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200×年映画の旅コミュの2007年7月上旬号(新作・2)

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「サイドカーに犬」(7月9日 シネスイッチ銀座1)
2007年/監督:根岸吉太郎

【★ 離婚後初主演の竹内結子が男勝りの役を演じるが、ブリッコ芝居がわざとらしく、演出も不発】
 離婚後の竹内結子は、柔らかさより鋭さを、寛容さより攻撃性を感じ、正直なところあまり魅力を感じなくなっているのですが、今度の主演作は、そうした竹内の変化を見越したような企画で、彼女ががさつなまでに男勝りな女性に扮しています。
 実母がプイと家を出たあと、幼い弟とともに夏休みを過ごしていた小学生の少女のもとに、父の愛人として時々食事を作りにきてくれる女性・竹内が現れます。初対面の挨拶が「オッス」という一声だった竹内は、何かと神経質だった実母とは対照的に、大雑把というか、男っぽいというか、がさつなまでの性格。内気でおとなしい少女の眼には、竹内が見せる態度の一つ一つが新鮮に映り、少女はこのひと夏に不可逆的な変容を体験することになるというお話です。
 少女役を演じる松本花奈という子は、近ごろの子役はどいつもこいつも芝居が巧くて舌を巻くと思わせる域に達している一方、竹内の“がさつブリッコ”芝居には終始違和感が付きまとい、彼女の喋る男言葉の一つ一つが浮いて聞こえるという意味で、やはりミスキャストだと思わざるを得ませんでしたし、話も弾まず仕舞いに終わりました。
 ミスキャストといえば竹内の愛人に扮するのが古田新太というキャスティングも、ディフェンスの裏を狙ったキラーパスのつもりなのに空振りに終わり、不釣り合いでしかないと思えたのですが、これは古田の責任ではなく、古田の前で甘える女臭さをまるで出せなかった竹内の責任に思えました。
 よりによって実母役の鈴木砂羽が出ていった後釜に納まる愛人役の女優に、セックスの匂いが皆無で、フェロモンも不足していちゃ話になりません。
 前作「雪に願いを」は、土の匂いの中で生きる人々の地に足のついた生活ぶりを、田坂具隆以来の日活多摩川撮影所の伝統を引き継いだリアリズムに即して描き、出世作「遠雷」以来の傑作に仕上げていた根岸吉太郎の新作だけに、期待をかけていたのですが、残念ながらあっさり裏切られてしまいました。
 「サイドカーに犬」というタイトルも、その由来となるエピソードも、抽象的かつブンガク的で、映画的な表現としてこなれておらず、根岸は「透光の樹」の段階に逆戻りしてしまったようです。


「舞妓Haaaan!!!」(7月10日 シネマメディアージュ・シアター4)
2007年/監督:水田伸生

【★★ 才人クドカンのップテンポな展開と阿部のハイテンション芝居はパワフルだが、悪ふざけが過ぎる】
 聞こえてくる評判がいいものばかりなので、観てしまった「舞妓Haaaan!!!」。
 高校時代の京都修学旅行で舞妓を見て以来、“舞妓ヲタク”になった主人公が、いつか京都の茶屋で舞妓と野球拳をしたいと夢見て、即席ラーメン会社に就職したのちも舞妓情報のHPを運営するなど、舞妓ヲタク道を走る中、ついに京都支社に転勤となり、社長から「仕事で結果を出せば茶屋デビューさせてやる」とハッパをかけられてから、シャカリキに働き始める……。
 宮藤官九郎脚本のアップテンポな展開と飛躍、阿部サダヲのハイテンションな芝居は、確かにパワフルではあります。
 しかし、主人公の発案で生まれた具材別売りカップラーメンがヒットして茶屋デビューを果たそうとした瞬間、働き過ぎで胃をやられて倒れてしまうあたりから、話の飛躍が極端に走り、主人公のライヴァルたる堤真一の野球選手に触発されて、主人公自身も野球選手になる、京都にドーム球場ができる、堤がプロレスに転向したり、役者に転向したり、ついには京都市長選挙で当選したりと、飛躍するのに合わせて主人公も次々と転身を図るという展開は、まあいかにも才人・クドカンらしい飛躍ぶりだと感心する反面、いくらなんでもやりすぎだろうと辟易したことも否定できません。
 彼の書いた芝居を観ても、彼が書いたオリジナル脚本を観ても、毎回感じてしまう“刹那的な笑いにすべてが費消され尽くすだけで心に残るものがない”というパターンは、今回も踏襲されてしまったのです。
 笑いの場面も、わたくしは数回クスリと苦笑する個所があったくらいで、声を出して笑えるところは皆無でした。悪ふざけが過ぎるのです。
宮藤の初監督作「真夜中の弥次さん喜多さん」に比べれば、多少はお客さんを意識した作りになっており、木戸銭を取れる商品になっているとは思うものの、わたくしには五十歩百歩。どうもわたくしには、クドカンは原作ものの脚色しか受け入れられそうにありません。
 唯一感心したのは、亡き植木等の出演場面で、バックに流れる三味線のスーダラ節は余計だったものの、なにものにも惑わされぬ独自のテンポとリズムで、植木だけの空気を作って場をさらっていました。貫禄です。


「アポカリプト」(7月13日 スバル座)
2006年/監督:メル・ギブソン

【★★★ メル・ギブソンのSM趣味が炸裂する“痛い”映画だが、面白く観てしまうのだから人間も罪深い】
 聞こえてくる評判がなかなかいいので、公開が終わるギリギリの最終日に劇場に足を運びました。
 16世紀初め、南米でインディオとして狩猟生活を送っていた青年が、マヤ帝国と思しき武装国家の兵士に襲われ、妻子を深い洞穴に隠したのち、捕虜として捕らえられます。首都に連れてこられた捕虜たちは、次々と祭壇の上に引っ立てられて心臓を抉られ、首を断ち切られて生け贄にされる中、主人公の青年の番を迎えた途端、皆既日食が始まって彼は命拾いします。
 しかし、いざ釈放だと言われて捕虜たちが緊縛を解かれても、兵士たちによる狩猟ごっこの標的として無惨に殺されるばかりなのですが、主人公だけは兵士のリーダーの息子を刺し殺して逃げ延びます。
 息子を殺されて逆上したリーダーは、部下を連れて主人公を殺害すべく追跡を開始し、主人公は武器もないままひたすら逃亡を続けることになるのです。
 メル・ギブソンが監督した前作「パッション」は、敬虔なるキリスト讃歌を装いながら、キリストが蒙った肉体的な受難の数々を、まさに“痛み”としてこれでもかとばかりに描いて、誤解を恐れずに言えばギミックとしての見世物性に溢れており、敬虔なクリスチャンからスプラッター好きなヲタクまで引き込んでしまう商売上手ぶりを発揮していたと思います。
 キリストの体に食い込む鞭の一打一打、背負わされた十字架の重み、磔にされる時に足の甲に打ち付けられる釘など、これほどまでに“痛い”キリスト映画はなかったでしょう。
 ギブソンという男ご本人は、恐らく至って真面目で敬虔なクリスチャンなのだろうとは思いますが、潜在的、もしくは顕在的にSM的な嗜好の持ち主なのだろうとは、勝手に想像していました。
 そしてその想像は、今度の新作を観て確信に変わりました。
 インディオの誇り、残してきた妻子の救出という目的を胸に、必死の逃亡を続ける青年。一方、捕虜に逃げられるという失態の回避、殺された息子の復讐のために追跡するマヤの兵士。……二人の背景には立派なモティヴェーションがあるのですが、結局のところ画面を覆い尽くしているのは、私怨と動物的な闘争欲に基づいた人間狩りゲームでしかないように思えます。そしてギブソンは、人間たちの肉体が切り裂かれ、貫かれて血を垂れ流す光景を、嬉しそうにフィルムに刻み込んでいるように思えるのです。
 そしてわたくしたち観客も、“オエッ、痛そう!”などと内心で呟き、この2時間を超える上映時間を短いとすら感じながら、ギブソンが展開するSMショーを心ゆくまで愉しんでしまうのですから、人間とは罪深い動物です。

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