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200×年映画の旅コミュの3月上旬号

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2006年3月上旬に観た映画。

「路上の霊魂」(3月4日 新文芸坐)
1921年/監督:村田実

【★★★ グリフィス「イントレランス」の影響下に作られた話だが、多重映しなど映像の冒険は興味深い】

 日本映画史上重要な位置を占める映画ですが、これまで部分的に観たことはあるものの、全篇を観るのはこれが初めてでした。松竹キネマの第1回製作映画が、まずまずのプリント状態で残っていることを、まずは慶びたいところです。
 これを上映した池袋・新文芸坐では、この日から“日本映画監督協会創立70周年記念 映画監督が愛した監督”と銘打った特集が始まったのですが、その第1本目に選ばれたプログラムが、この「路上の霊魂」でした。
 冒頭、ある山中で樹木が伐採されているところをドキュメンタリータッチで描いた映像が出てくるのですが、てっきり室内撮影の演劇的な展開を想像していたわたくしは、木々に太陽光線が降り注ぐ中で、樵夫たちが斧を振り下ろして木を切り落とす光景が、新鮮に思えました。
 映画は、樵夫の中でもひときわ若い少年・太郎に焦点を当てながら、彼が山の持ち主らしき老人(演じているのは小山内薫本人です)から実子のような信頼と愛情を得ている様子を描いてゆきます。この少年・太郎に扮しているのが、この映画の監督でもある村田実なのですが、村田という人はもっと年長だろうとイメージしていただけに、ちょっと驚きました。童顔の美少年という風情なのです。年の頃も、せいぜい20代半ば。映画は、草創期から若い人々によって支えられ、作られた媒体だったのです。
 と同時に、その村田扮する若者が、小山内が演じる老人によって庇護されているという劇中の役柄が、現実の映画制作における二人の役割(指導者と監督)を反映したものにも思え、興味深く画面を見詰めました。
 さて物語のほうは、樵夫の太郎少年(村田)と、彼のことを憎からず想う別荘のブルジョワ令嬢(英百合子)を登場させ、その二人のラヴストーリーを軸に展開すると思うと、さにあらず。
 1・令嬢・英がお転婆ぶりを発揮して、家の執事を困らせながら、クリスマスパーティーを開く話。
 2・小山内扮する老人のもとを数年前に出奔したヴァイオリニストの息子(東郷是也)が、その後妻子をもうけたものの、今は落ちぶれて、憔悴した姿で妻子とともに故郷に戻ってくるというお話。
 3・息子・東郷のことを心配しつつも、今は息子の元許婚の世話を受けている小山内の寂しい実生活の話(そうした寂しさゆえ、小山内は樵夫の少年・村田に対して実子のような信頼と愛情を注ぐことになるのです)。
 4・東郷一家が故郷に向かう途中で出逢った心優しい出獄者二人連れが、食うに困って別荘令嬢(英)の所有する山小屋を襲おうとする話。
 ……という4つの物語を並行させながら、映画が展開してゆくのです。4つの物語の並置といえば、誰しもが想像できるように、これは日本で1919年に公開されたD.W.グリフィス「イントレランス」の影響を強く受けた映画であり、描かれる主題も「イントレランス」のタイトルに明示されている“不寛容”を巡って展開することになるのです。
 “不寛容”を地で行くのは、久しぶりに帰ってきた息子・東郷を決して許そうとしない父・小山内です。息子の娘(小山内にとっての孫娘)は、雪山を越える厳しい旅の過程で高熱に襲われているというのに、小山内は、我が侭を通して家を捨てた息子に対して、不寛容を貫くばかりなのです。
 父の不寛容を蒙る東郷とは対照的に、寛容の光を浴びることになるのが、出獄者の二人組です。彼らは、一度は山小屋を襲おうとして、その小屋を守る老爺によって発見され、折檻を受けるのですが、これ以上折檻を続けると二人組の反撃が訪れるのではないかと思われた寸前、老爺の寛容さによって許され、山小屋の仕事を得るに至るのです。
 この東郷一家と、出獄者二人組が、ともにひもじい思いをして山越えしようとしているところで出逢い、二人組はなけなしのパンを東郷一家の飢えた娘に分け与えてやり、その後一家は左へ、二人組は右へと方向を別にしたことが、彼らのその後の運命を決定付けることになるという皮肉。
 物語は結局、東郷の娘の凍死、東郷自身の凍死といった事態を招き寄せ、そうした事態を知った英や村田が、寛容や施しの重要性を認識するに至る、という説教めいたエンディングを導き出します。
 「イントレランス」から主題も方法論も“パクった”映画ですから、「なあんだ、だらしない」と思うことも可能でしょうが、映画史とはパクリの歴史でもあったのですから、ここは映画の主題に倣って、小山内や脚本の牛原によるパクリには寛容な態度で接することにしましょう。
 むしろわたくしとしては、冒頭の樹木伐採場面のドキュメンタリータッチの導入、東郷がヴァイオリニストとして絶頂だった時代の自分を幻視する場面での多重映しの使用、ロングとアップの併用による画面構成の多彩さなど、無声映画初期の段階における様々な映像的冒険の実践ぶりに、深く心を動かされました。
 また、役者たちの芝居やその若さにも眼を奪われ、わたくしが観た限りで最も若かった「妻よ薔薇のやうに」ですら中年の域に入っていた英百合子が、ここではお転婆なブルジョワ令嬢を演じていることに驚きましたし、東郷是也、のちに鈴木伝明としてトップスターの地位に上り詰めた役者の若い姿も興味深かったです。
 ところで、この日の上映に際しては、斎藤裕子さんという人が活弁を務め、フィルムセンターでも活躍する柳下美恵さんがキーボードによる伴奏をつけていたのですが、斎藤さんの過剰にならぬ程度の説明が作品理解を大いに助けてくれていましたし、柳下さんの饒舌すぎず、かといって盛り上げるべきところは盛り上げる見事な演奏には、感服した次第です。


「ホテル・ルワンダ」(3月4日 新宿武蔵野館2)
2004年/監督:テリー・ジョージ

【★★★ ベタな映画だが、史実の重みの前では技巧など取るに足らぬ。制作・上映されたことに意義がある】

 ルワンダという国名は遠く聞き覚えがあるような気がするものの、それがアフリカ大陸のどこに位置するのか、そこで何が起きたのか、ろくな知識を持ち合わせていませんでした。
 この映画は予告編を何度も観て、ルワンダという国で“シンドラー”のように多くの人々の救命に力を尽くしたホテルマンが主人公の物語らしいことは頭に入れていましたし、なかなか立派な映画なのだろうという思いもあったのですが、是非とも観なければ、というほどの考えがあったわけではありませんでした。
 しかし、口コミで連日満員の盛況を続けているらしいことを知り(どうやら井筒和幸がTV番組で絶賛したことも、動員に寄与しているそうです)、本来は日本での公開が予定されていなかったのに、一部の篤志家による熱心な働きかけの結果一般公開が決まったという話を知り、観たいと思うようになりました。
 そしてこの映画を観ることによって、前世紀末(僅か10年ほど前のことに過ぎません)、ルワンダで多数派民族による少数派民族の大量虐殺事件が起きたこと、その民族間の差異も、最初に欧州から入植したベルギー人によって恣意的に分類されたものであること(相対的に鼻が高いとか、背が高い人々を“ツチ族”と名づけて優遇する一方、そうではない人々を“フツ族”と名づけた、ということが、映画では、この国を訪れた外国人ジャーナリストたちの酒席の話題として、さりげなく語られます)、この非人道的虐殺に対して、国連軍も大国も介入を避け、民族対立被害の拡大を傍観していたことなど、わたくしが知らなかった歴史的事実を教えられたのです。
 映画は、少数民族の妻を持った多数民族のホテルマンが、多数派の民兵によって妻や子供の命を狙われる事態に直面し、必死に知略を傾けて家族を守ろうとする過程で、妻の親類や友人、近所の人々など、結果的には1200人もの人々をホテルに匿い、その命を救うことに貢献した事実を描いてゆきます。
 映像技術的には特筆すべき点は認められず、ストレートだけを単調に投げ続ける棒球投手のような作りであり、いわばベタな映画に見えるのですが、描かれた史実の重さの前では、技術的なことなどどうでもよく思え、単調な棒球投手だからといってこの映画に冷笑的な視線を向けるような、はしたない真似は己に禁じなければならない、という厳粛な気持ちにさせられるのでした。
 映画の役割には、人々が知らないことを示して啓蒙するということが確かにあり、この映画の場合も、そういう歴史的事実があったことを知らしめるべく制作され、それを上映しようとする善意の人々がいる、ということだけで、充分に存在意義があるのですから、わたくしたち観客は、未知なる史実に眼を見開かせてくれたことに感謝を捧げなければならないでしょう。


「美しき野獣」(3月5日 東劇)
2005年/監督:キム・ソンス

【★★ 作者の意欲がつんのめるばかりで、話と演出に説得力を欠く。長たらしくて退屈。TV向きの題材か】

 この映画の前売り券は、前々から買ってあったのですが、どうせ公開当初は韓流ドラマ・ファンの女性たちで混んでいるだろうと敬遠し、その後、既に観た友人たちの評価が低いことにまた足が遠のき、ズルズルと鑑賞を先延ばししていました。しかし、情報誌「ぴあ」を見ると次の金曜で上映が終了しそうなので、もう一つ気乗りしなかったものの、前売り券を無駄にしたくないという理由で、劇場に足を運びました。すると、わたくしのような駆け込み鑑賞の人なのか、それともリピーターなのか、劇場は結構な入りで、クォン・サンウという役者の人気ぶりに改めて驚かされました。
 冒頭、ソウル市内の公道でバイクを暴走させて逃げる犯罪者を、黒いセダンで追うサンウくんを描く派手なカーチェイス。日本ではまだまだ道路使用許可の基準が厳しいので、こういうカーチェイスはなかなか撮影できませんが(「キル・ビルvol.1」でお台場を舞台にカーチェイスが繰り広げられていましたが、あれはタランティーノが警察に無断で強行撮影したものだったそうです)、韓国は国家を挙げて映画を支援する態勢が整えられているため、こうした公道での撮影が可能です。この映画におけるカーチェイス自体については、カットを細かく割ってアラを隠す撮影法で、まあ普通の出来に過ぎませんが、こういう公道での撮影を可能にする韓国映画界に対しては、羨望を抱かざるを得ません。
 サンウが暴走バイク男を荒々しいやり方で逮捕する場面で、刑事としてのサンウが直情型の激しい性格の持ち主であることを表象したあと、映画は何人かの登場人物を次々と点描してゆきます。自殺と思われていたヤクザの親分の頭蓋骨から他殺の証拠を掴み、ヤクザ組織の内部抗争を嗅ぎ出して、組織壊滅を狙う若手検事ユ・ジテ。刑務所から出てきたサンウの弟で、ヤクザ組織の下っ端をしているイ・ジュンムン。そのジュンムンと同日に刑務所から出てきたヤクザの大親分ソン・ビョンホ。病気で入院しているサンウの母イ・ジュシルと、彼女を看病している女性オム・ジウォン。
 こうして点描されるエピソードが、どうも説明不足で、例えば、ヤクザの下っ端であるサンウの弟と大親分がなぜ刑務所に入っていたのか、そこに相関関係があるのかどうかなど、一向に説明してくれませんし、刑事の弟がヤクザ組織に入っていることについても、納得できる説明はなく、いくつかの疑問を抱いている観客を置き去りにして、映画は勝手にどんどん進んでしまいます。
 別に懇切丁寧に説明しない限りは物語を前に進めてはならぬ、などと主張するつもりはないのですが、この映画の場合は、作者側が詰め込みたいと思っている話があり過ぎて、それが整理されないまま映画が進行しているがゆえに、説明不足
からくる不満が募ってしまうのです。映画をラストまで観れば、詰め込みたかった内容が察せられるようになるのですが、はっきり言えば125分に収めるには多すぎると思われ、10数回で完結するTVドラマ向けの題材なのではないかと思いました。
 例えば、サンウが短気でキレ易い刑事だという設定や、弟がヤクザ組織に殺されたことにサンウが逆上して、組織への反抗を企てようとしたことを、ともに捜査に当たることになったユ・ジテ検事に打ち明けなかったという設定が、映画の後半になって大きくクローズアップされ、その2つの設定を逆手に取ったヤクザの大親分が、サンウとジテのコンビを窮地に追い込むことになってゆくのですが、これなど、途中経過の説明不足もあって、急に設定がクローズアップされたかに思えるような回りくどい表現になっているため、結局はリアリティを欠いています。これがもし10数回のTVドラマであれば、逐一設定を観客に思い出させる描写を繰り返すことによって、そうした回りくどさを回避することができたように思えるのです。
 サンウくんは、ワイルドな髪型と無精髭を蓄えた顔で、新しい自分の魅力を出そうと必死になっていることは窺えます。ユ・ジテにしても、冷静沈着な検事という、割りと本人に似合った設定をあてがわれ、伸び伸びと演技しているように見えます。しかし結局は、役者も含む作り手側の思いばかりが先走ってしまい、説得力を欠いた展開になっていることは否めず、125分が途轍もなく長く感じてしまったのでした。女優オム・ジウォンの見せ場が少ないことも不満です。


「力道山」(3月5日 銀座テアトルシネマ)
2004年/監督・脚本:ソン・ヘソン

【★★★★ ガキの頃のヒーロー力道山への思いがあるものの、映画として力があるし、長さを感じさせない】

 力道山はガキの頃のヒーローでした。冬になり母親からももひきを履けと強要された時も、らくだ色を拒否して黒を要求したものですし、ボール紙を切り抜いてチャンピオンベルトを作って腹に巻き、両手を腰にあてがって悦に入ったものです。
 彼の本名が百田という珍しい名字だと知った時、友人から彼が実は朝鮮半島の出身だと聞かされました。わたくしの父などは朝鮮人だと知って興醒めした様子でしたが、わたくしは別に何とも思いませんでした。むしろ、彼が朝鮮人だったゆえに二所ノ関部屋時代に周囲の力士から激しい差別を受けたことを知り、それが彼の強さを生んだのだと納得したほどです。
 力道山の半生を韓国の名優ソル・ギョングが演じると聞いた時は、どちらかと言えば痩せ型のギョング氏には無理なのではないかと一瞬は思いましたが、どんな役でも自然極まりなくなりきってしまう氏のことですから、デ・ニーロのように肉体を改造してでも演じきってしまうに違いないと思い直しました。
 そしてじじつ、ギョング氏はこの150分に及ぶ映画に出ずっぱりで、戦後日本人のヒーローとして輝いた人物になりきってみせたのであり、彼の喋る日本語がややたどたどしく聞こえるきらいはあるものの、それが些細な難点に過ぎないと思わせるだけの、圧倒的な存在感を誇示していたのでした。
 冒頭のアヴァンタイトルで、雪が降りしきる田舎道を走る少年の後ろ姿が忘れ難い印象を残します。暗い雲が少年の上に覆いかぶさるように重く画面を圧し、短い場面なのに強い印象を残すほど、絵に力があるのですが、キャメラマンは「ペパーミント・キャンディー」の名手キム・ヒョングですから、なるほど頷けます。
 このあと物語は、戦時中の日本で二所ノ関部屋に入門している力道山が、先輩たちからイジメに遭いながらも、後に妻となる芸者・綾と出逢い、相部屋の横綱に対する後援会長の果たす役割の重さを見て、会長・藤竜也の眼を自分に向けようと虎視眈眈と仕向けてゆきます。
 そして、まんまと綾と会長の信頼を勝ち得るわけですが、半島生まれの力道山を相撲協会は大関に上げようとはせず、荒れた力道山はあっさり力士を廃業し、ふとしたきっかけでプロレスの存在に出会うという展開となります。
 このあたりの展開はいかにもご都合主義の匂いがして、力道山の実人生の歩みをどこまで正確に再現しているのか怪しく思えるのですが、ギョング氏の力演を真ん中に据え、キム・ヒョングの作る重量感ある絵でグイグイと押してゆく直球演出に気押されてしまい、映画にケチをつけようなどと考える余裕を与えてくれません。
 力道山のアメリカ修行の光景は、現地の新聞記事で誤魔化すという効率的な作りを見せながら、いよいよレスラー力道山の日本登場となるわけですが、柔道家・木村政彦(劇中では井村)とタッグを組んで臨んだシャープ兄弟とのお披露目試合の場面は、スタントマンを起用しカットを必要以上に細かく割って誤魔化すという常識的な道を採らず、ギョング氏に実際に跳び蹴りや空手チョップを披露させ、キャメラはリングサイドにフィックス(試合の観客と同じ視点)して試合展開を追うという方法を貫くことによって、試合の迫力を高めることに成功しています。
 この結果、敗戦後の打ちひしがれた日本人に、アメリカ人をやっつけるという疑似体験を用意してやることによって、力道山が戦後初のヒーローとして輝き始める瞬間を、映画は見事に再現してみせたのでした。
 わたくし自身は、このシャープ兄弟戦のことは伝聞でしか知りませんが、この映画を観ながら試合自体を観た気分になり、試合に負けても勝負には勝ったと万歳を叫ぶ観客たちと同様、胸に熱いものがこみ上げるのを感じました。
 このあと、人気の頂点を極めた力道山が、次第に時代の流れと齟齬を来すに至る展開については、日本人観客からすると、長嶋茂雄の登場など“戦後は終わった”などと呼ばれた時代背景の分析をもう少し深めてほしかった気もするのですが、日本の昭和史研究を韓国映画人に求めるのはお門違いと言うべきでしょうし、あくまでも祖国を持ち得なかった孤独なヒーローの物語に徹したことが、この映画のストレートな力の源泉だったのだろうと思います。
 それにしても、ギョング氏の芝居と存在感の圧倒的なこと!
 周囲を日本語だらけの科白と日本人役者に囲まれ、異邦人としての己と向き合うことを余儀なくされたギョング氏の状況は、劇中の力道山そのままの姿であり、ギョング氏がいて初めてこの映画にリアリティが付与されたことに思い当たります。
 生まれは朝鮮半島であろうとも、紛れもなく戦後日本から生まれた最初のヒーローだった力道山の伝記映画が、韓国人によって作られてしまったことには、寂しさと無念の思いもありますが、日本人キャストによってこれを超える映画が出来るかどうか今のところ疑問に思わざるを得ず、ここは素直にシャッポを脱いでおきましょう。


「シリアナ」(3月7日 シネマメディアージュ・シアター5)
2005年/監督・脚本:スティーヴン・ギャガン

【★★★★ 前半はエピソードを繋ぐ糸が見えず苛立つが、ラストは背筋が寒くなる政治サスペンス。悪くない】

 冒頭、霧なのか砂埃なのか、画面が白くボヤけた中で、中東独特の顔立ちの男たちが1台のバスに殺到している異様な光景。一体彼らは何のためにこんな砂漠の中でバスに乗り込もうとしているのか、そもそも何故に彼らは一様に無表情な、それでいて不気味な視線でキャメラを睨み返しているのか。映画は、そうした観客の疑問を置き去りにしたまま、どんどん前に進んでしまいますが、不気味な違和感を観客の心に植え付けます。
 この映画では、物語の舞台こそスイスのジュネーヴや合衆国の首都ワシントンなどに散らばっているものの、常に話を牽引してゆく中心は、ペルシャ湾岸にあり世界有数の産油国である架空の小国に置かれています。
 ペルシャ湾岸にある国といえば、すぐに思い出すのはイランであり、わたくしたち映画ファンは、アッバス・キアロスタミやモフセン・マフマルバフ、アボルファズル・ジャリリといった監督たちの映画によって、イランを近しい存在に感じている面がありますが、合衆国では、核開発疑惑を騒ぎ立てる某大統領を筆頭にこの国を胡散臭いと睨んでいるようです。
 わたくしなどは、級友から借りたノートを返すために長いクネクネ道を暗くなるまで徘徊し「友だちのうちはどこ?」と捜し回るような純朴な人たちに核開発ができるはずがない。またぞろジョージ某が過剰な自衛意識を先鋭化させ、フセインの時と同じように、ないものをあると決め付けているに違いない、などと思ってしまうのですが、考えてみればイラン製の映画では産油問題などついぞ描かれた試しがないのですから、もしかしたら呑気な映画ファンには知り得ない何やらきな臭い闇が、この国の周囲に立ちこめているのかも知れません。
 少なくともこの映画を観ると、いつかは人類が使い尽くす日がやってくる有限の資源たる石油や天然ガスが生み出す巨額の富を巡って、世界中の闇と光が集中しているらしいことが、リアリティをもって感じ取れるのであり、イランもまたそうした闇と光と無縁であることはあり得ないことを確信し、ジョージ某の核に関する言い分の真偽はともかく、この国の人たちが上から下まで誰もが揃って友人にノートを返すような純朴さを持っているわけではないという当たり前の真実に到達して、途方に暮れることになるのです。
 そして、今にして思うと、この映画の作者スティーヴン・ギャガンが冒頭に中東人への不気味な違和感を含むボヤけた異様な光景を置いた意図も、わかるような気がします。
 とはいえ、この映画がそうした認識をわたくしにもたらしてくれるのは、相当な迂回を経たのちのことです。
 CIA職員のジョージ・クルーニーがいきなり中東某国で武器商人暗殺に手を染めたと思うと、別のペルシャ湾岸某国では出稼ぎに来た若者が石油コンビナートでクビを宣告されます。一方ワシントンでは影の大物然としたクリストファー・プラマーが黒人弁護士ジェフリー・ライトに命じて、近く合併を予定している石油流通会社の内情を視察させようとし、その石油会社ではクリス・クーパーが合併の必要性について役員会で熱弁を奮っています。さらにジュネーヴで石油流通のアナリストをしているマット・デイモンが、某産油国の王子からパーティー
の招待状を貰い、妻子を連れて行く決心をしています。
 いくつかに点在するエピソードを脈絡なく並置しながら、次第に点を結んだ線分を炙り出し、相関を観客に示してゆくという作劇は、前号で触れた「クラッシュ」と同様のものですが、こちらの映画では物語の終わりに近づくまでは線分の“せ”の字すら観客に匂わせてくれぬ不親切が貫かれており、わたくしは次第に腹が立ってきたほどでした。
 おいおい、もう少しは観客サーヴィスに徹して、解りやすい作劇を心がけるのがハリウッドの法則だったんじゃないのかよ。そんな言葉が胸に去来しながらも、クルーニーがCIAの元同僚だと信じた男に裏切られて凄惨なリンチに遭ったり、敏腕弁護士ライトにホームレスのような父親がいるというアメリカらしい内幕が明かされたり、デイモンが仕えることになった某国王子の民主化への意欲を知ってついつい応援したい気持ちが湧いたりと、点在するエピソードそれぞれの中に籠められたドラマに説得力があるため、点が線として繋がらない苛立ちを覚えながらも、画面からは眼が離せないという厄介な事態を抱えざるを得ませんでした。
 そして、映画のラスト近くになって、一挙に点が線分となり、その線分が次なる線分を呼び出すといった具合に、事態がすべて観客の前に明らかになり、物語には大きなカタストロフが訪れます。
 それは、不可視だった線分が繋がった途端に、視界の前に大きな闇が覆いかぶさり、再びわたくしたちの視線を遮るという苛酷な体験を強いられるカタストロフだったのであり、その闇にはとりあえず“石油”という名前がついていることだけを判読して、その前で茫然と立ち尽くすほかありませんでした。
 そう言えば、随分昔にも似たような映画体験をしたことがあったなぁと思い出したところ、それはつい先日も「ミュンヘン」の項で引き合いに出したばかりのフランチェスコ・ロージが監督した「黒い砂漠」(72)だったわけで(「黒い砂漠」の細部は忘れましたが)、ロージに似た硬めの社会派映画がハリウッドで相次ぐという事態には、わたくしのような社会派好きからすれば、歓迎の意を表したいところです。
 しかしながら、まだまだハリウッド人を完全に信用するわけにはいかないと思ってしまうのは、この映画でもラストにデイモンくんだけには生温いエンディングを用意してしまっている点で、彼には闇の中を手探りで進めとまでは言わないものの、せめて闇の底で慟哭させるという地点に置き去りにするくらいの試練を与えるべきだと、社会派好きなオッサンとして苦言を呈しておきます。


「頑張れ!グムスン」(3月11日 シネマート六本木・シアター2)
2002年/監督・脚本:ヒョン・ナムソプ

【★★★★★ ペ・ドゥナが新米ママに扮し、赤ん坊を背負って大冒険。実に笑わせてくれ、奮発して★5つ】

 これまでもアジア映画専門の小屋というのは、東京にもキネカ大森がありましたが、東京のはずれに近い大森まで足を運ぶのは、やや難儀だったと言わざるを得ませんでした。しかしこのたび、六本木の中心地に4つのスクリーンを擁する韓国・香港映画の専門館ビルがオープンし、この日から“韓流シネマ・フェスティヴァル”と称する特集上映を始めました。“韓流フェス”は、昨年は新宿の老舗単館シネマスクエアとうきゅうで開かれ、連日韓流ドラマにはまったマダムで盛況を呈したのですが、今年は、SPOという配給会社が自前の映画館ビルを建
ててしまったわけですから、そこまでSPOを踏み切らせるだけの確信に驚きを覚え、今さらながら韓流ブームの凄さを思い知った次第です。
 そしてオープン初日のこの日、劇場には案の定韓流マダムが大挙して押し寄せ、チケット売り場横にあるショップなど、孤独にやってきたわたくしのような野郎が立ち入る隙はなく、マダムたちが発する熱気に押されて、一時コーヒーブレイクによる避難を余儀なくされたほどでした。
 そして、この日の1本目の鑑賞としてこの「頑張れ!グムスン」を観たのち、劇場の外に出ようとしたわけですが、地下にあるスクリーン1〜3から外に出るには、階段がないために、いちいちキャパの小さいエレヴェーターを待たなければならず、ビルの構造としてはほぼ欠陥品に近いという印象を受けました。もし火事になった時には、普段は使われない階段があることが示されるのでしょうが、それを何故普段は隠しているのか、わたくしには理解できませんでした。「階段を使わせてよ」と係員のお兄さんに声をかけても、「申し訳ありません。エレヴェーターをご利用ください」しか言わない体たらく。なんとかせい!
 と、ここまでは新しい映画館ビルについての記述に費やしてしまいましたが、さて本題の映画。
 「頑張れ!グムスン」は、2002年の製作映画で、主演のペ・ドゥナにとっては、「子猫にお願い」(01)や「復讐者に憐れみを」(02)に続く映画ということになりますが、さらに後の「リンダ リンダ リンダ」(05)では高校生役を演じていた彼女に、子持ちの新米ママの役をあてがうのは無理があるのではないかと危惧したものの、それは単なる杞憂に過ぎず、まだ親にも甘えたいという幼さの抜けない今どきのヤング・ママに見事になりきっていた上、全篇にわたって走る!走る!走る!ドゥナちゃんが赤ん坊を背中におぶったまま全速力
で画面を駆け抜けるスピード感と躍動感が映画を引っ張り、この映画を極上のコメディに仕立て上げています。
 毎晩夜泣きする赤ん坊の世話に手を焼く若い夫婦。案の定朝寝坊した夫は、この日が新しい職場の初日なのに遅刻確実なため、「初日に辞表を書かなきゃならないよー」などと愚痴り、笑わせてくれます。白いYシャツを来て行きたいのにアイロンがかかっていなくて、ドゥナちゃんがブツブツと文句をつけながらアイロンかけをするのですが、途中で赤ん坊が泣き出したためあやしているうちに、Yシャツの背中は焦げてしまいます。背中だから上着を着ちゃえばわかりゃしない、と亭主を送り出すドゥナちゃん。
 こうして、新米パパと新米ママの1日が始まり、映画はほぼ24時間の物語を綴ってゆくことになるのです。
 家事の合間には、サングラスをかけてヴァレーボール観戦に興じ(なぜサングラスが必要だったのか、なぜヴァレーボールなのかは、次第に明らかになってゆきます)、何かというと実家に帰っては母親に甘え、昼休みには亭主に携帯で連絡を取り、亭主が電話口で歌う愛の唄に耳を傾けるドゥナちゃん。嬉々として電話口で歌いだすうち、調子に乗ってきて、窓から覗く同僚たちの冷たい視線を浴びる亭主キム・テウ。
 キム・テウといえば、昨年公開された「女は男の未来だ」で、若くして人生に倦んだような映画監督の役を脱力的な芝居で演じ、ムン・ソリと共演した「サグァ」では、次第に生活に疲れてゆく亭主の役を演じていたのが強く印象に残っていますが、今回の新米パパ役では、この携帯で歌う場面にせよ、このあと出てくる泥酔場面にせよ、キレキレのコメディ演技を披露し、弾けまくっています。この役者の新しい魅力を見た思いがします。
 家事を苦手とするドゥナちゃんが、亭主の両親が来訪すると聞いて慌てて掃除や料理に取り組むといった具合に、新米夫婦のホームドラマとして展開していた映画は、会社の歓迎会で酔い潰れた亭主テウくんがぼったくりバーに捕まって、大金を請求する電話がドゥナちゃんにかかってきたことからドラマが急展開し、“平凡な新米ママが赤ちゃんを背負い、歓楽街のヤクザ組織と渡りあう”という大冒険物語に発展してゆくことになります。
 赤ちゃんをおぶいながら、夫が拉致されているぼったくりバー(店の名前は「ビブル・サ・ビ」と発音されていて、何のことかと思ったのですが、のちに出てくる綴りは「Vivre sa Vie」であり、これは言うまでもなく、ゴダールの「女と男のいる舗道」の原題です。監督の趣味の表われでしょうか)を探し歩くドゥナちゃんが、コンヴィニエンス・ストアの女性店員、屋台飲み屋の亭主と奥さん、無口で不気味な背の高い男などと遭遇するほか、この日ちょうど刑務所から出所してきたというヤクザの大親分(帽子からスーツ、靴下、靴に至るまで、真っ白ないでたちで、ちょっとしたゴミ一つつけることも許さぬという潔癖ぶりを発揮する伝説の人物という設定で、白蛇と呼ばれています)を出迎える組織のメンバーとも遭遇します。そして、ドゥナちゃんが偶然見かけたセクハラ・オヤジに露店に置かれたトマトを投げつけたところ、それが白蛇に当たってしまうという事態となり、ヤクザの子分たちがドゥナちゃんを捕まえるために追跡走を始めるのです。
 ここで活きてくるのが、実は以前有名なヴァレーボール選手だったというドゥナちゃんの設定で、おぶい紐で赤ん坊を背中に括りつけて全力疾走する彼女に、ヤクザの男たちは簡単には追いつくことができないのです。ソウルの歓楽街を、路地裏を全力で駆け抜けるドゥナちゃんのもたらす絶妙な躍動感が映画自体にスピードを与え、次第に混乱を深め風船のように膨れ上がる物語を、さらに可笑しいものにしてゆき、観客の爆笑を呼びます。
 その頃、バーに拉致された亭主のほうは、本来は一滴も飲めない下戸だったはずなのに、バー店主によって盛られた睡眠薬が逆に作用したのか、ホステスを横に侍らせて、一気飲みのスピード計測(ビール、ウィスキー、ウィスキー入りのビールという3つのグラスを用意し、それを何秒で飲み干せるかを己に課すゲーム)に熱中する有り様。さらには、カラオケ・マイクを握り、愛妻ドゥナちゃんを讃える歌を振り付け入りで熱唱し始めます。この亭主のキレキレぶりを演じるテウくんが、これまた抜群の可笑しさです。
 歓楽街での大冒険を、元ヴァレー選手としての特技を使って見事に乗り切ったドゥナちゃんには、夫の両親の来訪という最後の難関が待っているのですが、部屋の滅茶苦茶な散乱ぶりに茫然とした義母に「一体何があったの」と詰問されたドゥナちゃんが、堪えきれずに泣き出す表情が実にチャーミングで、ヤクザやバー店主の前ではあれほどまでに勇敢に振舞った彼女の中の幼いキュートさを表象する見事な作劇を見せてくれます。
 とにかく、笑った、笑った。こんなに笑った映画は久しくなかったくらいなのですが、腹を抱え、あまりの可笑しさに滲んでくる涙を堪えながら、この映画の脚本・監督したヒョン・ナムソプなる人物にとってはこれがデビュー作だということが思い出され、またしても韓国にこんな面白い映画を撮る監督が登場した事実に、強い衝撃を覚え始めました(この映画自体は、4年前に作られたものですが)。次から次へと新しい才能が開花し続ける韓国映画界。まったく恐るべし!


「盗られてたまるか」(3月11日 シネマート六本木・シアター1)
2002年/監督:イム・ギョンス

【★★ 演出テクニックの過剰な披瀝が邪魔で、かえって笑えず。話も無理がある。役者はいいのに勿体ない】

 この日の韓流フェスティヴァルの2本目。1994年に萩庭貞明監督、武田鉄矢、明石家さんま主演で作られた日本映画「とられてたまるか!?」の韓国版リメイクです。わたくしはオリジナル版を観ておりません。
 冒頭、韓国で注目を集める新進ゲーム・プログラマーのソ・ジソブくんの隠れた趣味が、泥棒であることを描いてゆくのですが、派手に飾られた効果音を繰り返し、キャメラを派手に動かしたカットを連ね、どうも煩わしい印象を受けます。そしてその絵作りは、全篇を通して貫かれてゆくのであり、観ていて次第に苛立つのを抑えられませんでした。演出がクドいのです。
 泥棒を趣味とするジソブくんが、郊外にポツンと建てられた豪華な一軒家に眼をつけ、そこで密かな泥棒を働くことに快感を覚える一方、家の持ち主である中年役人パク・サンミョン(わたくしが昨年ヴィデオで観た「反則王」で、主演のソン・ガンホ演ずるレスラーの仲間に扮していたのが印象的な役者です)のほうは、小心者としての自分の性格を改造し、家の周囲を防犯グッズで固めて泥棒退治に努め始め、二人の攻防が次第にエスカレートしてゆく、というのが物語の概要で、素直に物語ればもっと可笑しくなりそうな題材に思えるのですが、テクニックに披瀝に溺れた演出のクドさが鼻につき、わたくしには殆ど笑えない映画でした。
 ただ一箇所、爆笑させられたのは、サンミョン氏が自己改造の過程で空手道場に通い、師範から必殺技としての急所攻めを教わる場面で、ここはフィックスの切り返しというオーソドックスな演出に徹したことが、笑いに繋がっていたと思います。


「下流人生 〜愛こそすべて〜」(3月11日 シネマート六本木・シアター3)
2004年/監督:イム・グォンテク

【★★★ 朝鮮戦争後の韓国裏面史だが、史実の知識がない我々には理解しづらい。巨匠の演出は流石だが…】

 韓流フェスの3本目は、これが監督99作目となる“巨匠”イム・グォンテクの「酔画仙」に続く最新作。
 わたくしにとってグォンテク氏の映画は3本目に過ぎませんが、前作について「2004年映画の旅」12月下旬号において書いた次のような一文「1つのシークエンスを最小単位のカットで簡潔に描き切り、フェイドイン〜アウトを多用しながらテンポよく、それでいて叙情的に語ってしまう語り口の見事さは、どこにキャメラを置きどう繋げば映画ができるかを熟知した者だけに可能な“語りの経済性”を達成しています」は、そのままこの映画についてもあてはまり、続いて書かれた「1962年『豆満江よさらば』で監督デビューして以来、2002
年のこの『酔画仙』まで実に98本の監督作を数えるという、60年代以降にデビューした監督としては日本では考えられない数の映画を経験した重みが、全てのカットに宿っているように思えます」という言葉も、そのまま今回の映画に使えると思います。
 グォンテク氏が今回手がけた題材は、“1950年代後半の
李承晩政権末期の混乱期から、70年代初めの軍事政権による維新体制という激動の時代を生き抜いたひとりの男の波乱万丈の一代記”に言い尽くされています。
 近くの高校に単身で殴り込みをかけた不良チョ・スンウが、そこで逆にナイフで足を刺され、その手当てを刺した犯人自身の手で行わせるべく、相手の家に乗り込んで、そこで勇気を買われた彼がその家の養子となるという出だしから、彼がヤクザ組織に見込まれてその一員となり、兄貴分によって様々なトラブル処理を請け負わされるうちに、次第に大物としてのし上がってゆくという展開の中で、1957年の李承晩(イ・スンマン)独裁政権反対闘争に対する自由党側の弾圧、60年の“4.19革命”と呼ばれる学生たちによるイ・スンマン退陣要求デモ、そして大統領の退陣、61年5月の朴正煕(パク・チョンヒ)らによる軍事クーデターとパク政権の誕生など、朝鮮戦争後に韓国で起きた政治的動向を織り込んでゆきます。主人公のスンウくん自身は、政治とは全く無縁に、下流人生(裏街道を歩く無法者の人生)を歩くばかりであり、いわば「仁義なき戦い」の広能昌三と同様のアウトローに過ぎないのですが、彼の人生にも政治の影が大きく関わっていることを、グォンテク氏は示唆するわけです。
 次から次へとめまぐるしいまでに変転してゆくエピソードを、上記のように最小単位のカット数で簡潔に描き切り、ヤクザから映画プロデューサーへ、そして今度は米軍専門の土建ブローカーへと移り変わってゆくスンウくんの波瀾の人生を見事に物語って面白く観せてしまうグォンテクの手腕には、ほとほと感心するばかりですし、民主化を巧みに避けながら独裁政権の維持に手を貸す官僚たちの腐敗をさりげなく告発してゆく強靭な意志にも圧倒されるのですが(その意味で、友人の彦一さんが、グォンテクのことを“韓国の山本薩夫”と呼んだのは実に正しいと思います)、韓国現代史に疎いわたくしなどは、ここで描かれる政治的事件の持つ意味がわからないがゆえに、画面にのめり込むほどの魅力は感じなかった、というのが正直なところです。


「美しき独逸」(3月12日 フィルムセンター)
1935年/監督:ウルリッヒ・カイザー

【★ ナチス礼賛ドキュメンタリーだが、作為ばかりが前面に押し出され、不気味で退屈な17分だった】

 この日は、フィルムセンターのドイツ映画特集で「民族の祭典」「美の祭典」の2本を観に行ったのですが、その前に1本、短編が上映されました。
 タイトルの通り、いかにドイツの国土が豊かで美しく、そこで生きる人々が堅実かつ勤勉なのかを謳い上げつつ、その国歌を統治するナチス政権を顕揚しようというナチス礼賛ドキュメンタリー。
 しかし、ドキュメンタリーとは名ばかりで、ほぼ全篇がシナリオ通りに再現される“やらせ”のオンパレードに過ぎず、次第に退屈して欠伸が漏れるのを抑えられませんでした。とはいえ、フワーと欠伸をかきながらも、このような映画をせっせと作ってはドイツ国内の民意を一箇所に向けてゆこうとする、時の宣伝相ゲッペルスの映画戦略の凄さには、やはり不気味な思いを抱かざるを得ない一方、映画の持つプロパガンダとしての影響力の強さにも、今さらながら圧倒されたのでした。


「民族の祭典」(3月12日 フィルムセンター)
「美の祭典」(3月12日 フィルムセンター)
1938年/監督:レニ・リーフェンシュタール

【★★★ 良くも悪くもその後のスポーツ記録映像の原型となった。どうしてもバックにナチの顔を見てしまう】

 大昔にTVで総集編を観たことがありますが、「民族」「美」のそれぞれを観るのはこれが初めてです。
 まず「民族」の冒頭、ギリシャ・オリンピアの丘に建つ宮殿の遺跡内を、ゆっくりした移動撮影で追うキャメラ。周囲にはわざわざスモークを炊き、幻想的なムードを高めると同時に、オリンピックという儀式全体を神話という衣で包もうという意図が透けて見えます。宮殿の映像は、次第にギリシャ彫刻の人の顔へとオーヴァーラップされ、有名な円盤投げの彫刻が出てきたところで、それが全裸の男による円盤投げの実演場面にオーヴァーラップされるという画面構成は、いかにもゲージツ的であり、公開当時の世界中を唸らせたことが納得できます。
 このあとさらに、裸体の女性たちによる群舞などを経て、聖火の点灯儀式とそのリレー風景へと繋がってゆくのですが、資料によればオリンピックにおいて聖火リレーが行われるようになったのは、この1936年のベルリン大会からだそうで、ヨーロッパ的な“知”の発祥地たるギリシャで点灯された炎が、欧州大陸各地を経たのちにドイツへと繋がれることを詳細に描いてゆく構造は、ドイツこそが36年時点での“知”の場所であることをさりげなく、しかし誇らしげに示したプロパガンダにも思え、ナチスの戦略の巧妙さに感心させられます。
 聖火がベルリンの大競技場に届き、聖火台に点火されるまでの一連の流れを、一切のナレーションを挟まず、ヘルベルト・ヴィントによる荘厳な交響曲だけを流しながら展開してゆくレニ・リーフェンシュタールの作劇は、それなりに人目を惹くことは確かです。
 第二部たる「美の祭典」においても、冒頭の構造は第一部の方法論が踏襲されます。夜明けの湖畔を静かに点描していたと思いきや、その湖畔を走る全裸の男たちが登場し、彼らが次から次へと湖に飛び込んだ上、サウナ風呂に集っての、ホモセクシャル集団と見紛うばかりの談笑風景を描きつつ(この場面は、のちにヴィスコンティが「地獄に堕ちた勇者ども」においてナチス陸軍のホモセクシャル性を描くくだりに、大きな影響を与えたでしょう)、そこからベルリンの選手村でトレーニングする各国選手たちを紹介する場面へと流れてゆく展開は、ゲージツ的象徴から実際の競技場面へと観客を導くという点で、第一部と相似形を形成するわけです。
 ともかく、二部とも冒頭近くに裸体の人物を登場させ、スポーツする人の肉体の躍動美を謳い上げ強調するリーフェンシュタールは、純粋個人に帰属する“美”こそを称揚しようとする姿勢を示したかに思われますが、このあと競技場で展開する各種目を追うようになると、出場選手の背負った国家的威信、つまり国籍そのものが前面にせり上がってくるのであり、オリンピックが実は極めて政治的な場にほかならないことを、リーフェンシュタールは意識的に露呈させてゆくのです。
 このように、スポーツする人は美しい、というテーゼをきちんと印象づけた上で、観客や為政者が求めるナショナリズムも程よく満足させるという作劇を発明したことが、ここでのリーフェンシュタールの功績であり(もしかすると宣伝相ゲッペルスの功績と言い直すべきでしょうか)、その方法論は、市川崑の「東京オリンピック」は言うに及ばず、つい先日のトリノ五輪のTV中継まで、あらゆる国際競技映像に受け継がれてゆくことになるのです。
 それにしても二部を通して意外だったのは、ドイツ人及びドイツ国家の自画自賛色が殆どないことで、ハーケンクロイツやドイツ国旗が強調されたり、ドイツ選手の優勝場面ばかりが前面に打ち出されたりすることよりも、むしろアメリカ国歌が都合4回も画面から流れ(「君が代」は2回、「ラ・マルセイエーズ」と「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」は各1回、ドイツ国歌はたぶん0回、というのも、第二次大戦前のドイツ国歌を知らないので、競技場で流れる曲を聞き分けられなかったのです)、授賞式の光景では星条旗だけが2回もアップで選手の顔にオーヴァーラップされるなど、親米的な作りが目立っていました。
 もしかしたらリーフェンシュタールがアメリカ好きなのか、などと暢気なことも考えましたが、実際のところは、36年当時は対独強硬論を強めていなかった合衆国に対するゲッペルスの牽制なのだろうと思います。
 ところで、昔TVで観た時は、競技場で観戦してドイツ選手の成績に一喜一憂する総統ヒトラーの姿が映っていたのですが、今回のプリントにはそのカットがなかったのであり、ことによると戦後の再公開でヒトラーをカットされた版がフィルムセンターに寄贈されたのだろうか、などと余計なことも考えてしまいました。

コメント(2)

「力道山」のソル・ギョングがすばらしかったです!
圧倒的な存在感に言葉(日本語セリフ)も気にならなかった。
日本人俳優との絡みも違和感なく、体当たりな役作りに脱帽です。

「シリアナ」は面白い作品だと思いますが、話の点が線に繋がるまでが長くて睡魔に
襲われました(苦笑)

「ホテルルワンダ」
ドン・チードルは良い役者ですね(^−^)
真実に勝るものはない。DJのあおりが怖かったです。
パンダさん、

いつも書き込みありがとうございます。

「力道山」「シリアナ」「ホテル・ルワンダ」、
おっしゃる通りだと思います。

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