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200×年映画の旅コミュの2007年9月上旬号(旧作洋画)

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「ナック」(9月1日 シネマヴェーラ渋谷)
1965年/監督:リチャード・レスター

【★★ スタイルはポップでも、中身は内容のない堂々巡りで、退屈。つい惰眠を貪ってしまった】
 シネマヴェーラ渋谷でのユナイト映画特集で観た映画。この映画は大学生の頃、名画座で観たことがありますが、昔観た時は、サイレントのスラップスティックを模したような作りがポップに見えました。
 間口は狭いものの奥行きはそれなりにあり、3階建てという縦に細長いアパートを舞台に、このアパートの持ち主である主人公の小学校教師マイケル・クロフォードが、3階の間借り人である友人のドラマー、レイ・ブルックスのモテモテぶりに憧れ、自らもモテるコツ(=ナック)を聞き出して実践しようとするものの、うまくゆくはずがない中で、別のアパートを白く塗り潰そうとしてお払い箱になったドネル・ドネリーが、強引にクロフォードのアパートに転がり込んできて、ブルックスの女誑しぶりを批判しつつ、クロフォードに自立を迫る一方、ひょんなことから知り合った田舎出の娘リタ・トゥシンハムを巡って、プレイボーイのブルックスが盛んに彼女にモーションをかけるものの、彼女のほうは純朴青年のクロフォードとくっつくという話。
 確かにスタイルはポップでも、トゥシンハムを巡る3人の男たちのドタバタがあまりに内容のない堂々巡りにしか見えず、ちと退屈して惰眠を貪りました。スタイルだけがポップでも、中身は新しさがないのです。
 同じようにポップ狙いのレスター映画でも、「ヤァヤァヤァ」のほうが、スタイルも中身も伴っていて、面白いと思います。


「ラストタンゴ・イン・パリ」(9月1日 シネマヴェーラ渋谷)
1972年/監督・原案:ベルナルド・ベルトルッチ

【★★★★ この物語から何を読み取るべきか、言葉に置き換えられないが、ガツンという観応えはある】
 この日のユナイト映画特集もう1本は「ラストタンゴ・イン・パリ」、封切の時、確か大学受験浪人をしている頃に観て以来30数年ぶりですが、当時は、ヴィットリオ・ストラーロが捉えるオレンジ色の夕陽に反映した世界が、“ヨーロッパ文明の黄昏”という言葉を思い起こさせ、これの1本前の「暗殺の森」ともども、ベルトルッチという男は、ヨーロッパ文明が死期に向かっていることに自覚的な人だということを強烈に印象づけられたものです。
 しかし、10代のケツの青いガキには、荷の重かった映画だろうと思います。
 劇中、マーロン・ブランドの役柄は45歳と設定されていますが、初めて観た当時は所詮ジジィとしか見えなかったのに対し、今回、劇中のブランドより年上になってしまったわたくしが観直して、映画ヲタク青年ジャン=ピエール・レオを恋人に持つフランス娘マリア・シュナイダーが、妻に自殺された初老のアメリカ野郎ブランドと結ぶ性的関係を通して、世代間闘争としてのドラマ(レオ対ブランド、シュナイダー対ブランド)と、男女間の性的ヒエラルキーを巡るドラマなどがスリリングに展開するわけで、ブランドが放つジジイの戯言に身を詰まらせたり、映画ヲタク青年レオの能天気な無邪気ぶりに苦笑させられたりしながら、ぐいぐいと惹きつけられていたのでした。
 冒頭、パリの高架線をメトロが走る下で、妻に死なれて慟哭するブランドと、毛皮を着て、結婚後に住むアパルトマンを探し歩くシュナイダーがすれ違い、シュナイダーが入ったカフェで電話をかけようとして、公衆電話ボックスにいたブランドと2度目の遭遇を果たし、さらには、シュナイダーが見つけたアパルトマンの一室で蹲るように座っているブランドがいるといった具合に、3度の偶然を重ねたところは、二人が出会うのはもはや偶然ではなく運命なのだとでも言わんばかりに、強引なまでに二人のセックスへと雪崩れ込む展開は、有無を言わさぬ説得力を感じました。
 このあと、自ら名乗ろうとするシュナイダーに固有名詞の使用を禁じ、いわば匿名性という隠れ家に逃げ込んだブランドの孤独が、若い娘には神秘の魅惑として機能したのか、シュナイダーもこの隠れ家を共有することになり、アメリカ人のブランドの口走る英語と、フランス娘シュナイダーのフランス語が交叉するという意味で、この隠れ家は国籍すら曖昧な地点として機能することにもなるのですが、10代のわたくしが直感として受け取ったヨーロッパの黄昏物語の中で、アメリカから流れ着いた初老の男が果たす文化的な暗喩については、わたくしには分析する手立てがありません。
 一方、匿名性という曖昧な時空間を共有するブランドとシュナイダーが、このアパルトマンの中に限定した関係として閉じられていた間は性的な関係を持続していたものの、女のほうに婚約者との結婚という現実の日程が近づき、いくら年をとってもロマンティストたる甘えを捨てることのできぬ男とは違って、あっさり現実を選び取ることを得意とする女たるシュナイダーが、ブランドとの関係解消をあっさり選択しようとした途端、一方のブランドのほうは妻の死をようやく克服し、シュナイダーとの新生活を夢見て、これまでの匿名関係を捨ててお互いに名乗り合おうとするという態度に出るのであり、こうなれば女のほうは、もはや老い先短いジジィに用などないのであり、執拗に追ってきて名乗ろうとする男をあっさりと射殺し、こんな男など知らぬと呟くに至るわけです。この、匿名と実名を巡る格闘は、まずまずの面白さだったと思います。
 ところで、果たしてこのような物語のどこに“ヨーロッパの黄昏”が塗り込められているというのか、わたくしの若い頃の直感などあてにはなりませんが、それでもなお、今回久しぶりに観直して、“ヨーロッパの黄昏”という言葉をこの映画が実感させてくれていると思ってしまったのですから、もはやわたくしには、この物語から何を読み取ればいいのかを言葉に置き換えることは諦めざるを得ないのですが、ガツンという観応えを与えてもらったことは間違いありません。
 ちなみに、30数年前に観た時は、至るところで醜いボカシが画面を汚していたのですが、今回、ボカシなどない“完全版”を観ると、当時センセーショナルに語られたセックスシーンが、実はまったく大したものではなく、まあ、ハリウッドを代表するオスカー俳優が、肛門愛と思しき行為に耽るさまが俯瞰で捉えられた場面に、良識派の人々が眉を顰めたくなるのはわかるとしても、2007年の眼からすれば、これとて驚くには値しないごくフツーのベッドシーンでしかないのですから、性風俗というものは、かくも時とともに風化するものです。


「マンハッタン」(9月2日 シネマヴェーラ渋谷)
1979年/監督:ウディ・アレン

【★★★★ アレンのスノッブ趣味は鼻につくが、G・ウィリスのモノクロ撮影、ガーシュインのジャズが至福】
 放送作家としての仕事を捨ててもシリアスな小説家への転身を図ろうとしているアレンが、高校生のマリエル・ヘミングウェイと“いい仲”にあるという、ロリコン趣味丸出しのアレンの自己暴露を交えながらも、親友の浮気相手で、最初は厭味なインテリ女として侮蔑していた雑誌編集者のダイアン・キートンに次第に惹かれてしまい、ところがキートンのほうは前の男(アレンの親友)と“焼けぼっくいに火”の関係になってしまったころから、己の孤独と向き合ったアレンが、結局はヘミングウェイの健気さに気づいて、ロンドンに演劇の勉強のため留学しようとする彼女を引き止めようとするものの、彼女は半年間の留学に旅立つのであり、アレンはたかが6ヶ月間を我慢することになりましたとさ、というお話。
 これぞ中年野郎にとって都合のよすぎるお話であり、科白の随所に盛り込まれたアレンのスノッブ特有の衒学的趣味には、苦笑を通り越して怒りすら覚えることを禁じ得ませんが、ゴードン・ウィリスのモノクロキャメラは光線の処理も、構図も、動きも、惚れ惚れする素晴らしさで、この美しい画面のバックからはガーシュインの心地よいジャズが流れてくるのですから、アレンのスノッブぶりに気持ちを逆撫でされる以上の快感が観る者を包むのであり、ロメールのように洒脱で身につまされる恋愛小咄として、愉しんでしまえるのでした。


「ガルシアの首」(9月2日 シネマヴェーラ渋谷)
1974年/監督:サム・ペキンパー

【★★★★★ 話は荒唐無稽ですらあるが、死んだ女に対する男の愛情が純度高く結晶し、観る者を揺さぶる】
 封切の時に観て以来久しぶりの再会で、細部は忘れていたものの、ウォーレン・オーツ扮するしがないピアノ弾きが、惚れた女を失い、自滅覚悟で“巨悪”に立ち向かってゆくやくざな侠気が胸に蘇ってきて、次第に胸が熱くなってきました。
 冒頭、黄金色に輝く湖に足を浸している女性の至福の時がしばらく映し出されるのですが、この静かなオープニングが、惨劇を導き出すに至るという、ペキンパー得意の作劇に酔いました。この若い女性は妊娠しており、この土地の権力者たる父親エミリオ・フェルナンデスは、娘を孕ませた男を許そうとはせず、娘を拷問のように問い詰めて、男の名前“アルフレード・ガルシア”を聞き出したフェルナンデスは、メキシコ中にお触れを出し、ガルシアの首を自分のもとに持ってこさせようと命じるのです。
 権力者の命令は、下請け、孫請けなどを経て、殺し屋コンビのギグ・ヤングとロバート・ウェッバーに伝わり、彼らがメキシコ中の酒場にガルシアの消息を聞き回る過程で、酒場のしがないピアノ弾きオーツに辿り着くのです。そして、店で働く酒場女イゼラ・ヴェガからガルシアが既に死んでいることを知ったオーツは、ガルシアの首が金になることを直感し、ガルシアが葬られている墓までヴェガに案内してもらう旅に出るのです。
 きわめて直情径行の男であり、紆余曲折などまったくないストレートな話でもあり、つまらない話と断定することも可能でしょうが、せっかく墓場までやってきて墓堀りまで始めたのに、あとから来た連中にオーツが殴られて気絶しているうちに、ガルシアの首は横取りされ、愛するヴェガの命まで奪われ、ヤクザな侠気に駆られたオーツが、あとはひたすら女を失った悲しみを拳銃にぶつけてゆくという、中年野郎のばかな純情物語には、リアルさなどとは無縁な荒唐無稽なまでの純度があり、観る者の魂を揺さぶり続けるのです。
 ヴェガとともに暮す近い将来の安寧を夢見るオーツが、中年男の純情ぶりを発揮して、ボソボソと夢を語る場面の美しさ。フェルナンデスの部下たちによって蜂の巣になることがわかっていながら、突入してゆく「ワイルド・バンチ」と同様の男の狂気。やはり「ガルシアの首」は、いわば純粋映画として屹立しています。

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