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200×年映画の旅コミュの2007年7月上旬号(新作・1)

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「ゾディアック」(7月5日 丸の内プラゼール)
2006年/監督:デイヴィッド・フィンチャー

【★★★ 社会派リアリズム劇ながら、前半は作り事めいてしまい、よくできたフィクションを観た印象】
 1969年のアメリカ・カリフォルニア州の小さな街。若いカップルを乗せた車が郊外の空き地に停まっていたところ、別の車が近づいてきて中から男が出てきたと思いきや、突然発砲して、二人を蜂の巣にします。
 場面変わって、ジェイク・ギレンホール扮する主人公が、サンフランシスコの新聞社に出勤する光景にタイトル・クレジットがかぶるのですが、そのバックに流れる曲が、サンタナ“Soul Sacrifice(魂のいけにえ)”。映画「ウッドストック」の中で演奏していた懐かしい曲です。
 冒頭の殺人事件の発生から、主人公の出社場面をテンポのよいカッティングで見せてゆくというイントロまでは実に快調で、このあとの展開に期待が持てます。じじつ、ギレンホールくんが出社した新聞社に差出人不明の手紙が届き、自分が若者二人に銃弾を撃ち込み、女性を殺害した(男性のほうは生き残りました)犯人であると宣言した上で、何やら暗号が書かれた紙が同封してあり、この暗号を新聞の1面に掲載しなければさらに多くの殺人を実行するという脅迫文が添えられているといった展開も、実にスピーディかつスリリングに描かれ、観客を引き込みます
 しかし、ある高校教師夫妻が暗号を解いて、犯人の非人間的メッセージを読み取り、“ゾディアック”と名乗った犯人が次々と各地で犯行を繰り返し、ギレンホールの同僚の事件記者ロバート・ダウニー・Jrが取材にのめり込むといったふうに、事件が次々と動いている間の展開が、実際に60年代末〜70年代初頭にかけて合衆国西海岸で起きた事件をもとにしているだけに、生々しい臨場感があって然るべきところ、妙に面白く作られすぎているような気がして、逆にリアリティを殺いでいるという結果をもたらしています。ドキュメンタリー・タッチの冷厳さが表現に貫かれていればよかったものを、面白い物語を面白く語ろうとして、逆に作り事めいてしまったのです。わたくしは、ついウトウトとしてしまいました。
 しかし、事件の動きがパタリと止まって捜査が暗礁に乗り上げ、それまで新聞のひとコマ漫画描きとして事件を横から見ていただけの主人公ギレンホールくんがようやく立ち上がって事件を追い始め、謎解きと犯人探しが本格化してから、ようやく映画が面白くなってきました。エンジンがかかるのが遅すぎます。
 事件にのめり込んだギレンホールが、ある情報提供者の家に招かれると、そこにはゾディアックを特定する上での鍵ともなっていた地下室があり、ギレンホールは直感としてこの情報提供者のことを怪しいと思い、その思いは観客も共有することによって、いわゆるお化け映画のような怖さを体験するあたりは、「セブン」の監督らしい恐怖演出の巧みさを味わうことができます。
 また、前半でサンフランシスコ市警の捜査官コンビ(マーク・ラファロとアンソニー・エドワーズ)が最大の容疑者として追い詰めながら、指紋と筆跡鑑定の二点が照合しないために追及見送りとなった“リー”なる人物にギレンホールも辿り着き、ラファロも再び己の確信を呼び覚まされて、観客の眼を“リー”へと向けてゆく作劇なども、スリリングです。ギレンホールが買い物客のふりをして“リー”が営む店を訪れ、“リー”と無言で対峙するあたりの緊迫感は、全篇の白眉とも言えましょう。
 とはいえ、社会派リアリズム映画の醍醐味というより、よくできたフィクションを味わうような面白さが、この映画の特徴に思えたことは事実です。
デイヴィッド・フィンチャーには、こういう事実に基づく題材はちょっと合わなかったのではないでしょうか。こういう話は、テクニックをひけらかしたり、いかにもお話っぽく撮ったりするタイプではなく、今年亡くなった熊井啓のように愚直に黙々とストレートを投げ続けるタイプのほうだと思います。


「ボルベール 帰郷」(7月7日 シネフロント)
2006年/監督・脚本:ペドロ・アルモドーバル

【★★★★★ 女性の生命力と美しさが原色の中で強調され、女性讃歌に徹してシンプルな訴求力を獲得した】
 ペドロ・アルモドーバルの新作は、印象としては全篇の90%以上は女性(ドラッグクィーンは含まず)の出演シーンで占められている映画です。男性がまったく出ないわけではありませんが、その存在感は徹底的に希薄なものとして扱われているのです。鮮やかな原色の衣裳に身を包んだペネロペ・クルスを中心に、その母、娘という三代の女たち、さらに、姉、伯母、それに伯母の家の向かいに住む幼馴染みを加えた6人の女性たちが、主要人物として登場し、彼女たちがお互い同士の人生を接触させた時に生じる火花を巡る映画だと言っていいでしょう。
 冒頭、墓地に集まり、墓石を掃除する人々の場面から、画面には女しかいません。ペネロペ・クルスと姉・ロラ・ドゥエニャス、娘・ヨアンナ・コボが、火事で亡くなったという母の墓を掃除しているほか、周囲の墓地で働いている人たちもみな女で、色とりどりの衣裳、墓石の上を吹き抜ける風に乗った紅葉など、色の鮮やかさが眼を射ます。そこに、クルスの幼馴染というブランカ・ポルティージョがやってきて、彼女の家の近くに住んでいるクルスの伯母(亡くなった母の姉)の近況を伝えたため、クルスと姉・娘の3人は、墓掃除の帰り道に伯母の家に寄ってみることになります。
 ここでクルスは、年老いて眼が見えなくなっていても、今なおたった独りで生活している伯母でありながら、この家に誰かほかの人物がいるのではないか、という疑念を抱くのですが、その際、「お母さんのオナラと同じ匂いがする」と、嗅覚の働きが彼女にそう直感させている点に、女性らしい五感の機能ぶりを見ることができるでしょう。匂いに敏感であるという女性の特徴が、この映画の随所に描かれており、そうした細部が、映画の女性性を豊かにしているのです。女性脚本家や女性監督より、遥かに女性性に敏感だというアルモドーバルの特徴が出ている細部だろうと思います。
 このあと、マドリードに戻ったクルスは、失業した夫と15歳になる娘コボを養うため、あくせくと働くのですが、ある日、彼女が帰宅しようとバスを降りたところで、娘コボが所在なく立ち尽くしている姿に出会います。娘と一緒に帰宅してみると、夫がコボによって刺殺され、死体が横たわっているのです。コボによれば、父がコボに向かって「お前は俺の実の娘ではない」と言いながら肉体関係を迫ったため、包丁で刺したというのです。
 一度は驚愕して立ち尽くすクルスですが、すぐに立ち直って夫の死体の始末を淡々と始め、たまたま留守となった隣のレストランの冷凍庫に死体を押し込めてしまいます。この咄嗟の行動力にも、女性の逞しさが強調されています。
 父を殺してしまった娘にどのように対処するのか、隣家に隠した死体はどのように処理するのか、といった現実的な課題を抱えながらも、クルスは毎日を生きてゆかなければならず、それは空き家となった隣家のレストランに、たまたま一人の男がやってきて、実は近所で映画の撮影が行われているので、スタッフのための食事を用意して欲しいという要求に、クルスが応えるという形で、生計が立てられることになります。嬉々として料理するクルスの生命力と美しさの強調。
 一方、その頃、独り住まいだった伯母が亡くなり、葬儀が行われるのですが、たまたま撮影隊への食事作りのために出席できなかったクルスの代わりに、姉のドゥエニャスが伯母の家である事実に遭遇するのです。
 このあと、クルスが蒙った悲惨な過去が明らかになるほか、行方不明になった母親のことを探し続けていた幼馴染ポルティージョにも悲しい現実が知らされるなど、女たちの上には過酷なドラマが覆いかぶさっていることが観客にも知らされるのですが、映画が重苦しく沈むことはなく、常にポジティヴな明るさと力強さが感じられる作りになっています。彼女たちを応援しようという姿勢が全篇に貫かれているからです。
 アルモドーバルは前作「バッド・エデュケーション」で、己の同性愛傾向については一応のけじめをつけたせいか、今回は女性讃歌を奏でることに徹しており、「オール・アバウト・マイ・マザー」や「トーク・トゥ・ハー」よりシンプルで、幅広い客層に訴求できる映画にしてみせたのです。わたくしなんぞは、あまりにもアクがなさ過ぎることが不満に思えるほどです。
 とはいえ、これがアルモドーバルの最高傑作だという宣伝惹句が間違っているとは思いません。少なくともわたくしが観たアルモドーバル映画の中では、これがベストだろうと思います。


「傷だらけの男たち」(7月7日 新宿武蔵野館1)
2006年/監督:アンドリュー・ラウ、アラン・マック

【★★★ マッチョな男臭い香港ノワールとしては水準以上だが、女性絡みのエピソードが映画を停滞させる】
 冒頭は2003年のクリスマスの香港。刑事のチームリーダー・トニー・レオンと後輩の金城武が、犯罪者の見張りの合間に世間話を交わし、お互いの間に信頼関係が形成されていることを示すエピソードに続いて、犯罪者が自宅に向けて車で動き出したため、刑事グループが数班に分かれて追跡する場面。緊迫のカーチェイスがテンポよいカッティングで繰り広げられる香港アクション映画得意の描写です。そして刑事グループが犯罪者の家に乗り込み、同行した女性を猟奇的に痛めつけようとした犯人を逮捕するまで、快調なリズムは続きます。
 このあと金城が、恋人エミー・ウォンの待つ部屋に戻ると、孤独に耐えかねた彼女はリストカットして自殺しており、金城はこれを機に刑事を辞め、飲めなかった酒にのめり込むようになり、私立探偵をして生計を立てるようになっています。
 そして時は2006年となり、一方のレオンは、知り合った実業家の娘シュー・ジンレイとの結婚を果たし、順風満帆の人生を歩んでいるかに見えるのですが、そんな折、妻の父たる実業家チャップマン・トーが殺されるという事件が起きます。しかも、間もなくのち、犯人と思しきマカオ出身の二人組の男が、実業家トーから奪った金を巡って内輪揉めを起こして殺し合う事件が発生し、事件は解決したかに見えます。しかし、トーの娘でレオンの妻ジンレイは、犯人がやすやす父親の部屋に入れたことを訝り、真犯人は別にいると睨んで、私立探偵の金城に事件捜査を依頼するのです。
 犯人が誰かを最初から観客には明かしてしまう倒叙法をとっているので、それを織り込んだ記述も可能なのですが、ここでは敢えて触れずにおきます。
 犯人は一体なぜこんな事件を起こしたのか、という謎で観客を引っ張るわけですが、結論はなるほどと思わせるものの、途中がやや中だるみしていると思いました。特に、金城が自殺した元恋人のことが忘れられない中、新たに知り合った“バドガール”のスー・チーと次第に心を通わせてゆく過程などが、どうも映画のテンポを停滞させているとしか思えませんでしたし、レオンの妻ジンレイの本当は何を考えているのかよくわからない曖昧な態度なども同罪に思え、男性のドラマに比べると女性が絡むエピソードが弱いと感じました。アンドリュー・ラウとアラン・マックの「インファナル・アフェア」のコンビは、女性描写は苦手なのかも知れません。
 とはいえ、トニー・レオンはいつものようにカッコいいし、金城はレオンとのガチンコ勝負には荷が重かったものの、まあ精一杯胸を借りて健闘しているとは思え、男臭いマッチョな香港ノワールとして水準以上の映画にしていると思いました。
 この映画は既にハリウッドでのリメイク、それも「ディパーテッド」と同様ディカプリオ主演が決まっているそうですし、アンドリュー・ラウのほうも「消えた天使」で米国デビューを果たしていますが、ラウが光るのはアラン・マックと組んだ時なのですから、どうせハリウッドが招くなら二人一緒にすべきでしょう。

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