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200×年映画の旅コミュの2006年1月上旬

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侘助が観た2006年1月上旬の映画たち。

「モダン怪談100,000,000円」
(1月7日 フィルムセンター)
1929年/監督:斎藤寅次郎
【★★★ 役者の表情で笑わせようという他愛ないドタバで、キャメラワークは凡庸。編集テンポはいい】
今年最初の映画は、去年のフィルムセンターで斎藤寅次郎の特集上映が行われた時に見逃していた、サイレント時代の「モダン怪談1億円」。今回は、“シネマの冒険 闇と音楽”と題した、ピアノ伴奏つきの上映です。この日の伴奏者は小原孝という若いピアニストでしたが、正直なところ、やや饒舌に音を飾り立て過ぎるきらいがあり、うるさく感じられてしまいました。
それはさておき、映画の中身のほうですが、親に結婚を反対されて心中を企てるために赤城山にやってきたカップルが、この山に国定忠次の財宝が埋まっているという話を聞いて、お宝探しへと方向転換し、国定忠次の幽霊に導かれるままに財宝を発見するという、ナンセンス・コメディです。
山に迷い込んだ斎藤達雄が、髭モジャの老人の登場に驚いて逃げ出そうとして、首が木の枝に絡まって苦しそうにするといったギャグや、娘が死んだと思った父親の坂本武が、突如娘が帰宅したため幽霊だと思い、アタフタするといったギャグで人を笑わそうとしていますが、キャメラワークはフィックスの単純な絵を作るばかりで、あくまでも役者の表情や仕草で笑わせようとするという演出は、凡庸と言わねばなりません。
しかし、単純なカット繋ぎに徹した編集テンポは悪くなく、この緩いギャグにも思わず笑いが漏れてしまったのは、専ら編集リズムにそれなりに乗せられたからにほかならないでしょう。


「石川五右衛門の法事」(1月7日 フィルムセンター)
1930年/監督:斎藤寅次郎
【★★★ 去年11月に観た時と印象変わらず。テンポはいいが、特筆すべき魅力もない】
去年の11月12日に観たばかりの映画ですから、印象に変化はないのですが、前述の「モダン怪談」と続けて観ると、こちらには国定忠次ならぬ石川五右ヱ門の幽霊が登場したり、娘の法事ならぬ五右ヱ門の法事が登場したり、双方の映画にはいくつかの共通点が認められます。つまり、「モダン怪談」がそれなりのヒットを記録したため、同音異曲の映画として企画されたのが、この「石川五右ヱ門」だろうと想像されます。
そして、「モダン怪談」のほうは、ほとんどフィックスの画面ばかりだったのに対し、こちらには移動キャメラが使われていますし、墓場から幽霊となって街に戻ろうとする渡辺篤がバスにしがみつくと、驚いた運転手が車を木にぶつけてしまい、乗客が全員失神するという場面での編集(車がぶつかった瞬間でカットを割り、次のカットではバスの周辺で人々が倒れている、というものです)に工夫が施されていたりと、技巧的には進歩のあとが認められると思います。
しかしながら、渡辺と坂本武が追いつ追われつする仕草で笑いを取ろうとする役者頼みの演出は、やはり凡庸と言わざるを得ず、サイレントの斎藤寅次郎は面白いという伝説の一端に触れるというわけにはいかなかった、というのが正直なところです。


「腰弁頑張れ」(1月7日 フィルムセンター)
1931年/監督・脚本:成瀬巳喜男
【★★★★ 現存する成瀬最古の映画だが、若い映像的冒険に満ち、編集リズムも素晴らしい小市民劇】
去年フィルムセンターで成瀬の特集があった時には観ていませんが、5年前の2001年、ラピュタ阿佐ヶ谷で成瀬の回顧上映が行われた時に観た映画です。
成瀬の監督8作目にあたる3巻ものですが、現存する成瀬のフィルムとしては最も古い作品です。
長屋。父親・山口勇はごろごろと家にいます。靴には穴があいているので、新聞紙で塞ぐ作業に没頭しています。妻・浪花友子は生活への不満を口にしています。そんな時、息子・加藤精一が友達と喧嘩して帰ってきます。山口が相手の親に文句をつけに行こうとすると、壊された飛行機の模型を手に、先方の親が先に向こうからやってきます。押し入れに隠れる加藤。母親同士がどちらの子供に責任があるか、舌戦を繰り広げますが、「たまにはお子さんに玩具でも買ってあげたらいかが?お宅の旦那は保険勧誘員でしょ。お子さんにも保険を掛けたらどうですか」などと言われて、浪花の分が悪い状態です。
続いて借金取りがやってきます。今度は山口も押し入れに隠れます。浪花がのらりくらりかわしていると、息子が押し入れの中でくしゃみ。その拍子に襖が倒れるというギャグ。
こんな生活もういや、という浪花に対して、近く5人の子持ちの家で契約を取れば、少しは生活が楽になると慰める山口。早速そのブルジョワ家庭を訪れる山口ですが、先にライヴァル保険会社の勧誘員も来ています。奥さんの明山静江に勧誘合戦を仕掛けますが、帰ってちょうだいと追い返される二人。しかしライヴァルのほうは諦めずに女中を味方につけようとしているので、山口は庭で遊んでいる子供たちを味方につけようと、遊びに加わります。それを見たライヴァルも遊びに加わり、馬飛びの競争。ついには取っ組み合いとなります。山口は、子供
に靴の穴から覗いた新聞の広告を見られて嘲笑を買います。それを見つけた明山が、再び帰ってちょうだい。
ある日、息子の加藤が、ブルジョワ家庭の息子・菅原秀雄の飛行機遊びを羨ましそうに見ています。すると模型飛行機が屋根の上に落ちたので、あれを拾ってくれれば飛ばせてあげる、と菅原が加藤に言います。しかし、菅原は約束を破ったので、喧嘩になります。土管から首を出したり、隠れたり、といったアメリカ映画的なギャグが連発される場面です。
結局菅原を泣かせた加藤。そこへ山口が通りかかります。最初は息子を励ます山口ですが、泣かせたのがブルジョワ家庭の菅原と知り、ライヴァル、母親の顔を思い出します。魚眼レンズのような歪んだ映像を使った、成瀬にしては珍しい表現が見られます。菅原に媚びへつらう山口は、肩車して家に送り返します。そこに近所の子供が電車に轢かれたという噂話。山口は、子供を安全に守らなければといった話で浪花から契約を勝ち取ります。
息子に模型飛行機を買ってやって帰宅する山口。しかし家の中は空っぽ。時計の音だけが響くという音の演出。そこへ近所の人が、電車に轢かれたのが加藤であることを伝えます。
病院に駆けつける山口。ベッドの横には浪花もいます。眠っている息子の顔に、模型飛行機、迫る電車、菅原を肩車した映像、息子の絵をネガ反転した映像などが、幾何学的なワイプで切り取られてオーヴァーラップします。先の魚眼レンズふうの映像といい、この幾何学的ワイプや反転映像といい、若き成瀬の映像的な冒険が確認でき、サイレント期の成瀬の意欲が窺えます。
息子が助かるかどうかは、今夜がヤマ。蛇口から滴り落ちる水滴、洗面器の中で羽をばたつかせる蝿の映像で時の流れや山口の焦燥を表象する見事な演出であり、編集術に長けた成瀬の真髄を感じます。
朝。ようやく意識を回復した息子は「とうちゃん、かんにんして」という声を漏らします。息子に模型飛行機を差し出す山口。泣く母親。フェイドアウトしてエンドマークが出ます。
後に再三成瀬映画に登場する交通事故という主題が、この初期のサイレントにも顔を出していることに驚かされます。この頃の成瀬映画とは、ナンセンス・コメディが多いと語られていますが、この映画はきちんと小市民の生活を見つめたリアリズムに溢れています。アメリカのサイレント映画からの影響も強く感じます。
子供と親、階級差といった主題は、たちどころに小津の「生れてはみたけれど」を想起させますが、小津作品より2年前に出来たのがこの映画であることを考えると、「蒲田に小津は二人いらない」などと城戸四郎に責め立てられた成瀬の無念もわかるような気がします。


「秘密のかけら」(1月7日 シャンテ・シネ1)
2005年/監督・脚本:アトム・エゴヤン
【★★★ 1950年代ハリウッド調の犯罪ミステリー。役者は似合わないが、妙な味わいがある】
アトム・エゴヤンという監督のことは、2003年に公開された「アララトの聖母」によって知ったのですが、1915年、アルメニア人にとって聖なる山であるアララトの麓で、トルコ軍によって行われたアルメニア人大虐殺事件をモティーフにして、監督自身のルーツでもあるアルメニアという国家と国民が蒙った悲劇を、複雑な構造のドラマとして組み立てながら、真摯な思いを込めて世界中に伝えようとする姿勢が説得力を持っていました。エゴヤンがカンヌでグランプリを受けた「スウィートヒアアフター」は観ていませんが、政治的主題と格闘する
のが信条の監督なのだろうと想像していました。
「アララトの聖母」に感心したので、今回の新作にも足を運ぶことにしたのですが、今度は、1950年代のテクニカラー、シネマスコープによるハリウッドの犯罪メロドラマを再現するような映画で、政治的メッセージとは全く無縁な世界ですから、エゴヤンを政治志向の強い監督だと思ったのは間違いだったようです。
1950年代半ば、売れっ子の二人組ボードヴィリアンであるケヴィン・ベーコンとコリン・ファースが、TV番組で病気のポリオと闘う子どものためのチャリティ募金を集めるため、36時間にも及ぶマラソン生放送に挑んでいます。
彼らがマイアミでのマラソン放送を終え、次の仕事先であるニュージャージーに移動した時、移動先のホテルで怪死していた全裸の若い女性モーリーンがいて、その怪死事件と彼ら二人との関係が浮き上がってきます。
映画は、マラソン放送でポリオ克服の象徴として出演していた少女アリソン・ローマンが、15年後には出版ジャーナリストとなり、今はコンビを解消しているベーコンとファースを取材し、彼らの伝記を出版しようとする一方、ニュージャージーの事件と彼らの関わりを追求しようとする過程を、15年前の出来事と1971年の現在を往還しながら描いてゆきます。
セックスシーンを交えながら展開するこの映画のタッチは、どこか50年代の「ギルダ」とかヒッチコック「めまい」などを想起させるフィルムノワールな匂いを発散しており、わざわざシネマスコープサイズが選択されていることも、50年代後半〜60年代前半のハリウッド調の再現を目論んだものに思えました。
15年前のニュージャージーのホテルで何があったのか、その直前、マラソン生放送が始まる前にホテルの客室係だったモーリーンに何があったのか、という謎が次第に明かされてゆく中で、ベーコンとファースの性癖が観客に示され、ラストにはモーリーンの怪死の謎も明らかになるのですが、そこには別にあっと驚くような意外なオチがあるわけではありませんでした。
謎解きの主役を務めるアリソン・ローマンは、「ビッグ・フィッシュ」ではユアン・マクレガーの純愛を受け止める可憐な女性を、「マッチスティックメン」ではニコラス・ケイジの詐欺師の弟子入りを依頼する実娘を演じていましたが、今回はなかなか豊かな胸を披露しながら、激しいレズシーンにも挑戦し、フィルムノワールのヒロインに必死に挑んでいます。しかしながら、先ほど引き合いに出した「ギルダ」のリタ・ヘイワースや「めまい」のキム・ノヴァクなど、筋金入りのフィルムノワール女優と比較すると、ローマン嬢は幼くて任が重いことは否めません。
とはいえ、この映画が持つ50年代ムードが、どこか心をくすぐることも事実で、大して面白いわけでもないのに、飽きることなく画面に眼を惹きつけるサムシングがある映画でした。そのサムシングが何なのか、うまく言葉で説明できないのがもどかしいのですが…。


「狼少女」(1月8日 テアトル新宿/モーニングショー)
2005年/監督:深川栄洋
【★★ 子どもたちの設定が類型的で、差別の扱い方にもデリカシーが欠如。子どもはもっとナイーヴです】
 去年の年末に観たい映画のリストに入れていた映画ですが、レイトショーのみの上映だったため、躊躇していました。しかし毎週日曜日だけはモーニングショーで上映してくれているため、この日足を運びました。
 口コミで評判が広がっているのか、場内は立ち見も出る盛況ぶりで、まずはご同慶の至り。
 冒頭、「昭和と呼ばれていたあの頃…」という字幕が出て、どこかの田舎町の田んぼの横で、少年二人が穴に潜り込んで、地底人がいるかどうか、話し合っています。主人公の小学4年生・明とその友人。そこにガキ大将の光一が飛ばしたヒゴ飛行機が落ちてきて、田んぼに突き刺さった先端が壊れてしまいます。明が飛行機を壊したと思った光一と悪ガキ仲間が明を追いかけ始めます。そして街角に逃げ込んだ明は、見世物小屋の客寄せ口上に引き寄せられます。明は、見世物小屋の売り物である“狼少女”のチラシにたちまち魅せられます。
 物語は、主人公・明を中心に、東京から転校してきたという垢抜けた美少女・留美子と、家が貧しいために汚い格好をして、クラスメイトからは“狼少女”とからかわれている秀子、家計を助けるために編み物教室の先生を始める明の母、それにイジメっ子である光一らのグループなどが絡まって展開してゆき、学校からは見ることを禁止されている見世物小屋の狼少女の正体は誰なのか、というフックを軸に、観客を引っ張ってゆきます。
 昭和といってもどの年代あたりの話だろうと思って画面を観ていましたが、のちに見世物小屋の口上に“オイルショック”という言葉が出てきますので、1970年代半ば、昭和50年前後の設定だろうと思われます。その頃の小学生の生活ぶりをわたくしが知る由もありませんが、いくらなんでも必要以上に髪をボサボサにして、穴だらけの服を着て顔も汚れている秀子というイジメられっ子の描写に、作者の過剰な作為が感じれ、わたくしはまったく乗れませんでした。のちに秀子の母親として手塚理美が登場しますが、手塚の着衣などは秀子ほど酷いものではないのですから、人の子の親だったら、自分の娘の格好をもう少し気にかけてやるのが常識という考えがわたくしの頭から離れず、そこにますますデリカシーを欠いた作者側のご都合主義を感じ取ってしまったのでした。
秀子をイジメる光一グループの設定も描写も類型的で、子どもらしいナイーヴさのない単調な人物造形に呆れます。人物造形が類型的で薄っぺらいだけに、そのイジメの描写にもデリカシーが一切なく、画面から眼を逸らしたくなってしまったほどです。
上映後、舞台挨拶があって、若い監督・深川栄洋と留美子役、秀子役、イジメっ子役の子役たちが壇上に現われましたが「ボクはあんなイジメは絶対にやりません」とハキハキした口ぶりで断言した子役たちは、映画の中の役柄とは違って子どもらしいナイーヴさに溢れていましたし、そんな子役たちの挨拶を眼を細めて聞いていた監督の深川も、なかなかどうして好青年で好感が持てました。映画は感心しませんでしたが…。


「輪廻」(1月8日 新宿スカラ座2)
2005年/監督:清水崇
【★★ 理に適った展開ではあるが、怖くないんじゃ話にならん。恐怖映画は怖くなくっちゃ】
ハリウッドに招かれた前作「THE 呪怨」で全米興行1位を記録した清水崇の新作だけに、さてどんな映画になっているかと思い、新宿の小屋に飛び込みましたが、今回は客足は伸びていないようで、公開2日目にしては寂しい限りの2割に満たない入りでした。
渋谷の女子高校生にへんなサラリーマン風の男の霊が取り憑いたり、トラック運転手に見知らぬ人物が取り憑いたりするイントロを経て、映画は、35年前にあるホテルで起きた大量殺人事件を映画として再現ようとする映画作りの監督や主演女優に降りかかる“輪廻転生”にまつわる惨劇を描いてゆきます。
主演女優の優香には、不思議な少女の霊がまとわりつき、「ずっと一緒だよ」という言葉ばかりを発するその少女の幻影が、優香を悩ませます。
監督の椎名桔平もまた、「記憶」と名づけられたこの映画の製作に異常なまでの意欲を燃やし、実際の事件が起きたホテルに全スタッフ・キャストを連れてゆくという熱の入れように、ただならぬものを感じさせます。
一方、この映画作りとは無縁に生きている女子大生・香里奈にも事件の影が押し寄せてきます。
要するに、2006年の今を生きている優香、椎名、香里奈をはじめ、冒頭に出てきた女子高生やトラック運転手らは、いずれも35年間に惨劇に巻き込まれた被害者たちの“生まれ変わり”であり、その彼らが、何かのきっかけで事件の記憶を呼び覚ました挙句、被害者たちの身に起きたこともまた再現されることになったようです(恐らく映画化という、惨劇の再現を目論んだことで、被害者たちが現世に残した“呪怨”が蘇った、といった感じなのでしょう)。
と、こうして物語の筋立てを自分なりに分析できるくらい、一応今度の映画は理に適った整合性を持っているように思えます。前作や日本版「呪怨」の場合は、ただ表層的な怖さには溢れかえっていたものの、筋立てがちゃんと理解できるかと言うと、どうも表層の怖さに押し流されてしまって、どこかいい加減な印象は拭えませんでしたから、その意味では、今度の新作では、ラストで主人公の優香が前世で背負っていたものが明らかになる段では、つい「なるほど」と呟きたくなるような整合性を持っていた分、清水の成長を感じないでもありません。
しかしながら、恐怖映画として肝心の“怖さ”の面では、表層的にも深層的にも、今度の映画にはまったく欠けているのであり、時々、これみよがしのキャメラワークにドキンとすることはあっても、前作ハリウッド版のようにオシッコをちびりたくなるような怖さは感じない映画なのでした。
「なるほど」と納得することはできても、“怖さ”を感じない恐怖映画では、面白くも何ともありません。ただ怖ければいいわけじゃないですが、怖くないんじゃ話にならない。映画ファンとは貪欲なものです。


「風の武士」(1月8日 自宅ヴィデオ鑑賞/エアチェック)
1964年/監督:加藤泰
【★★★★★ 紀州の山奥にある秘境を巡る話だが、男と女の情念が燃え上がる場面に加藤泰の真髄が光る】
 昨年末に大掃除をした時に、本棚の奥から出てきた大量のヴィデオテープの中から、まだ観ていない映画を引っ張り出て、少しずつ観ようと思い始め、まずはこの加藤泰の映画を選択。
 数年前にNHK−BSで放送された時に録画したものです。
 冒頭、山伏たちが紀州、浜松、そしてもう1箇所で、次々と武士を闇討ちする場面が畳み掛けられます。山伏たちが何者なのか、襲われるほうの武士は何者なのか、なぜ襲われなければならないのか、観客には一切の説明がなされませんが、加藤のスピーディーなカット割りと有無を言わせぬ展開に、わたくしたちは圧倒されるばかりで、思わず膝を乗り出して、次なる展開を待ちます。
 すると、舞台は江戸の下町に変わり、武家の次男坊として暢気に暮らしている大川橋蔵が登場するのどかな場面へと転調するのですが、この映画のテンポの切り替えが見事です。
 しかし、暢気に生活している橋蔵のもとにも、冒頭に登場した山伏たちの殺気立った空気が伝播してゆきます。具体的には、橋蔵がよく出入りする近所の剣道場の師範・宮口精二と、橋蔵が心を寄せている娘・桜町弘子のもとに山伏たちがやってきて、宮口を襲うことになるため、橋蔵も巻き込まれる形で、殺気立った空気の中に入ってゆくのです。
 その後、橋蔵は思いがけず老中の水野和泉守(西村晃)に呼び出され、ことの概要を聞かされるとともに、事態に本格的に関わるよう命令されます。老中の話では、紀州の山奥にある“やすらいの里”という秘境に対して、最近紀州藩が介入を図るようになったため、この里が幕府として守るべきところなのかを橋蔵に探らせようというのです。橋蔵の任務を助けるため、幕府お庭番から“猫”と呼ばれる忍びも遣わされます。
 映画は、こうした忍者の入り乱れる(橋蔵自身にも忍びの血が流れているという設定です)“やすらいの里”を巡る騒動をおいかける一方、その騒動に巻き込まれる女たちの情念もくっきりと描き出している点に、加藤らしさが発揮されます。
 江戸には、橋蔵が思いを寄せる道場の娘(実は里の姫君)桜町がいることは前述しましたが、このほかにも橋蔵には情婦として付き合ってきた酒場の女・久保菜穂子がいて、橋蔵が幕府の命を受けて江戸から紀州に出かけるに当たって、橋蔵と久保との間に別れの場面が置かれています。その場面が、実に加藤らしいメロドラマを形作り、観る者を圧倒するのです。
 幕府から500両という多額の支度金を手にした橋蔵は、情婦・久保にその半額を上げると言い出します。そのような大金を眼にしたこともない橋蔵と久保が、小判を玩具にしながら、自分たちの将来に幸あれとお互いを励まし合う場面に流れる、貧しき人々への共感。そして、男と女が別れに際して発する濡れた情感。この場面を観て、この映画が間違いなく傑作であることを確認することができるでしょう。
 久保と別れた橋蔵は、“猫”南原宏治とその手下・中原早苗の助力を得ながら、東海道を下ってゆくのですが、“やすらいの里”出身でありながら、紀州側に寝返った形の大木実(宮口の道場の弟子で、橋蔵と同様、桜町に思いを寄せており、桜町を独占しようとする一方、紀州の力を借りて桜町を橋蔵から守るという目的で、宮口を自ら殺害して、紀州の山伏たちとともに東海道を下っているという設定です)と橋蔵の確執、味方のはずなのにどこか腹に一物を抱えているようで不気味な南原と橋蔵の駆け引き、紀州の手先だったはずの大阪商人・進藤英太
郎の裏切り、といった細部が物語を複雑にさせながらも、橋蔵の桜町を守るという思いに一本の芯がビシッと通っているため、映画はストレートに観客の心に届いてゆきます。
 そして、紀州の山伏たちを見事に独力で倒した橋蔵は、桜町を“やすらいの里”に送り届けます。しかし里に居続ければ姫君としての生活が待っている桜町は、橋蔵には手の届かない存在になってしまいます。旅の過程で橋蔵への思いを深くしている桜町は、ここで一気に女としての情念を燃え上がらせ、一夜橋蔵に身を任せることになるのですが、このラヴシーンこそ、全篇の白眉と呼べるでしょう。
 山奥の洞穴で身を合わせることになる男女から立ち昇る濡れた情感もさることながら、愛する橋蔵に向けて己の心と身体を全開にしてぶつかってゆく桜町の迫力は、加藤の傑作「車夫遊侠伝 喧嘩辰」における桜町の強烈な存在感に負けるとも劣らぬ凄みを発揮して、観る者の眼を射抜きます。加藤のローアングルによるキャメラポジションが、この桜町の情念の高まりを、見事にフィルムに焼き付けるのです。
 いやあ、いい映画でした。加藤のフィルモグラフィーの中でも、輝いている一本だと思います。


「ハナ子さん」(1月8日 自宅ヴィデオ鑑賞/エアチェック)
1943年/監督:マキノ正博
【★★★★ バズビー・バークリーばりの群舞演出が見られるマキノ節ミュージカル。戦時中の思いも吐露】
この日もう1本のヴィデオは、友人の彦一さんが貸してくださったマキノ正博の戦時中の中篇。
タイトルバック、スタジオの天井に据えられたキャメラが真下に向けられ、そこでは東宝ダンシングティームによる群舞が繰り広げられるのですが、踊りは幾何学模様を形作り、まさしくハリウッド・ミュージカルで活躍したバズビー・バークリーからの影響がありありというか、もっと言えば剽窃の場面となっています。まあ映画はパクリの歴史でもありますから、ここはマキノの大胆なまでの剽窃に苦笑を浮かべておきましょう。
このあと、主人公のハナ子さんこと轟夕起子が登場して、背景に人物の絵が描かれたセットで歌い始め、父親を紹介すると父の絵の奥から父親役の山本礼三郎が登場するといった具合に、家族のメンバーを一人ずつ紹介してゆき、この微笑ましいミュージカルが展開してゆきます。
キャメラが戸外のオープンセットに移ると、「とん、とん、とんからりと隣組」という有名な歌が歌われながら、ハナ子さんの住む街の住民たちが、順送りに住民仲間を紹介してゆき、ハナ子さんはと言えば、「買い物は自転車に乗って」というやはり有名な曲を口ずさみながら、恋人たる灰田勝彦がいる乗馬場に向かいます。
いよいよ戦争が泥沼化しようという1943年に公開された映画ですから、この当時の東宝映画の例に漏れず冒頭には「撃ちてし止まむ」という戦意高揚の字幕が出てくるのですが、映画の前半では、戦争の影などまったく感じさせないまま、お花畑で轟と灰田がラヴソングを合唱するという能天気ぶりです。しかし、ハナ子さんが成城と思しき街中を自転車で爽快に走る姿をワンカット長回しで捉える一方、馬場で灰田と戯れる場面をマキノらしい素早いテンポのカッティングで畳み掛けるあたり、観客の心を昂揚させる術は誰よりも知り尽くしているマキノだけに、戦争がどうした、などということはどうでもよくなり、わたくしたちはひたすらこの愉しいミュージカルに身体を委ねてしまうことになります。
このあと、結婚式はもっと先でもいいだろうと主張する父を説き伏せて、ハナ子さんは灰田と晴れて結婚して小さな家を構えるに至るのですが、微笑ましいエピソードが重ねられる中に、次第に戦争の影が覗き始めます。
戦地で怪我をした中村彰が傷痍軍人として街に帰ってきて、灰田の妹である高峰秀子と恋仲になり、結婚することになるあたりから、戦争が生々しいイメージとして映画に侵食してくるのですが、消火訓練、空襲警報が鳴りB29の空襲が続く中での轟の出産、そしてついには灰田に赤紙がやってくるに至るのです。
戦意高揚が強く求められ、映画法によって当局の検閲が厳しかった時代ですから、マキノの表現には厭戦的な要素は含まれていませんが、前半にはまったく能天気な明るさに彩られていた映画に、次第に夜の場面が増え、空襲そのものまでが描かれるのを観て、泥沼化する戦争に対するマキノの忸怩たる思いは感じられたのでした。
とはいえ、この映画が戦時中の日本人を慰撫しようという目的で作られたものでしょうから、映画全体に暗い影が落ちるということはなく、戦争の現実に対して力強く立ち向かおうとする市井の民のポジティヴなパワーを積極的に顕揚しようとしているところに、この映画の魅力があることは間違いありません。


「水着の花嫁」(1月9日 自宅ヴィデオ鑑賞/エアチェック)
1954年/監督:杉江敏男
【★★★ 堅実に作られたすれ違いロマンティック・コメディ。杉江敏男の職人芸を堪能できる】
このヴィデオは、去年の年末に観た「恋愛特急」と同様に、友人の北京波さんが随分以前にダビングして送ってくださったものです。「恋愛特急」とほぼ同時期に撮影された杉江敏男の監督作品。じじつ、この「水着の花嫁」の後半、伊豆を舞台にした場面では、「恋愛特急」の主要な出演者であった岡田茉莉子が芸者の役でカメオ出演していました。ちょうど、「恋愛特急」のほうに「水着の花嫁」のメインキャストたる池部良や宝田明がカメオ出演していたように…。
 冒頭のクレジット明け、遠くに国鉄のガードが見える下町の路地でチンドン屋が練り歩く場面が出てきて、ちょっと驚きました。というのも、下町の路地とチンドン屋という組合せは、成瀬巳喜男の専売特許だからであり、路地のカットに続いて、小料理屋の玄関先のカットが重ねられてキャメラが料理屋の中に入り、縁側の廊下に雑巾をかけている女中を経て、部屋の中で将棋を指している中年男二人へと観客を導く流れも、実に成瀬的な構成でした。
 しかし、将棋を指している中村是好が、向かいで次の一手を考え込んでいる柳家金語楼のスダレ頭を見て、「これで3位とは勿体ない」などと呟いたあと、金語楼の家に飾ってある「光頭コンテスト」の賞状へとズームする展開は、成瀬タッチとは呼べないもので、このあたりから杉江独自のタッチへと自然に移行するのです。
 その金語楼のもとに、娘の縁談が持ち込まれます。娘の寿美花代は大学の水泳部OGとして後輩の指導に当たっているという設定で、伊豆あたりにあるプールで現役選手たちと合宿しながら、近づいた大学選手権に向けて特訓の最中です。今や高島忠夫ファミリーのゴッドマザーのような寿美ですが、思えば彼女の出演する映画を観るのはこれが初めてで、彼女の水着姿(といっても勿論ビキニではなく、スクール水着です)を観ながら、若い頃はかくもクールな美しさを持っていたことに驚きを禁じ得ませんでした。
 寿美のもとに電話をかけて縁談を薦める金語楼ですが、寿美は歯牙にもかけません。彼女が水泳部顧問の岡村文子にこっそり打ち明けた話によって、実は寿美には好きな男がいて、それは通学電車の中で知り合った池部良だということが明かされます。電車で知り合ったあと、後楽園球場と思しきスタジアムの人込みの中で再会した寿美と池部が、スタジアムの階段を挟んで上と下とで会話し、また会う約束を交わす場面が印象的で、高さの差異を演出に取り入れる杉江の才能が光ります。
 娘にあっさり縁談を断られた金語楼は、伊豆を訪れて娘に縁談相手の写真を見せます。その時、観客には、もしかしたらこの写真の主は池部なのではないか、という予感が走るのですが、それはあっさり覆され、写真は池部とは別人でした。
 ところが、このあとの展開で、実は寿美に縁談を申し込んだのが池部本人に違いないことが発覚し、その縁談を取り持とうとした池部の伯父・小川虎之助が別の甥っ子の写真を金語楼に渡していたことがわかるのですが、この写真による“すれ違い”と同様に、いくつもの偶然の“すれ違い”が何度も繰り返されることで、寿美と池部はなかなか再会を果たせず、観客をじれったい思いにさせるのでした。
 映画全体の作りは、すれ違いの繰り返しによって組み立てられるロマンティック・コメディなのですが、実に手堅い作りに、ついつい引き込まれてしまいます。何ということはない題材なのですが、これだけのウェルメイドな恋愛劇に仕立ててしまうのですから、杉江はやはり巧いと思います。杉江の巧者ぶりはもっと高く評価されてもいいはずだと思います。


「香華 前後篇」(1月14日 銀座シネパトス3)
1964年/監督・製作・脚本:木下恵介
【★★★ 日本の近代化の中で、享楽的な母に翻弄された娘の半生を描いた見事な大作。手堅すぎるのが難点】
 去年の年末に銀座シネスイッチで開かれていた“松竹110年祭”の時には見逃してしまっていた映画でしたが、年が明けて場所を銀座シネパトスに移して再上映されましたので、足を運びました。
 この映画は、1977年にフィルムセンターで木下恵介特集上映が行われた時に観ましたが、長くて堂々たる大作だったことは覚えているものの、中身はまったく忘れてしまったので、もう一度観たいと思ったのです。
 冒頭は、田舎の土手をロングで捉えたフィックスショットで、土手の上には長い人の列ができています。キャメラが近寄ると、それはお棺を担ぐ人を中心にした葬列であることがわかるのですが、列の後ろのほうから一人の若者が駆けてきます。そして村長に向かって、「ついに203高地が落ちました」と報告するのです。村人たちが「万歳」と叫ぶ中で、位牌を持って真っ白な装束に身を包んだ乙羽信子が、茫然と立ち尽くしています。
 ここで場面が変わると、それなりに豪華な家の中。乙羽に着物を売ろうとやってきた桂小金治と、乙羽の母親という設定の田中絹代の会話によって、夫を亡くしたばかりの乙羽が、早くも再婚相手を決めて二度目の嫁入りをしようとしている事情が観客に知らされ、そんな尻軽な娘のことを田中が「親不孝者」となじっています。田中の傍らには、乙羽の娘でありながら、田中のもとに引き取られている幼い娘が手毬歌を歌っています。
 この冒頭の2シーンの語り口が、全篇にわたって援用されているのですが、それはつまり、あるシーンで事柄が展開したあと、フェイドイン〜アウトによって場面が変わると、前の場面から一定の時間が経過して事態には変化が訪れているのですが、その変化の逐一が観客にはエピソードとして示されず、さりげない台詞のやり取りによって事態の変化が観客にわかるように説明されるという手法です。
 このような手法によって、巧みに時間を飛ばしながら、1904年の日露戦争における203高地占領から、1923年の関東大震災を経て、第二次世界大戦を挟んで1964年東京オリンピックの年(つまりこの映画の公開された年)までの日本の激動期を背景に、享楽的に生きる母親・乙羽と、その母に翻弄されながら、芸者として、旅館女将として激動期を生き抜いた娘・岡田茉莉子の確執を大河ドラマとして見せてゆく200分の大作です(第一部「吾亦紅の章」と第二部「三椏の章」の間には10分間の休憩が挟まれ、第二部の冒頭にはタイトル・
クレジットが繰り返されますので、二本立て興行の時代に2本分として公開されたのがこの映画でした)。
 岡田と乙羽の演技合戦は、さすがに見応えがあり、彼女たちの全キャリアにおいても特筆すべき芝居を披露していると思われ圧倒されますし、木下の話術は円熟の極みとも思えるまでに的確そのもので、キャメラをどう置いて、どのように場面を組み立てればいいか熟知した者だけが作れる簡潔さには舌を巻くほかありません。
 しかしながら、その余りにも簡潔かつ手堅い作りが、どこか小手先でチョチョイと作り上げたように見えてしまうような、物足りなさを感じさせてしまうことも否定できません。よく出来た大河ドラマであることは充分に感じさせながらも、こちらの心を揺さぶるものが不足しているのです。木下ならこれくらい巧くても当たり前だと思わせる点が、人を動揺させないのでしょうか。
 木下という才人は、巧すぎたことが不幸な映画作家だったのかも知れません。


「綴り字のシーズン」(1月14日 シャンテ・シネ2)
2005年/監督:スコット・マッギー、デイヴィッド・シーゲル
【★★★★ 家族自立と家父長の弱体化というポスト9.11的主題を誠実に綴った自省的かつ思索的な良心作】
観ようかどうしようか迷っていた映画ですが、友人の北京波さんがご自身の管理するコミュで長い文章を発表しているのを斜め読みして、観ることにしました。
冒頭のタイトルバック、ヘリコプターが“A”という文字を吊り下げて飛んでいる映像が映し出され、その文字がカリフォルニア州オークランド空港建物の前に置かれるサイン“Airport”の“A”に納まってゆくのをキャメラが追います。冒頭から、この映画が文字を巡って繰り広げられることを観客に明示しているのです。
“Spelling Bee”と呼ばれるスペリング・コンテストのことは、2005年に日本公開されたドキュメンタリー「チャレンジ・キッズ 未来に架ける子どもたち」の予告編で知っていました。出題者が述べる言葉の綴りを、子どもたちが暗誦し、これを間違わずに言い続けた子どもがチャンピオンの栄光に輝くというコンテストで、全米では長らく人気を維持しているコンテストのようです。
物語は、ユダヤ教の神秘主義を専攻する大学教授リチャード・ギアの家庭に起きる出来事を描いてゆくホームドラマの形をとりながら、圧倒的なイニシアティヴを握り一神教を唱えていた家父長の威厳が崩れ、家庭の構成員がそれぞれ自立を志向する中で、如何に家庭は再生できるか、という主題を誠実に綴っており、わたくしには、9.11以降の“悩める合衆国像”を反映した、極めて寓意的な物語に思え、とても面白く観ました。
単語のスペルを暗唱するコンテストで天才を発揮する少女を軸に、幼くして両親を事故で亡くしたトラウマから次第に精神のバランスを失う母、父の押しつけるユダヤ教の教義に疑問を抱きインドの多神教にひかれる兄、そして家父長としての自負に綻びを来す父。
「岸辺のアルバム」や「冬の運動会」など、70年代に作られた優れた日本製TVドラマを思い出させましたが、イラク侵攻以降ますます頑迷さを増しているように思える某大統領の家父長としての信頼が薄れた大国なりの悩みが、この物語に織り込まれているようにも思えました。また、楽天的なヒーロー礼賛映画ばかりが目立つと思えるハリウッドにあって、インディーズ系にはまだまだ誠実かつ思索的な映画を作る連中がいることに、頼もしさも感じたのでした。
物語には意外なラストが用意されていますが、観終わってみれば実にこうでなければならないエンディングにも思え、納得します。ああしなければ、この家庭は救われなかったのだろうと思わせるのです。
脚本を手がけたナオミ・フォナー・ギレンホールという女性は、俳優ジェイク・ギレンホールの姉だそうです。
マッギーとシーゲルという二人の監督の名前は初耳ですし、二人の役割分担がどうなっているのか、わたくしには知る由もありませんが、まさに世界とは言葉によって出来ていることを、鉛筆の文字がアルファベットの分子を撒き散らすような場面で見事に表象したのには感心しましたし、鳥や折り紙が主人公に言葉の精霊を告げる場面の繊細な演出に、彼らの才能の煌きが発揮されていると思いました。


「狩人の夜」(1月15日 自宅ヴィデオ鑑賞/エアチェック)
1955年/監督:チャールズ・ロートン
【★★★★★ 初見だが、カルトになった理由がよく解る悪夢のお伽話。名優ロートンの演出は単純だが力強い】
 わたくしの家の本棚の奥に眠っていた録画ヴィデオの1本。
ヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」やビリー・ワイルダー「情婦」で法廷判事に扮していた名優チャールズ・ロートンが手がけた唯一の監督作。名作としての評判が長く伝えられながら、日本では未公開の時期が続き、1990年になってようやく一般公開されたのですが、わたくしはその公開時に見逃してしまい、数年前にNHK−BSで放送された時に録画しながら、録画した事実すら忘れ去って、棚にしまいこまれていたのでした。
冒頭、タイトル・クレジットに続いて、一面に輝く星空にリリアン・ギッシュの顔が浮かび上がり、宗教的な教訓がキャメラ目線で語られます。さらに、子どもたち3人がギッシュの周りに現われ、聖歌を口ずさみます。ギッシュの教訓話が終わらないうちに、田舎町の上空を飛ぶヘリコプター撮影が捉えた一軒の家の場面となり、その納屋で女性が殺されたことを子どもたちが発見する場面へと続きます。
次の場面は、田舎の道をロバート・ミッチャムがオンボロ車を運転しているところで、ミッチャムは神様に語りかけるという形で、空に向かって「自分が殺したのは6人か、12人か、覚えちゃいない。要するに小金を貯めた未亡人が自分に擦り寄ってきて、殺されるのを待っているんだ」とか何とかうそぶくのです。
冒頭数カットを観ただけで、その特異な語り口には違和感を抱くのですが、まっすぐに観客の心に向かってくる直球のパワーを感じることも事実で、画面から眼を離せなくなります。
ミッチャムは様々な街でキリスト教の伝道師として振る舞い、殺人鬼としての顔を隠して生きているのですが、ある時ストリップ小屋に入って顔を顰めている時(彼の性的な潔癖性を表象した場面だと思われます)、車泥棒の罪で警察に逮捕されます。
場面が変わると、別の家に車が急行し、車から出てきたピーター・グレイヴスが自分の息子と娘を呼び寄せ、自分は今銀行強盗をしてきて1万ドルを奪ったこと、この金の在り処は決して誰にも告げてはならないこと、金は子どもたちが大きくなった時の生活の足しにすること、などを言い置き、追ってきた警察に逮捕されます。
警察は奪われた金について子どもたちに事情聴取するようなことはせず、グレイヴスを捕まえるとあっさり引き下がってしまいますので、どうやらリアリズムとは全く無縁に、いわば寓話やお伽話として組み立てる意図が理解できるようになります。
グレイヴスが刑務所で同房となったミッチャムに1万ドルを奪ったことを話すあたりも、リアリズムとはかけ離れた展開でしょう。
しかし、銀行強盗で2人を殺したかどで死刑になったグレイヴスとは対照的に、車泥棒の罪だけを刑務所内で償って出所したミッチャムがグレイヴスの家を訪れ、未亡人のシェリー・ウィンタースを誘惑して再婚へといざない、金の在り処を聞き出そうと子どもたちに迫るといった展開を観るうち、先述したまっすぐな直球パワーが、いわば映画の原初的な力として、観る者を圧倒するのであり、この映画がカルトとして崇められた理由がよくわかるようになります。
再婚の初夜、ミッチャムとの契りに胸を躍らせるウィンタースとは対照的に、性的な関係を拒否するミッチャムのインポテンツ性と聖性を光と影の強烈なコントラストの中に浮かび上がらせる映像構成の凄味。
あっさり殺されたウィンタースが家の外に流れる川の底に沈められて、川の藻とともにユラユラと髪が揺れる場面の神々しいイまでの禍々しさ。ウィンタースを乗せた車に釣り糸をひっかけた老人が、川を覗き込んでウィンタースを発見する場面での俯瞰映像の不気味さ。
いよいよ命を狙われた子どもたちが、地下室に隠れているところをミッチャムに見つかる場面での、アオリと俯瞰の組合せによって恐怖の焦燥を表象するアングル選択の見事さ。
ちょっとした隙に逃げ出し、川に小舟を出して逃げ延びる子どもたちを、取り逃がしたミッチャムが悔しくて発する奇声の戦慄。
夜の川を流れてゆく小舟を見守るように、カメ、フクロウ、山羊、兎など動物の視点を導入する不気味な新鮮さ。
これらの映像の組み立ては、これまでに観たこともないユニークさを持って観客の眼を虜にし、まさに箱庭のような世界で繰り広げられる“恐怖のお伽話”に心底酔わされます。
このあと二人の子どもを乗せた小舟はリリアン・ギッシュが3人の孤児を育てている小屋に辿り着き、兄と妹には一時的な安寧の時が訪れたかに思えますが、案の定ミッチャムの毒牙は、この小屋にも迫ってきます。
勿論、ギッシュがミッチャムを退治し、彼は警察によってウィンタース殺しの容疑で逮捕されます。
ここで恐ろしいのは、映画の前半でミッチャムを信用しきっていたウィンタースの隣人で小間物屋の夫人が、ミッチャムが殺人鬼だったと知るや、殺人鬼を血祭りに上げることに狂ったように躍起になってしまうあたりで、この映画が1950年代半ばに作られていることを思うと、ハリウッドの赤狩りに対する作者側のシニカルな思いが反映しているようにも感じました。
右手の指4本には“LOVE”の4文字を彫り込み、左手には“HATE”と刺青しているという、ミッチャムのアンビヴァレントで得体の知れない不気味なる存在感。
ミッチャムが川べりにある家を襲うというシチュエーションからは、彼が演じた「恐怖の岬」の復讐に燃える変質者を思い起こしますが、映画としての原初的なパワーに溢れたこちらの映画のほうが、不気味さも、受ける感銘も遥かに上であることは間違いありません。
もっと早く観ておけばよかった映画。傑作です。
ちなみに、この映画を観た翌日、出演者の一人であるシェリー・ウィンタースの訃報に接しました。後年はすっかり太って「ポセイドン・アドベンチャー」では「あんな細いところ、私は通らないわ」などという科白をあてがわれていたウィンタースですが、「狩人の夜」ではまだスリムな美人でした。合掌。

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