち構える中、大臣一家の保護を命じられたフランス諜報員“虎”が立ち向かうといった具合に展開してゆきます。
 主人公の虎に扮したロジェ・アナンは、アントワーヌ・フラショというペンネームでこの物語の原案も書き、プロデューサーのクリスティーヌ・グーズレナールはアナンの姉さん女房だそうですから、ジェームズ・ボンドばりのカッコいいところを見せて自分を売り出そうとした安易な企画なのでしょうが、痩身長躯とも思えぬアナンの容姿も、空手が得意らしい彼のアクションも、決してカッコいいとは思えないがゆえに、どうも違和感ばかりが付きまとったとしか言えません。
 しかし、トルコから渡仏した大臣の娘として、主人公と相思相愛になるという設定の女性に扮しているのが、007シリーズの最高傑作「危機一発」(のちに「ロシアより愛をこめて」のタイトルでリヴァイヴァル)のボンドガールだったあのダニエラ・ビアンキなのであり、彼女の魅惑的な肢体をこの眼に収めるだけでも飽きはこなかったのですから、まあそれだけで充分に満足なのでした。
 パリの劇場でオペラを観劇中にビアンキが暗殺者一味に誘拐されるといったくだりでは、ヌーヴェルヴァーグの作家としては一、二を争うヒッチコッキアンとして知られるシャブロルだけに、「知りすぎていた男」から学んだカット割り(舞台上、観客席、主人公などの点描)を実践すると同時に、舞台上でオペラを演じる女優としてシャブロル夫人のステファーヌ・オードランを起用するといった楽屋落ちを披露し、これまた苦笑を誘います。
 全編を通したチープでオフビートな作りは、製作予算の少なさから導き出された方法なのだろうと思う一方、あえて稚拙なヒッチコックの模倣を試したシャブロルのお遊びでもありましょうが、まあ誉める気はしないものの、飽きのこない愉しさがあったことも否定できません。
 大した映画じゃないことは間違いありませんが、この映画に向けてヌーヴェルヴァーグは死んだなどと深刻ぶった言葉を投げ掛けるのも大人げない態度に思え、わたくしはただダニエラ・ビアンキを観ているだけで幸福だったと、曖昧な言葉だけを残しておくことにします。


「のらくら兵」(6月24日 フィルムセンター)
1928年/監督:ジャン・ルノワール

【★★★★★ 自由で、好色で、いい加減で、大らかで、生きる歓びに溢れたルノワール的な快楽!】

 “ジャン・ルノワールは世界最大の映画作家だ”とはフランソワ・トリュフォーの断言ですが、わたくしもまったくの同感を表明したいと思います。
 わたくしは残念ながら全作品を制覇したわけではありませんが、「素晴らしき放浪者」「ゲームの規則」「黄金の馬車」を始めとして、わたくしが観たルノワール映画13本は、題材こそ悲劇、喜劇、ラヴストーリー、戦争ものなど多彩ですが、人間をまるごとフィルムに映し取る自然主義的なリアリズムと、現実を昇華したところに生成する詩情とを同一画面内に併存させるという、ほかの誰にもできぬ奇跡を成し遂げてみせています。
 などと偉そうなことを書いていますが、これまでにわたくしが観たルノワール映画はすべてトーキー以降の作品でしたので、サイレント期の映画を観るのは今回が初めてです。
 この映画は、チャップリンに多大な影響を受けて大ファンであったルノワールが、「担え銃」のような軍隊ドタバタ映画を作ろうとして撮った作品だそうです。
 冒頭、あるブルジョワ豪邸の食堂にかけられた印象派的な絵画(一本の樹の下で恋人同士が語らっている絵です)を画面一杯に捉えたキャメラが、ゆっくり後退移動する場面から映画は始まります。絵の手前では、これから開かれるパーティーのために男女の召使が食器を揃えたりテーブルクロスを張ったりしているのですが、男の召使(ミシェル・シモン)は女の相棒(フリデット・ファトン)にキスを迫るなど、仕事に集中できません。まさに絵に描かれた恋人たちの語らいが現実の室内でも再現されており、ルノワールはそれをワンカット撮影で眺めながら、嬉しそうにニヤニヤしている様子が感じられます。恋の映画作家ルノワールらしいオープニングです。
 この豪邸には女主人と娘二人が住んでいるのですが、この日のパーティーは、長女の婚約者である詩人(ジョルジュ・ポミエス)が近く徴兵されて軍隊に入ることになったため、軍幹部を招いて詩人ポミエスの訓練に手心を加えてもらおうという女主人の思惑から開かれたものです。しかし、当の詩人は徴兵にも鷹揚に構えて軍幹部にへつらう様子を見せず、この詩人と一緒に軍隊入りする召使シモンが持ち前のいい加減さから料理のソースを軍幹部の制服にこぼしたり、制服のシミ落としのベンジンを暖炉に投げ込み軍幹部に火傷を負わせてしまったりと、パーティーは散々な結果に終わり、軍幹部は怒って帰ってしまいます。
 こうしたドタバタ場面を、ルノワールはフィックスのキャメラだけでなく、サイレント期にしては珍しい手持ちキャメラを使うなど多彩な動きを導入して描き出してゆきます。デタラメながら自由奔放な大らかさと呼ぶしかないルノワール的な演出が、観る者たちの心を武装解除し、この映画に導いてゆきます。
 軍隊入りしても相変わらず鷹揚な詩人と、ズボラが服を着て歩いているようなシモンが、なんとも可笑しなコンビぶりを発揮し、彼らと同室の兵士たちも巻き込んで、まさにチャップリン「担え銃」のようなドタバタを繰り広げます。ガスマスクを装着したまま行進する訓練では、視界が遮られた兵士たちが各自バラバラの方向に行進し始め、山を転げ落ちたり、幼稚園児のピクニックに紛れ込んだりといった失態を繰り返し、しかもそれを軍幹部が眼の前で見ているという場面が展開し、男たちが勝手気ままな方向に歩き出す様が、なんとも大らかな自由を具現しており、観客席からも爆笑が弾けていました。
 好色なシモンが召使仲間の恋人ファトンを軍隊の賄い婦として呼び寄せ、ちゃっかり部屋に招いてしまう有り様も、それを演じているのが「素晴らしき放浪者」「アタラント号」における“自由”の体現者たる怪優ミシェル・シモンだけに、ただただ圧倒されてしまうばかりなのですが、彼が兵営の近くの林でファトンと逢引きしようと待ち合わせていると、軍幹部も愛人と逢引きしていて鉢合わせするなどという場面も用意され、大いに笑わせてくれます。
 ラスト近くには、軍隊の中での余興演芸会みたいな催し物に詩人ポミエスと召使シモンが女装して参加するという“てんやわんや”の事態が描かれるのですが、室内に花火が飛び交い、女たちが逃げ惑い、花火によって起こった火事を消そうと放水が繰り返され、貴婦人の服が水浸しになるといったデタラメがこれでもかとばかりに繰り広げられる様を、ピンボケも辞さぬ手持ちキャメラの多用、キャメラの前を人が通ろうがお構いなしの自由極まりない演出で描いてしまうルノワールは、まさにヌーヴェルヴァーグの先駆けだったのであり、トリュフォーやゴダールがルノワールのことを父と仰いだのは至極当然のことだと改めて認識した次第です。


「ナポレオン」(6月24日 フィルムセンター)
1955年/監督・脚本:サシャ・ギトリ

【★★ ナポレオンの人生を駆け足で追いかけた紙芝居映画。ギトリの声が全篇を統御するが、やや単調】

 サシャ・ギトリの名前は、トリュフォーが愛し続けた映画「とらんぷ譚」の作家として知識に刷り込まれていますが、実際にギトリの映画を観るチャンスは逸してきました。したがって、ギトリの映画を観るのはこれが初めてのことなのですが、調べてみると、そもそもギトリの監督作は日本には「とらんぷ譚」と「ナポレオン」の2本しかまともには公開されていない有り様ですから、わたくしたちがなかなか彼の映画に触れるチャンスがないのも仕方ないことでしょう。劇作家から映画監督に転じた同時代人としてギトリと並び称されるマルセル・パニョルに至っては、「ファニー」「愛と宿命の泉」など彼の原作を映画化した作品は日本でも紹介されているものの、監督作は1本も入ってきていないのですから、戦前はフランス映画ブームを作ったと言われる日本も、まあ大したことはありません。
 さてこの「ナポレオン」は、ギトリとしてはほぼ晩年に近い作品で、この映画を製作していた当時ギトリは既に脚を悪くして、ほとんど歩けないような状態だったそうですから、劇中で盛んに出てくる戦争場面は、助監督に演出を委ねたらしいです。
 この映画は、ナポレオン・ボナパルトが死んだという報を受けた元革命派の仲間たちが王宮のような広間に集い、一時はナポレオン政権において外務大臣を務めていたタレイランが、集った人々にナポレオンの人生を語り聞かせるという形で、物語を進行させてゆきます。
 コルシカ島に生まれ、フランス革命に身を投じたのち、オーストリアやイギリスの革命への干渉から発したフランス革命戦争において軍人として頭角を現し、そのあとの歴史的事実はわたくしたち東洋人にはあまり知識のないことではありますが、フランス国内においては織田信長や豊臣秀吉の人生のようによく知られているに違いない“出世物語”が展開して、ついには皇帝の座に登りつめてゆく過程や、その間に彼が浮名を流した女性関係などを、さらには、ロシアに攻め入ったものの冬将軍に敗れて無惨な敗走をした挙げ句、セントヘレナに幽閉され、寂しい死を迎えるまでの波瀾の人生を、網羅的な絵巻のように(もっと言えば紙芝居のように)テンポよく描いてゆくのです。
 一つの戦争や一人の女性との関係を僅か2〜3カットで済ませては次のエピソードに移行するといった具合に展開するお話で、そのたびにフランス映画界きってのスター俳優たちが綺羅星のごとくゲスト出演してゆくのですから、めまぐるしいという印象すらもたらされると同時に、作りは単調と言わざるを得ず、ちょうどサッカー・ワールドカップのTV観戦で寝不足が続いていた時期に観ただけに、ところどころで睡魔に負けてしまう有り様で、クレジットには出てきていたご贔屓女優エレオノーラ・ロッシ=ドラーゴの出演シーンを観逃してしまうとい
う失態すら演じてしまったほどです。
 このように、ところどころ熟睡してしまった映画ですから、偉そうなことを言う資格はありませんが、全篇を通した語り部たるタレイランを演じ、その声を全篇に響かせていたのが、脚本・監督も務めたギトリその人だったわけで、その落ち着いた低い声が映画のリズムを決定づけており、その声の渋い響きが、妙に人の眠気を喚起してしまったのかも知れないと、惰眠を貪った言い訳が頭をよぎったのでした。


「悪魔のような女」(7月1日 フィルムセンター)
1954年/監督・製作:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー

【★★★ 初めて観る映画で、演出細部の工夫には感心したものの、話のオチを知っていたので、恐怖が募らず】

 犯罪サスペンス映画として映画史上に残ると言われるこの映画を、恥ずかしながらわたくしは観たことがありませんでした。過去に何度も観るチャンスがありながら、なぜか巡り合わせが悪くて機会を逃していたのです。この日、カミさんに「悪魔のような女」を観に行くのだと告げた時、実は初めて観ることを告白すると、「えー?  観てないの?」と小馬鹿にされた上、「怖いわよー、面白いわよー」と、小憎らしい言葉をかけられました。
 そんなカミさんの言葉のせいだけでなく、サスペンス映画史上のベストに挙げる人が多い作品だけに、期待に胸を膨らませて観たのですが、冒頭の字幕で「この映画の結末は誰にも口外しないでほしい」というメッセージを読みながら、この映画自体は観たことがないくせに、結末のドンデン返しだけは既に知ってしまっている自分に、何やら恨めしい思いを抱いていました。というのも、この映画をリメイクしたイザベル・アジャーニ出演版を、いつだったかTVの“スターチャンネル”で何気なく観てしまっていたからで、ラストは多少違っているものの
リメイク版を観てしまったことによって、このオリジナルを心から愉しむ資格は既に失っているような気がしたのです。
 案の定、いよいよ映画が佳境に向かう段になると、そういえばカラクリはあんなことだったはずだ、などという邪念が頭を掠め、じじつ物語がそのように進行してゆくのを観ながら、ラストがデジャ・ヴュ(既視感)のように脳裏に像を結んでしまうという不幸な映画体験を強いられることになり、本来なら恐怖を呼び起こす場面が恐怖をもたらさないという、サスペンス映画で結末を知っている者の虚しさを味わってしまったのです。
 とはいえ、ラスト近くで心臓の弱いヴェラ・クルーゾーが真っ暗な寄宿学校の廊下をドキドキしながら歩く場面の闇の使い方や、ワンカット撮影による時間の持続にはクルーゾー演出の巧さを充分に感じ取れ、今はすっかり忘れてしまったリメイク版の弛緩した演出とは比較のしようがない密度の濃い映画的時空間を堪能することができたのでした。

コメント(2)

すごい、すごいよ侘助さん!
圧倒されてしまった。
これから観るであろう人に配慮しつつ映画の見逃してはいけないポイントを提示しながら自分の切り口を鮮やかに披露しつつ映画そのものに対する愛情に溢れた批評を、私は他に知らない!

「いぬ」BSオンエアの時に録画したやつすぐ観よう、っと!
「のらくら兵」見逃したことを激しく後悔。

侘助さん、このコミュの映画評をまとめて出版したら如何ですか?
売れまっせ。
なんきんさん、

誉めすぎです。

それほどのものじゃありませんが、これを読んで「いぬ」や「のらくら兵」を観たいと思っていただけたなら、これに勝る喜びはありません。

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