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200×年映画の旅コミュの2006年2月上旬

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2月上旬に侘助が観た映画たちです。

「巨人ゴーレム」(2月4日 フィルムセンター)
1920年/監督:パウル・ヴェゲナー、カール・ベーゼ
【★★ 3分の1くらいは寝てしまったので、偉そうなことは言えず。ドイツ表現主義の典型的セットは堪能】

 フィルムセンター大ホールでは、大掛かりなドイツ・オーストリア映画の特集上映が始まりました。戦前のドイツ映画といえば、サイレント時代のドイツ表現主義映画や、ラング、ムルナウ、パプスト、スタンバーグ、サークら、のちにハリウッドに亡命または進出する人々が有名ですし、わたくしも有名どころの映画は何本か観たことがありますが、いずれも時期的には離れたところで観たものですから、これがドイツ映画の(特にウーファ撮影所の)傾向だ、と言い得るような特徴を認識したとは到底言えません。
 その意味で、今回のフィルムセンターの特集は、ラングとムルナウという大きな名前が2つ欠けているとはいえ(ラングとムルナウは、昨年秋に朝日新聞社の主催で特集上映が行われたばかりゆえ、今回のラインアップからは外されたようです)、ドイツ映画を体系的にまとめて観る絶好のチャンスということになります。
 しかし一方、わたくしの意識の中には、映画それ自体を愉しむという本来の快楽より、“映画史のお勉強”という意味合いのほうが強くあることも事実で、どこか義務感に駆られてフィルムセンターに向かうという意識からくる足取りの重さがあったことも否定できません。
 この「巨人ゴーレム」は、のちの1935年にジュリアン・デュヴィヴィエがチェコで撮ったこともある題材ですが、ドイツでも1915年、17年と2度にわたって作られたあとの3度目の映画化だそうです。そして、この20年版で主演・共同監督にクレジットされているパウル・ヴェゲナーは、15年、17年版のいずれにも主演や共同監督として関わっていたというのですから、相当この題材に魅了されていた、と言うより、この題材に取り憑かれていたのだろうと思われます。
 ゴーレム伝説というのは、“中世のプラハを舞台に、聖職者(ラビ)に生命を吹き込まれた泥人形ゴーレムがゲットーを破壊するというユダヤ民族に伝わる民話”(フィルムセンターのチラシ)というもので、ユダヤ人をゲットーに隔離しようとする皇帝や、ユダヤ人の自立を訴えるラビ、そのラビによって命を吹き込まれてしまった泥人形ゴーレムの3人を主要登場人物としつつ、横糸としてラビの娘と皇帝の使いである若者の恋が絡んでくるようなお話になっています。
 ナチス台頭の前に、ドイツでユダヤ人自立の物語が作られていたことには、歴史的な考察が施されて然るべきでしょうが、映画ファンの眼からすると、ラビの家の造形が、くねくねと曲がった階段(人間の耳にも、巻貝にも見えます)やら尖塔を持つ屋根やらが、ドイツ表現主義の誇張されたデザインそのままであることに、1920年という時流を感じました。表現主義の代表作と呼ばれる「カリガリ博士」が、同じく20年の製作ですから、そこに容易に同時代性を読み取ることができるのです。
 しかし前述した通り、“映画史のお勉強”という気持ちがわたくしの中にあったことが、勉強とは眠くなるもの、という油断を招き寄せ、睡魔の侵入を許すこととなり、映画が始まって20分もすると、ウツラウツラしてしまったのであり、結局は全篇の3分の1は寝ていたことになりましょう。
 従って、この映画について偉そうなことを言う資格はありません。


「キリストの一生」(2月4日 フィルムセンター)
1923年/監督・脚本:ロベルト・ヴィーネ
【★★ これまた半分くらい熟睡したため、語るべき言葉なし。実に真っ当なキリスト伝記だったとは思う】

 前記「巨人ゴーレム」に続いてフィルムセンターで観たドイツのサイレント映画。監督のロベルト・ヴィーネは、「カリガリ博士」の監督でもあり、「カリガリ」の3年後に撮られたのがこの映画です。
 ところが、前記「ゴーレム」の時に襲ってきた睡魔は、映画と映画の間に飲んだコーヒーの力をもっても衰えることなく、今度は全篇の半分くらいは寝ていたという有り様でした。
 ところどころ起きて覚えている場面は、いずれもキリスト伝記でこれまでにも何度も観てきたようなエピソードで、ああ、この場面か、などと納得すると、すぐに寝入る、という繰り返しでした。
 ただ、印象に残っているのは、「カリガリ博士」や前記「巨人ゴーレム」のようなドイツ表現主義はあまり感じさせず、実にオーソドックスなセット・デザインや画面構成をしていることで、まあキリストものだけに、監督の中に遠慮があったのかな、などとも思いつつ、もしかして1923年には既に表現主義は廃っていたのかも知れないとも、眠気でボヤけた頭の中で考えたものです。
 しかしいずれにせよ、半分くらいは寝ていたのですから、語るべき言葉はありません。
 この日の上映には、ギュンター・A・ブーフバルトという30代のドイツ青年によるピアノ伴奏がついていたのですが、もしかしたら自分がイビキをかいて、演奏の邪魔をしたのではないか、と思いました。しかし、映画が終わって明るくなって、周囲から白い眼で見られることはありませんでしたので、どうやらイビキの心配は杞憂に終わったようです。


「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(2月5日 シネセゾン渋谷)
2005年/監督・脚本:青山真治
【★★ ほとんど騒音とも言えそうな“音”に青山が託した思いが伝わらず、絶句するしかない。絵には力あり】

 この日もフィルムセンターでドイツ映画史のお勉強をする予定でしたが、前日のように睡魔に負けてしまうのがオチだと思われたため、針路を新作に切り替え、渋谷で2本観ることにしました。
 まずは、青山真治が作った奇妙なタイトルの新作。
 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とは、イエス・キリストが十字架に磔になる時に唱えた最後の言葉「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味だそうで、映画の中ではこの言葉を、筒井康隆が呟く場面があります(ただし、日本語で)。
 冒頭、海辺に波が押し寄せる様子をキャメラが捉えますが、ドドーンという波の音が大きく強調されており、この映画が“音”を巡って展開することを示唆します。
 海辺の砂漠を、二人の男が歩いてきて、砂の上に建てられたパオ(モンゴルの布製の家)みたいな場所に入ってゆくのですが、二人の男は「風の谷のナウシカ」の冒頭で主人公がつけていたような防毒マスクをしており、“パオ”の中でも人がベッドで死んでいます。どうやら何かの疫病が地球を覆っているらしいことが察せられるのですが、それが何なのか、映画は一切説明しようとせず、しかも冒頭からジャズっぽい劇伴音楽が流れるものの、人物が発する科白は一言もなく、二人の男は“パオ”の中でも死んでいる人物に驚く様子も見せず、ブームマイクでその“パオ”の中の音を拾っているばかりです。そして、パオを引き上げた二人は、どこかの体育館みたいなところで、音響機器を並べて、採取してきた音を加工したり、掃除機の吸い取りパイプをグルグルと振り回しながら、そこに発生する“ヒューン、ヒューン”という音をマイクで採取したりしています。
 科白は相変わらずゼロで、音ばかりがかなりの音量でスクリーン横のスピーカーから飛び出してくるのですが、最近はすっかり青山と組んでいるキャメラマン田村正毅が作る構図はやはり力を持ち、観る者の眼を画面に釘付けにします。
 何やら疫病が蔓延した地球では、もはや生き残っているのがこの二人の若者(浅野忠信と中原昌也。中原は、本来役者ではなく、ミュージシャンや作家として活躍している人らしいですが、わたくしは知りませんでした)だけなのだろうか、と思って画面を見つめていたのですが、作業に疲れた二人は近くにあるスナックを訪れる場面が続き、そのスナックのママ岡田茉莉子が、白い日傘にサングラスという、まるで吉田喜重の映画のミューズそのままの格好で登場しますので、まだかなりの生存者が地球に残存していることが窺えます。そしてそのスナックで流されているラジオから、地球では今、“レミング病”という疾病が蔓延し、この病気に罹ると自殺衝動に駆られるというもので、自殺者が日本だけでも300万人に達しているという話が何気なく伝えられます。
 このあとの場面は、突然病気の研究者と思しき鶴見辰吾や町医者の川津祐介が登場したり、いかにもブルジョワ風の筒井康隆や、その筒井に雇われているらしい探偵の戸田昌宏が登場したりして、どうも訳がわからなくなるのですが、そのまま画面を見守っていると、筒井には“レミング病”に罹っている孫娘の宮崎あおいがいて、筒井は探偵・戸田を使って、孫娘の治療に有効な手段を探っていたことがわかり、その手段とは、浅野と中原が作る音楽に触れることだという事実に突き当たるのです。
 こうして、筒井と戸田が宮崎を連れて、田舎に隠遁している浅野と中原のことを訪ねてくる、という展開になるのです。
 人を自殺へと追いやる謎の奇病“レミング病”、その病気の治療に効くという若者二人の前衛音楽……この寓話に込めた青山の狙いはよく理解できなかったものの、冒頭から科白のない画面が続いていたことから察せるように、この映画は、言葉に頼らぬコミュニケーションが果たして成立するか、という主題のもとで作られたことは明らかで、その意味では、2000年に青山が発表した力作「ユリイカ」以来、青山がこの主題を常に追い求めてきたことが思い出されます。
 浅野と中原の音楽は、音楽と呼べるような旋律を持つものではなく、むしろ雑音を機械的に合成したような代物にしか聞こえず、その音の生成過程を長回しで画面に収めてゆく青山の執拗なまでの拘りはよくわかりませんが、音自体の迫力と音量の大きさが観客の耳を圧倒することは事実で、何が何だかよくわからんが、凄い、という印象はもたらします。
 しかし、しつこいようですが、言葉としての意味を表現することなく、音を即物的に画面に叩きつけてゆく作劇を徹底させるこの映画から、一体何を感じたのかを言葉に置き換えることはわたくしのは到底できず、ここでは、うーん、と唸るばかりの失語症を演じておくしかありません。


「カミュなんて知らない」(2月5日 ユーロスペース2)
2005年/監督・脚本:柳町光男
【★★ 学生映画の制作過程のお話。映画ヲタクの内輪受けネタには笑えず、人物像もセンスも古臭い】

 前記の青山真治の新作に続いて、渋谷のラヴホテル街に新しくできたユーロスペースに場所を移し、柳町光男の新作へ。新しいユーロスペースは、2つのスクリーンを擁していますが、同じビルにはさらに2つの劇場が入っており、渋谷のミニシアター乱立状況にさらに拍車がかかったことになります。東京近郊では、老舗の映画館が取り壊されて、シネコンと呼ばれる複合上映施設ばかりが増えている一方、ミニシアターは増加傾向にあるようですが、ミニシアターが作られるのは渋谷ばかりというのが実情で、果たしてこうした事態が映画にとって幸福なことなのかどうか、きわめて疑問視せざるを得ません。映画の一極集中が、わが国の映画興行を豊かにするとは思えないからです。
 それはさておき、柳町の新作。
 予告編を観る限り、大学の映画サークルが作る映画の製作過程がそのまま物語になっているようなお話に思えましたが、実際の映画も、ある月曜日から翌週の火曜日までの9日間に起きた、映画制作に絡むエピソードを繋ぎ合わせたお話で、映画ファン目当ての内輪受けネタも満載です。
 冒頭、大学生の前田愛が携帯電話で話している姿をステディカムの手持ちキャメラが追いかけ、話している内容はといえば、近くクランクインする映画の主演男優が急に降板してしまったため、急遽代役を探さなければならなくなったということなのですが、前田がある校舎に入ってゆくと、そこから出てきた映画サークルの仲間が今度は被写体になり、さらにはサークルの顧問をしている元映画監督の教授が今度は画面の中央を占めるといった具合に、大学の校庭を舞台に、出演者が入れ替わり現れては、同一カット内をめまぐるしく動き回る展開となります。
 こうした長回しのワンカットワンシーン演出を見れば、誰だってオーソン・ウェルズ「黒い罠」やロバート・アルトマン「ザ・プレイヤー」を思い出すのですが、柳町は、ご丁寧にも、サークル仲間同士の会話として、「黒い罠」と「ザ・プレイヤー」を引き合いに出し、楽屋落ちに努めてくれるわけで、こういうお遊びを喜ぶ映画ファンも多いのでしょうが、そうした作劇から透けて見えるのは、映画を愛するがゆえについつい勇み足してしまう楽屋落ちではなく、映画ファンをネタにして商売しようとするあざとさのほうです。わたくしは、原田眞人なる人物が作った「インディアン・サマー さらば映画の友よ」のように、自分が映画物知りであることをひけらかしたような下品な自己顕示欲映画を、決して認めないという立場を貫く者ですが、この柳町の新作の冒頭にも、原田の下品さと通じるものを感じてしまったのです。
 冒頭の場面で「黒い罠」と「ザ・プレイヤー」についての薀蓄を披露した映画サークルの若者は、このあとも、喫茶店に入るや、「男性・女性」でジャン=ピエール・レオーがシャンタル・ゴヤと知り合う長回しのシーンを引き合いに出したり、サークルが作る今度の新作映画の監督である柏原収史のことをつけ回す吉川ひなののことを「アデルの恋の物語」にちなんで“アデル”と命名したり、若い女子大生に入れ揚げる担当教授の本田博太郎のことを「ベニスに死す」の主人公の名前“アッシェンバッハ”と呼んだりするなど、再三にわたって映画の楽屋落ちネタを披露するのですが、そのいずれもが、わたくしの眼には一切笑うことのできぬあざとさとして映ってしまったのでした。
 物語にしても、映画制作過程において、監督の柏原が恋人・吉川がいるにもかかわらず、スクリプターの女性を部屋に連れ込んだり、そんな柏原のことを、助監督の前田愛が、やはり山岳部の恋人がいるにもかかわらず好きになってしまったり、その前田愛のことは、キャメラマン役の青年が一途な想いを捧げ、さらには、新作の主役として抜擢された金髪の演劇青年も前田にチョッカイを出すといった具合に、要はお互い同士の惚れた腫れたの連鎖としてしか描かれず、どうも世界が狭いというか、学生映画の現場は恋愛ごっこと同義に過ぎぬとでも言わんばかりの柳町の認識に古臭さを感じてしまいました。まるで1980年代の学生映画そのものを観ているような、そんな古臭さです。
 古臭さは、こうした認識ばかりではありません。彼らが作る映画の劇中劇として設定されている、高校生による衝動殺人に対するアプローチも、マジメだとは思うものの、カフカが「異邦人」で描いた不条理という得体の知れなさから一歩も出ていないもので、どうも古臭いところを徘徊するばかりに思えてしまいました。マジメすぎるのです。
 とはいうものの、サークル仲間同士のスッタモンダの末、監督の柏原はケガのために降板を余儀なくされ、後任の監督として前田愛が就き、いよいよ撮影が始まった初日、劇中劇としてはヤマ場である老主婦を高校生が衝動的に殺す場面の撮影が行われることになるのですが、この殺人場面は、フィクションなのかそれとも現実なのか、その境界線を曖昧にした作りになっており、そもそもが映画の中の劇中劇なのですから、すべてはフィクションには違いないものの、ちょっと人をドキッとさせるものがありました。このラストに敬意を表して、★一つオマケしておきます。


「仇討崇禅寺馬場」(2月10日 新文芸坐)
1957年/監督:マキノ雅弘
【★★★★★ 昨年12月にヴィデオで観たばかりの映画だが、スクリーンで観るのはまた格別】

 池袋・新文芸坐では、マキノ雅弘の特集が始まっています。文芸坐では、2002年の晩秋にもマキノ特集が開かれており、その時と上映作品がかなりダブっていますので、今回は、それほど足繁く通うつもりはないのですが、この日だけは是非とも行かなければなりませんでした。
 この映画については、昨年末にヴィデオで鑑賞し、「2005年映画の旅」12月下旬号に書いたばかりですので、特に書き加えることはありません。
 “一瞬たりとも緩むことのない、実に緊密に引き絞られたドラマが厳粛なまでに展開してゆくのですが、武士道を貫こうとする大友の見事な殺陣もさることながら、恋に生きる女の強さを体現する千原の迫力が画面に満ち溢れ、映画を格調高い悲劇に昇華させています。
 それにしても、山上伊太郎という脚本家は、凄いドラマを組み立てたものです。それを受けて、1957年のトーキー映画として結実させた依田義賢のシナリオも素晴らしいし、女の情念を美しいメロドラマとして組み立てたマキノ演出も文句なしの出来。恐るべき傑作でした。”
 ……まあこの言葉の通りですが、日常生活とは隔絶された暗闇の中で、スクリーンを通してこの映画を浴びることは、また格別であったとだけ申し上げておきましょう。


「港まつりに来た男」(2月10日 新文芸坐)
1961年/監督:マキノ雅弘
【★★★★★ マキノ的な祝祭の場で繰り広げられる極上のメロドラマ。これぞマキノ節の、映画の快楽!】

 前述したように、この日は何としても行かなければならないと思ったのは、この映画のためです。
 「港まつりに来た男」は、1977年に川崎銀星座で観たことがありますが、話はすでによく覚えていないものの、マキノ節とはこのことだ、と強く思ったことは間違いなく、どうしてももう一度観直したい映画でした。
 冒頭、海辺の砂浜に打ち上げられた小舟の脇で、花園ひろみが子どもたちを集め、七夕の伝説を語って聞かせています。そして、渡り船に乗って、1年に1度この島にやってくる曲芸の一座と大道芸の一座がこの港町に到着します。
 大道芸の一座を率いるのは、水島道太郎。口上を述べているのが、堺駿二。お面を被って素顔を隠している軽業師。そして、一座の今年の売り物は、片目に眼帯をつけた居合い抜きの名手・大友柳太朗です。
 この大友、下船して早々、町の実力者で金貸しの錨屋という町人や、この藩の侍たちに向かって、強烈な敵意を剥き出しにします。この敵意の根拠は何なのか、映画は次第にそれを明らかにしてゆきます。
 大道芸一座の到着によって、この港町には、いくつかの再会劇が繰り広げられます。花園ひろみの想い人が、仮面を被った軽業師・坂東吉弥であることが明らかになり、この二人の再会が、七夕の織姫と彦星の再会になぞられます。一方、坂東は、数年前に祖母の高橋とよを町に残したまま、芸人に憧れて町を出て行ったという設定ですので、この祖母と孫の再会劇も演じられます。大道芸一座が乗ってきた船に同乗していた伊沢一郎は、町の金貸し錨屋からの借金を苦に、妻子を残して町から逃げ出していたのですが、この伊沢と妻子との再会も演じられま
す。一座の口上役・堺駿二は、毎年この町に訪れるたびに恋を囁きあう女性がいるのですが、この女性、今は亭主持ちになっているものの、堺との再会に胸を躍らせます。
 そして、主人公の大友。彼は、99箇所の刀傷を全身に負い、ということは、99人の侍を斬ってきたことによって剣の腕を磨き、今や居合い抜きの達人になっているのですが、彼もまた、かつて想い人を藩主の妾に取られたことを苦に、この町を出た元漁師であることが明らかになります。
 こうして、七夕の祭りが近づく港町のお祭りムードが日々高まる中で、七夕の彦星と織姫に模した男女の再会劇がいくつか重ねられ、その中心線に、大友が今や剣の達人として藩主の前でその腕を披露するに至ったことを契機に、ずっと長い間想い人であり続け、藩主の妾として10年間のお勤めを続けてきた丘さとみ(金貸し錨屋の娘という設定です)を取り返そうとする、という話が置かれるのです。
 惚れた腫れたをテーマにする時、マキノの映画は最高度の湿度で画面を輝かせるのですから、ここで七夕物語に託して作られる恋の多重奏が、極めつけの輝きを放つのは当然のことです。
 さらに、この映画の主人公・大友は、元々は漁師だった身分から発奮して侍という地位を手に入れ、その侍としての矜持と、丘によって切に要望される侍という地位の放棄(女は、侍の誇りより自分との恋を選び取ってもらおうとするのです)との狭間で揺れることになるのですから、そこには、前記「仇討崇禅寺馬場」で描かれたのと同じ、武士道と恋に生きる女の対立軸という主題が変奏されていることにも気づかされます。
 お盆の迎え火の光が、こうした恋物語に艶やかな彩を添え、盆踊りの際に男は水色の手拭を、女は浅黄色の手拭を腰に挿すことが、お互いの恋の成就の証であるという風習が、男女の恋物語を一層燃え上がらせ、お祭りのワッショイワッショイという祝祭的な掛け声が、これまた恋物語をマキノ的に煽り立てます。
 大友と丘の恋は、織姫と彦星の再会のように、最後は再び引き離されることを余儀なくされる悲劇へと収斂してしまいますが、その二人の墓標の前で、町人たちが阿波踊りの振りそのままに、両手をヒラヒラさせながら静かに踊る場面には、あの世で結ばれた男女への哀悼の想いが溢れ、観る者の心を和ませてくれます。そうした町人たちの祝祭を背にして、大道芸人たちを乗せた船がこの港町を去ってゆく姿を映して、映画は幕を閉じます。
 笠原和夫の脚本が素晴らしく練り込まれており、マキノと長くコンビを組む三木滋人のクレーンワークも冴え渡っています。
 プリント状態も悪くなく、この極上のメロドラマを堪能させてくれました。大満足!


「PROMISE」(2月11日 池袋東急)
2005年/監督・脚本:陳凱歌(チェン・カイコー)
【★★★★ 荒唐無稽な話をチャチなCGで再現した子ども騙しとも思うが、名花セシリアゆえに全て許す!】

 チャン・イーモウとともに中国第五世代を代表するチェン・カイコーが、日本から真田広之を、韓国からチャン・ドンゴンを、香港からはニコラス・ツェーとセシリア・チャンを招いて、大掛かりなCGを駆使した時代絵巻を作り上げたというのですから、期待も抱く一方、リアリズムに描写の基点を置いてきたはずのチェン・カイコーが、「HERO」や「LOVERS」などによってこのところすっかり大作主義に毒されているようにも思えるチャン・イーモウの轍を踏もうとしていることには、若干の危惧も抱かざるを得ませんでした。
 しかし、昨年「ワンナイト イン モンコック」を観て以来、すっかりご贔屓女優になってしまったセシリア・チャンを観るだけでも、充分に木戸銭を払う価値があると思ったので、公開初日の第1回上映に向かいました。
 湖の畔に立つ一本の桜から花びらが飛び、それが血溜りに落ちたところにみすぼらしい少女が登場して、累々たる戦死者の中の一人の指に絡まった饅頭を彼女が引き剥がし、その饅頭を持ち去ろうとしたところを兜を被った少年に阻止されて、少女が機知によって饅頭を取り返したと思いきやそれを湖に落としてしまい、そこに天女が現れて少女に饅頭を渡しながら“ある約束”を告げ、すると何故か少女は湖の上を徒歩で渡れてしまうという冒頭の一連のエピソードを観ながら、その桜の木のイメージが、チェン・カイコーがオムニバス映画の一編を手懸けた「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」における「夢幻百花」とよく似た印象を抱き、CGに頼り過ぎではないか、という思いを強くしました。
 このあと映画は時間を飛ばし、真田広之扮する大将軍が、僅か3000の兵で2万もの兵士を抱える敵軍を、大量の牛の疾走を利用して壊滅させる話を、赤と黒の衣装の対比を巧く使いながらも、CGの多用によって再現してゆくのですが、真田軍の奴隷として戦いに加わったチャン・ドンゴンが、人間離れした脚力で牛を方向転換させるというエピソードを、まるで「キング・コング」(ピーター・ジャクソン版)における恐竜の疾走場面のように漫画チックな展開で見せてゆく演出には、設定があまりにも荒唐無稽に過ぎ、CG駆使も子ども騙しのようにチャチなものに思え、呆れてしまったものです。
 チャン・イーモウの「HERO」や「LOVERS」も、相当に荒唐無稽なお話ではありましたが、古典絵巻としての格調は保っていたのに対し、今度のチェン・カイコーのあっけらかんとした荒唐無稽ぶりは、いくらなんでもやり過ぎのように思えたのです。
 しかし、展開に流されるように画面を見つめてゆくうち、このようなお伽話をマジメ腐ったリアリズムに則って描いたところで、どうなるものでもあるまいと思えるようになり、この方法論はこれで正解だと思い直しました。
 そして、真田が仕える王が、城で反乱者によって攻撃されているという状況の中で、ケガを負った真田に代わり、奴隷のチャン・ドンゴンが、真田が纏っていた鎧兜に身を包み、城に乗り込む段になり、王妃という役柄のセシリア・チャンがいよいよ登場します。ああ、セシリア!
 もうこのあとは、物語が荒唐無稽だろうが、CGの使い方がチャチだろうが、そんな瑣末なことはどうでもよくなります。
 白い羽根を纏って鳥になったセシリアが、チャン・ドンゴンの引っ張る綱に繋がれ、荒野を疾走するという、宮崎駿のアニメーションのような場面は、ただひたすらその美しさに口をアングリと開けるほかなかったのですし、自分の愛しているのは大将軍の真田だと思い込んだセシリアが、真田の隠れ家で同居することになり、川で水浴びする裸の背中が映る場面には、ただ息を呑むしかなかったのでした。
 このセシリアの姿はもう一度観たい。時間的な余裕があれば、公開中にもう一度足を運びたいと思います。


「男の花道」(2月11日 新文芸坐)
1941年/監督:マキノ正博
【★★★★ 女形・長谷川と眼科医ロッパの純愛ラヴストーリー。性別を超えたメロドラマとして見事に成立】

 前日の「仇討崇禅寺馬場」「港まつりに来た男」に次いで、この日も文芸坐でのマキノ特集へ。お目当ては、未見の「江戸っ子繁昌記」ですが、時間の都合で、2002年に観た「男の花道」も、観ることにしました。
 2002年にこの映画を観た時は、「男の花道」と題されながら、実は「女の花道」と言い換えたほうが適当に思えるような、女形役者・長谷川一夫と、彼の眼を治す眼科医ロッパとの間に流れるホモセクシャルな感情のやり取りに、どこか居心地の悪さを覚えてしまったのですが、今回は、この二人はたまたま同性であっただけだ、という割り切った思いで画面に向かっていたため、二人の純粋なラヴストーリーとして、すんなりと受け入れることができました。
 意地っ張りでへそ曲りのロッパが、本当は手術してやりたいのに、表面上は拒んでいる時、下僕の渡辺篤が、あれやこれやとロッパを挑発して、結局は手術に仕向ける場面の長回しの科白劇などは、小国英雄らしいコメディセンスが光っていましたし、長谷川がロッパを助けるために丸山定夫扮する殿様の前で踊りを披露する場面での、細やかなカット割りは、マキノの編集術の粋が見られると思います。


「江戸っ子繁昌記」(2月11日 新文芸坐)
1961年/監督:マキノ雅弘
【★★★★★ 落語を加工し、下町人情劇として昇華したマキノと成沢の至芸に脱帽。錦ニィの泣き芝居に酔う】

 この日の本命は、この映画。前記「港まつりに来た男」の直前にマキノが作った映画です。
 冒頭、夜の武家屋敷の庭で、椿の花が一輪ポトリと落ちると、キャメラはパンアップし、青い着物の武士が刀を振り下ろして、傍らにいた女性を斬りつけます。女性のほうは近くの井戸に向かって倒れ、そのまま井戸ににじり寄ります。斬った男は中村錦之助、斬られた女性は小林千登勢。小林は井戸の淵から底に向かって落ちてゆき、桶がカラカラと回ります。
 なんだか想像していた映画とは趣が違うぞ、と思っていると、画面が突然変わり、夢にうなされている町人の錦ニィが、みすぼらしい布団の中で「お菊、お菊」と、女性の名前を呼んでいます。傍らでは、女房の長谷川裕見子が起き出して、「あんた、寝ぼけてるんじゃないよ。妹のお菊さんは、ちゃんと殿様のご寵愛を受けているんだから安心だよ」などと声をかけています。
 なるほど夢オチだったのか、と思うのですが、この夢がのちのちの重要な伏線として機能しています。
 寝ぼけ眼で起きた錦ニィは、すぐにまた寝入ろうとするのですが、長谷川に急かされて、魚屋としての仕入れに向かわされることになるのですが、二日酔いで朦朧としたべらんめぇの江戸っ子を錦ニィが演じると、見事に人物像に魂が込められるのであり、わたくしたち観客は、その二日酔い芝居のリアリティに腹を抱えて笑いながら、錦ニィの巧さに舌を巻くほかありません。
 このあとも、長屋の仲間である千秋実と桂小金治を相手に、錦ニィの絶妙の酔っ払い芝居が見られますし、映画の後半には、旗本という役柄の二役の錦ニィを相手に、町人の錦ニィが今度は見事な泣き芝居を見せてくれ、彼の役者としての魅力の全開ぶりを堪能することができます。
 さて長谷川に急きたてられて河岸に出向いた錦ニィですが、長谷川が時刻を間違えたらしく、まだ河岸は開く前で、眠気覚ましに川で顔を洗おうとした彼は、川底から小判がいっぱい入った皮の財布を拾い上げます。喜び勇んで財布を自宅の長屋に持ち帰った錦ニィは、長屋仲間の千秋や小金治を招いて前述の酒盛りを始めることになるのですが、亭主の怠け癖に拍車がかかることを恐れた女房の長谷川は、財布を拾ったことは夢だったと錦ニィに思い込ませることにします。
 落語の「芝浜の革財布」を題材にしたものであることは一目瞭然なのですが、この映画のミソは、「芝浜」に加えて、「番町皿屋敷」のお話も巧くミックスされていることで、そこには、町奴と旗本が江戸の町で対立していたという状況も織り込まれ、侍が自らの矜持という外面に拘るばかりに、愛する女性との恋を破綻させるに至るという、「仇討崇禅寺馬場」や「港まつりに来た男」とも共通する主題も盛り込まれているのです。
 落語二題を巧く構成した成沢昌茂の脚本には唸らされますし、それを快調なテンポで場面として組み立ててゆくマキノ演出にはすっかり酔わされます。下町長屋を見事に造形した鈴木孝俊もいい仕事をしています。
 東映時代劇全盛期の実力のほどを、充分に味わうことのできる快作です。


「蟹工船」(2月12日 ラピュタ阿佐ヶ谷)
1953年/監督・脚本:山村聰
【★★ 有名なプロレタリア文学の映画化で、立派だとは思う一方、暗く陰惨。演出も人物整理も粗い】

 この映画は1971年の3月に観たことがあります。35年前のことですから、もはや映画の中身はすっかり忘れていますが、暗い船内で人々がひしめき合うように寿司詰めになっている映像が、ぼんやり記憶に残っており、映画全体の出来もなかなかのものだったような気がします。
 しかし、今回観直してみると、会社から押し付けられたノルマを達成するために、徹底して労働者をコキ使う現場監督の人物像は薄っぺらいと思わざるを得ませんでしたし、数多く登場する乗組員たちは、ややバラバラに点在するばかりで、整理されているとは思えませんし、結局は労働者は団結して資本と対決するしかないのだ、という主張も教条主義的で、いささか鼻白むものであったことは否定できません。
 一艘の船の中という限定された場所を場面として組み立ててゆく演出も、編集リズムがギクシャクして、山村聰が監督第2作として発表した「黒い潮」のリズムなどと比べると、まだまだ未熟さを露呈しているように思えました。
 そして何よりも、暗くて陰惨な話が続くばかりで、心和むところのないお話には、やはりしんどいという思いばかりを抱いてしまいました。


「燈台」(2月12日 ラピュタ阿佐ヶ谷)
1959年/監督:鈴木英夫
【★★★★ 限定された時間と空間に引き絞られる感情のあや。緊密な演出がサスペンスを産む。見事な一幕物】

 前記「蟹工船」をわざわざ阿佐ヶ谷まで出向いて観たのは、続いて上映される、わたくしのご贔屓監督・鈴木英夫のこの「燈台」を観るための繋ぎでした。
 鈴木英夫というシネアストは、ごくありふれた題材でも、サスペンスフルな演出を貫くことによって、観客を惹きつけることの名手なのですが、この映画も、青年が若い義母に思慕を抱くというありふれた題材を、引き締まった演出によって、極上のサスペンスに仕立ててみせてくれています。
 ある燈台を点描するタイトルバックに続いて、活火山が山頂から煙を吐いている様子が数カット重ねられるのですが、続いて、ある旅館の窓から女性が双眼鏡を覗いている映像が示され、その双眼鏡に映った光景(ゴルフ場でプレーをしている男性に混じり、キャディの女性が浴衣姿でゴルフバッグを運んでいます)から、キャディの着ている衣装を見て、ここが伊豆大島であることが察せられます。
 双眼鏡を覗いているのは人妻の柳川慶子ですが、部屋に来た仲居との会話によって、柳川の夫がゴルフに興じていること、この旅館には柳川が若い頃に一度来たことがあることが説明され、映画は、その柳川の若い頃の場面へと観客を導いてゆきます。
 それは、柳川の兄・久保明が戦争から帰ってきたばかりの頃で、柳川、久保、それに父親の河津清三郎、そして河津の後妻である津島恵子の4人で大島に遊びに来たのでした。
 久保が持っているキャメラで、津島、柳川、そして旅館の仲居・文野朋子の3人のスナップを撮る場面があるのですが、久保が津島に向ける視線とそこに漂う表情、そして津島のほうが久保を見返す表情の中に、二人の間に微妙な恋情が交わされていることが察せられます。言葉として一切口に出さずとも、視線のやり取りだけで、この義理の母子の間に介在する微妙な心理の綾を描いてしまう的確な演出。
 このあとは、ちょうど大島に来ている柳川の学校友だちも出てくるものの、主要な登場人物は、河津、津島、久保、柳川の4人に絞られ、舞台も旅館の一室の内部に絞られる上、物語の時間設定も、ある夜の数時間に絞られるという、時間空間を限定された一幕ものの舞台劇のようなお話が展開されてゆきます。
 そして、青年が義母を女として慕っているという現実を抱えながら、父にそれを明かすという決定的な時が訪れるかどうか(久保が持ってきた学校の教科書の欄外に書き込まれた、義母の名前の鉛筆書きが、父の眼に触れるだろうか、という映像的な仕組みが作られています)を巡って、映画はサスペンスフルに展開するのですが、人物のアップの切り返しという単純極まりない手法の積み重ねを軸にしながら、この親子の間に流れる濃密な空気を、手に取るようにありありと観客に共有させつつ、その空気の微妙な揺れを見事に示しながら、観客を引っ張ってゆく井手俊郎の脚本構成、鈴木の画面構成には、つくづく感心してしまったのでした。
 やはり鈴木英夫は素晴らしい。彼の映画をもっともっと観たくなります。





















コメント(4)

Fridaさん、

お尋ねの「キスキスバングバング」という映画のことは、全く存じ上げません。

恐らくわたくしが書いた柳町映画の記述に関連したご質問だと思いますが、パロディが嫌いなわけではないし、映画の中で映画に関する話題が出てくる楽屋落ちは大好きなほうなのですが、ごく個人的な感触として、時にそうした楽屋落ちがあざとく醜いものに感じられてしまうのです。

そのあざとさを、巧く説得力をもった言葉として表現できない己の筆力へのもどかしさがありますが、要はわたくし個人の趣味嗜好ということになりましょう。

例えて言えば、トリュフォー「アメリカの夜」やアレン「マンハッタン」は○、タヴィアーニ兄弟「グッドモーニング・バビロン!」やトルナトーレ「ニューシネマ・パラダイス」は×、というのが、わたくしなりの評価です。
こんにちは。お邪魔します。
PROMISEのセシリア・チャン美しかったですね!
だけど白塗りはいただけないかと・・・。せっかくの美貌が勿体ないなと思いました。
女性からみても惚れ惚れします。
パンダさん、
お久しぶりです。
書き込みありがとうございます。

実は「PROMISE」を観てから二週間後、セシリア・チャンが出ているもう一本の映画「忘れえぬ想い」を観ました。

わたくしは白塗りのセシリアのことも悪くないなどと思っていたのですが、「忘れえぬ想い」は全編ノーメイクのスッピンで、声も吹き替えなしのアヒル声。
これが、プロミスを遥かに凌駕する傑作だし、セシリアの美しさも際立っています。

この「忘れえぬ想い」を観てしまった今は、パンダさんのお言葉にも素直に賛同することができます。

白塗りはいただけない…おっしゃる通りです!

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