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200×年映画の旅コミュの4月下旬号

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侘助が4月下旬に観た映画たち(一部欠け)


「モダン道中 その恋待ったなし」(4月16日 三百人劇場)
1958年/監督:野村芳太郎

【★★ メタ映画的な試みは部分的に笑えるが、肝心の物語が古臭いメロドラマのパターンを踏むばかりで閉口】

 この日の野村芳太郎特集3本目は、チラシで“野村が城戸四郎にホサれるきっかけとなった問題作”と喧伝されている「モダン道中 その恋待ったなし」。
 冒頭から銀行員の主人公・佐田啓二を紹介するために女性ナレーションが活用され、「ここから先はパントマイムでお見せします」などという案内に続いて、佐田がTVの懸賞に当選した様子をスラップスティック調のコマ落とし風演出で見せます。さらに、佐田が懸賞金をはたいて東北・北海道周遊の旅に出て、行きの列車の中で同様の旅に出た自動車修理工・高橋貞二と遭遇し、弥次喜多よろしく二人連れの旅となることを示すくだりでは、「ここでもう一人の主人公が登場」とか「明るく楽しい松竹映画」といった字幕まで駆使して、ブレヒト的な“異化効果”を導入した上、最初の滞在地である福島飯坂温泉では、旅館街を映す外景には「ここはロケ」、カットが変わって主人公二人が宿に入るところで「ここからはセット」などというナレーションを挿入し、観客が観つつある映画の内幕を明かす“メタ映画”の要素すら示すに至ります。
 確かにこうした手法は、観客に笑いをもたらすことは事実であり、わたくしも笑わせてもらったのですが、この映画が作られた58年には革新的に思えた手法(ゴダール以降は当たり前になってしまいましたが)も、実は渋谷実「本日休診」では既に冒頭で試みられていたことであり、野村の師匠である川島雄三が日活時代から頻繁に使っていた森繁久弥のナレーションを野村はちょっと過激にした程度のものに過ぎず、あまりにもしつこく繰り返されるうちに観客が飽きてしまう手法でしかないことに気付かされます。
 こうした手法が活きるのは、物語の本流部分も洒落たセンスが貫かれた時に限るというのが映画史の常識なわけですが(その好例はルイ・マル「地下鉄のザジ」でしょうか)、「この恋待ったなし」の場合、秋田〜青森〜北海道とロードムーヴィーの流れが進み、佐田は愛すべき女性たる岡田茉莉子に出逢い、絵に描いたような恋敵・永井達郎と対立関係を築き、高橋のほうは田舎娘・桑野みゆきを発見するという展開を経るうちに、物語があまりにも古臭いメロドラマのパターンを踏むばかりであることに、次第にうんざりしてしまい、各地の観光スポットを歴訪する旅も単なる観光タイアップにしか思えないのが実情でしたので、異化効果もメタ映画も、要すれば物語本流の古臭さを隠蔽しようとする作者側のわざとらしい作為を暴露する結果しかもたらしていないように思えました。
 城戸四郎がこの映画に激怒して野村がホサれることになったのは、異化効果やメタ映画のやりすぎが原因なのではなく、実はロードムーヴィーとしての物語本流があまりにも古臭くてつまらないものだったからなのではないか、とすら思ってしまいました。


「観賞用男性」(4月16日 三百人劇場)
1960年/監督:野村芳太郎

【★ 脚本が粗雑で古臭いメロドラマにすぎないが、元タカラジェンヌ有馬稲子のダンスだけは魅力的】

 野村芳太郎特集この日4本目は「鑑賞用男性」。有馬稲子帰国第1作とクレジットに謳われていますので、劇中の設定通り、有馬がフランスかどこかへ行って帰ってきたのを機に企画された映画なのでしょう。有馬が何をしに行ったのか知りませんが、女優が海外に行くことがそれほど珍しかったということであり、“帰国第1作”が企画の端緒になるなど今では到底考えられないことです。
 なかなか洒落たアニメーションによるタイトルバックに続いて、冒頭の場面は、羽田空港に有馬扮する新進ファッションデザイナーがフランスから帰ってきて記者たちに囲まれている場面。手持ちキャメラで有馬がインタヴューを受ける姿を追う演出は、ゴダール「勝手にしやがれ」でジャン=ピエール・メルヴィルがインタヴューされている場面を思い出し、60年の時点で野村もヌーヴェルヴァーグの洗礼を受けていたことを感じさせます。
 なかなか快調な出だしじゃないか、などと思ったのですが、このあとがいけません。女性が男性の眼を楽しませるような衣裳に身を包むように、男性もまた女性の鑑賞に耐え得る衣服を着るべきだと主張する有馬が、義兄の大学教授・仲谷昇や野党党首の石黒達也などに次々とヘンテコな服を提供した挙げ句、有馬の祖母・細川ちか子が会長を務める広告代理店の男性社員全員に有馬デザインの“鑑賞用男性服”をユニフォームとして着せることになるのです。
 仲谷の弟で有馬とは幼馴染である杉浦直樹はこの代理店の社員なのですが、ユニフォーム導入には断固反対を唱え、腰砕けの組合とは別に第二組合を結成して有馬‐細川ラインの横暴に抵抗を示す一方、最初から観客の誰もが予想できた通り、杉浦は有馬への恋に落ちてしまうのです。
 脚本が荒唐無稽で支離滅裂、有馬がデザインする服が全くセンスを感じない代物で笑うこともできず、ポップな線を狙った野村演出には時代を先駆ける野心が覗くものの、肝心の物語が古臭いメロドラマのルーティンに納まってしまうため空回りするばかりです。
 唯一魅力を感じたのは、有馬が杉浦をダンスホールに誘い出した場面において、マンボ、チャチャチャ、チャールストンなどの踊りを有馬が披露するところで、流石に元はタカラジェンヌだっただけに有馬の身のこなしは堂に入ったものであり、彼女がこんなにも踊りが巧い人だったのかと感心してしまいました。
 いくら有馬の踊りがよくても肝心の中身は買うことができず、評価は★1つになってしまいます。


「タイフーン」(4月19日 丸の内TOEI・1)
2005年/監督・脚本:クァク・キョンテク

【★★ 話は風呂敷を広げすぎ、散漫になっているが、ドンゴン、ジョンジェというスターの魅力は堪能できる】

 アメリカ船籍の貨物船が、台湾沖で漂流中のいかだみたいな難民ボートと遭遇しますが、乗っていたのは難民ではなく海賊で、貨物船乗組員は全員海賊に殺された上、秘密裡に運んでいたものも奪われます。
 海賊のリーダーに扮しているのが、チャン・ドンゴンくんで、ロン毛、不精髭、顔に傷跡というワイルドなムードを発散しながら、寡黙に、いつもの強烈なまでの眼力で遠くを見つめる姿はまさに絵に描いたような映画スターぶりで、韓流マダムならずとも思わずカッコいいと思ってしまうでしょう。監督のクァク・キョンテクは「友へ チング」でドンゴンくんの売り出しを果たした人物ですから、どう撮れば彼が引き立つのかよくわかっているのでしょうし、この役柄のために減量したらしいドンゴンくんも眼光の鋭さに磨きをかけています。
 海賊が奪ったのは核誘導装置で、事件が起きたのが韓国の領海域だったからでしょうか、韓国海軍が動き出し、事件解決のためにイ・ジョンジェくんが選抜されます。韓国俳優の中でわたくしがソン・ガンホと同等に買っているジョンジェくんが、海岸でフットボールごっこに興じる登場シーンからその肉体美を披露し、ドンゴンくんに負けずとも劣らぬ存在感をフィルムに刻印します。
 ところが、話を律儀に追い掛けようとするわたくしのような観客からすると、ドンゴンくんがタイからロシアへと次々に舞台を移し、奪い取った核誘導装置をロシアン・マフィアに売り付ける代わりに、核廃棄物を手に入れる事情がよく理解できませんし、これを追うジョンジェくんがタイの空港で無謀なまでの行動に出て海賊ルートの仲介人を拉致する事情も理解できません。
 何が何やらわからないまま画面を眺めていると、ドンゴンくんがかつて一家ごと北朝鮮から南への“脱北”を企みながら南政府によって拒否されたという過去を抱えた人物であることが判明し、ドンゴンくんは一家の受け入れ拒否を宣告した韓国外務省役人の殺害まで果たします。さらに、ドンゴンくんが生き別れになった姉がロシアで娼婦になっていることもわかります。
 ドンゴンくんは姉と再会するためにロシアのウラジオストックに乗り込み、全ての事情を事前に掴んだジョンジェくんのほうは先回りしてドンゴンくんの姉イ・ミヨン嬢の身柄を確保し、ついにはドンゴンくんとジョンジェくんが直接顔を合わせる機会が訪れます。
 事ここに至って、ドンゴンくんが少年時代、一家を挙げて北を捨てて夢の南朝鮮を目指しながら、南政府によって呆気なく拒否された当時の回想場面が示され、映画の主題が脱北者の悲哀に絞られることになるのですが、これまで、タイの山奥にあってキングコングが出てきそうな海賊アジトを見せられたり、本来ならアメリカ軍がまずもって動くべき事案になぜかジョンジェくんが単身で向かう事情がよく飲み込めなかったり、と、大風呂敷を広げる作劇に戸惑いを覚えてきた身とすれば、これまでの展開は一体何だったんだ、と呟きたくもなってしまうのでした。
 ウラジオストックでのドンゴン‐ジョンジェの“直接対決”は結局先送りされることになり、逃げ延びたドンゴンくんは、折しも接近中の台風を利用して、入手した核廃棄物を朝鮮半島全域にバラ撒いて大量殺人を果たそうとし、ジョンジェくんのほうは海軍の同僚を募ってそれを阻止しようとするというドラマが展開することになります。核廃棄物入りのドラム缶をぶら下げた風船を大量に格納した船が、大型台風が接近中の韓国に向かう中で、ヘリによって乗り込んだジョンジェくんがドンゴンくんと本当の“直接対決”を実現するアクションシーンは、確かになかなかの迫力ではありますし、南に捨てられた北の姉弟による絆の強さを目の当たりにしてきた観客からすれば、この台風を利用して半島ごと吹き飛ばしてしまいたいと願うドンゴンくんの気持ちにシンパシーを抱いてしまうのですが、こうした南北対立を背景にしたドラマなら5年前の「JSA」から観続けてきただけに新鮮さは感じられず、しかも前述したように大風呂敷を広げすぎた展開に対する違和感も拭えなかった
ため、どこかシラけている自分がいたことも否定できませんでした。
 ドンゴンくんが乗っている貨物船をアメリカ軍も狙っていて、米潜水艦が放つ魚雷が事態の収拾に関与するに至っては、これまでに米軍の描写がなされてこなかっただけに、唐突な印象を受けましたし、どうして脱北者による姉奪還という単純な話に絞れなかったのだろうと思いましたが、クァク・キョンテクの狙いは韓国国内を飛び出したスケールのでかい活劇を作ることにあったのでしょうから、こちらで勝手にボヤいても仕方ありません。
 そもそも、これはドンゴンくんとジョンジェくんを観るためのスター映画なのでしょうから、ここで分析めいたことに手を染めるのは野暮ことだということになりましょう。


「明治侠客伝 三代目襲名」(4月22日 シネマヴェーラ渋谷)
1965年/監督:加藤泰

【★★★★★ 男と女の情念が凝縮する加藤泰ワールドを、ニュープリントで観られる幸福】

 渋谷円山町のラヴホテル街に出来た小屋で、移転後のユーロスペースと同一ビルに入っているシネマヴェーラ渋谷では、わたくしが最も敬愛する監督の一人、加藤泰の特集上映が始まりました。初日のこの日は「明治侠客伝 三代目襲名」と「炎のごとく」の2本立て。ともに長らく再会していない映画でしたので、駆け付けました。
 「三代目襲名」を観たのは1973年8月、並木座でのことで、その時はフィルムに雨が降り、カラーは褪せかかり、何箇所もコマがジャンプして話の繋がりがわからなくなるくらいにひどい状態のプリントでしたから、名高い“桃の場面”は辛うじてなんとか観られたものの、ラストの殴り込みとなるとプッツンプッツンとフィルムがジャンプし、何が起きているのかわからぬうちに映画が終わっていた有り様でした。
 しかし今回はニュープリント。鶴田の厚意で父親の死に目を見ることができた藤純子がそのお礼にと、川端で2つの桃を差し出す場面に流れる抒情や、ラストで長ドスを手に追い掛けてくる鶴田から逃げ延びようとした安部徹が藤の住む部屋に逃げ込み、そこでバッサリ一太刀を浴びせた鶴田がとどめを刺そうとすると、藤が「やめて!」と鶴田に縋りついてそれを阻止し、鶴田のほうは脱力したように戦意を喪失するという、殺戮より情愛を優先させる加藤泰的な哲学もじっくり堪能することができたのでした。
 映画は、背中に刺青を背負った男たちが御神酒を飲むところを真上から俯瞰で撮ったタイトルバックから始まり、その男たちが実は御輿の上で太鼓を叩く役割を担っていることが明かされ、威勢よく御輿が動き始めたと思いきや、キャメラポジションが加藤泰得意のローアングルに切り替えられ、御輿を担ぐ男たちの脚の乱舞がシネスコ画面一杯に広がるといった具合に、冒頭からダイナミックなアングル変化を導入して観客を引き込みます。見物客の肩越しに御輿が見え隠れするショットを挟みながら、突然大アップになって登場する汐路章の鋭い眼。それに続いて、御輿の様子を笑いながら妻の毛利菊枝と見物している嵐寛寿郎が示され、これから起きる惨劇を予感させるのですが、加藤は汐路による嵐襲撃場面を望遠レンズに映る嵐のアップの表情変化だけで演出してみせ、そのあと、腕を後ろに回した嵐が、ドスを脇腹に突き刺している汐路の手をひねり上げるという行為へと繋いでゆきます。加藤映画独特の画面の密度(役者たちが醸し出す緊張感と周囲の祝祭的な喧騒との対比な
ど)が観る者を圧倒する冒頭から、快調に映画が走り出します。
 自宅で怪我の痛みを堪えながら伏せている嵐が、この斬り込みは大木実扮するライヴァルによる差し金に違いないと復讐を逸る息子・津川雅彦を諌める芝居を、寝ている嵐をシネスコ画面一杯に捉えた横の構図でフィックス・パンフォーカスのキャメラが追う展開は、加藤得意のパターンなのですが、警察が下手人・汐路を捕らえたので首実験をしてほしいと訪れた時、「その首実験は俺がやる」と、痛みを押してスクッと立つ嵐の身のこなしの素晴らしさにも酔うことができます。
 “桃の場面”を経て鶴田と藤の間に切っても切れぬ恋情が生まれ、ついに藤の部屋で一夜を明かしてしまった鶴田が、一家に戻ってみると、嵐は既に死んでおり、親の死に目に遭わせるために藤に助力した鶴田が、今度は、親同然の親分の死に目を逃してしまうという皮肉な目に遭うのです。鶴田が以前、刑務所に収監されていた時に実父に死なれてしまうという親不孝を働いたことがある、という伏線も効いています。
 二度にわたって親の死に際を見ることができなかったという悔恨が鶴田に重くのしかかり、鶴田は藤と別れる決意を固めます。一緒に逃げてほしいと訴える藤に対して、「あほな男や、せやけどワイにはこういう生き方しかでけへんのや」と応える鶴田。藤のほうは、大木の手先である悪党・安部徹による身請け話をこれ以上拒むことができなくなります。相思相愛を抱きながら、別れなければならなくなるという男女の痛恨。そのお互いの痛恨が情念の凝縮となって、映画の密度をさらに強めてゆくのです。
 仁侠映画の本質がメロドラマ性にあることを知悉している加藤は、こうして男と女の情念のドラマを紡いでゆくのですが、実は男と女だけでなく、男と男のメロドラマもまた仁侠映画の本質を形成するものであり、ここでは勿論、嵐−鶴田の親子関係もクローズアップされると同時に、東映仁侠映画のルーティン通り、客人として嵐の組に草鞋を脱ぐ藤山寛美を登場させ、彼と鶴田との友情にもまたメロドラマ性を塗り込めてゆきます。マキノ映画のように男が男に惚れるという世界をベタベタには撮らない加藤ですが、鶴田と藤の相思相愛を見かねてお節介を買って出て、ついには大木−安部による津川の騙し討ちに巻き込まれる形で悲痛な最期を遂げる藤山の役得ぶりには、観る者の背中に戦慄を走らせる情念の昂揚があります。
 そして、ラストシーン。前述したように、鶴田による宿敵・安部への斬り込みを、敢えて藤の眼の前で演じさせることによって、決して結ばれぬ男女の中に引き絞られた情念の凝縮を実現してしまう作劇に、やはり戦慄を覚えてしまいます。
 「明治侠客伝 三代目襲名」は、やはり仁侠映画史に燦然と輝く傑作です。


「炎のごとく」(4月22日 シネマヴェーラ渋谷)
1981年/監督・脚本:加藤泰

【★★★★ これまた男と女の情念が燃え上がる愛の讃歌。これが加藤にとって最後の劇映画だとは、ちと寂しい】

 この映画は公開された81年に観たきりで、当時は菅原文太扮する主人公が幕末を生き抜くエネルギーの強烈さに圧倒される一方、長いお話をダイジェストで見せられたような印象を持っていました。「人生劇場」「花と龍」「宮本武蔵」と続いた加藤泰の松竹での3部作の延長にこの映画を位置づけて観たのです。
 その後加藤はドキュメンタリー映画「ざ・鬼太鼓座」を製作しましたが、それが遺作になってしまい、わたくしはと言えば映画と無縁な人生を送っていた時期に当たっていたことから、加藤最後の作品を見逃してしまったのです。悔やんでも悔やみきれない愚かな過去です。
 「炎のごとく」とは25年ぶりの再会となりましたが、冒頭のモノクロ場面で、文太扮する会津の小鉄が賭場荒らしを働いて女房おりん(倍賞美津子)に助けられ、雪山の断崖で高所恐怖症を告白するエピソードなどが短くダイジェスト風に繋がれているのを観て、この一連の場面はすっかり忘れていたものの、前述した“長いお話をダイジェストで”云々という印象はこの冒頭部分からもたらされたものだったことがわかりました。
 このあと文太は妻・倍賞とともに幕末動乱期の京都に出てくるのですが、その旅の途中で遭遇した強盗(といっても、幕末の志士を自称して、その活動資金を寄越せと迫る男たち3人です)を斬り捨て、そのうちの一人が持っていた土鈴をお守り代わりとして妻に手渡します。強盗3人をたちどころに斬り捨てる殺伐さと、土鈴の音色に耳を傾けて妻に手渡す優しさを併せ持った人物・文太のキャラクターに、慈愛の視線を送る妻・倍賞。映画は既にこの時点で、加藤らしい男と女の情念のドラマを綴り始めているのです。
 京都に出た文太は、ヤクザ若山富三郎の子分になるのですが、おとなしく親分の言うことを聞くような男ではなく、自分の縄張り内で賭場を開いているところに斬り込み、男を一人殺してしまい、親分の若山から大目玉を食うなど、いわば「人斬り与太」や「まむしの兄弟」で文太自身が演じてきたような“はみだしヤクザ”像の延長線上に位置する人物であり、それを加藤演出は、絵コンテに基づく緻密な計算を感じさせながらも、貧しいセット、限られたロケ・スペースといった厳しい撮影条件を逆手にとるように、これが監督デビュー作であるかのような、溌剌として冒険的なカットを連ねてゆくのであり、今映っているカットの次に一体どんなカットがくるのか、観客の予想をいい意味で裏切ってゆく加藤の語り口には、眼を釘付けにされて画面を凝視することになります。
 このあと文太は、鴨川の河原はどこの組の縄張りでもないはずだと称して勝手に賭場を作り上げるなど、相変わらずはみだしヤクザぶりを発揮しているのですが、鴨川は若山の組とは対立する組の縄張りだと親分に諭され、不貞腐れます。そしてその夜、文太の家に寝込みを襲う刺客がやってきて、文太を庇った妻の倍賞が斬られて死んでしまうのです。対立した組の仕業だと確信した文太は、対立する親分・藤田まことのもとに押し掛け、妻を殺した野郎を差し出せと迫るものの、江戸から来ていた大親分の大友柳太朗や高田浩吉が間に入り、ここは俺たちの顔を立てて引き下がってくれと言われてしまった文太が、女房を返してくれと叫ぶ場面は、加藤らしい男の純情が結晶した忘れ難い場面です。
 こうした文太周辺の出来事を中心に据えながらも、幕末京都の世情は動乱を極めてゆき、新選組の面々も京都入りするのですが、文太と新選組隊長・近藤勇(佐藤允)が接近遭遇し、会津小鉄を愛用する二人の人生が交錯してゆくことになります。
 このあと映画は第二部に入り、文太の幼馴染・岡八郎やその知人である国広富之が新選組に入隊し、国広は文太の隣人である八百屋の娘・豊田充里と恋に落ち、第一部の文太・倍賞と入れ替わる形で今度は国広・豊田のカップルが物語の前面に押し立てられるようになります。そして、文太ら周囲は国広たち若いカップルの恋を応援するのですが、新選組もう一人の隊長・芹沢鴨が豊田に横恋慕して愛人に迎えたいと思ったことから、国広は芹沢の陰謀にはまって斬り殺されてしまい、国広を庇おうとした豊田も無惨に死んでしまいます。
 時代の流れに翻弄されながらも己の恋を貫こうとした過程で、理不尽にも生を断ち切られてしまった若者に対して、万感の思いをぶつける作劇には、若い者たちを応援し鼓舞しようとする加藤の哲学が感じられて感動的です。
 このあとで印象的なのは、文太が京都に出てくる途中で斬った強盗の娘で、今は娼婦になっている桜町弘子です。人斬り以蔵が新選組に逮捕される時に、以蔵を庇う娼婦だった桜町も一緒に捕えられそうだったところを、女性を手荒に扱う奴は許せないというのが信念の文太が岡八郎に掛け合って助けてやるのですが、文太の素性を知った桜町は父の仇として文太に斬りかかり、フェミニストを自称する文太が自分の知らぬところで女性を泣かしていたあたりに、時代の皮肉が浮き彫りになります。そして、そんな薄幸の娘を凛として演じる桜町が、実にカッコいいのです。
 蛤御門の変で京都が戦火にまみれ、文太が住んでいた家も焼けてしまうのですが、その焼け跡でなおポジティヴに、これからも自分に賭けてゆくのだと高らかに宣言する文太をストップモーションにして映画は幕を閉じます。その宣言は、歴史の奔流の中でも生きるエネルギーを燃やす市井の民に対する加藤の応援メッセージとも受け取れましたし、加藤自身のまだまだやるぞ宣言にも思えたのですが、結局はこれが加藤最後の劇映画になってしまいました。残念です。


「春の山脈」(4月22日 三百人劇場)
1962年/監督・脚本:野村芳太郎

【★ 鰐淵晴子、十朱幸代のピチピチした魅力には惹き付けられるが話は凡庸で睡魔を招き、途中15分ほど熟睡】

 渋谷で加藤泰を観たあと、三百人劇場に場所を移して、またもや野村芳太郎を2本鑑賞。この「春の山脈」には特に食指が動かなかったのですが、このあと上映される「東京⇔香港 蜜月旅行」を観るまでに時間が空いていたので、これも観ることにしました。
 鰐淵晴子が東京から故郷・福島に帰ってきた娘に扮し、東京からの列車で同席した佐野周二が社長を務める造り酒屋で働き始めるのですが、その酒屋で働く旧友・山下洵二(のちの洵一郎)、地元で芸者になった十朱幸代、佐野の一人息子・三上真一郎らと恋の鞘当てを演じるようになるという他愛ない青春メロドラマです。
 鰐淵や十朱の若々しくてピチピチした伸びやかな姿を観ているのは悪い気持ちではなく、決して誉められるような出来のお話ではありませんが、野村の堅実な作りにもまずまず乗せられていたものの、そもそもあまり気乗りしていなかった映画だったせいか、睡魔に付け入られる隙を与えてしまい、中盤で15分くらい熟睡してしまいました。
 目覚めた時には十朱がなぜか自殺未遂事件を起こしており、その原因は三上との結婚を三上の祖母・浦辺粂子に反対されたことだと思った周囲が、浦辺を説得するべく集まるのですが、十朱が残した遺書が見つかり、実は十朱が好きなのは三上ではなく山下のほうであり、その山下が鰐淵と仲良くしていることに悲観した十朱が咄嗟に自殺を図ったことがわかるのです。聞いてみると山下のほうも鰐淵に気があるわけではなく、実は十朱のことを憎からず想っていると言い出し、十朱と同様山下のことが好きだった主人公の鰐淵は失恋を味わいながら、恋を十
朱に譲ることになります。
 「花嫁のおのろけ」の項で書いた通り、若い娘が失恋の痛みを抱えながら、潔く恋を知り合いの娘に譲るという主題は、野村の師匠・川島雄三が大船時代に何度も取り上げたもので、野村もまた師匠譲りの主題に取り憑かれていたのだろうかという疑問も頭を掠めたのですが、劇中で重要な意味を持つ十朱の自殺未遂事件のきっかけを熟睡して観ていないのですから、わたくしには偉そうなことを語る資格はありません。


「東京⇔香港 蜜月旅行」(4月22日 三百人劇場)
1955年/監督・脚本:野村芳太郎

【★★★ テンポがよくて、なかなかの見応え。東京、香港の55年当時の風景を観る愉しみもある】

 この日の野村芳太郎特集2本目は「東京⇔香港 蜜月旅行」。解説に“大作「亡命記」の香港ロケ便乗企画”とありますが、データを調べると同じ55年の5月に公開された、野村監督、佐田啓二、岸恵子主演の香港ロケ映画が作られていま
すので、野村がついでにもう1本仕上げちゃおうとばかりにお手軽に撮った映画なのでしょう。
 冒頭は夜の新聞社編集局。出先の記者から、著名なプリマドンナが香港で恋人のフランス野郎と密会するらしいという情報を聞いたデスクが、部下に羽田行きを命じ香港まで同乗させようとしますが、空港に着いた時既に飛行機は離陸してしまっています。夜の東京を新聞社の旗を立てた車が疾走し、それをスピーディーなカット繋ぎで見せてゆくタイトルバックから快調に映画が走り出します。
 デスクは早速香港の支局に連絡を取り、特派員の記者にくだんのプリマドンナを取材するよう命じ、本来は政治記者なので芸能ネタには疎いという特派員・佐田啓二が取材に駆り出されることになるのです。
 佐田がプリマドンナの顔を知らないため有馬稲子を当人だと思い込み、本当のプリマドンナは岸恵子なのに有馬が当人のふりをして、佐田の追跡をかわしつつ香港市内を徘徊するくだりは(有馬もまた岸を執拗なまでに追い掛けています)、有馬本人の素性が観客に説明されないがゆえに戸惑いを覚えるものだったのですが、有名な教会の脇を通り、屋台の果物売りを冷やかし、登山電車に乗って高台から香港市街を見下ろすといった具合に、55年当時の香港の観光スポットを次々と踏破してゆく有馬の足どりを追う形でさりげなく香港の地理的魅力を観客
に伝えてしまう作劇が巧いと思いました。
 そして、有馬が実は佐田の新聞社とはライヴァル会社の記者であったことが明かされるに及んで、へー、そうだったのか、なるほど、と思わせるに至るのです。
 こうしてプリマドンナを巡る取材合戦は有馬の圧勝に終わり、佐田・有馬の争いは東京に舞台を移すことになります。香港における佐田の親友・巌俊が京劇の歌手・林薫と結婚して新婚旅行で東京に来ることになるのですが、林の実父は戦時中から離れ離れになった日本人なので、その父親探しの旅行にもしたいのだと言い出し、佐田と有馬の新聞社がそれぞれ父親探しに手を貸して鎬を削り始めるのです。どちらが先に父親を見つけることができるか、新聞社同士が醜く争い、巌・林夫妻はそのスクープ合戦に巻き込まれる被害者になってしまうのです。報道被害というテーマは最近10年ほどで盛んに取り上げられるようになったものですが、今から50年以上前にこの主題を取り上げている脚本には敬意を表しておきます。
 しかしそんなことよりわたくしの眼を愉しませてくれたのは、 夫妻が東京見物している場面で観ることのできる55年当時の東京の風景であり、デパートの屋上から望む街並にはまだ背の高いビルはほとんどなく、道には車の姿もまばらなため市電がゆったりと走り、上野動物園では猿が運転するミニ電車が走るといった具合に、まだ長閑だった東京の姿を味わうことができるのです。
 さて物語のほうは、スクープ合戦によって巌・林夫妻を疲弊させてしまったことを新聞社が反省し、新聞、ラジオ、誕生間もないテレヴィジョンなど全マスコミが共同で林の父親探しを始めた結果、有馬が九州で父親だと名乗る藤原釜足を発見するに至ります。しかし観客の誰もが予測できる通り、藤原は偽物であることを告白し、夫妻は実父が見つからないまま香港に帰ってゆくことになるのですが、役者同士が演じる白々しい“父娘再会劇”を見せられるより遥かに自然なエンディングを迎えているのであり、実にウェルメイドな映画に仕上がっていると
感心しました。少なくとも、それほどじっくり時間をかけているわけではなく、小手先でチョチョイと作り上げた映画だろうと思われる割りには、肩の力が抜けた伸びやかな直球が観客のハートのミットに心地よい音を響かせていると思うのです。
 野村芳太郎のことはこれまで、手堅い職人芸の人として一定の敬意を抱きつつも、蒲田撮影所長まで務めた父・芳亭の七光りに支えられたボンボンに過ぎぬだろうという軽侮の思いがあったことも否定できず、城戸四郎のえこ贔屓によって数多くの監督作で経験を積ませてもらってるんだから多少巧いのも当然だろうと思ってきたことも事実でしたが、55年の段階でこれだけテンポよい演出を披瀝しているのを見ると、わたくしの認識も改めなくてはならないと思います。


「びっくり武士道」(4月23日 三百人劇場)
1972年/監督:野村芳太郎

【★★★ お手軽に撮影されたと思しきコント55号ものだが、山本周五郎原作の哲学には心打たれるものがある】

 またまた野村芳太郎特集。この日は2本鑑賞し、まずは未見の「びっくり武士道」。1972年のお正月映画に予定されていて、当初は「初笑いびっくり武士道」というタイトルがつけられていましたが、公開が1月下旬にズレ込んだため、「初笑い」は外されたそうです。
 当時人気者だったコント55号が主役ですから、随所にコント風のギャグが盛り込まれていますが、今観ると笑えるものではなく、アラを探せばきりがないほどいい加減なテイクでOKを出している雑な作りも散見し、超多忙だったに違いないコント55号のスケジュールを縫って撮影されたことが窺えます。それは、娯楽の王様という地位を完全にTVに奪われ、役者と呼ぶこともためらわれるタレントたちによるやっつけ仕事の対象となってしまった映画の哀れな姿を晒しているようにも思えますが、カツドウ屋たちはそのように劣悪な撮影条件の中でも映画に魂を吹き込もうと懸命に足掻いているのであり、それが観る者に感動をもたらします。
 まず加藤泰と三村晴彦が加わった脚本。自他ともに認める臆病者の主人公・萩本欽一が自宅の廁の扉にヤモリを見つけて怖じ気づき、下痢腹を堪えて苦悶するといった安易な下ネタから始まるギャグの数々を、加藤‐三村の師弟コンビが書いたとは思えませんが、山本周五郎の原作「ひとごろし」を貫くガンジー的な非戦哲学をキチンと娯楽映画の中に染み込ませる手練れの作劇を実現しており、ギャグ映画としては不発でも、正統的時代劇としては成功に導いています。
 そして演出。岡崎友紀の耳をつんざくようなキンキン声の「奥様は18歳」芝居にOKを出し、坂上二郎の刀が空振りしようとお構いなしにチャンバラ場面を継続させるという稚拙極まりない殺陣を許容してしまう野村の姿勢はお世辞にも誉められた代物ではありませんが、早撮りを余儀なくされながらも芝居の見せ場ではキチンとカットを割って丹念に絵を組み立ててゆき、物語のポイントになるエピソードではセットを思い切り省略してホリゾントに赤い照明や黄色の照明を当てるといったケレンも見せ、映画的な活気を持続させようという職人芸を披露します。萩本が殿様からの上意を受けて、殿が寵愛した小姓を斬った剣道指南・坂上を追い続けるくだりでは、琵琶湖周辺のロケがほとんどを占めながらも、画面が単調になることを回避するため、厳しい撮影スケジュールを縫って海辺まで出向いて荒波際を歩く萩本のカット(ロングの場面でしたから、萩本自身ではなくスタンドインを歩かせたのかも知れませんが)を挟むことを忘れていません。
 こうした厳しい撮影スケジュールでの映画作りにおいては、チーフ助監督の手腕が問われることになるのですが、われらが山根成之さん(わたくしが大学時代〜社会人初期、自主上映運動“映画村”の活動を通して、何かとお世話してくださったわたくしたちの兄貴分です)がいつもおっしゃっていた「俺は助監督としては日本一だ」の言葉通り、厳しいスケジュールをやり繰りしながら的確に必要カットを撮り進めたことが窺えます。先述したホリゾントを赤や黄色に染める手法は「同棲時代」以降の山根さんの得意技であったことを思えば、撮影に際してはかなりの部分で山根さんのアイディアが取り入れられた、または野村から演出を託された山根さんが撮ったのではないか、などと思いました。
 ともあれ、剣の腕には全く自信がない臆病者の武士が、こともあろうに藩で随一の剛腕剣士を討ち果たす命を受け、力では決して適わないがゆえに、何か自分に見合った得意技で相手を倒す道はないかと思案した結果、相手の周囲に向かって「この人はひとごろしですから、気をつけてください」と叫び続けることを思いつきそれを実践したところ、周囲は怖がって男を忌避するようになり、彼は宿にも食事にもありつけなくなるなどノイローゼ状態を招きついには自滅してしまうという、剣を重んじる武士道にあっては卑劣とすら思える手法を貫き通すのですが、その徹底が観ている者にそれが正当な手段だと思わせるような説得力を持つに至るのです。結構面白かった。


「背徳のメス」(4月23日 三百人劇場)
1961年/監督:野村芳太郎

【★★★ 凝った細部によって組み立てられ、よく出来たサスペンスだとは思うが、心に残るものは案外少ない】

 野村芳太郎特集、この日の2本目は黒岩重吾の直木賞受賞作を新藤兼人が脚色した「背徳のメス」。この映画は5年前の2001年6月に新文芸坐で観たことがあり、大阪にある貧しい人を相手にする病院を舞台にしたお話だったことは覚えており、しかも流石に新藤脚本だけあって構成もしっかりしていて面白かったという印象も残っているのですが、肝心のお話の中身はすっかり忘れています。僅か5年前に観た映画の細部も忘れるくらい記憶力が怪しくなるなんて、自分としてはショックなことですから、もう一度キチンと記憶に刻み込んでおこうと思い、二度目の鑑賞となりました。
 大阪阿倍野にある私立病院で、蒸し暑そうな夏の夜、一つの堕胎手術が行なわれています。執刀医は外科部長の山村聰ですが、横で立ち合っている助手の田村高広は、患者の体調を考慮して手術は翌日に延期すべきだと主張したのにそれを山村に却下されて、やや不機嫌そうです。そして田村が懸念した通り、山村による手術自体は成功したものの術後患者の容体が急変して亡くなってしまうのです。患者の情夫であるヤクザの城所英夫は執刀した山村を詰り、損害賠償を求めるのですが、山村は自分に落ち度はないとして取り合いません。しかし、手術に立ち合った田村は山村の執刀に疑問を持っているため、山村は田村を説き伏せようとし、城所は田村を抱き込もうとします。
 この田村、今は看護士の瞳麗子を愛人として誑し込んでいるのですが、これまでも手当たり次第看護士に手を出しているようで、今また新たに薬剤師の高千穂ひづるのことも、田村が当直の夜に高千穂が寝ている部屋の窓から忍び込んで無理矢理犯してしまいます。
 こうして田村には敵対人物が散在することを示した上で、病院の創立記念日パーティーが食堂で開かれ誰もが泥酔した夜、当直の田村が寝ている部屋のガス栓が何者かによって開かれるという殺人未遂事件が起きるのです。幸い、看護士の一人が早期発見したために軽い中毒で済んだ田村は、自分を殺そうとしたのが誰なのか探り始めます。
 大船所属の野村が京都撮影所に乗り込んで作られた映画ですから、例えば東映で東撮の深作欣二が京撮に出向いた「仁義なき戦い」では京都のスタッフが東京野郎への反発として、玩具屋の場面で設定上の時代には存在しないパンダの縫いぐるみが並べられた、などという神話が残っていますが、この映画の場合は、蒲田撮影所長まで務めた父親を持つボンボンの前で恥ずかしい仕事は見せられないとばかりに、細部まで丹念に作り込まれた病院のセット、夜の場面が多いため陰影が強調された照明設計など、スタッフは実にいい仕事をしており、そうしたスタッフの奮闘に応える形で野村の演出も芸達者な役者たちからワンカットごとに力の漲った芝居を引き出し、サスペンスものを得意とする職人芸を披露してゆきます。
 それにしても、映画が進むに従っても先の展開を思い出すことができず、このあとどうなるのか初見のようにハラハラしてしまうというわたくし自身の記憶力の減退ぶりには愕然たる思いを抱いてしまったのですが、実によく出来た映画だと感心しつつも、ピカレスクな役柄に徹する田村の中にある人間的な弱みや苦悩、山村の狡猾さの裏にあるドロドロした欲望、そんな山村につき従ってしまう婦長役の久我美子が体現する哀しみなど、観る者のハートの琴線を震わせる“サムシング”が画面からは匂い立つことがなく、他人事としてのお話が頭上を通り過ぎるばかりのように思えてしまったのであり、こういう映画なら細部を忘れても仕方ないなどと、自分の記憶力減退を棚に上げて作品側に責任をなすりつける言い訳を頭の中で巡らせていたのでした。


「ニュー・ワールド」(4月23日 池袋東急)
2005年/監督・脚本:テレンス・マリック

【★★★ アメリカ建国神話に斬り込んだマリック映画で、美しい詩だと思うが、雰囲気カモカモ映画とも言える】

 前記野村芳太郎2本を観終わったあと、カミさんと池袋で待ち合わせ、夫婦50割引を利用してテレンス・マリックの新作「ニュー・ワールド」を鑑賞。長らく続いていた内職を一段落させたカミさんが毎週末暇そうにしているのに、わたくしはといえば一人で野村芳太郎通いをしていることに後ろめたさを覚え、この日の朝カミさんに向かって何か観たい映画はないかと尋ねたところ、マリックの新作の題名が口に上ったため、それでは夫婦割引を利用して観ることにしようということになったのです。
 今やカルト監督となっているマリックですが、わたくしにとっては映画から離れていた時期に活躍していた人だけに、名高い「地獄の逃避行」は観ていませんし、ネストール・アルメンドロスが“マジック・アワー”での撮影を貫いてオスカーを手にした「天国の日々」もCATVスターチャンネルで6〜7年前に観たに過ぎません。前作「シン・レッド・ライン」ですら劇場で観る機会を逸し、レンタルヴィデオで辛うじてチェックしただけでした。
 今回のマリックは、直訳すれば“新世界”という大上段に振りかぶった大袈裟なタイトルを冠した映画を作ったのですから相当に気合いが入っているのだろうと想像され、個人的には、よーし、今度のマリックこそ大スクリーンで味わってやるぞ、と、こちらも気合いを入れていたのでした。
 しかしながら何回か観た予告編では、映像は綺麗だけれどもお話の内容はついてこないという、昔のクロード・ルルーシュを思わせる“雰囲気カモカモ映画”にしか過ぎないのではないかという懸念も頭をよぎったのであり、正直なところ期待半分、不安半分という気持ちでスクリーンに向かい合ったのでした。
 アメリカの建国神話の中で、白人入植者と最初に友好的な交易を成立させた原住民女性ポカホンタスの神話は、ディズニーのアニメーションにもなっていますがわたくしは観ていません。しかし、米国の幼稚園などで建国記念日のアトラクションとしてポカホンタスと白人との交易をお遊戯にして演じられている光景はアメリカ映画の劇中劇として何度も目にしています。白人が持ちかける物々交換を寛容に受け入れる原住民女性の存在は、アメリカ大陸開拓の第一歩を平和裡に実現させてくれた恩人として神話化され、この国の白人たちには都合のよい人物という認識が刷り込まれているのだろうと察せられます。
 マリックが今回この題材を取り上げたのは、そうした白人にとって都合のよい神話を、リアリズムの視点の中に置き直す狙いがあったのだろうと思われます。入植者と原住民との間には最初から友好的な交易などが成立するはずもなく、お互いが訝しげにお互いを観察する中で、白人側は勝手にどんどん砦作りを進め、その砦の中での自給自足を目指しながらも自我と欲望のぶつかり合いからお定まりの内部抗争が勃発し、砦の内部に燻る憤懣や暴力衝動を原住民に対する攻撃という形で発散させる道を選んでゆくという物語を構成しつつ、その中にジョン・スミスという匿名的な人物(日本で言えば山本太郎とか鈴木一郎とか、ほかの誰とも置き換え可能な名前でしょう)を置き、彼が原住民に拉致されることによって逆に原住民文化へのシンパシーを深める存在として構想した上、彼と愛情を分かち合う原住民女性としてポカホンタスを登場させることで、ポカホンタスの悲劇性を浮かび上がらせようとするのです。
 ここでのポカホンタス像をリアリズムの一語で形容するのは正しくないのかも知れません。砦の中にいる人物たちや原住民の男たちはリアルと呼んで差し支えないでしょうが、ポカホンタスにせよジョン・スミスにせよ、この映画でモノローグを語る権利を与えられている人物は(映画の後半にはポカホンタスと結婚する男性としてジョン・ロルフにもモノローグの権利が授与されます)、何やら抽象的な詩を呟きながら大自然と交感することが許され、リアルな世界とは隔絶したメルヘン的な時空間が用意されているのであり、マリックが神話上の存在を現実の汚辱の中に置くのをためらったのか、アメリカ国民が温存し続けてきたポカホンタス神話を根底から覆すような冒険は控えられています。そして、ポカホンタスが、愛するスミス氏が死んでしまったと誤解したことから別の白人男性と結婚するというエピソードを作ることによって、ポカホンタスに二重の悲劇性を纏わせ、神話をさらに強固なものにしてみせるのです。
 こうしたマリックの作劇は、例えばマイケル・チミノが「天国の門」で実践したアメリカ開拓史における汚辱暴露などと比べると微温的な中途半端さの中にあるという不満も残るものの、まずまずの見応えがあったことは事実でしょう。その意味ではわたくしの事前の期待は一定程度満たされたと言えましょう。
 しかしながら、映画の中で執拗なまでに繰り返される抽象詩の朗読のようなモノローグと催眠効果を持つとすら思えるステディカムの手持ち映像、ジェイムズ・ホーナー作曲による煽情的な旋律は、先述したルルーシュ的“雰囲気カモカモ映画”の枠内にぴったり納まるものであったことも否定できず、事前の不安部分も的中してしまったのでした。


「ディバージェンス 運命の交差点」(4月24日 シネマート六本木・シアタ
ー4)
2005年/監督・製作:ベニー・チャン

【★★★★ 話はヒネリすぎだが、アクションにはキレがあり、男優陣の個性も活かされている。香港映画も元気】

 この日は会社を早めに退出して、公開終了間際の韓国映画「春が来れば」を観るつもりでしたが、山手線が事故で停まってしまい上映には間に合わなくなり、仕方なく針路を変更して六本木に出て、香港映画「ディバージェンス 運命の交差点」を鑑賞。
 このところ韓国映画や中国映画などに押されて元気がないという声も聞かれる香港映画ですが、「忘れえぬ想い」のパンフレットで野崎歓氏が見事に喝破した「香港映画が終わったなどとしたり顔でうそぶく人々に対する明快な答えがこの映画にある」の言葉がそのままこの映画にも当てはまるような高水準の出来栄えを示しているのであり、アクション映画というジャンルにおいてはハリウッドも軽く凌駕するスタッフ・キャストがこの香港に揃っていることを見事に証明しています。
 雨の夜、一人歩きの女性をつけ狙う男が歩調を速め、今まさに女性を襲おうとする寸前、ワイヤーを持った何者かにそれを阻止され、絶命させられるアヴァンタイトル場面からして快調なリズムを刻むのですが、画面が変わってマネーロンダリングの重要証人を飛行機で護送中の主人公刑事アーロン・クォックが、機内誌を読みながらも上の空で10年前に姿を消した元恋人の面影を追っている様子を簡潔に示しつつ、飛行機が香港に到着してクォック刑事が証人を車に乗せて警察署に向かおうとしたところで、ダニエル・ウー扮する一匹狼の殺し屋の正確極まりない射撃によって証人を殺害されてしまうというカー・アクション場面へと導いてゆく緩急の呼吸を心得た作劇には、すっかり感心してしまいます。
 自分の目の前で重要証人を殺されたクォック刑事は、マネーロンダリングを指示していたと思しき実業家ロー・ガーションが裏で糸を引いていたと確信し、実業家ガーションのもとに押し掛け、そこで実業家の顧問弁護士であるイーキン・チェンと出会います。
 このあとクォック刑事が実業家周辺を洗ううち、実業家の息子が何者かに誘拐される事件が起きる一方、チェン弁護士の妻がクォック刑事の探し求める元恋人と瓜二つであることが判明し、クォック刑事の苦悩が深まったり、実業家の息子誘拐事件に殺し屋ウーが首を突っ込んだりする展開となるのですが、あちこちに視点が飛び、話がヒネリ過ぎているきらいがあって、全体にややモタついて見えることは事実です。
 しかし、実業家の息子が誘拐された当日の様子をキャメラに収めていたイエローペーパー専門の写真家がいることが判明し、クォック刑事がその写真家の家を訪れたところ、殺し屋ウーが先回りして写真家の家に来ており、やおら窓から飛び降りて逃げ始めた殺し屋ウーのことをクォック刑事が駆け足で追い掛ける長い追跡場面は、アクション映画の基本は車やバイクなどの無機物の移動ではなく人間が自らの脚で走ることなのだという真理を教えてくれたジョン・フランケンハイマーの快作「フレンチ・コネクション2」以来久しぶりに味わう生身の躍動感が漲っており、観ている者の血も沸き躍る昂奮を覚えました。さらに、生鮮食料品市場に逃げ込んだ殺し屋ウーを追ったクォック刑事がそこで相手を見失い、キョロキョロと周囲を見渡すうちハァハァという荒い息遣いが耳に届き始め、音の方向に目を向けると背中に一杯の汗が滲んだシャツを着た男が蹲っているというあたりの描写は、動のあとにくる静というコントラストを鮮明に示し、この監督の力量を如実に証明しています。そして、刑事に見つかった殺し屋はここから体を張った抵抗を示すことになり、クォックとウーによるクンフー・アクションがめまぐるしいまでのスピードで展開した上、大がかりなガス爆発シーンまで登場させてアクション場面を締め括ります。写真家の家から始まり息もつかせぬうちに展開する一連のアクション場面は、ここ数年に観た全アクション映画の中でも最高の水準に達した出来だと胸を張って断言できるものであり、この場面だけでも充分に木戸銭を払う価値があるでしょう。
 このあとも、クォック刑事がチェン弁護士の妻が元恋人にそっくりなことにショックを受け、彼女を失っている現実に直面して自暴自棄になり、車のサイドブレーキを入れないまま坂道の途中でハンドルを離したがゆえに、車が自動的に坂道をバックして周囲の車とのニアミスを演じるというカー・アクションなど忘れ難い印象を残します。
 実業家の息子誘拐の真犯人が誰なのかを巡る本筋のほうは、途中から先が読めてしまうのですが、ラストには殺し屋ウーがフィリピンに国外脱出しようとする途上で因果応報と呼ぶべき事態を招き寄せることになり、そこでファーストシーンでのワイヤー殺人やクォック刑事の元恋人の消息など残されていた謎がきれいに説明され、わだかまりを残すことなく観客は劇場を後にすることができるのです。
 監督ベニー・チャンの映画はジャッキー・チェン主演「香港国際警察」に次いで2本目ですが、アクション場面におけるキャメラ位置の的確さ、編集の畳み掛けなど、実にキレのあるところを見せ、彼が作る映画なら今後も観逃すわけにはいかないと思わせます。
 香港映画の健在ぶりに嬉しくなって劇場の明かりが点いてみると、この回の観客はわたくしを含めて僅か6人。これではいくらなんでも寂しすぎます。韓流フェスティヴァルには大挙して押し寄せたマダムたちも、香港のイケメンには冷淡なのでしょうか。ここは孤独に「ディバージェンス、ディバージェンス」と呪文のように呟き続けることで、なんとか客足が伸びることを期待したいと思います。

「五瓣の椿」(4月25日 三百人劇場)
1964年/監督:野村芳太郎

【★★★ 美しさの絶頂期にあった岩下志麻の復讐劇。細部も凝って文句ない出来ではあるが、心には残るまい】

 野村芳太郎の映画の中でも代表作の1本に数え上げられる作品ですが、わたくしは何度も観るチャンスがありながら観逃していました。観たくなかったわけではありませんが、岩下志麻が熱演しているらしいので、どうも彼女の熱演した映画に当たりがなかったせいか、気持ちが乗らなかったのです。
 歌舞伎を上演している舞台下手で三味線を弾いている田村高広にスポットライトを当てて強調したあと、客席で芝居ではなく田村に鋭い視線を送る岩下にもスポットライトを当てる冒頭に続いて、場面は寝間のついた料亭に変わり、岩下と田村が差しつ差されつしています。今夜こそ岩下の身体をモノにしようと躍起になっている田村に対して、岩下のほうは先ほど観客席で見せた鋭い表情とはうって変わって男に媚びを売る妖艶さを見せつつも、一線だけは越えさせまいと田村の欲望の昂まりをのらりくらり躱しています。そしていよいよ田村が寝間に来ようという時、田村によって堕落させられたことを恨みに持つ穂積隆信が折よく部屋に押し入ってきて、田村を散々な目に遭わせます。それが一段落したところで、ついに岩下が本性を現わし、田村によって弄ばれた大店の女将の話を持ち出した上、自分はその娘であることを明かし、簪で田村の胸を突いて殺したのち、現場に椿の花一輪を残して立ち去るのです。
 次に狙われるターゲットは今で言う婦人科医師の伊藤雄之助。岩下はまたしても素性を隠して伊藤に接近し、彼の欲望を巧みに操った上でやはり簪で刺し殺します。
 凶器の簪と椿の花一輪を残す殺人が2件続いたことで、八丁堀の同心・加藤剛が捜査に乗り出します。そして加藤の捜査と並行して、岩下がなぜこのような連続殺人を始めるに至ったかという過去も描かれてゆくのです。
 大きな薬種問屋の一人娘でありながら奔放で淫蕩な母・左幸子が次々と男遊びを繰り返す中で、左のもとへ婿養子に入った父・加藤嘉は妻の放蕩に頭を悩ませながらもじっと耐え、店を切り盛りしてきました。娘の岩下はそんな父を見るにつけ、母を弄び父を苦しめた男たちへの憎しみと恨みを増幅させてゆきます。そして父は病に倒れ、妻・左に一言だけ残したい言葉があると言って、妻が住む郊外の別荘に向かう途中、ついに事切れます。そんな父の死を目の当たりにした岩下は、母・左が夫の死を悼むどころか相変わらず若いツバメ入川保則と遊び惚けていることに憤慨するのですが、そんな娘に対して左は、死んだ加藤は岩下の実父ではないと言い放ちます。もはや母までにも殺意を抱いた岩下は、母を殺害して自分も死のうと決意するのですが、自殺する前に母を弄び父を苦しめた男たちを先に殺そうと決心するのです。そしてそれが、生前椿の花だけを慈しんでいた父に対する供養なのだと確信するのです。
 1964年の芸術祭参加作品ですから、松竹としても気合いが入っており、映画界は既に斜陽に向かっていたとはいえ、東京オリンピックの直後に封切られたこの映画の時点ではまだ十全に撮影所システムは有機的に機能していたわけで、ほぼ全編がスタジオ内にセットを組んで撮影されたこの映画では、岩下が母・左を焼死させる場面でスタジオ内のセットに火を放たせています。父・加藤嘉が左の住む郊外へ戸板に載せられて運ばれる場面も、長い横移動撮影の分までたっぷりセットが組まれています。江戸長屋も奥行のある旅館も全てセット。今では到底考えられない豪華な作りに、口をあんぐりと開けて見とれてしまいました。
 川又昂のキャメラは、ホリゾントを一色の照明にして歌舞伎調というか、鈴木清順調とも呼べそうなケレンを実現しています。
 わたくしが苦手な岩下の熱演も、のちに篠田正浩映画や極妻シリーズでさんざん見せた目を剥くような臭い大芝居ではなく、まだうぶな女性が精一杯背伸びして男を誑かすという役柄に見合った、言わばけなげな熱演だったのであり、岩下生来の美貌も活かされていたのでした。美しさという点では岩下のベスト映画かも知れません。
 野村の演出も手堅く、粘り腰を発揮した時の野村らしい丹念な絵作りを見せています。
 物語はこのあと、同心・加藤剛の追及が間近に迫る中、大店の若旦那・小沢昭一、芝居茶屋の客引き・西村晃をターゲットとして岩下の殺戮が繰り返されてゆくのですが、最後のターゲット、袋物問屋の主人で岩下にとっては実父に当たる岡田英次だけは殺害せずに生きて苦しみを味わわせる道を選びます。
 こうして岩下の復讐劇が完成したところであっさり映画が終わるのだと思ったらさにあらず、牢獄につながれた岩下が淡々とした心境で死刑になる日を待つエピソードにかなりの尺が費やされます。しかも、生き地獄を味わう岡田の妻・山岡久乃が首吊り自殺したと聞いた岩下が急に動揺して、自分が思いもよらぬ相手を傷つけていたことを知った挙げ句、裁縫道具として牢内に持ち込んでいた鋏で自害するまでを描いています。
 ただの復讐譚として終わらせないところに山本周五郎原作の真骨頂があったのでしょうが、だとすれば井手雅人脚本‐野村演出のコンビは、この岩下の中にも流れているに違いない左から受け継いだ淫蕩な血にも言及するくらいの芸を見せてほしかったと思いました。全体的に撮影所の実力が充分に発揮され、水準の高い映画にしておきながら、映画的昂奮は極めて薄く、恐らく先述した「背徳のメス」と同様に4〜5年もすればきれいさっぱり忘れてしまうだろうと思われてしまうのも、あとひと押し人間に対する深い洞察と意外な発見が足りないからなのでしょう。


「白昼堂々」(4月29日 三百人劇場)
1968年/監督:野村芳太郎

【★★★ 廃坑になったボタ山の住民が団結してスリ団を結成する話には、市井の民のエネルギーがあり、感銘】

 ゴールデンウィーク初日、観たい新作も溜まっているのですが、相変わらず三百人劇場での未見の野村芳太郎にも惹かれてしまい、この日もまずは「白昼堂々」を鑑賞しました。
 1968年製作ですから前述の「五辨の椿」からは4年しか経っていませんが、映画界の斜陽はもはや誰にも止められない事態に陥っており、この映画の冒頭で北九州駅という設定のセットで繰り広げられる、スリの生田悦子がコント55号坂上二郎の財布を盗み、坂上が生田を追うところに萩本欽一が絡み、刑事と名乗る藤岡琢也が間に入って事態を収めるというエピソードなども、安いセットとTVタレントのやっつけ仕事による惨めな場面にしかなっておらず、「五辨の椿」との歴然とした差異に愕然とします。
 しかし、かつては石炭掘りで賑わったボタ山が今や廃坑となり、そこで働いていた下層労働者たち(中には「アイゴー!」という科白を呟く朝鮮人と思われる人物もいます)が生き抜くために集団でスリや万引を働こうと団結する話として結実してゆくのを見ると、そこには斜陽の映画界に踏み止まってカツドウ屋魂を発揮しようという気概を比喩的に表現しているように思えて、愛おしいような愛着を覚えずにはいられませんでした。
 かつては名うてのスリと言われた渥美清が、ボタ山跡で生田ら弟子たちにスリや万引を教授する中、以前は渥美と並び称されるスリでありながら、今は足を洗って東京のデパートで逆にスリを捕まえる保安係として就職している藤岡(冒頭で刑事と称していたのは真っ赤な嘘でした)が渥美のもとを訪ね、万引を商売にするなら大都会のデパートを狙うべきだと伝授する展開となります。
 このあと東京に場面を移し、倍賞千恵子扮するやり手のスリが藤岡の目の前で大胆なスリを実践し、渥美らが上京してからは倍賞が契約によって渥美グループの一員になるのですが、はっきり言って倍賞の存在は物語を取り散らからせるだけの厄介な人物にしか見えず、多少は女優も絡ませないと興行価値が上がらないだろうという製作者側の配慮が裏目に出てしまったとすら思え、倍賞が出てくる場面には眠気を催したほどです。
 しかし、渥美‐藤岡にとっては天敵であった警視庁のスリ係刑事・有島一郎が加齢を理由に勇退を決意しているという話を聞きつけた渥美‐藤岡が、有島の家に直接乗り込んで励ましたところ、有島が俄然やる気を取り戻してスリ逮捕に意欲を再燃させ始めた結果、渥美‐藤岡一派vs老刑事有島という構図が鮮明になり、話が締まってくるのでした。時代の流れの中でお払い箱になりかけていたヴェテランが、己が培った技術を頼りに再び仕事に意欲を燃やすという有島の設定は、斜陽の映画界における高齢の技術者たちへの応援歌に重なるような気もしました。
 クライマックス、次第にジリ貧となる現状を打開するため、藤岡が保安係として勤務するデパートを相手に、藤岡自身も味方に引き入れた上で、売り上げ現金の強奪という危険な大勝負に打って出ることになる渥美一派。しかし有島ら刑事たちも厳戒態勢を敷いています。結局、渥美も藤岡も有島によってあえなく御用となってしまうのですが、刑務所の中でも渥美‐藤岡がどっこい生きているというヴァイタリティ溢れる姿を示して映画は終わります。
 完成度という点では「五辨の椿」の足元にも及ばぬ、お手軽に作られたプログラム・ピクチュアにしか過ぎない映画ではありますが、渥美、藤岡、有島といった芸達者が随所をキチンと締め、渥美グループの面々となる大部屋役者たち(名が通っている役者は生田、佐藤蛾次郎、桜京美、江幡高志くらいしかおらず、あとの数人は大部屋でしょう)が市井の民のエネルギーを精一杯体現し、話自体もそうした市井の民への慈愛が貫かれているため、感銘という点では「五辨の椿」よりよほど熱いものが胸に去来したのでした。トータルとして★4つを献上してもいいかと思いましたが、話は取り散らかっており、結局★3つに落ち着きました。


「隠された記憶」(4月29日 ユーロスペース2)
2005年/監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ

【★ 前作より大人しく見えて、過激さも、作者の身勝手も、観る側の不快さも増大。圧倒されるが嫌いな映画】

 ミヒャエル・ハネケの前作「ピアニスト」は2002年2月に観て、観る者の気持ちを逆撫でするような人間のグロテスクな部分を小出しにする作りに反感を覚えながらも、その人物が抱えた絶対的な孤独をも垣間見せてしまう作劇に説得されてしまったことも否定できず、わたくしなどは2002年の外国映画ベストテンの5位に選出すると同時に、主演のイザベル・ユペールには主演女優賞を贈ってしまいました。とはいえ、ハネケについては偽悪的な嫌な奴という印象も植え付けられたのであり、今度の新作にもどこか警戒心を抱きながら接しました。
 ファーストカット、ありふれた中流住宅街の片隅にキャメラが置かれ、鳥のさえずりや車の音など現実音が響く中、一切動かぬカットにタイトルとクレジットがズラズラとタイプ文字で(タイプを打つ音はかぶらず)並べられてゆきます。そしてタイトルが終わっても絵は動こうとせず、キャメラの前を自転車やバイクが時折通り過ぎるのを映し出すだけなのですが、次第に、そのキャメラが向けられているのが、通りの向こうにある1軒の家の玄関なのかも知れないと思い始めます。すると絵の手前から人の声が聞こえてきて、「玄関の前にそれは置いてあった」とか「スーパーのレジ袋に入れられ、ほかに何も入っていなかった」とかいう男女の会話が交わされます。すると突然、映っていた絵がキュルキュルと早回しを始めますので、その段階になって観客は漸く今まで観ていた映像が、誰かによって撮られたヴィデオ映像だったことを諒解します。そこでカットが変わり、ある家の居間で夫と妻がTVモニターを覗いていて、自分の家の玄関を見知らぬ誰かがヴィデオに撮り、それを何のメッセージも添えずに玄関前に置いていたという事情を会話として語るのです。
 誰が何の目的でそのようなヴィデオを撮るのか、夫妻には思い当たる節がないので困惑するばかりなのですが、続いて2度、3度と同じようなヴィデオが届けられます。しかも今度は、人が口から血を滴らせていたり、鶏の首を切り落としてあったりする稚拙な絵も添えられています。その絵を見た時に、夫の顔に一瞬だけ走る緊張を、キャメラは確実に捉えています。そしてある夜、いつものように何の変哲もない道路を映しているヴィデオ映像に一瞬だけ、窓際で口から血を流している黒人少年のカットがインサートされ、それが夫が過去に見た映像のフラッシュバックであることを観客は直感するのです。
 夫のダニエル・オートゥイユは、TVの書評番組で司会を務めており、妻ジュリエット・ビノシュのほうも何やら出版事業に携わっているようですが、一人息子をスイミング・スクールに通わせるなど、典型的なプチブルジョワに過ぎません。しかし、この謎のヴィデオが家に届けられた日から、家庭の中で何かが少しずつ歪み始めるのです。しかも、届けられるヴィデオが自宅の外景だけではなく、夫が生まれた家が映り、さらにはある通りに面したアパルトマンと一室の扉までが映されたものが現われ、夫にはそれを映した張本人に心当たりが生じてくるのですが、それを素直に妻に言い出すことができず、夫が秘密を抱えていることを察知している妻のほうも夫に怪訝な視線を送るようになるといった具合に、夫婦の間にも冷たい空気が流れ始めます。
 夫は単身で謎を解き明かそうと動き始め、それによって、夫が幼い頃、実家に同居していたアルジェリア人を追い出そうと画策したことがあり、恐らくそのことを恨みに思ったそのアルジェリア人が犯人に違いないと確信するに至ります。そして、ヴィデオに映された通りとアパルトマンの一室を訪ねると、案の定、中年になったくだんのアルジェリア人が住んでいます。バカな真似はよせと詰る夫。しかし、アルジェリア人はヴィデオにも稚拙な絵にも心当たりはないと言い放ちます。
 しかしながら、ここで夫がアルジェリア人を詰っている様子すら、据え置かれたヴィデオに収録され、今度は自宅だけでなく、夫が勤務するTV局の編成局長のもとにも送られます。こうなると、一体誰がこのような真似をしているのか、観客にもまったく見当がつかなくなり、わたくしなどは、犯人は劇中の人物ではなく、作者のミヒャエル・ハネケその人なのではないか、という馬鹿げた想像も頭を掠めたほどです。ハネケが、このような悪意を含んだ悪戯をして、この主人公家族が困惑しているのをニヤニヤしながら観察して撮ったのが、この映画なのだとすら思えたのです。
 とはいえ、次第に深まる謎と緊張感に気圧され、画面から眼を離すことはできないのですから、わたくしなどはすっかりハネケの仕掛けた罠に嵌ってしまったク
なのであり、なんだか癪な気分にもなるのでした。
 このあと、スイミングスクールに通う息子がある晩家に帰ってこないという事件が起き、アルジェリア人が誘拐したに違いないと確信した夫は、警察官を連れて彼の家に乗り込みます。しかし息子はこの家に拉致されていたわけではなく、翌朝、何食わぬ顔で有人の家に泊めてもらったと帰宅します。
 そしてそのあと、夫がアルジェリア人に呼び出されて彼の家に行くと、そこで信じ難いことが起こってしまうのです。それが何か、ここで書くことは控えておきますが、観る者の心を逆撫でする不快な出来事であることは間違いないでしょう。どうして彼がそんなことをするのか、その心理的必然性も、成り行き上の説得力も欠いて、ただ過剰に突出した細部として“事件”は起きるのであり、そこに何か理由があるとすれば、それはハネケがそうしたかったから、という作者の“ご都合”が浮上するばかりであり、わたくしたちは茫然と事態の推移を見守りながら、次第に不快さを募らせることになります。
 前作より表面上は大人しくなったかに見える映画ではありますが、観客を突き放す過激さはより強まり、チラシやポスターに謳われる“衝撃のラストカット その真実の瞬間を見逃してはいけない”という言葉も、実際に、TV局を訪れたアルジェリア人の息子を主人公が追い返したあと、主人公が昔、同居アルジェリア人を家から追い出した時の光景(超ロングの位置からフィックスで撮られていますので、細部は確認できませんが)が再現され、さらにエンドクレジットが流れる文字通りの“ラストカット”を眺めていた限りは、そこには何一つ“衝撃”などは感じられなかったがゆえに、配給会社が捏造したこんな惹句に踊らされてなるものかとも思いつつ、その呆気なさにむしろ茫然としたというのが正直なところでした。そして映画を観終わって時間を経た今、確かに緊張感溢れる時間を味わわせてもらったとは思いながらも、ハネケの悪意ある悪戯に翻弄されてしまったという不快な気分が胸をせり上がってくるのを抑えることはできず、こんな映画、好きになってたまるか、という思いばかりが頭を去来します。


4月下旬の映画は、まだあと数本ありますが、今から外出しなければならないので、ここで中断します。

残りはあとでアップします。

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4月下旬号、つづき

「夜よ、こんにちは」(4月29日 ユーロスペース1)
2003年/監督・脚本:マルコ・ベロッキオ

【★★ 史実に基づく極左組織内部の葛藤が主題になっているが、どこか自己弁護めいて見えてしまった。今いち】

 イタリアの国内史には疎いですから(イタリア史研究家のようなレアなケースを除いて、ほとんどの日本人はわたくしと似たり寄ったりでしょうが)、イタリア人なら誰しもが痛ましい事件として記憶しているという、1978年の極左集団“赤い旅団”によるモロ元首相殺害事件について、確かにそんなことが新聞で大きく報じられた気がする、という程度にしか覚えておりません。
 そのようにろくに知りもしない題材の映画をわざわざ観に行ったのは、マルコ・ベロッキオという監督の名前に惹かれたからにほかなりません。ベルナルド・ベルトルッチと並んで、“ポスト・ネオレアリズモ”のイタリア映画界を代表する名前であったベロッキオの映画は、5年前のGWに朝日新聞主催の“イタリア映画祭”で「乳母」を、4年前にフィルムセンターで“イタリア映画大回顧”上映が行われた時に監督デビュー作の「ポケットの中の握り拳」を、と2本だけを観たに過ぎず、その2本についても理解できたなどと言うことはできなかったのですが、ヴェネツィアを始め、カンヌやベルリンなど国際映画祭の受賞常連者であるベロッキオだけに、何か人を惹きつけるものがあるのだろうと期待してしまったわけです。
 “赤い旅団”のメンバーである若い男女が夫婦のふりをして、あるアパートの一室を借りようと不動産屋の説明を受けている場面から映画は始まります。夫婦というのは勿論カムフラージュで、旅団のメンバーは、キリスト教民主党の党首であり元首相のアルド・モロを誘拐・拉致した上で、このアパートに監禁するのです。
 そして監禁メンバーの中で唯一の女性である主人公キアラは、周囲の社会が旅団に対して非難を強めるのに対して、旅団中央の指令を受ける監禁グループのリーダーや他のメンバーがモロに対して強硬な姿勢を崩さないことに疑問を持つようになり、モロをこっそり解放することすら夢想するようになります。
 監督ベロッキオ本人の政治的信条など知る由もありませんが、「ポケットの中の握り拳」「乳母」の2本を観る限りは、元共産党員だったベルトルッチと同様、階級闘争の正当性を信じ、ブルジョワ社会の腐敗に敏感な男だと思われましたので、恐らく1978年のモロ誘拐事件発生当時は、旅団に対するシンパシーを抱いていたクチではなかろうかと想像されます。ベロッキオの無邪気なまでの共産主義への傾倒は、この映画でも、主人公キアラが学友と公園を散歩している時に目撃する、共産党員家族の結婚式場面の大らかな描写を見ても理解できるような気がします。年老いた親戚が朗々と歌う労働歌に家族全員が大らかに唱和する姿は、イタリアに根強く残る古典的共産主義へのノスタルジアが漂っていたからです。
 しかし、旅団のメンバーはそうした大らかな共産主義とも違った、独自の過激な武闘路線をひた走るのであり、キアラの希求も虚しく、旅団中央はモロの死刑を宣告し、処刑を命じてくるのです。
 この映画における主人公キアラの苦悶は、そのまま事件後のベロッキオが抱いた思いを反映したものに思われ、何も殺さなくても政府に要求を突きつけて一定の回答を得るなどやり方があったのではないか、という疑問をそのまま無邪気に暴露しているようにも思えました。そしてそうしたキアラの苦悶が、78年当時に旅団を精神的に支持していたであろうベロッキオの自己弁護にも思えてきたのであり、なんだか長い言い訳を聞かされているような居心地の悪さを覚えることにもなり、次第に退屈して睡魔を呼び寄せることにもなったのでした。
 キアラを演じている女優マヤ・サンサのキラキラした眼の魅力に★1つオマケしておきます。


「ヨコハマメリー」(4月30日 テアトル新宿/モーニングショー)
2005年/監督・構成:中村高寛

【★★★★★ 元米兵相手の娼婦を通じて、戦後日本を支えた世代に讃歌を奏でる。実によく取材し、作りも巧い】

 アルゴピクチャーズに勤める友人が宣伝に関与している映画であり、彼を応援する意味でもチケットを事前に入手していた映画ですから、朝9時10分上映開始という早いスタートのモーニングショーでしたが、劇場に駆けつけました。ところが、こうした早いスタートでも客足はなかなかのもので、この日も8割は入っていたと思います。新聞雑誌で褒められているせいもありましょうが、口コミでの評判もいいに違いなく、最近の観客は実に情報を精査して劇場に足を運ぶものだと感心した次第。
 映画はまず、どこかのホールで“ハマのメリーさん”と呼ばれる白塗りの老婆が映ったスライドを映写している映像に、街の人々が老婆の様子や消息について語る言葉を被せてゆきます。そして場面が変わると、ベイブリッジが見える横浜の埠頭を映した同一ポジション・キャメラが、1日の時の流れを追う映像に、フリージャズ風のサキソフォンの旋律を響かせながら、かつてパンパンと呼ばれた外人相手の娼婦であったメリーさんが、1995年を境に横浜界隈から姿を消してしまったことを字幕で説明してゆきます。この映画は、メリーさんという名の元娼婦の消息を追いかけるものであることを、冒頭ではっきりと示すのです。
 このあと映画がクローズアップにするのは、メリーさんと親交があったゲイのシャンソン歌手・永登元次郎さんです。永登さんが唇に紅を引き、カツラを被り、自ら経営するシャンソン酒場“シャノアール”に出向くための女装に身を包む様子を追うキャメラは、すでにこの永登さんにシンパシーを感じています。わたくしたち観客も、この永登さんという人物に強い興味を抱いてしまうのですが、それはなぜなら、映画の冒頭に“スタッフ一同”という名義で掲げられた字幕により、永登さんという人物が既にこの世にいらっしゃらないことを知っているからです。
 永登さんはこのあとも、メリーさんという女性について観客に説明する水先案内人として、そして自ら戦後を、時に男娼として、時に歌手として生き抜いてきて、今や癌と直面する闘病者として、映画全体を引っ張る存在となってゆきます。彼が2回にわたって歌う「マイ・ウェイ」は、メリーさんのことを歌ったようにも、永登さん本人のことを歌ったようにも聞こえるのですが、実は戦後を必死に生き抜いてきた人々全てに捧げた応援歌にも思えてくるのであり、それこそが映画全体の主題だったのだということにも気づかせてくれるのです。
 白塗りの顔、黒く縁取った眼、真っ白かピンクの派手な衣装で伊勢崎町周辺を毎晩ブラついていたメリーさん。寝るところがなく、ビルの廊下に椅子を置いてそこで寝ているメリーさん。大きな荷物をゴロゴロと引きながら、横浜松坂屋の周辺を歩くメリーさん。今は“お化け”などと揶揄されていながらも、かつては米軍兵の中でも将校しか相手にしなかったという誇り高いメリーさん。そうしたプライドの高さゆえに“皇后陛下”と呼ばれていたメリーさん。外国製の香水をジーッと腰を屈めて眺めていたメリーさん。横浜埠頭で去りゆく船に乗る将校との別れを惜しみ、熱烈な口づけを交わしていたメリーさん。根岸屋という名の大衆酒場に毎晩のように顔を出していたメリーさん。永登さんのコンサートを聴きにきて、舞台に贈り物を届けにきたメリーさん。横浜で行われる外国の公演で、彼女が来ていれば大当たり確実だと言われるほどの鑑賞眼を持っていたメリーさん。
 映画は、そうしたメリーさんに関する情報を、写真家・森日出夫氏がかつて撮った白黒写真や、多くの人々の証言などによって描き出してゆくと同時に、それはそのまま、横浜という街の戦後史を語る社会論にもなっています。
 実に丹念に取材された細部が、映画に数多くの表情を与え、そうした細部が、実に巧みな順番で組み合わされ、観客の脳裏にも横浜という街が持っていたムードやメリーさんという女性が抱えてきた人生の重み、さらには、今なお癌と闘っている永登さんの人生の重みをはっきりと像として焼き付けてみせるのであり、その巧みな話術に酔わされます。
 ラストには、わたくしたちが観たかったものがキチンと用意され、映画を観終わった時の充実感も与えてくれます。単館の上映ながら、確実にヒットを記録しているだけあって、素晴らしい出来の映画だと思います。さらに多くの観客がこの映画の魅力に触れてくれることを期待したいと思います。


「クライング・フィスト」(4月30日 新宿武蔵野館2)
2005年/監督:リュ・スンワン

【★★★★ 戦う双方に感情移入してしまうボクシング映画。リング内で長回しした場面の迫力に圧倒される】

 前記「ヨコハマメリー」を観たあと、新宿内を移動して、さらに2本を鑑賞。まずは、観たかったのに観逃してしまった「春が来れば」に続くチェ・ミンシクの主演作である「クライング・フィスト」。
 冒頭、ソウルの繁華街の中心部にミンシク氏がバッグ一つを手にやってきてヘッドギアをつけると、ハンディマイクを掴み自分が以前アジア大会で銀メダルを獲ったボクサーであることを明かした上で“殴られ屋”としての口上を叫び始める長いワンカット。
 メインタイトルを挟むと今度は、バイクに乗ったドレッドヘアの若者リュ・スンボムが、パトカーに追い掛けられ、一度は沼地でバイクを転倒させるものの難なく逃げおおせる場面です。スピールバーグが「プライベート・ライアン」で使って以来世界中で流行するようになったコマ抜き風の編集(1秒24コマをまるまるは使わず、途中のコマを抜いた上で、抜かれた前後のコマをディジタルで引き伸ばすような編集法)や原色を落としたようなルックの採用は、わたくしの趣味に合うものではありませんが、ドキュメンタリー風の迫力を生むことは事実です。
 スンボム青年はこのあと弟分とともに近くの若者からカツアゲを実行して警察に捕まってしまい、父親に引き取られることになるのですが、殴って痛め付けた若者の親からは示談金を要求されます。しかし示談金を払うなど思いもしないスンボム青年は高利貸から金を奪おうとして相手を殺してしまい、今度は刑務所行きを余儀なくされます。
 まるで世界中を敵に回したように常に怒りを体中から発散し、刑務所の中でも先輩風を吹かせる男の耳を噛みちぎるという事件を引き起こすスンボム青年ですが、彼の父親や祖母は、彼をそのような性格に育ててしまったのは自分の貧しさゆえだと思っているのか、非難がましいことは口にせず、スンボム青年を寛大に見守るばかりです。
 一方ミンシク氏の描写は、物語の時間をやや遡らせ、経営していた工場を火事で焼失し、妻と子供に逃げられ、怪しげな職業を持つ後輩の手配でビル屋上のボロ小屋をねぐらとして提供してもらいつつ、結局は自分の拳一つを資本にして稼ぐしか道はないと思い定め、路上での“殴られ屋”を始めるに至った経緯が語られるのです。
 ミンシク氏の妻のほうは完全に彼のことを見放しているのですが、小学生の息子は父親を慕っており、学校で父親が先生の代わりに授業をする父親デーの時には、殴られ屋の仕事場にまでやって来て、ミンシク氏に来てほしいと懇願し、観客の涙を導いてみせます。
 映画はこうして、ミンシク氏とスンボム青年をほぼ同格の比重で交互に描きながら、青年が刑務所内でボクシングの魅力に目覚め、常に自分の粗暴さを許容してくれた父親の死を体験した(工事現場で働く父の死を即物的に描くワンショットの衝撃!)のちはさらにボクシングによって自己を研鑽したいと希求するようになる様子を描き、ミンシク氏のほうにはボクサーの宿命としてのパンチドランカー症状が脳に認められ始め、この二人が共通して乾坤一擲の大勝負を賭ける対象として来る新人王決定戦が浮上する様子を描き出します。
 均等に描き分けられてきたミンシク氏とスンボム青年の描写を通して、わたくしたち観客は二人がともに貧しさと向き合わざるを得ない現実を知っているだけに、二人に対して均等に感情移入してしまっています。従って、新人王決定戦の当日が訪れ、二人が順当に勝ち上がって決勝戦で対決するというわかりきった展開になった時も、二人の双方に思い入れてしまい、二人とも負けてほしくないと心から願わざるを得なくなるのです。映画史にボクシングものというジャンルの作品は数多くありますが、敵味方に分かれた対戦者の双方に肩入れしてしまう映画は珍しいです。
 映画の前半では40歳に見合ったたるんだ腹を曝していたミンシク氏は試合当日には見事に引き締まった肉体を披露していますし、スンボム青年も相当に鍛え上げたことが窺えるフットワークを見せます。ボクシング映画の生命線は試合場面のリアリティ如何にかかっているのですが、この二人はリングの中でマジのガチンコ対決をしてみせており、観る者の昂奮を募らせます。特に、手持ちキャメラがリング内に入ってゴングから次のゴングまで1ラウンドをまるまるノーカットで戦い合ってみせる第2ラウンドの攻防は、ボクシング映画史上に残る輝きに達しています。
 頼むから両方とも負けないでくれ、と願いながら試合は最終第6ラウンドも終え、わたくしたちの願いも虚しく、二人は勝者と敗者に厳然と竣別されてしまいます。しかし、双方がともに戦い終えた満足感を顔いっぱいに表しているのを見ると、試合の勝ち負けなどどうでもいいことに思え、いい試合を、いい映画を見せてくれた二人に感謝の声をかけてやりたくなったのでした。二人ともよく戦った!


「ブロークン・フラワーズ」(4月30日 新宿武蔵野館1)
2005年/監督・脚本:ジム・ジャームッシュ

【★ チープなロックに乗せたオフビート・コメディはカウリスマキのものとなった。ジャームッシュの衰え顕著】

 前記「クライング・フィスト」に続いて同じビルにある小屋でもう1本、ジム・ジャームッシュの新作「ブロークン・フラワーズ」を鑑賞。ジャームッシュの映画を観るのは、オムニバス映画「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」の中の1篇、クロエ・セヴィニーがほぼ一人芝居をする「女優のブレイクタイム」以来のことですが、長編映画となると、ヴィデオで観た「デッドマン」以来となります。
 冒頭、チープなロック音楽がバックに流れる中、何者かによって郵便ポストに投函されたピンク色の封筒の手紙が、人間の手を介在することなくベルトコンベアに乗って仕分けされ、いくつかの工程を経たのちに配達車に乗せられるまでが描かれるのですが、どこかで観たことがある場面だという既視感がつきまとっていました。そしてすぐに思い出しました。アキ・カウリスマキの傑作「マッチ工場の少女」の冒頭、人間の手が描かれずにベルトコンベアの流れ作業によってマッチが作られる工程を描いた場面とそっくりなのです。
 ピンク色の手紙は配達夫を経て、今まさに同棲相手のジュリー・デルピーが愛想を尽かして家を出ていこうとしているのに、当人はブスッと無表情でTV画面を眺めて「ドン・ファン」(1934年アレクサンダー・コルダ監督、ダグラス・フェアバンクス、ベニタ・ヒューム主演)を観ているビル・マーレイの家に届けられます。
 手紙には、差出人の名前も書かれず、消印も確認できないのですが、マーレイには実は19歳になる息子がいると書かれています。ここでお節介な隣人ジェフリー・ライトが登場し、手紙の差出人を確認し、自分の息子の存在を確かめるべきだと強く説得されたマーレイは、あまり気乗りしないまま、ライトが立てた段取りに従って、ジュリアン・デュヴィヴィエ「舞踏会の手帖」におけるマリー・ベルと同様、昔付き合った恋人のもとを歴訪することになるのです。
 チープなロック、無表情の主人公、オフビートなコメディという、この映画を構成する主要素の全ては、確かにかつてはジャームッシュの得意とする世界であることを諒解しながらも、2006年の今となっては、すっかりお株はフィンランドの映画狂アキ・カウリスマキに奪われているのであり、冒頭の無人の手紙仕分け工場が「マッチ工場の少女」を連想させてしまったように、映画全体がカウリスマキの剽窃に思えてしまったのです。
 一度そういう考えが浮かんでしまうと、マーレイのいつになく無愛想な表情は、マッティ・ペロンパーやマルック・ペルトラの物真似にしか見えなくなり、訪れた元恋人たちとの間で演じられる齟齬の数々も、観ていて一切笑うことのできぬシラケ芝居に思え、映画が終わるまでまったく気持ちが乗ってこないのでした。実に不幸な映画体験と言うべきでしょう。
侘助兄弟、

「200×年映画の旅」に初めてコメントいたします。

「ヨコハマメリー」(2005年/監督・構成:中村高寛) は、私の店にご来店いただくお客さまのあいだでも、ずいぶんと話題になっていました。しかしまたしても、いまだ新潟では観る機会にめぐまれず、限りなく諦めにちかい悔しさをぎりぎりと噛みしめております。
兄弟のご評価も★★★★★とのこと、機会をみつけて必ず観ることにいたします。
Qfwfq兄弟さま、

書き込みありがとうございます。

ヨコハマメリー、兄弟に気に入っていただけるかどうかわかりませんが、機会がありましたらぜひご覧いただき、感想を聞かせてください。
「ヨコハマメリー」観ました。
メリーさんを通して当時の時代を垣間見、興味深かったです。
横浜は観光地しか知りませんでしたので、戦後の混乱期の風景には驚きでした。
最初は好奇心でみてる感じだったのが、気がついたらメリーさんの魅力にひきこまれていました。まさかラストにあんな驚きが待ってるとは思わなかったです。
でもほっとしました。
パンダさん、

ご覧になったのですね。

ラストの透明感のある笑顔、ほっとしましたね。

しかしわたくしたちは冒頭の字幕で永登さんの身に起きたことを既に知らされていたわけですから、やりきれない哀しみに胸を打たれたラストでもありました。

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