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200×年映画の旅コミュの5月下旬号・新作

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「グッドナイト&グッドラック」(5月17日 シネマメディアージュ・シアター9)
2005年/監督:ジョージ・クルーニー

【★★★★ 赤狩りに立ち向かったTVマンたちの話は、日本のマスコミ人も耳が痛い。演出も渋い】

 この映画の予告編は観たことがありませんでしたので、今どきモノクロで撮られていることも知りませんでしたが、マッカーシー上院議員の赤狩りに食ってかかったTV報道マンたちの話であることは知っていました。
 モノクロ画面に懐かしいワーナーのマークが出るのですが、Wの字がアニメーションで細工され、初耳の“ワーナー・インディペンデント”なる社名ロゴになります。FOXサーチライトのワーナー版といった感じの会社でしょうか。
 テナーサックスがブルージーなジャズナンバーを奏でる中、着飾った男女がパーティに参加して談笑している姿を短いカットで畳み掛けます。そして司会者に促されて舞台に出てきたこの日の主役・エド・マロー(デイヴィッド・ストラザーン)は、ジャーナリストとしての名誉賞を授与された感謝のスピーチとして、現状のTVジャーナリズムに対する苦言を呈し始め、そこから映画は時間を遡らせて、マローや同僚のCBSスタッフたちがジョゼフ・マッカーシー上院議員による“赤狩り旋風”に闘いを挑んだ様子を再現してゆくのです。
 この映画の中身については、知り合いのSさんが見事な分析を某サイトに書き込んでおられるので、無断で長々と引用させていただきます(Sさん、無断引用ごめんなさい)。

<映画の出来は、私の好奇心を充分に満たしてくれるものであった。何よりもまずデヴィット・ストラザーンの演技がとてもいい。エド・マローの生前の姿は当然知る由もないが、演技とは物真似では無かったはずだ。ストラザーンの喋り姿は時代に挑戦しようと、自分の言葉で大衆に語りかけるキャスターの姿そのものであった。加えてクルーニー監督の編集の上手さに言及しておかねばなるまい。
 当時のニュース映像を時折挟み込んでストーリー展開に上手くメリハリをつけることに成功した。当時のニュース映像をどうしても使いたかったから、映画全体もモノクロにしてしまったのだろうが、これも功を奏した。
 見終わった後少し残念に思ったのは、「この映画はエド・マローが最も輝いていた当時しか描いていない。けれど、当時のアメリカ社会はもっとエド・マローに対して冷たかったのではないか」ということである。「シー・イット・ナウ」におけるマッカーシー上院議員に関する検証番組の効果でマッカーシズムは終息してゆく。しかし、「シー・イット・ナウ」は日曜日に移動させられてしまうし、映画には描かれていないけれども結局マローはテレビの表舞台から去らざるを得なくなってしまうのだ。マローはマッカーシーに勝ったとしても、娯楽番組ばかり求める大衆には勝てなかったといえる。
 そんなエドの晩年の不遇も描いて良かったのではないかと帰り道考えていたが、映画鑑賞から数日たった今言えることはこうである。
 ジョージ・クルーニーは、映画の冒頭と終幕におけるマローの演説、つまり放送界の商業主義を痛烈に批判するマロー自身の言葉を9.11後のアメリカ社会に最も伝えたかったのではないかということである。だから、当時のマローの原稿を大事に使ったのだろう。
 現代にエド・マローはいるだろうか? とこの映画を見終えた識者たちは皆口々に言う。しかし、そんなことを言うのなら、彼らが「自分の良心に尋ねておかしい」と思うことを発言すればいいのである。それはニュースキャスターやジャーナリストだけでなく、私も含めた市井の人々一人一人の良心に掛かっている。>

 Sさんの分析にわたくしが付け加えることは殆どありません。わたくし自身、TV業界に身を置き、その商業主義にドップリと浸かっている者の一人として、マローが劇中で鳴らした警鐘に耳を痛くしつつ、果たして今のTVジャーナリズムは小泉某の独走に歯止めをかけるようなことができているのか、と自問を強いられた映画体験であったことをポツリと呟くばかりです。
 敢えて付け加えることがあるとすれば、ハリウッド一の二枚目野郎として、ニヤけた色男を演じていると思ったクルーニーが、なかなかどうして骨のある映画作家ぶりを発揮していることに感嘆の声を挙げるくらいです。
 クルーニーは前作「コンフェッション」でもTVマンが裏の顔としてCIAのスパイをやっていたという題材を取り上げて、TV業界というものの虚実ないまぜになった世界への目配せをしてみせ、あの映画ではチャーリー・カウフマンの脚本が持つトリッキーな仕掛けに負う面が強かったものの、主人公サム・ロックウェルがスパイとしての孤独と対峙する場面などに非凡な演出力を発揮していました。
 今回は、過去に実際に起き放送までされた題材を再現して再構成するという仕事ですから、過去のフッテージという見本をなぞればいいだけのお手軽さがあったろうことは想像できるものの、米国のTVマンにとっても耳が痛かろう題材に敢えて斬り込む題材選定の勇気もさることながら、それを正面から堂々と描き切る演出力、Sさんも指摘されているジャズ歌手の歌を間に挟む洒落た構成など、堂に入ったもので、感心させられました。この男、ただの二枚目野郎ではないようです。


「ナイロビの蜂」(5月24日 シネマメディアージュ・シアター10)
2005年/監督:フェルナンド・メイレレス

【★★★★ わたくし好みの社会派サスペンス。アフリカの貧困への怒りが満ち、メイレレス演出が鋭い】

 予告編を観たこともなく、ただTVのCMで江原某という気持ち悪い男が感動の押し売りをしているのを観て、何やら胡散臭いものを感じていたのですが、実際に観た人たちの反応は悪くないので、劇場に足を運びました。
 予備知識ゼロで観たので、夫婦愛が前面に押し出されたお話を想像していたのですが、実際はわたくし好みの社会派サスペンス映画になっており、ラストのクレジットでジョン・ル・カレが原作だと知り、納得しました。
 飛行場で男が女性を見送る絵が逆光で描かれたと思いきや、次の場面ではいきなり銃声らしき音が炸裂して、湖のほとりでジープが横転し、中から死体が運び出されます。どうやら先ほど空港で男と別れた女性が、この車の死体になったようです。画面が変わると、ナイロビにあるイギリス大使館の中。ガーデニングを趣味とするレイフ・ファインズが花に水をやっていると、同僚職員がファインズに妻の死亡を伝えます。しかも、妻は黒人男性と不倫関係にあったらしいことも示唆されます。
 ここで映画は時間を遡らせ、イギリス外務省に勤務するファインズが、上司の代理で講演をした際に、イギリス政府の方針に食ってかかる質問を発した市民運動家のレイチェル・ワイズと知り合い、愛し合うようになるいきさつが描かれます。そして、ケニアのナイロビに赴任することになったファインズと離れ難い思いにとらわれたワイズは、ファインズと結婚してナイロビに随行することになるのです。
 ワイズはナイロビでも市民運動家として活動を続け、夫ファインズはそれを見て見ぬふりをしています。妊娠して間もなく出産を控えたワイズは、入院している大衆向け病院で目撃した医薬治療の実態から、何かを嗅ぎ取り、親しい黒人医師(国境のない医師団に属しているという設定です)とともに、その何かを探り始めるのです。そしてその過程で、何者かに殺されてしまうのですが、地元警察は単なる物取りの犯行と断定します。
 妻の不倫を疑いながら、事件の真相を知ろうとするファインズは、妻の足取りを追ううちに、次第に妻が嗅ぎ取っていた“何か”の真相にも接近してゆくことになります。
 ファインズがついに事態の真相を知り、ワイズが不倫をしていたわけではなく、死ぬまで自分を愛してくれていたことに気づいたあと、今や主を失ったワイズのロンドンの家で慟哭するまでは、サスペンスフルで、アフリカの貧困に対する怒りに満ち溢れる一方、そのアフリカを食い物にして涼しい顔をしている欧州の大手製薬会社に対する怒りにも満ち溢れて、観客を強引なまでに力ずくで引きずりこんでゆく作劇に圧倒され、ほぼ完璧な構成だと思いました。
 監督のフェルナンド・メイレレスは、前作「シティ・オブ・ゴッド」で、リオ・デ・ジャネイロの貧民街を舞台に、貧困が暴力を生み、その暴力が次なる報復を生むといった具合に連鎖してゆく恐怖の物語を、力強いワンカットの短い積み重ねで強引に語っていたのですが、そうした方法論がこのアフリカの土地でも反復され、怒りを込めて貧困を見詰める視線に言い知れぬ迫力が宿ります。メイレレスを起用した意図が当たりました。
 ロンドンで事態の真相を見詰めたファインズは、妻が追い求めたものを自分が完成させようと、さらにドイツからアフリカへと足を延ばしてゆきます。そして行く先々で、“これ以上続けると女房の二の舞になるぞ”という脅しを受けてゆくのです。こうした謎解き部分は、やや薄っぺらく、悪人たちが型通りだという不満を覚えますし、案の定、脅しの言葉通りファインズが妻の二の舞になったのち、その葬式の席で妻の従兄によってすべてが白日の下に明かされるという展開も、鼻白むものでした。
 しかし、ラストのラストで、物語は夫婦愛に収斂されますので、観終わった時の後味はすこぶる良好でした。
 この映画は、イギリス資本をもとに作られていますが、最近「クラッシュ」など問題作を連発するフォーカス・フィーチャーズが配給しているところからして、ハリウッドの息がかかった映画であることも間違いありません。その英米映画界が、またしてもブラジルの監督を、キャメラマンごと引き抜いているという事態には、やや戸惑いも覚えます。台湾人アン・リーにオスカーを贈ったことが象徴しているように、英米映画界による監督青田買いはとどまることを知らず、アジアから南米大陸にまで及んでいるのです。それほどハリウッドの人材不足は深刻なのでしょうか?


「明日の記憶」(5月26日 丸の内TOEI・1)
2006年/監督:堤幸彦

【★★★ 立派な映画。今年の演技賞を総ナメしそうな気がする。演出には文句もあるが、後味はいい】

 堤幸彦という監督には、どうも生理的な拒否反応が先立ってしまいます。それは、ここでご説明しても理解が得られそうにない個人的な事情からくるものなのですが、いずれにせよ彼が演出に関与した映画も、TVドラマも、まともには一度も観たことがないという、食わず嫌いの態度をこれまで貫いてきたのです。しかも、たまたまごく一部を眼にした彼のTVドラマや映画の予告編では、カットを小刻みに繋ぐミュージック・クリップ風の作りが所詮は下品な小手先芸にしか思えず、演出家としての才能にも疑問符を呈し続けてきたのです。
 しかし、今度の映画については、友人の北京波さんが絶賛のメールを仲間内に送ってくださっていたほか、渡辺謙が精力的に宣伝している本気ぶりに情がほだされてもいたため、少々腰が重かったものの、堤某の映画に足を運ぶ決意を固め、前売り券を買ってしまったのでした。
 冒頭、2010年と近未来の日付がクレジットされ、いかにも認知症と察せられる惚けた表情の渡辺が妻の樋口可南子の横で外を眺めている様子を捉えたのち、キャメラは窓から滑るように空中に飛び出し、そこが山間に建てられた介護施設であることを示すイントロと、それに続いて、山の四季が冬→秋→夏→春と時間を遡るように変化する様子を示すCG画面をバックにスタッフ・キャストのクレジットが流れ、さらには東京の高速道路沿いを空撮で追う風景が、実は時間を逆回しにした絵だと気付かされるのですが、しょっぱなから小賢しいCGばかり使いやがって、と早くも堤某に対する拒否反応ばかりが脳裏を走ってしまう有り様でした。
 しかし、2004年に舞台を移し、中堅広告代理店の営業部長という役柄の渡辺が、ゲームメーカーか何かのクライアントから大型キャンペーンの広告一切を任されるコンペを勝ち取り、仕事に忙殺される一方で、家庭内や仕事場で物忘れが多くなったり眩暈を覚えたりと、典型的なアルツハイマーの症状を呈する様を見せてゆく過程では、演出上の小手先芸を披露することなく丹念にエピソードを積み重ねてゆくのであり、監督への拒否感は一旦留保して物語にのめり込んでいったのでした。
 夫の異状に気付いた樋口が渡辺を病院に連れてゆき、及川光博扮する医師が渡辺にテストをする場面など、なかなかスリリングです。そして後日、及川にアルツハイマーだと宣告された渡辺がうろたえて病院屋上から飛び降り自殺をほのめかす事態に至った場面で、及川が「私にはまだできることがある。それを私にやらせてほしい。あなたもできることをやってほしい」と叫ぶところでは、絶望した患者を前にした医師の凛とした職業倫理の美しさに打たれ、思わずググッと胸が詰まってしまうほどでした。
 病を自覚した渡辺が、会社で閑職に追いやられながらも、娘・吹石一恵の結婚式までは現役のサラリーマンでいたいと踏ん張り、ついには娘の結婚式当日を迎え、親族代表の挨拶を原稿の紙を紛失しながらも立派に果たすまでは、いくつかの箇所で演出に文句はあったものの、なかなかの見応えでした。
 このあと、渡辺の病状が悪化の一途を辿り、家計を支えなければならなくなった樋口の負担が増大する様を描いてゆく展開は、同じようなパターンが繰り返されるだけに、ちょっと長過ぎるのではないかと思いましたが、痴呆状態が昂じた渡辺が、妻と出会った青年時代の陶器教室(介護施設のある田舎の山奥という設定です)に迷い込み、大滝秀治扮する陶芸師匠の薫陶を受ける場面(焚き火の前で大滝が「東京ラプソディー」をがなるくだりは忘れ難い強烈な印象を残します)は美しいと思わせ、イントロでさりげなく示された手作りの湯呑みとそこに刻まれた妻の名前の由来を明らかにするに至って、映画は口当たりのよい後味を残すのです。
 なかなか立派な映画であることは疑いなく、堤某に対する拒否感も薄らいだわけなのですが、前述したように演出に文句がないわけではなく、2点ばかり気になってしまったのでした。
 まず渡辺が会社に辞表を提出した直後、幻覚に襲われて己を失いそうになったところを、クライアントの宣伝課長・香川照之からの励ましの電話によって救われる場面。香川は渡辺の後任として代理店の責任者になった田辺誠一の力不足を訴え、渡辺の早期復帰を懇願する形で渡辺を励ますのですが、香川の話の内容からすると本来なら知るはずのない渡辺の病状まで知っているように思えたことから、この電話は実は渡辺を追い落とした形の田辺の入れ知恵によってかけられたものだろうと思えたため、受話器を握る香川の姿をパンするキャメラの先には田辺がいることを期待したのですが、実際の場面では香川一人だけが映されるばかりでした。あの電話が香川の自発的なものではなく、田辺の差し金だとしてやれば、渡辺が後を託した宣伝キャンペーンの成功を観客も確信することができるという意味で、退社してゆく渡辺に後顧の憂いを残すことがなくなる上、その後に出てくる渡辺退社場面において遠くから密かに頭を下げる田辺の場面がもたらす感動を倍加できたと思うのです。わたくしが信頼する映画通の彦一さんは、常々映画にはワンカットだけ付け加えることによって観客の感動を倍加することがあるとおっしゃっているのですが(最近では「かもめ食堂」であれほど“おにぎり”が作劇上で強調されていながら、店の客がそれを食べるカットが一つもないことを残念がっておられました)、この電話の場面における田辺の不在も、わたくしには残念な欠落に思えました。
 あと、ラスト近くで渡辺の病状が悪化し、現実と幻覚が交錯するようになった時点で、どこが現実でどこが幻覚なのかという区別を映画が曖昧にしている点について、わたくしはこの映画がゲージツ映画ではないがゆえに、峻別を明確にすべきだと思えたのに対し、堤演出は曖昧な表現を選択していることに不満というか、残念だという思いを抱きました。
 そうした不満がありながらも、渡辺謙の痴呆芝居にせよ、樋口の透明感溢れる上品な芝居にせよ、大滝の素晴らしい歌いっぷりにせよ、今年の演技賞を独占するのではないかと思わせる充実ぶりを示しており、最近はハリウッドでも確固たる存在感を示している渡辺だけに、うまくすれば来年のオスカーレースで外国語映画賞も夢ではないと思わせる域に達しているとは思えたのでした。


「雪に願うこと」(5月27日 銀座テアトルシネマ)
2005年/監督:根岸吉太郎

【★★★★ 土の匂いのするリアリズムを見事に実践し、根岸の出世作「遠雷」に匹敵する傑作に仕上げた】

 去年の東京国際映画祭でグランプリ、監督賞、最優秀男優賞(佐藤浩市)、観客賞の4冠に輝いた映画。根岸吉太郎の作品では一昨年公開された「透光の樹」が今いちの出来でがっかりしましたが、今回は北海道の土の上でばんえい競馬の競走馬を飼育する人々の生活を縦軸にして、人生の壁にぶち当たった者たちの克己という主題を絡めながら、確かなリアリズムに則って丹念に描き上げ、根岸の出世作「遠雷」に匹敵する見事な映画に仕上げました。
 雪深い道をタクシーが走ってきて、神妙な表情で客席に座った伊勢谷友介が携帯電話を外に投げ捨てます。帯広競馬場にやってきた伊勢谷は、馴々しい初老の男・山崎努に薦められて開催中のばんえい競馬のレースでウンリュウという馬に有り金全部を賭けますが、ウンリュウは第二障害の坂で失速し、あえなく敗退します。金がなくなった伊勢谷は、競馬場の敷地内で厩舎を営んでいる兄・佐藤浩市を頼り、しばらく厄介になることにします。13年前に家を出て東京に行き、会社を興して社長に納まってから全く音沙汰がなかった弟の突然の帰宅を訝しがる佐藤。実は伊勢谷は東京で事業に失敗し、多額の負債を抱えたまま逃げ出してきたのです。
 行く場所も食い扶持も失った伊勢谷は、見よう見まねでばんえい競走馬の飼育という仕事を覚えてゆきます。賄い婦として競馬開催中は佐藤の厩舎にやってくる小泉今日子、冒頭のレースでウンリュウに騎乗していた騎手で最近勝ちに見放されている吹石一恵、厩舎で働くヴェテランのでんでん、伊勢谷とは小学校の同級生だった山本浩司、騎手を目指しながらなかなか果たせず、腰掛け仕事の伊勢谷に反感を覚えている岡本竜太、巨根の持ち主であることを自慢している気のいい若者・出口哲也らに囲まれ、何かと自分に厳しく当たる兄・佐藤との確執を繰り返しながら、馬の飼育を続ける伊勢谷は、冒頭のレースで勝てなかったために馬肉になる道しか残されていないウンリュウに己を重ね合わせ、愛情を注いでゆくのです。
 早朝まだ暗い中で、重い橇を引く馬が体中から湯気を立てている様を逆光で捉えた絵が美しく、強い印象を残します。外気の寒さが画面から伝わり、土の匂いも立ち昇ってくるように感じられ、話の傾向は違うものの、根岸の出世作にして土のリアリズムを見せつけた「遠雷」を思い出していました。このところ観続けている田坂具隆に連なる日活多摩川撮影所の伝統たるリアリズムを継承しているのが根岸吉太郎だと思っているのですが、その伝統を久しぶりに感じさせる映画になっているのです。
 事業に失敗してどのように再起を果たすか悩んでいる伊勢谷、勝ちに見放されて悩む吹石、馬肉になる運命を抱えながら伊勢谷の調教をこなすウンリュウの三者が相似形を形成し、ついにはウンリュウが再びレースに挑むチャンスが巡ってきます。騎乗するのは吹石、調教は伊勢谷に任されます。
 ラストに伊勢谷が採った行動については、ここで触れることを控えておきますが、とってつけた感動ものにしなかった選択は正しかったと思われ、ジンワリとした感動が胸にせり上がってくるのを感じながら、劇場を後にすることができました。
 これまで、いい男だとは思えても、役者としての実力については疑問符をつけたくなる男だった伊勢谷友介が、地に足のついた演技で観客を唸らせますし、弟に対する微妙な愛憎を繊細に演じた佐藤浩市は受賞に相応しい貫禄を示し、このところ芝居に磨きがかかっている小泉今日子も自然極まりない存在感を画面に刻み込んでいます。この3人にとどまらず、出ている役者全員が素晴らしく、そうした役者の美点を引き出した根岸演出にも賛辞を贈っておきましょう。文句なしの傑作です。


「プロデューサーズ」(5月27日 有楽町スバル座)
2005年/監督・振付:スーザン・ストローマン

【★★★ ハリウッドの伝統に則った実に愉しいミュージカル映画だが、どうも古臭く、心が躍らない】

 観ようと思いながらも、正直なところ今一つ腰が重かった映画ですが、この日、後述するオールナイトまでのつなぎとして時間的にちょうどよかったので、もうすぐ公開終了という直前に観ることにしました。
 1950年代のブロードウェイに空から接近してゆくオープニングは、CGの成果だろうと思いますが、キャメラがストップする“シューバート劇場”は、わたくしがニューヨークを訪れた際に「42nd Street」を観た劇場であり、なんだか懐かしい思いがしました。
 それはさておき、劇場から出てきた男女や劇場の整理係の女性たちが、口を揃えて「最低の芝居だった」とコキ下ろしながら歌い踊るオープニングから、あまりカットを細かく割らず、踊る人物を頭のてっぺんから足の先までフレームに収めるという、アステア−ロジャースの時代からハリウッド・ミュージカルを支えてきた伝統に則った演出を見せ、嬉しい気持ちにさせてくれます。最近のハリウッドではまたミュージカルがぼちぼち作られるようになっていますが、2002年のオスカーレースを制した「シカゴ」などは、踊る人物のカットを細かく割ってしまい、踊りのリズムと共鳴したい観客の欲望を寸断してしまっており、がっかりさせられただけに、この映画のスーザン・ストローマンが、実に伝統に適った演出をしていることは頼もしく思えたのです。
 このあと、最低の芝居だったと酷評されていた演劇プロデューサーのネイサン・レインの事務所に舞台を移し、そこに会計士のマシュー・ブロデリックがやってきて、“資金を集めた上で、わざとコケる芝居を作れば、経費が少なくて済み、ボロ儲けすることができる”という儲け話が二人の間で出来上がるまでを、舞台劇ふうな作りで見せてゆきます。そして、わざとコケるための最低の舞台を作るべく、最低の台本、最低の演出家、最低の役者集めと、ニューヨーク中の老婆を誑し込んで資金を集める作戦が開始されるのです。
 ネイサン・レインもマシュー・ブロデリックも、そして秘書として雇われることになる女優志願スウェーデン娘に扮したウマ・サーマンも、さすがにブロードウェイの舞台で演じ慣れた役だけに、堂に入った踊りや歌を披露し、ストローマン演出はオーソドックスな作りに徹して、なかなか愉しい時間を過ごさせてくれます。
 しかし、老婆が列をなしてニューヨーク市内を行進する場面や、レインとブロデリックがセントラルパークの噴水に入るといった場面でロケーションが使われているものの、演出は舞台劇調でせせこましく、50年代を時代背景にして忠実に時代の空気を再現しようとしているせいもあるのでしょうが、どうも映画全体から受ける印象は古臭い感じで、なぜ21世紀の今こんな映画を作っているのか、といういらぬ疑問が頭をよぎって仕方なく、愉しいと思いながらも心は躍らないという体験となったのでした。

コメント(2)

見慣れた文章だなあと思っていましたら、なんと!と驚きました。こういう引用でしたら、ちっとも悪い気は致しません。私も大変楽しませていただきました。
しげさん、

無断使用について、寛容なるお言葉、ありがとうございます。

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