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200×年映画の旅コミュの2007年8月下旬号(新作・3)

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「グラインドハウス」(8月29日 TOHOシネマズ六本木ヒルズ・スクリーン5)
2007年/監督:ロバート・ロドリゲス、ロブ・ゾンビ、エドガー・ライト、イーライ・ロス、クェンティン・タランティーノ

【★★★★ 映画ヲタクによる手の込んだ悪ふざけではあるが、観客同士がライヴ感を愉しむイヴェント映画】
 クェンティン・タランティーノとロバート・ロドリゲスの映画ヲタクコンビが、60〜70年代の米国でB〜C級エクスプロイテーション・フィルムを2〜3本立てで公開していた小屋へのオマージュを込めて作った新作「グラインドハウス」は、ロドリゲスが撮ったパート「プラネット・テラー」とタランティーノのパート「デス・プルーフ」を挟んで、今回のために予告篇だけがわざわざ作られた“フェイク”を交えた3時間強の1本立てとして全米公開されたものの、ヒットには繋がらなかったせいか、日本では、タラちゃん版とロドリゲス版を別々に1本立てで公開されると聞き、本来の作り手の意図を尊重した形で観たいと思っていたところ、六本木だけ期間限定でUSAヴァージョンが上映されると知ったため、この日は会社を定時より1時間ちょい早めに退出し、六本木に出向きました。
 なるほどこれは191分で1本の映画であり、これを2回に分けて公開するのは、作品の同一性保持権を侵害する著作権法違反行為だとすら思いましたし、3時間超の映画を1日3回廻すより2本に分けて上映回数を増やしたほうが儲けも2倍だとでも考えたのであろう配給会社を、セコくて許し難いと思ったほどですが、フィルムの巻を抜くのが当たり前であったに違いないのが“グラインドハウス”なのですから、1本を2本に分けることをむきになって怒ることがバカバカしいとも思えます。
 それはさておき、この映画は、まさしく映画ヲタクによる手の込んだ悪ふざけ、たちの悪い悪戯みたいな映画ではありますが、悪ふざけもここまで徹底すれば大笑いしましたし、呆れを通り越して感心しつつ、お祭り騒ぎを愉しませていただきました。
 まず冒頭、フィルムにはわざと雨が降ったような傷がつけられ、コマの飛び、音の乱れなどがあるのは、演出上の計算によるものだ、という但し書きが日本語字幕でつけられたあと、映画会社ロゴの“ディメンション・フィルム”はまともにプリントされていたものの、続いてすぐに雨が降った絵に切り替わり、“次週予告”といったタイトルが出たと思うと、ロバート・ロドリゲスがわざと作った“フェイク”予告篇「マチェーテ」が上映されます。メキシコ人男性マチェーテが、米国当局によって犯罪者に仕立て上げられるといった内容の予告で、派手なアクション、お色気、残虐さなどが次々に詰め込まれた、いかにもB〜C級の予告で笑わせます。
 続いて同じくロドリゲスの「プラネット・テラー」。ローズ・マッゴーワン扮するストリッパー(本人は“ゴーゴーガール”と自称しています)が、店で官能的に踊るタイトルバックに続いて、場面が変わると、米国陸軍の基地で、何やら毒ガスが詰まった生物兵器が平気商人と兵士との間で取引される場面がテンポよく描かれてゆきます。人物のアップを中心に繋がれたカット割りが、いかにも煽情的なB〜C級アクション映画っぽく、ロドリゲスがこうしたジャンルを徹底的に研究してマネていることが窺えます。
 このあとの物語は、生物兵器によってゾンビと化した人間が、そのウィルスのような病原体を人々に感染させたゾンビ軍団に対し、マッゴーワンとその元彼氏であるフレディ・ロドリゲスらが立ち向かってゆくというホラー・アクションで、ゾンビの攻撃によって片足を失ったマッゴーワンが、義足の代わりにマシンガンを埋め込んでゾンビたちを射殺するという、禁断の身体障害ネタまで盛り込んでいます。
 途中、プリントが1巻抜けているというお断りが入り、それによって余計な説明を省いてアクションの畳み掛けに成功するという高等戦術も試みられ、ロドリゲスという監督の映画はデビュー作「エル・マリアッチ」の一部をTVで観たに過ぎぬのですが、なかなかどうして知能犯で感心させられました。
 このあと、「ナチ親衛隊の狼女」という、タイトルから察せられる通りのナチ親衛隊を舞台にしたホラー・アクション、「Don’t」と題されたスプラッター、「感謝祭」という題名のドキュメンタリー風ホラーなどの予告篇に加え、ピッツァ・ハウスのチープなCMなども挟まれた上で、タランティーノ監督「デス・プルーフ」が始まります。
 これは、カート・ラッセル扮するカー・スタントマンが、衝突の衝撃にも耐えられるように愛車を改造して、その愛車を駆って美女たちが乗る車と故意に正面衝突し、女たちをあの世に送った上で、自らは怪我を負うものの生命は無事に帰還し、また次なる獲物を追うという、いわゆるスラッシャー・ムーヴィーで、ラッセルが最初に狙った獲物たる娘たちは、まんまと全員あの世に送ったものの、次の獲物と狙った女たちは怖いもの知らずのスタントウーマンたちであり、ラッセルは逆に彼女たちから復讐の血祭りに上げられてしまうことになります。
 シドニー・ポワティエの娘(ということは、わたくしの世代にとってのマドンナである「冒険者たち」のジョアンナ・シムカスの娘でもあります)が演じるトップモデルと、その仲間たちが最初の犠牲者になるのですが、映画の頭から15分くらいは、彼女たちが繰り広げる果てしないお喋りが展開します。タランティーノといえば、デビュー作「レザボア・ドッグス」の冒頭から、マフィアの親分たちが黒服で集まって食事をしながら、歌手のマドンナのことを話題にして、愚にもつかぬ饒舌を繰り広げる場面が描かれたほか、出世作「パルプ・フィクション」においても、サミュエル・L・ジャクソンとジョン・トラヴォルタが己の信仰について延々とお喋りが続くなど、無駄な饒舌がつきものではありますが、マフィアのボスがマドンナを話題にしたり、殺し屋の二人組がジーザス・クライストを話題にする可笑しさに比べて、モデルや女優の卵が芸能界の噂話をしても、聞かされるほうは退屈に感じざるを得ず、脚本家としてのタランティーノがすでにピークを過ぎ、今や才能の残滓
を垂れ流しているという事実に直面せざるを得ません。
 このあと、ポワティエの娘たちを乗せて全速力で爆走する車が、ラッセルが運転する“デス・プルーフ”(死亡保証)仕様の改造車と正面衝突する場面は、さすがに迫力があり、眼を奪われますが、ラッセルが怪我の治療を終えて二組目の獲物を狙う段になると、またしても女たちの無駄な饒舌が展開し、うんざりします。
 こうした饒舌場面は、結局はタランティーノの作家的個性を刻印してしまっており、全体をB級のパロディに徹して己の刻印など消してみせたロドリゲス版のような潔さがありませんでしたので、“グラインドハウス”へのオマージュという作品本来の狙いからしても、タラちゃんは失敗しているとも思います。
 しかし、ゾーイ・ベルという名の本物のスタントガールが、「バニシング・ポイント」で主人公のコワルスキーが運転していたのと同じ白のダッジのボンネットに身体を躍らせるという遊びに興じているところに、ラッセルのからかいが入り、女たちが一度は痛い目に遭いながらも、直ちに気を取り直してラッセルへの復讐に転じ、ジェンダーなどという言葉をあざ笑うかのように、女たちがラッセルを完膚なきまでに叩きのめす展開は、男の眼から観ても痛快そのものだったのであり、ラストのラストに置かれたカット割りのテンポのよさには、つい拍手を送りたくなってしまうほどの快感があったのであり、こんなラストを見せられると、タラちゃんの演出も許してしまおうという気になるのでした。いやぁ、笑った、笑った!
 しかし、正直なところ、映画を観終わった翌日には、前日の昂奮は身体には残っていなかったのであり、要するにこの映画は、191分という上映時間の中で、時空間を共有した観客同士がライヴ感を愉しむ、まさにイヴェント・ムーヴィーなのであり、中身についてとやかく批評的な言辞を連ねるというのは的外れの行為だとも思えるのでした。


「童貞。をプロデュース」(8月30日 池袋シネマ・ロサ/レイトショー)
2007年/監督・プロデュース・構成・編集:松江哲明

【★★★★ 男はロマンティストで、特に映画好きな野郎は皆童貞であるという真実を鮮やかに描いて好印象】
 ミクシィの友人たちからは、なかなかの好評が聞こえてきていたので観たいと思っていたところ、この日は別の友人である落語家が池袋演芸場でネタ下ろしの発表会をやる日で、その会が終わったらちょうどこの映画の開始時間と重なったため、劇場に飛び込みました。
 2000年に観て、感心させられたセルフ・ドキュメンタリー「あんにょんキムチ」の松江哲明が、20歳を過ぎて今なお童貞だという青年2人にディジタルキャメラを持たせ、彼らが“童貞脱出の道”を目指す様子を記録させ、松江がそのヴィデオを編集するという形で作った映画です。
 第1部は、松江とは知人であり、自転車メッセンジャーのバイトをしている23歳の青年・加賀賢三が、“恋愛を経ないセックスはできない”とうそぶき、片想いの女性に告白する勇気もなく、言い訳ばかりしているのに業を煮やした松江が、AV撮影現場に彼を連行して、スパルタ式に女性恐怖症を叩き直そうとするものの、加賀はAV現場から逃げ出してしまうという様子を描きます。しかし、AV監督・カンパニー松尾から「他人に迷惑をかけて生きることを恥じたり、恐れたりするな」と諭されて眼が覚めた加賀は、ついに彼女に告白することになるのです。
 第2部は、それから1年後、加賀は別の女性と付き合うようになっており、その様子を撮らせてもらおうとして断られた松江が、加賀から次なる童貞青年を紹介されます。ゴミ処理業の会社でバイトをしている24歳の梅澤嘉朗は、B級アイドルを愛し、根本敬に心酔するサブカルオタクで、80年代アイドルの島田奈美に捧げた自主映画を作っています。そこで松江は、その映画を、今は本名の島田奈央子として活動している当の本人に見せようと考え、上映会の準備を仕掛けてゆきます。
 男はいつも誰でもロマンティストであり、特に映画なんか好きな奴は、わたくしも含めてみんな童貞なのだという紛れもない真実を、鮮やかに爽やかに描いて好印象を抱かされる映画です。松江の映画作りは、「あんにょんキムチ」と同様、悪びれず、てらわず、真っすぐな素直さは変わっていません。
 第1部のラスト、「きみを僕の穴奴隷にしたい。きみが持っている穴という穴を、僕のペニスで塞ぎたい」などという、加賀が作ったバラッド調の歌を、峯田和伸が商店街で弾き語りする長回しが、なぜか心を打ちます。

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