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200×年映画の旅コミュの6月上旬号・新作

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「デイジー」(6月3日 渋谷シネフロント)
2006年/監督:アンドリュー・ラウ

【★★ 表情の乏しいチョン・ジヒョン、内気で大人しいチョン・ウソンなど、役者の魅力を活かしきれず残念】

 今の韓国映画界にあって人気・実力ともトップクラスにあるチョン・ジヒョン、チョン・ウソン、イ・ソンジェという3人が出演し、「インファナル・アフェア」で香港映画の健在ぶりを示したアンドリュー・ラウが監督として招かれて撮った映画ですから、それなりの期待はしていたものの、不安というか疑問がなかったわけではなく、それは、あれだけ監督の顔ぶれが充実している韓国映画が、なぜわざわざ香港から監督を招かなければならないか、という疑問であり、その疑問は映画を観終わった段階の今も解消されないままです。
 アムステルダムを舞台に、韓国移民で画家志望の娘とインターポールの韓国人刑事と孤独な韓国人暗殺者が三角関係を結ぶという話は、なるほど世界市場を視野に入れたスケールの大きさを感じさせ、「タイフーン」ともども国際化する韓国映画の勢いを誇示するものではありましょう。そのスケール感にいわばハクをつける意味でも、香港人監督の招聘が図られたということでしょう。
 しかし、なぜわざわざオランダまで出向いて風呂敷を広げた話を組み立てなければならないのか、わたくしにはそれも疑問に思えました。インターポールやら華僑の暗黒街ボスに雇われた暗殺者やらという設定からして、風呂敷の広げすぎに思えます。
 韓国映画は絵空事の物語を実感溢れるものにするのが得意なのですが、それは大きな嘘を成立させるための土台となる小さな部分できっちりとリアリティが確保されているからであり、大風呂敷を広げたお話でも、日常生活に即した部分の実感が伴っていれば観客を納得させることができていました。しかしながら、このお話では画家志望の娘の日常にそれほどの描写が割かれていない上、刑事や暗殺者に至っては、そんな奴が絵空事の世界以外に存在するとは到底思えぬ抽象的な輪郭の中にボンヤリと描かれるばかりで、実感を欠いています。
 この映画ではそもそもスター映画として企画されたのだから、絵空事は承知の上で作られているのだ、という理屈も成立しそうですが、スター映画の条件とはそのスターの持ち味を充分に活かすことであることを思えば、それもここでは果たされていないように思えます。
 チョン・ジヒョンの魅力とは、「猟奇的な彼女」や「僕の彼女を紹介します」における弾けた明るさにあることは自明ですが、今度の映画ではとびきりの笑顔を見せる局面は極めて少なく、静かに思い悩み、映画の後半ではあろうことか喉に銃弾を受けて言葉が喋れないという事態に陥ってしまい、あの明るい声すら発することを禁じられてしまうのであり、彼女の魅力の大半を封じられているように思えます。
 寡黙で孤独な暗殺者という役回りを与えられたチョン・ウソンにしたところで、「私の頭の中の消しゴム」や「トンケの蒼い空」を観る限り、ワイルドな人懐っこさとでも言うべき野太さこそが彼の魅力だと思うのですが、この映画では、長らく心に仕舞っておいたジヒョン嬢への想いを、恐る恐る彼女に向けてゆくという内気な繊細さが強調され、ウソンくんよりはチャン・ドンゴンのほうが似合っている役のように思えました。
 もう一人のスター、イ・ソンジェは、どんな役柄だろうと涼しい顔でこなしてしまう人ですから、麻薬事件を追うインターポール刑事という身分を隠してジヒョン嬢の絵のモデルを務めるうち、次第に彼女に惹かれてしまうという男の真情を見事に演じてはいるものの、彼が追い求める連続殺人者の正体を掴まえる段になって呆気ない末路を辿ることになるという展開には、彼の演技者としての見せ場を奪ってしまっているように思え、残念でした。
 ことほど左様に、この映画はスター映画の結構を持っていながら、スターそれぞれの魅力を活かしているとは思えなかったのであり、勿体ない、という思いばかりが脳裡をよぎるのでした。


「GOAL!」(6月3日 Q−AXシネマ2)
2005年/監督:ダニー・キャノン

【★★★ いかにもステレオタイプのスポ根ものだが、型に嵌っている分、観客の欲望に忠実で、愉しめる】

 前述の「デイジー」のあと、「嫌われ松子の一生」を観ようと劇場に行ったら既に次回は立ち見という案内だったので諦めました。さて代わりに何を観ようか迷いましたが、近く開幕するサッカー・ワールドカップに向けて己のテンションを上げるのも悪くないと思い、「GOAL!」を選択。
 国境警備の目を盗んでアメリカに不法入国したメキシコ人一家の長男サンティアゴが、好きなサッカーに打ち込むうちに、たまたま彼のプレーを観ていた元イングランド・プレミアリーグ選手の目に止まり、彼の誘いに応じてプロ選手への憧れを実現しようと、地道な勤労を強要する父親の反対を押し切ってイングランドのニューカッスルに渡り、次第に頭角を現わしてゆくという、典型的なスポ根もの。
 サンティアゴがせっかく貯めていた渡英資金を父親がトラック購入に使ってしまい、サンティアゴの夢が潰えそうになると、祖母が助け船を出してくれたり、いざニューカッスルの監督の前でプレーを披露しようとすると雨に脚をとられて巧くいかなかったり、チーム内に彼に反感を抱くヴェテランがいたり、チームへの居残りを賭けた二軍の試合に先発した当日、その先輩によって喘息の吸入器を壊されてしまいプレーが散々な結果に終わったり、等々、次から次へと主人公に困難が降り掛かっては、心ある人々の親切やサンティアゴ自身の克己心によってそれを乗り越え、その度に主人公がひとまわり成長を果たしてゆくという展開も、ステレオタイプと断言して切り捨てることも可能なほどありきたりなものでしょう。
 しかし、作者たちはここで何か新しい実験に着手しようなどという野心は一切持ち合わせておらず、観ているわたくしとても型通りのスポ根ものに浸ってW杯気分を盛り上げてくれればいいというだけなのでしたから、主人公の前に道が開けそうになると次の困難に直面するといった具合に観客を飽きさせないために工夫された展開には、満足感を覚えていました。
 女好きながらサッカーの力は持っているチームの花形FWが、たまたま朝帰りで練習に遅刻しそうなところをサンティアゴに助けてもらったため、チームからお払い箱になりそうだったサンティアゴの残留に手を貸す、といった偶然も巧い具合に調合され、サンティアゴが心惹かれる女性が派手さとは無縁のチーム付看護師という設定も悪くありません。そして、プレミアリーグでの上々のデビューを果たしたサンティアゴが最後までこだわったものというのが、自分のプロ入りに反対を貫き、不法入国移民たる者は大それた夢など抱くことなく地道に勤労することこそが身の丈に合った生き方なのだと主張し続けていた父親との葛藤という、万人が感情移入できる主題だった点にも感心しました。
 惜しむらくは、サンティアゴが途中出場して同点のPKを呼び込むドリブル突破を見せ、決勝ゴールをアシストしたデビュー戦を、父親が実は密かにロサンジェルスのスポーツバーで観戦していたという事実を、観客に先に見せてしまわないで、主人公と同時に観客が知るような脚本構成にしたほうが感動は高まったろうに、と残念な気がします。
 ともあれ、ベタな展開だとは思いつつも、観客を満足させるためのエピソードをテンコ盛りに詰め込み、手堅く映画を組み立ててゆく作劇は娯楽としての及第点には達しており、映画が終わった瞬間には、ああ、早くワールドカップ本大会が観たい!と思わせてくれたのでした。この思いは、「GOAL!」という映画に対するわたくしなりの最大級の賛辞だと思っています。


「花よりもなほ」(6月4日 丸の内ピカデリー2)
2005年/監督・原案・脚本:是枝裕和

【★★★★ 是枝が取り組んだ本気の時代劇。役者たちが生き生きし、セットや撮影も頑張った、いい長屋もの】

 是枝裕和の映画は、「幻の光」と「誰も知らない」の2本しか観たことがありませんので、偉そうなことは言えませんが、彼がテレビマンユニオンという制作会社に所属してTVのドキュメンタリー番組を数多く作っていたことを知っているだけに、彼の演出法にはワンカットの長回しを主体にしたドキュメンタリー的な方法論が貫かれていると思い込んできました。
 従って、その是枝が新作で時代劇に挑戦しているという報に接した時は、本格時代劇になるとは思わず、いわば“チョンマゲをつけた現代劇”という類の映画を予想したものです。
 しかし、実際に出来上がった映画は、元禄15年、徳川綱吉の治世下における忠臣蔵の裏話を織り込みつつ、江戸下町の貧乏長屋を舞台にした人情話を、実に丹念に脚本として書き込み、即興に頼らずきちんとカット割りして撮り上げた、まさに正統的な時代劇の王道を行く映画だったのであり、是枝のようなドキュメンタリー畑の男がかくも古典的な映画を作ってしまう“反動性”に少なからず違和感を覚える一方で、時代劇というジャンルの減少傾向に憤りを覚えてきた者として実に頼もしい思いも抱いたのでした。
 貧乏長屋に朝が訪れ、長屋の人々が動き始める騒音に悩まされながら、青年武士・岡田准一がモソモソと起き出す場面から映画が始まるのですが、中央にドブが流れる汚い長屋を見事に再現したオープンセットの出来が素晴らしく、やや粒子の粗いルックを採用しつつ実に繊細な照明設計を実現したキャメラも文句なしの出来、さらに、長屋の住人たちの人間臭い愛すべき俗物ぶりを出ている役者たちの全員が(それこそ子役から野良犬に至るまで)見事に体現し、是枝演出はそうした総体を丁寧なカット割りで腰の据わった絵にしてゆくのであり、本気で時代劇というジャンルに取り組む是枝組スタッフ・キャストの意気込みに強く心打たれたのでした。
 父親の仇を討ち取るために江戸に出てきて、仇探しを続けているという設定の岡田は、剣道の腕は長屋の住人仲間のヤクザ・加瀬亮にもあしらわれるほど情けない代物で、実はとっくに仇の居所は突き止めているのに、仇討ちの実行は先延ばししているような臆病者として印象づけられます。岡田は、厳格な母親や剣道ヲタクみたいな弟には尻を叩かれて早く仇討ちを果たせと言われていますが、暢気な叔父貴・石橋蓮司からは「仇討ちだけが人生じゃないぞ」などと寛容な言葉をかけられており、そんな言葉に内心励まされながら、長屋に住む後家の宮沢りえに対して仄かな想いを寄せているような男であり、彼が実は臆病者というより、斬り合いを憎む“平和主義者”であることが次第に観客に理解されるようになるのです。
 こうした岡田の人物像には、“ポスト9.11”というグローバルな状況下での“眼には眼を”という風潮へのアンチテーゼという同時代性を読み取ることもできるのでしょうが、是枝の作劇にはこれみよがしな現代性は付与されず、あくまでも元禄15年の時代相に沿った、元禄文化への造詣の深さを見せるのであり、前述したような“チョンマゲをつけた現代劇”にはしていないところに潔さを感じさせます。
 とはいえ、堅苦しい大仰な時代劇にもしておらず、個性豊かな長屋の住人たちが随所で笑いを引き起こしながら、落語世界のような長屋ものの伝統を確かに継承した物語を形成しています。
 日本映画では、山中貞雄「人情紙風船」、黒澤明「どん底」、田坂具隆「冷飯とおさんとちゃん」の「ちゃん」、近くは市川崑「かあちゃん」、また時代劇でなくとも成瀬巳喜男「めし」、中川信夫「『粘土のお面』より かあちゃん」、等
々、数え上げられないほど多くの“長屋もの”の傑作を生み出してきたのですが、そうした伝統も今や失われつつあると思われた中で、是枝が果敢にこのジャンルに挑戦し、また新たに傑作を1本映画史に記すことになったことは、実に喜ばしい事態なのです。
 平和主義者たる岡田が、いよいよ仇討ちを迫られる中で、一体どのような解決策を見出すのだろうと思っていたら、映画は、実に洒落たオチを用意します。それは、つい先日野村芳太郎「びっくり武士道」として映画化されたものを観た山本周五郎「ひとごろし」に連なる不戦哲学を貫いたものだったのですが、その爽やかなエンディングに心を満たされて笑顔を浮かべながらわたくしたちは劇場を後にすることができるのです。
 それにしても今年の日本映画は水準が高い。上半期だけで相当数の傑作・佳作を観ることができています。こうなると下半期にも大いなる期待を寄せたくなります。


「プルートで朝食を」(6月10日 シネスイッチ銀座1)
2005年/監督:ニール・ジョーダン

【★★★ テンポよく描かれるドラッグクィーンの母親探し冒険物語。法螺話を明るくつないだ愉しい映画】

 アイルランドの映画作家ニール・ジョーダンの新作は、予告編を観る限り、ドラッグクィーンを主人公に据え、IRAによる独立闘争などを絡めたお話のようですから、あの忘れ難い佳作「クライング・ゲーム」を思い起こさせ、あの一途で鮮烈な恋情が再現されているように思えたため、観たいという気にさせられました。
 しかし実際の映画は、想像していたより遥かに軽いタッチで、ドラッグクィーンの青年が自分を捨てた母親を探そうとアイルランドからロンドンを彷徨するうちに奇妙な体験を繰り返してゆくという冒険譚をお伽話のように描いたもので、トニー・リチャードソン「トム・ジョーンズの華麗な冒険」とよく似た印象をもたらす映画でした。
 全編を36の章に分け、パトリックという名の主人公が体験する、法螺話のように奇天烈な出来事を編年体で綴ってゆく物語は、パトリック・マッケーブという原作者(脚本もジョーダンとともに書いています)による自伝なのかも知れないと想像できるのですが、60〜70年代のヒット・ポップスをバックに流しながら次から次へとテンポよく法螺話をつないでゆくジョーダンの作劇は快調で、「クライング・ゲーム」とは全然似てはいないものの、これはこれで愉しい映画になっているのでした。
 冒頭、女装した主役のキリアン・マーフィが、黒人との混血と思しき赤ちゃんを乳母車に乗せて街を闊歩するバックに、74年のルベッツのヒット曲「シュガー・ベイビー・ラヴ」が流れ、マーフィ自身のモノローグによって主人公の生い立ちが語られ始めると、空飛ぶコマドリの囀りが人間の言葉として字幕に翻訳されるといった展開からして法螺話っぽいのであり、この冒頭の数分間で映画全体のリズムと語り口を決定づけてしまいます。
 このあとは、捨て子として教会の玄関先に置き去りにされた主人公が、幼少時から女装趣味に目覚め、高校の頃には自分の実父が教会の神父であり実母は神父のもとで家政婦をしていた女性であることを知り、だからといってそのことを思い悩んだりすることもなく、幼馴染みがIRAの闘士としてアイルランド独立闘争にのめり込んでゆくのを横目で眺めながら、知り合って恋に落ちたロック歌手の男性が実はIRAの闘士であることを知り、闘士仲間の内紛に巻き込まれた主人公が殺されそうになるといった具合に波瀾の展開が繰り広げられます。
 そしてある時、実母らしき女性がロンドンにいることを知った主人公は、単身ロンドンに乗り込んでゆくのですが、そこでも遊園地での着ぐるみのバイトに就いたり、奇術師の助手として働いたり、風俗嬢(!)として店に顔出ししたり、IRAによる爆弾テロ事件の容疑者として逮捕され警察の厳しい取り調べを受けたりと、相変わらず波瀾の人生を送ってゆく主人公を映画はテンポよく描いてゆきます。
 そしてついに実母の居所を突き止めた主人公は、電話会社の調査員を装って実母の家を訪ねるのですが、彼女が今や幸福そうな家庭の主婦に収まっているのを見た主人公は、余計な波風を立てることを避けて静かに実母のもとを去り、幼馴染みの黒人女性の出産に立ち合うなどして、冒頭の乳母車を押している場面に行き着きます。
 ニール・ジョーダンの映画を観るのは、前述した「クライング・ゲーム」、ヴィデオで観た「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」、アーサー・ランク時代のイギリス映画の雰囲気を正確に再現した鮮烈なラヴストーリー「ことの終わり」、メルヴィルの「賭博師ボブ」をリメイクした犯罪活劇「ギャンブル・プレイ」に続いて5本目ですが、これまではジョーダンに対しては“夜の作家”というイメージを持っていました。「ギャンブル・プレイ」を観た時のメモとしてわたくしは「2004年映画の旅」2月上旬号で次のように書いています。
 “ニール・ジョーダン監督の映画は、「クライング・ゲーム」と「ことの終わり」の2本しか観たことがありませんので、偉そうなことを言う資格はありませんが、どちらの映画も夜の暗さに自覚的な映像が印象的で、アイルランド出身という彼の出自が、自ずと暗さへの感覚を研ぎ澄ましたのではないかと想像しています。”
 しかし今回の新作では、確かにIRA闘士が仲間割れする夜の場面など印象的な暗さもあったものの、全体の印象はお伽話の明るさなのであり、ラストで主人公が親友の生んだ赤ん坊を乳母車で押しながら、“これからも自分は恥じることなく生きてきたし、これからもそうして生きてゆくのだ”とでも言わんばかりに颯爽と歩みを進める姿を描くジョーダンの姿勢には、ポジティヴな陽光が相応しいと思わせるのであり、この作家の新たな一面を発見したような気にさせてくれたのでした。
 ちなみに「プルートで朝食を」というタイトルからは直ちに「ティファニーで朝食を」を連想させるのですが、ここでの“プルート”は店の名前ではなく“冥王星”を表わすもので、タイトルの意味は今ひとつわかりにくかったことを付記しておきます。


「ロシアン・ドールズ」(6月10日 シャンテ・シネ2)
2005年/監督・脚本:セドリック・クラピッシュ

【★★★★ 若いとは言えなくなった30野郎の恋愛日記。クラピッシュがヌーヴェルヴァーグの息子だと確認】

 2004年に公開された「スパニッシュ・アパートメント」の続編で、前作はバルセロナの学生アパートに集ったフランス、イギリス、ドイツ、イタリア、デンマーク、ベルギー、そしてご当地スペインなどからやって来た学生たちが、片言の英語を媒介としてコミュニケーションと融和を果たしてゆこうとする姿が 、“EU”の成立に向けて手探りの歩みを進める欧州各国の比喩として機能し、なかなか面白い映画に仕上がっていましたので、この続編はぜひ観たい映画リストの上位に位置づけ、前売り券を購入していました。
 前作のラストでEU本部での就職を蹴って作家になる道を選んでいたフレンチ野郎の主人公ロマン・デュリスが、ロシアのサンクトペテルブルクの街頭でスペイン時代の友人たちと信号待ちしているところから映画は始まり、その彼が信号待ちしている時に下した“ある決断”に至るまでの経緯を、ヨーロッパを横断する列車の中でノート型パソコンのワープロに記述するという、いわば自伝執筆を追う形で物語は進行してゆきます。
 映画は、そこから時間を1年前に遡り、デュリスが作家としては大成せず、今はフリーライターとして雑誌に雑文を提供することで生計を立てながら、元恋人のオドレイ・トトゥとはセックス抜きの友人関係を結びつつ、次から次へと肉体関係を持つ女性にはありつけるものの、真の恋人と呼べる存在にめぐり逢えぬという姿をテンポよく点描してゆきます。
 売れないライターのデュリスがクライアントの前で、自分は何でも器用に書けるライターであることを誇示する場面では、同一画面にもう一人のデュリスが現われ、法螺貝ならぬ縦笛を吹いたり、お調子踊りを披露したりするディジタル処理の絵を作り、多くのクライアントから寄せられる様々な仕事要求を表わす場面では、アメリカンヴィスタサイズの画面をマルチに区切るディジタル処理を施すなど、「アメリ」のジャン=ピエール・ジュネに負けずとも劣らないほどの新技術への習熟度や映像的遊び心を示すセドリック・クラピッシュの演出なのですが、下半身は器用に女たちを渡り歩くものの30歳を迎えて上半身=心は満たされることのできない不器用な野郎の真情を捉える語り口が、トリュフォー「家庭」「逃げ去る恋」のアントワーヌ・ドワネルや「恋愛日記」のシャルル・デネを連想させ、即興的な演出を多用していると思しき作劇法ともども、クラピッシュがヌーヴェルヴァーグの継承者であることを実感しました。
 デュリスは住んでいたアパルトマンが友人からの間借りだったらしく、その友人が戻ってくることになったため追い出される羽目となり、バルセロナ時代に一緒だったレズビアン女性のセシル・ド・フランスの家に同居人として転がり込みます。その頃、デュリスには英仏共同制作のTVドラマのシナリオを英語で執筆する仕事が舞い込み、英語の堪能なパートナーが必要となり、バルセロナ時代の友人であるロンドン在住のケリー・ライリーと一緒に仕事をするようになります。ライリーのほうは粗忽な男と別れたばかりの状態で、デュリスがパリとロンドンを行き来して共同執筆を続けるうち、彼とライリーの間には恋情が芽生えるようになり、肉体関係に発展します。そのくせ、八方美人で下半身にだらしないデュリスは、トップモデル女性ルーシー・ゴードンの自伝のゴーストライターとして彼女と接するうち、一線を越えた関係を結んでしまいます。デュリスとゴードンの関係に気づいたライリーは、デュリスとの別れを宣言します。
 前作「スパニッシュ・アパートメント」では前面に押し出されていた、言葉の通わぬ相手とのコミュニケーションという主題は、今回は後景に退き、まったくもって下半身にだらしないデュリスのグチャグチャした女性関係ばかりが堂々巡りするように描かれているため、今回はクラピッシュ版「恋愛日記」に徹しているように思えたのですが、デュリスのバルセロナ時代の友人でありライリーの弟でもあるケヴィン・ビショップがロシア人バレリーナとサンクトペテルブルクで結婚式を挙げることになり、バルセロナ時代の友人が一同に会することから、言葉によるコミュニケーションという主題を超えた、男女の間に聳える壁を破ったコミュニケーションのあり方という主題が一気に浮上するのです。
 そして冒頭の信号待ちの場面に立ち返ったデュリスは、自分が本当に求めているものがライリーの愛情であることを自覚し、過去の出来事への拘りや未来への不安を口にするライリーに向かって、“過去や未来ではなく、今の自分に正直になること”を訴え、愛を告白するという古典的なラヴストーリーの王道を実践してみせるのです。
 ルネ・クレール「巴里祭」の昔からフランス映画が得意としてきたエスプリの効いたラヴストーリーという伝統に忠実でありながら、手法的には現代流のディジタル技術を巧みに駆使し、コミカルな味付けを適度に施しながら軽妙に語ってみせるクラピッシュの演出は、一言で言えば“洒落た”ものと表現してよかろう域には達しており、観終わった時に思わず微苦笑が浮かぶ映画ではありました。


「嫌われ松子の一生」(6月15日 シネマメディアージュ・シアター9)
2006年/監督・脚本:中島哲也

【★★★★ 力業で強引なまでに説得される悲惨物語ミュージカル。中島哲也が独自の世界観をついに構築】

 観たいと思いながらも、なかなかチャンスにめぐり逢えなかった映画ですが、この日は仕事が夕方早めに終わりそうだったので、会社の向かいにあるシネコンに飛び込みました。
 友人たちが仲間内に送るメールでは、斜め読みをしただけでも(わたくしは自分がその映画を観るまでは友人たちの評判もあらゆる批評も精読しないようにしています)みんなが絶賛していましたが、百聞は一見にしかず。したたかに圧倒され、劇場が明るくなっても♪まげて〜、伸ばして〜、お星さまをつかもう〜、まげて〜、背伸びして〜、お空に届こう〜♪という忘れ難い旋律が頭の中をグルグルと響き渡りながら、暫く席を立てませんでした。このような体験は最近ではついぞなかったことです。
 中島哲也監督の前作「下妻物語」は、世評も高くわたくしも面白く観た映画でしたが、深田恭子のファッション・ヲタクぶりなどには中島氏自身の実感が伴わず小手先で転がしたようなところも感じてしまいました。また、彼の長編デビューとなった「夏時間の大人たち」(この映画が制作された頃、中島氏とは仕事上のお付き合いがあったので、試写で見せていただいたのですが、その時のタイトルは「どーしてナミダがこぼれるんだろ」でした)も、オフビートな語り口に笑いを誘われながらも、話の間口が狭く習作の域を出ていないように思えました。
 しかし今回の中島氏は全身全霊で松子という神々しいまでの題材と格闘し、原作に書かれた材料(原作は未読ですが、友人たちのメールを読むと、話の筋立ては原作にほぼ忠実なようです)をミュージカル仕立てにするという大胆にして強引な翻案を断行し、松子が蒙る世にも悲惨な物語を力業で観客に見せ付けてゆくのであり、主役の中谷美紀が見事に中島監督の思いを具現化しました。
 冒頭の場面は2001年の東京。恋人・柴咲コウとの間がギクシャクし出口が見えない日常で喘ぐ若者・瑛太のモノローグに乗せて、退廃的な東京の光景を、ザラついた画質でドぎつい原色を強調した絵にCGを合成した派手派手しい画面の中に点描してゆくオープニング。CGの多用には違和感を覚えながらも、瑛太が観ているTV画面の中にNTV「火曜サスペンス劇場」の音楽やサスペンス女王・片平なぎさを登場させるなどのブレヒト的“異化効果”を交えながら観客の笑いを誘い、有無を言わせぬ強引さで観客を物語に引きずり込んでゆく話術には圧倒されてしまいます。ここで拒否感が先に立った観客は、この先の展開についてゆけぬことになるのでしょうが、わたくしは中島氏の罠にはまってしまったのです。
 瑛太のもとに遺骨を持った父・香川照之がやってきて、遺骨となった香川の姉・松子のアパートを整理するよう命じられた瑛太が、何者かによって殺されたという伯母・松子の人生を辿ることになるのです。
 父親・柄本明の愛を渇望しながら病弱な妹・市川実日子に父を独占された松子・中谷美紀が、父の歓心を買おうと見せるヒョットコ顔が、全篇を引っ張る牽引車の役割を果たします。
中学の音楽教師となった松子は、修学旅行先での教え子による盗難事件に巻き込まれる形で(あまりに稚拙な言い訳が松子自身の首を絞める結果となります)辞職を余儀なくされ、それをきっかけに家を出た彼女は、転々と男を渡り歩く人生へと突入します。
 最初に中学を辞職した時に呟く「これで私の人生は終わったと思いました」という言葉が、このあと3回も繰り返されることになる松子の人生。売れない作家・宮藤官九郎によるDV被害→その友人・劇団ひとりの愛人→ソープ嬢としての盛衰→ヒモ・武田真治と彼の殺害→東京での床屋・荒川良々との束の間の幸福→逮捕・刑務所入り→かつての教え子(例の盗難事件の当事者)・伊勢谷友介との再会と同棲→伊勢谷の刑務所入りと別離→荒川沿いのアパートでの独り暮らし→光GENJI内海への憧れ、といった“不幸の満艦飾”人生が繰り広げられるのです。
 男に棄てられても蹴られても、繰り返し男を求め、男に縋る松子の男性依存性は、男の眼から見ても不快を覚えるほどの情けなさに思えるのですが、長嶋茂雄引退やら、ユリ・ゲラーやら、スペースシャトル乗組員の宇宙遊泳やら、ベルリンの壁崩壊やらといった社会的な出来事を、サラリと松子の人生に重ね合わせて時代相のリアリティを担保しつつ、松子の不幸の満艦飾を逆手にとったように煌びやかな歌と踊りで装飾してミュージカル仕立てにしてしまう強引な作劇が、観客を不快の地点に置き去りにすることなく、映画的快楽の高みへと連れ去っていってしまうのです。しかも、そうしたミュージカル的装飾がそらぞらしい虚飾に終わるのではなく、♪まげて〜、伸ばして〜、お星さまをつかもう〜、まげて〜、背伸びして〜、お空に届こう〜♪という全篇を通した主題歌の歌詞が象徴するように、松子の中にあるポジティヴな上昇志向、幸福希求が底流を形作っているがゆえに、歌や踊りにも説得力が付与され、松子が時折呟く「蹴られても殴られても、独りでいるよりはマシ」という孤独への恐怖(それは幼少時に父に見棄てられたトラウマから発しています)にも共感を覚えることとなるのです。
 この強引な作劇を支えているのは、作者・中島氏と主演・中谷のパッションの持続にほかならず、中島氏の前作「下妻物語」の時に感じた小手先芸は、ここでは方法論としては継続されながらも、1歩も2歩も突き抜けた地平へと映画を解放してみせたと思います。
 松子に直接の死をもたらした事件の陰惨さには心が曇らざるを得ませんが、彼女の人生を追い続けてきた甥っ子・瑛太の心象風景として現れたのであろうエンディングの一連の場面における階段の上昇運動と、例の主題歌の旋律がシンクロし、松子が生涯コンプレックスを抱き続けてきた妹に「お帰り、お姉ちゃん」と迎え入れられるくだりには、やはり背筋を貫くものがあったのであり、地獄のような不幸に彩られてきた松子も最後は天国に昇天したことを見て、後味は悪くないのでした。
 昭和30年代の街並再現や豪華客船の沈没など、最近の日本映画もCGが巧みに使われるようになっていますが、本来CGとはこのようなファンタジーにこそ相応しい技術のようにも思え、その意味でも中島氏は新しい映画の方向性を示したとも思います。
 不幸のつるべ打ちと男性依存など、個人的には好きな題材ではないため、★5つを献上することは躊躇われ、★4つにとどめておきますが、言葉の真の意味での傑作の名に値する映画ではあると断言できましょう。
 わたくしが仕事でご一緒した頃の中島氏は、喜怒哀楽を表に出さず、寡黙でブスッとした愛想の悪い無精髭男でしたし、どこか斜に構えたようなCMフィルム表現が持ち味のディレクターでもありましたが、彼の中のどこにこの映画で見せたようなパッションが隠れていたのか、不思議な気もします。
 中谷美紀という女優は、すぐれた美貌の持ち主であるとは思いながらも、芝居は鼻につき、人間性にも冷たいものを感じ、決して好きな女優さんではありませんでしたし、この映画を観たからといって好きになったわけでもありませんが、この映画における八面六臂の活躍は賞賛に値すると思われ、恐らく今年度の映画賞では主演女優賞の筆頭候補ということになるのでしょう。
 それにしても今年の前半は日本映画が豊作です。下半期にどのような映画が出てくるか、実に楽しみです。

コメント(2)

トキさん、

コメントありがとうございます。

花よりもなほ、当たっていないんですか、それは残念でなりません。

どん底、黒澤のマルチキャメラ演出がダイナミックに機能した成功作でしたね。

キャメラ同士が映り込まないように綿密にリハーサルを繰り返したと何かの本で読んだことがあります。

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