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200×年映画の旅コミュの2007年8月上旬号(新作・2)

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「レミーのおいしいレストラン」(8月7日 シネマメディアージュ・シアター5)
2007年/監督・脚本:ブラッド・バード

【★★★ 個人的に苦手な鼠ものだが、純粋なアクション映画として引き込まれ、主題にも共感】
 今では克服したとはいえ、わたくしが地上に住む生物の中で最も苦手として忌み嫌っていたのが鼠であり、かつてはこの小動物がスクリーン内に登場しただけで、椅子から飛び上がりそうになって眼を逸らしたものですが、そのように忌むべき生物がこともあろうに人間が食べる料理のシェフになるなどというおぞましい設定の映画に足を運んでしまったのは、信頼するピクサー・スタジオの作品であるばかりでなく、「アイアン・ジャイアント」と「Mr.インクレディブル」のブラッド・バードが脚本・監督していたからにほかなりません。
 アメリカが反共主義を強めた時代に、政府調査官の眼を逃れて、宇宙から飛来した鉄の巨人との友情を深める少年の物語や、人間のわがままによって強引に役割を終えさせられたスーパーヒーローが、新たな敵に対して家族の団結によって立ち向かう物語には、子供の観客だけでなく、大人をも説得すりに足る確かな社会背景が描かれていたのですが、今回の鼠のシェフものには、さすがに荒唐無稽な設定ゆえ大人を唸らせるまでのリアルな背景描写があるとは思えなかったものの、地を這う鼠の視点から見た世界の細部や、厨房という場所が持つダイナミックな活劇性が強調され、純粋なアクション映画として引き込まれてしまいました。
 そしてついには、辛口の批評家もが鼠のシェフに脱帽するに至り、天才はどんなところからも生まれ得るものなのだ、という主題が高らかに奏でられる時、それは料理だけでなく映画や芸術にも当てはまることをブラッド・バードが宣言していることに否が応でも気付かされて、深い共感を覚えたのでした。


「トランスフォーマー」(8月8日 シネマメディアージュ・シアター7)
2007年/監督:マイケル・ベイ

【★ お子様向けの夏休みムーヴィーとはいえ、米国映画界の巨人が組んでかくも幼稚な代物を作るとは唖然】
 中東の米軍基地に向けた輸送機の搭乗員たる陸軍兵士たちが世間話をしている間に、同じように基地に向けて飛ぶヘリコプターからは謎の信号が発信され、しかも着陸したヘリがいきなりサソリのような形に変身したかと思うと、周囲一帯を攻撃し始めるといった冒頭は、邪悪なる宇宙生命体がどんな形になるのか予測ができないために観る者を不安にさせるという「エイリアン」以来の伝統的な作りに準拠した正統派SFものの貫禄を示していると思える一方、今度は金属だという点が新しいほかは、要するに「エイリアン」の劇構造をそのまま今なお使っているに過ぎず、新しさを感じませんでした。
 そして場面を合衆国のプチブルジョワジー家庭に移し、まだ親におねだりしているティーンエイジャーの主人公が黄色いスポーツカーの中古車を買ってもらうと、この車には意思があり、その仲間の車も次々と地球にやってきてこの少年の回りに参上すると(少年の曽祖父が北極探検で見つけた物質が、エイリアンたちにとってのお宝地図だという設定)、これらのエイリアン金属は冒頭の砂漠にやってきた“わるもの”のとは違う“いいもの”だということがわかる一方、この少年にはグラマラスで色気たっぷりの同級生と接近するチャンスもやってくるといった具合に、まあご都合主義の極みとして話は展開するに及び、これが「ポケモン」やら「なんとか戦隊ゴレンジャー」やらと肩を並べる、幼稚園児や小学校低学年並みの知性の持ち主に向けた夏休みムーヴィーであることが誰も眼にも明らかになりましたので、そうした映画をつかまえて、やれ脚本が粗雑すぎるだの、やれ人物の出し入れがなっちゃいないだのと文句をつけるのは大人げない態度だとは思え、ここは冷静に、お子様ランチにしては素材に金をかけて見た目を豪華に仕上げているね、などと余裕のコメントを披露すべきかも知れません。
 しかし、スピールバーグとマイケル・ベイが成し遂げた映像革命とか何とか、配給会社がデッチ上げる惹句の大袈裟な表現を眼にしてしまうと、ついつい大人を馬鹿にするのもいい加減にせよと、年甲斐もなく喚きたくなってしまうのであり、山奥のダムに隠されたエイリアンの剥製(金属の生命体に“剥製”は相応しくないでしょうが、まあ五十歩百歩の代物です)を巡って、なぜか合衆国の国防長官という地位についた政治家までもがピストルを手にエイリアンめがけてドンパチに加わるという、我が国の「ゴジラ」シリーズでも滅多にお眼にかからぬ茶番劇が展開するくだりなど、呆れて言葉も失っていました。


「河童のクゥと夏休み」(8月9日 シネマメディアージュ・シアター12)
2007年/監督・脚本:原恵一

【★★★★ 人物の感情表現の細部が素晴らしく、脚本の出来に感心。絵の訴求力は弱いが、アニメとして一級】
 「クレヨンしんちゃん」シリーズの中でも傑作の呼び声の高い「オトナ帝国の逆襲」「戦国大合戦」を手がけた原恵一が脚本・監督を務めている映画なので注目していましたが、予告編やTVスポットで観ると人物も河童もキャラクターデザインにクセがあり、今ひとつ食指が動かないというのが正直なところでした。もう少し可愛らしい系のキャラクターにしてくれないと、とっつきにくいという気がしてしまうのです。
 しかし、本篇が始まり、江戸時代の沼の開拓を巡って、河童の親子が代官と地主に談判しようと、大きな鯉を土産にして待っている場面から、一気に父親河童の惨殺、突然起きた大地震による地割れで子河童のほうが土の中に埋められるという劇的な展開によって映画に引き込まれてしまうのであり、キャラクターデザインのことなど気にしている余裕などなく、自然と映画に入ってゆけたのでした。
 時代が現代に飛び、東京郊外に住む小学校高学年の主人公・康一が、学校帰りにクラスメイトとふざけて、履いていた靴を蹴り飛ばすと、前を歩いていてクラスでイジメに遭っているという設定の少女・菊池に当たり、その拍子に靴は河の土手に落ちてしまい、取りに行った康一が近くの地表に突き出ていた化石のようなものを発見して家に持ち帰ると、その石にはひからびた物体が張り付いており、土を水で洗い流そうと水道水をかけていたらひからびていた物体が俄かに色づいてきて、ついには石から剥がれて河童として蘇るという展開など、実際にはあり得ない絵空事でありながら、実に理に適った展開に思えて説得されてしまうのです。
 こうして、康一の家庭の一員となった河童ですが、康一と父親という男性陣は河童の味方として終始一貫している一方、母と妹という女性陣、特に幼稚園児の妹は、自分以外にこの家にアイドルが誕生したことを嫉妬したのか、それとも単純に姿かたちが気味悪いと思っているのか、河童を邪険に扱っているという設定になっており、それが伏線としてあとで効いてきます。
 康一一家は、河童が近所の人々をはじめ世間の好奇の眼に晒されれば大騒ぎになると知っているため、この一家だけが河童の触れる人間像のすべてとなり、河童自身の安全も確保される中で、彼らの仲が深まってゆくことになります。さらには、ちょうど康一が夏休みであったことから、いつまでも家の中に河童を閉じ込めていては可哀想だということになり、康一が独りで東北新幹線に乗って遠野まで行き、河童の仲間が近くに住んでいないかどうか確かめる旅に出たりもするのです。
 遠野の自然の中で、誰に見られるという不安もない中で、河童が自由に河の中を泳ぎ回り、康一も一緒になって河遊びをする無邪気な姿は、日本の自然が豊かに残った場所における緑の鮮やかさや日光の煌き、風の感触などを雄弁に伝える場面となっており、映画の幸福感の最高潮を記録するのですが、それは同時に、このあとに用意される悲劇を予告するものでもあったでしょう。
 遠野では仲間を見つけられずに傷心を抱えた河童を連れて康一が東京に戻った途端、帰りを狙っていた(遠野に出掛ける直前には康一の家の近所では河童の噂が立っていました)写真週刊誌記者によって河童の写真を撮られてしまった上、レンズとフラッシュで狙われた河童が恐怖の末、レンズを念力のようなもので割ってしまうという“他者を傷つける力”を発揮するに至ってしまうのです。
 遠野における自然に囲まれた解放感とは対照的な、マスコミ取材に囲まれた陰湿な閉塞感。康一の父親が会社から半ば強制的に要請され、一家全員が河童とともにTVのワイドショーに出演することになると、主人公の康一すらがTVに出るという事態に浮かれてしまう有り様です。
 そして辿り着いたTV生放送のスタジオで、河童は、大昔に代官によって斬り落とされた父親河童のひからびた腕と再会するという悲劇を体験し、恐怖のあまりスタジオの機器を念力によって破壊した河童が、康一一家の飼い犬(この犬と河童が、心の中の会話によってコミュニケーションを果たすことも、前半に伏線として張られていました)の助けを借りてスタジオを脱出し、犬の轢死という更なる悲劇によって孤独感のピークに達した河童が、東京タワーをよじ登った末、亡き父親河童に訴えるように「もはや生きる気力を失った」と天に向かって話し掛けると、一点俄かにかき曇って竜を召喚させるに至るという展開を見せます。
 あれよあれよと呆気にとられるような展開でありながら、河童の心理も、康一一家の心理も、さらには犬の心理も、実に丁寧に描き込まれてきたため、わたくしたちには自然な展開に思えてしまうという映画の詐術。
 このあとは竜から生きる気力を再びもらった河童が、田舎に住む妖怪仲間のもとへ行きたいと言い出し、転校してゆくイジメられっ子・菊池への挨拶に康一が河童を連れてゆくエピソードを挟んで、河童と康一との別れが描かれます。
 わたくしにとっては涙を流すほどの感銘には至らなかったものの、年に数本あるかないかというアニメーション映画の秀作として、今年はこの映画もリストアップされることは間違いなかったのであり、充分の満足感を得られたのでした。
 原恵一は脚本・監督の二役を務めていますが、脚本家としての細部の組み立ての巧さに唸らされます。初めて遠い旅に出る息子を見送った母が、まったく振り返らずに去ってしまった息子を見ながら、ふと流す涙。イジメに遭っていた女の子が、引っ越しすることを主人公に告げたあと、自分に話し掛けてくれたことを感謝する言葉の途中でこみ上げてしまう涙。…そうした感情描写のディテールが素晴らしいのです。
 一方、絵としての表現は、遠野における緑の鮮やかさなどは眼に焼きつくものの、全体にオーソドックスすぎて新しさは感じません。友人の南木さんは“シナリオが持つ説得力を絵が超えない”などとおっしゃっていましたが、わたくしもほぼ同感です。
 ともあれ、原の“古き良きものを守る”という作風は揺るぎないもののようであり、しばらくは新しいものなど追いかけずにこの路線を突っ走ってほしいものです。

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