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200×年映画の旅コミュの2007年6月上旬号(新作その1)

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「監督・ばんざい!」(6月1日 銀座テアトルシネマ)
2007年/監督・脚本・編集:北野武

【★★ 期待していなかったので、思わず笑った箇所があったが、確実に痩せ衰える北野映画を実感】
 北野武の監督第13作。前作「TAKESHIS’」によって、12作を撮り終え、いわば十二支の干支を一巡し終えた北野が、新しい一巡を始めるにあたっての第1弾となる映画です。
 とはいえ、前作の出来にも満足はしていませんでしたし、今回も予告編を観る限り、前作での迷走をそのまま持ち越しているように思えましたので、まったく期待はしていなかったのですが、たまたま公開初日に劇場前を歩いており、上映時間も近かったことから、劇場に飛び込んだのでした。しかし、公開初日から劇場内は5割程度の入りで、世間が今度の北野の新作にはわたくし以上に冷淡であることを感じさせました。
 暴力映画ばかり撮り続けて世界的に名をなしたという“キタノタケシ”が、暴力映画を己に禁じて、純愛映画やら、小津調のホームドラマやら、昭和30年代を追慕するレトロ趣味映画やら、「座頭市」の続編のような時代劇やら、ホラー映画やらを次々と手掛けるものの、いずれも中途半端な中断に追い込まれるという設定は、まあ己の迷走ぶりに自覚的な北野の聡明さを表わすものであり、各ジャンルのエピソードの撮り方が、実に理に適った方法論に貫かれた演出が施されているため、演出家としての北野の巧さには感心しつつ、まったく期待していなかったゆえに、その期待を上回る展開に思わず頬に笑みが洩れ、ついには、大して可笑しいとも思えぬギャグにも反応して、笑い声すら上げてしまいました。
 そういえば、この映画の前には、北野が世界中の鬼才・名匠と呼ばれる人々と肩を並べる形で、今年のカンヌ映画祭60年を記念して撮った3分程度の短篇が上映され、そこには映画という存在に対して斜に構えてしまうという、北野独自のシャイな側面を覗かせながらも、己が作ってきた映画世界への自負と、映画を愛してやまないという柔らかい感性をも素直に吐露された、実に可愛らしい小品を見せられたばかりだったので、すっかりこちらの武装が解除されていた、という事情も、「監督・ばんざい!」の前半をわたくしが好意的に解釈できたことにつながっていたのでしょう。
 とはいえ、次々と様々なジャンルに挑むという演出上の冒険は半ば成功していると思える一方、結局は次々と挫折するという設定自体は安直に過ぎ、脚本の弱さを感じてしまいます。北野は、そろそろワンマンな製作スタイルから脱して、せめて脚本は、誰か巧い人と組んで一緒に組み立てるということを始めてもいいと思っていただけに、今回も脚本の腰砕けには残念な思いを抱いたのです。
 さらには、監督“キタノタケシ”が、いくつかの迷走の果てに“金のためなら何でもやるサギ師の母とその娘が、政財界の大物の子息らしき男に財産目当てで接近する”という物語に結実し、そこには北野の悪ふざけとしか思えぬ井手らっきょ扮するマッド・サイエンティストが登場するあたりから、笑いが喉につかえてしまい、中だるみしてしまいました。
 ラスト、地球上にハルマゲドンのような巨大隕石の衝突が起き、それまでの登場人物などが木っ端微塵に粉砕されるという過激な凶暴さが出てくるあたりで、“その男、凶暴につき”と呼ばれた男らしさが出たとは思いますが、これとて、安易なカタストロフを導入して物語を強引に閉じたに過ぎないとも言えましょう。
 まったく期待はしていなかっただけに、不意に北野が見せた素直な映画愛に心動かされたことは否定しませんし、思わず無防備になって笑いを漏らしてしまったことも事実ですが、北野が監督第4作「ソナチネ」を頂上として、そこから緩やかに、だが確実に坂道を転げ落ちていることも事実であり、今回もまた、終わりに向かって、その死に向かって、緩慢なる歩みを進める北野映画の現実を目の当たりにしたことは間違いないでしょう。寂しいことですが、そのことは今度の映画の全カットが証明しています。


「14歳」(6月7日 ユーロスペース1)
2006年/監督:廣末哲万

【★ 物語以前の段階で観客の気持ちを逆撫でするが、話のほうも自己愛と自己憐憫ばかりが目立つ下品な代物】
 PFFスカラシップの作品は、これまで期待を裏切られることが少ないものでした。風間志織、斎藤久志、小松隆志、園子温、橋口亮輔、矢口史靖、古厩智之、熊切和嘉、李相日、荻上直子、内田けんじ……PFFスカラシップに連なった名前を列記するだけで、90年代以降の日本映画の流れは素描できてしまうほどです。今回の廣末哲万という監督の名前も、脚本でコンビを組んだ高橋泉という名前も、わたくしは聞いたこともありませんでしたが、PFFスカラシップというブランドを信用して劇場に足を運びました。
 冒頭、14歳・中学2年生の女の子が、ライターを所持していたことを女性教師に咎められ、どうやらウサギの飼育室で起きたらしい放火事件の疑いについてネチネチと事情聴取されている様子が、長回しの手持ちキャメラによって延々と見せられます。手持ちの小さな揺れが煩わしく感じ、人物の心象風景を表象したいという狙いは理解できるものの、安易な手持ちの使い方に違和感も覚えていると、説教を終えて立ち去ろうとする女性教師のことを、説教されていたほうの女生徒のほうがやおら追いかけ始め、持っていた彫刻刀で教師の背中を刺すのです。キレる14歳という主題の提示。
 このあと、何人かの14歳の男女が登場してエピソードを積み重ねていくうちにわかるのは、冒頭で女性教師の背中を彫刻刀で刺した14歳はその後、自らも女教師(演じているのは並木愛枝という初めて見る顔ですが、廣末・高橋コンビによる前作にも出演している女性らしいです)となって14歳の教え子を持つ身となっていること。彼女が教師を刺した事件を目の前で見ていた男子生徒のほうは、今は道路測量会社に勤めながら、昔ピアノを弾いていた腕を買われて、14歳の少年をピアノ家庭教師・廣末哲万(監督自身が出演もしています)として教えていること。女教師の同僚教師である香川照之は14歳の教え子に強圧的に接しているものの、それは教え子のことを理解できない恐怖心の裏返しであること。等々です。
 相変わらずわざとらしく小刻みに揺れる手持ちキャメラ、意味深ぶって長いカット尻、香川照之以外は学芸会レヴェルの演技陣……まずお話以前の問題として、こうした細部が観る者の気持ちを逆撫でし、すんなりと観客を物語に導いてくれません。
 そしてお話のほうも、廣末と並木という元クラスメイトが偶然再会する場面の白々しいご都合主義にも呆れたほか、登場する14歳たちが一様に理由なくキレるという事態ばかりを強調し、かつては自分たちも14歳として事件を起こしたことのある並木さえもが、今の14歳を真正面から受け止めることがないために、今の大人と14歳たちがクロスするという最も必要かつスリリングな事態を描くことなく、いわば自分たちの世界の外側に起きる恐怖として、14歳たちを追いやるばかりに見えます。そして、キレる14歳という側面ばかりをクロースアップするがゆえに、本当ならキレることなしに日々を耐えているはずの大多数たるサイレント・マジョリティーを思いやるデリカシーを欠いているのです。
 そこから浮かび上がるのは、現在の今ここと格闘する2007年の14歳を思いやる視点ではなく、かつては14歳だった自分たちも今や14歳をこんなに恐れる世代になっちゃったんだね、などという自己憐憫に浸るノスタルジアばかりなのであり、要は、これみよがしの自己顕示欲が肥大した下品な映画だと思いました。
 しかし、この映画のよさを発見している人はおり、友人のRK氏は“ひととひとが向かい合うことの難しさと大切さをここまで真正面から描いた作品はそうはないと思います。理解できないもの、不愉快なものはそのままに”という感想を残しておられますし、やはり友人のBP氏は“本当ならキレることなしに日々を耐えているはずの大多数たるサイレント・マジョリティーを思いやるデリカシーを欠いている”というわたくしの指摘に対し、“彼らのことを思いやっているからこそ、こういう「14歳」を描いているのだと思います。既成の14歳青春映画よりはるかに痛みを伴った描写がなされており、彼らの薄気味悪さを表現する意味で、観る者の気持ちを逆撫でするカメラワークは充分効果的だったと思います”と書き残してくださいました。
 もっとも、BP氏は続いて“ただ、かつて14歳だった大人たちのドラマと子どもたちのリンクがうまくいっておらず、佳作ではあると思いますけど、このコンビの前作『ある朝スウプは』ほどには感銘を受けなかったですが”とも書いておられます。
 かつて14歳だった大人のドラマと子どもたちのドラマがクロスしない、というBPさんのご指摘の点がわたくしの不満の出発点だったのであり、要は14歳をダシにして、自分のことしか語りたくなさそうな作者たちの自己愛の塊が、わたくしには不愉快だったのでしょう。


「机のなかみ」(6月6日 シアターN渋谷1/レイトショー)
2006年/監督:吉田恵輔

【★★★★ 単調と思えた話のコペルニクス展開に驚嘆。脚本が巧く、前半の伏線が後半に活かされている】
 友人が誉めていたので、ちょっと観たいと思っていたところ、前記「14歳」に不満が残ったため口直しのつもりで、こちらのレイトショーに足を延ばしました。しかしフィルムではなくヴィデオでの上映なので、画像のキメが粗く、ちと不満が残りました。
 さて中身のほうは、お調子者でスケベ根性丸出しの大学生あべこうじが、大学受験を目指す女子高生に受験テクニックを伝授する家庭教師のアルバイトを始める場面から始まります。教え子の鈴木美生がアイドル歌手みたいなカワイコちゃんなので、すっかり鈴木に入れ揚げたあべは、家庭教師バイトを掛け持ちしている先の男子高校生・坂本爽におのろけを披露する一方、同棲相手の踊子ありには教え子への下心をすっかり見抜かれている有り様です。
 ところが鈴木が意外な頑張り屋で、成績はメキメキ上がる上、あべにしてみれば自分に好意を抱いているとしか思えない態度を見せるため、鈴木とは二人暮らしの父親からは「くれぐれも娘とはおかしな関係にならないように」と釘を刺されているにもかかわらず、あべの鈴木への恋心はエスカレートする一方です。
 ここまでの展開は、おっちょこちょいでお調子者の野郎が、カワイコちゃんに惚れて、一途な想いを捧げるというだけの一直線の話であり、確かにピン芸人としての勲章たるR−1グランプリを獲得したというあべの一人芝居には独特の可笑しさがあるとはいえ、あまりにも工夫を欠いた真っすぐな一本道に単調さを感じたことも事実です。
 そして、肝心の鈴木の受験は失敗に終わり、傷心の鈴木を慰めようと鈴木の部屋を訪れたあべが、受験失敗のショックから立ち直れず茫然自失の鈴木をベッドに押し倒し、事の寸前にまで至るのを観て、呆気ないという思いすら抱いていました。
 しか〜し!
 いざあべが鈴木の身体に覆いかぶさろうとした瞬間、映画はコペルニクス的展開を見せるのでした。
 ここから先の展開は、いくらなんでもネタバレしたら反則でしょうから、口は堅くつぐんでおきます。一つの話が済むと、今度は別の視点から同じ話を綴り始めるという、韓国の映画作家ホン・サンスとよく似た語り口が披露される、ということだけ申し上げておきます。
 脚本が巧いと思いました。前半に巧みに散りばめられた伏線が、後半には一つ一つ効果を発揮するのです。
 ラストはちょっとグズグズになりますが、女性の真っすぐな想いの強さに観客の心も動かされたことは事実です。また、最後の最後につけられたバッティングセンターのエピソードがあっけらかんとしていて、後味は悪くありません。
 ヒロインを演じた鈴木美生は、ロリコンには受けそうなタイプですが、引退しちゃうそうです。勿体ない。

コメント(2)

「14歳」
>本当ならキレることなしに日々を耐えているはずの大多数たるサイレント・マジョリティーを思いやるデリカシーを欠いているのです。
まだ、僕は、この映画を観ておりません。しかし、侘助さんの
批評を受け、上に引用させて、頂いたところに、僕は、自分の人生をリンクせずには、いられませんでした。僕は、中学、高校といじめられてきたのですが、僕は、いろんなことを考え、
不登校もせず、切れずに乗り切ってきました。それが後々、まあ、いまもトラウマとして残る....ある意味、克服はしているのですが、深層の中に潜っているのは、確かで、時々、そのころの夢をみますし、それらに近い状況に置かれた夢をみることもあります。又、現実においても、普通の人は簡単にできることが出来ないことが多く、社会への不適応を感ずる時にも、
浮かびあがってくるのです。そして、実際において、似た環境、状況になり、いじめに似たことを受けることもあります。

僕は、侘助さんの批評をかり、自分語りをしていました。
不適切であれば、削除してください。
ケンゴさん
書き込み、ありがとうございます。
ご自身の身に受けられた体験の重さは、わたくしのような立場から無責任に想像できないものだと思います。
何と言っていいのか、わたくしにはわかりません。

わたくしの「14歳」感想は、映画としての表現に限っているつもりですので、それ以上のことには言及できません。

無責任なことを申し上げて、申し訳ありません。

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