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200×年映画の旅コミュの2007年6月上旬号(今村昌平その2)

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「赤い殺意」(6月3日 フィルムセンター)
1964年/監督:今村昌平

【★★★★★ 舞台を東北に置いた工夫も効き、理性と本能を往還した末、自我に目覚める女性の強さを活写】
 この映画を観るのも、1971年以来のことで、面白かったという印象は残っているものの、ほとんど中身を忘れていましたから、初めて観る映画同然でしたが、150分もある長尺を飽きさせず、グイグイと引き込まれました。36年前のガキには、人妻が強盗に強姦され、次第に女としての自我に目覚めてゆくという物語は、実感をもって理解することなどできなかったでしょうから、これはやはり大人の映画なのです。
 ものの本によると、今村が「赤い殺意」という題材に取り組んだのは、「にあんちゃん」完成直後の1959年のことで、「にあんちゃん」が文部省特選となったことを恥じた今村が、“文部省なんかと正反対のものを作ろう”という動機から書いた脚本だったそうです。日活側は、「赤い殺意」というタイトルから、勝手にアクションものを想像していたらしいですが、本読みの段階でこれが人妻の強姦ものだと知って慌ててストップをかけます。仕方なく今村が代わりに提出したのが「にっぽん昆虫記」のシナリオでしたが、これは即座に日活に蹴られます。その後、今村は粘り強く会社側に「昆虫記」と「赤い殺意」の実現を迫り、根負けした会社がまず「にっぽん昆虫記」の映画化をOKし、それがヒットしたため、もう1本の企画たる「赤い殺意」も再浮上して製作されるに至ったということです。
 「赤い殺意」は、藤原審爾の小説をもとにしていますが、原作では東京の中央線沿線在住ということになっている主人公女性を、今村・長谷部慶次の脚本コンビは、東北の仙台に置き換えています。それがこの映画を成功に導きました。
 画面奥から手前に線路がまっすぐ走る左右対称の画面。奥から手前に蒸気機関車が走ってきます。この走りに合わせて右側にパンしたキャメラは、そのまま線路脇に建っている1軒の家を映し出します。子どもの悪戯書きで満たされた襖、暗くて人を押しつぶしそうな天井、水滴をしたたり落とす蛇口などの点描。
 このあと、画面は仙台駅に移し、春川ますみ扮する主人公が、夫の西村晃の東京出張を見送る場面。この一家の傍らには、さりげなく露口茂の姿も見えます。春川は、夫を見送ったあと、知恵遅れのように見える息子(演じているのは、のちに横浜放送映画専門学校で作る「あほう」の主役となる日野利彦)は本家の義母・赤木蘭子が連れて行ってしまうため、一人で家に帰るのですが、そこで夜中、露口扮する強盗に襲われます。そして露口は襲いながら、途中からは金より春川の肉体が目的となり、彼女を犯すのです。
 仙台の旧家であることをしきりに強調する義母の赤木。それゆえ、元はといえば西村の身の周りを世話する女中に過ぎなかった春川のことは籍にも入れず、春川の息子・日野のことは、西村の弟という形で籍に入れているのが赤木なのです。そうした旧家の因習など、東北の暗い空の下で春川の日常を縛り付けるものを、ぼそぼそと噂話に興じる老婆たちの呟きによって表象する手法が利いています。
 そうした因習に縛り付けられながら無自覚でいた春川が、露口による再三の求めに応じて身体を開くうちに、己の中で開拓されてゆく性の快楽によって、己の自我にも目覚めてゆくという過程が、実にスリリングなのです。理性では、他人に犯された自分はもう生きてゆくことなどできぬ、という独り言を喋らせ、ガス自殺や細い紐での首吊りなどを試みさせ、さらには、有り金をまとめて露口に渡してどこかへ去っていってほしいと要請させたりもする一方、露口の子どもを腹に宿してしまい、一緒に東京へ行こうという言葉に反応してしまい、雪の降る仙台市内を市電に乗って露口の元に戻らせてしまうという、春川の女性としての本能。理性と本能の間を往還する春川の様子を、東北本線の最後尾車両で揺られたり、市電の中を揺られたりする映像によってヴィヴィッドに映し出す今村演出が、力強い説得力を持ちます。
 人妻の不倫が、果たして夫に知られてしまうのかどうか、という下世話な覗き趣味に対しても、楠侑子が扮する西村の浮気相手を登場させて、その視点から春川・露口を追いかけさせるという形で答えを用意しつつ、その楠を呆気ない形で物語から退場させることによって、春川の本能の勝利を決定づけてやるという作劇が、ご都合主義を逆手にとって見事ですらあります。
 中期の今村を代表する傑作と言って差し支えないでしょう。


「豚と軍艦」(6月5日 フィルムセンター)
1961年/監督:今村昌平

【★★★★ 図式化・単純化が進めば、旧左翼的な構造に収まりそうな危険を回避し、ごった煮のカオスを実現】
 この映画は、1970年に並木座で観て以来、実に37年ぶり2度目の鑑賞。豚の大群が横須賀のドブ板通りを行進してゆく中で、主人公の長門裕之が惨めに死んでゆくクライマックスは覚えていましたが、細部は例によって忘れていました。
 日活撮影所内にセットとして組み立てられたというドブ板通りを米軍兵たちが闊歩し、彼らの周りに加藤武や小沢昭一、それに主人公の長門裕之らがまつわりついて娼婦宿に導き入れようとする様子を長い後退移動のキャメラによって見せてゆくオープニングから、派手派手しく光る英語のネオン、チンピラたちが話す片言の英語、商店街の軒先にぶら下がった日本語の看板の古臭さなど、ごった煮のカオス世界が再現されています。
 長門は、横須賀を縄張りとするやくざ三島雅夫の組の下っぱで、組では若頭扱いの丹波哲郎の子分です。丹波は情婦・南田洋子に一杯飲み屋を経営させる裏で娼婦宿も経営し、その飲み屋で働いているのが、長門の恋人・吉村実子です。三島は、米軍のブローカーであり日本人とのハーフでもある山内明の手引きによって、米軍キャンプの残飯を格安で入手し、それを餌にして豚を飼育して大儲けすることを企んでおり、その飼育係を長門に命じているのです。
 日本に駐留する米軍兵の残飯が豚の餌になり、その豚を売ることによる大儲けを企んでやくざが暗躍するという構図。米軍の富を巡って日本人や韓国人、中国人が群がるという戦後社会の縮図は何度も映画になってきましたが、残飯と豚の餌を結び付けた山内久のオリジナルな発想が光り、米軍のおこぼれに与ることによって生きているやくざの滑稽さが引き立ちました。
 一方、親分たる三島が手を染めたライヴァル殺しの罪を無理矢理着せられそうになった末、兄貴分たちの仲間割れの被害を一身で蒙るという形で、やくざの私利私欲に振り回されてしまう長門の悲痛な青春劇という要素はあり、そんな長門のことをやくざ社会から脱出させたいと願う恋人・吉村を隣に置けば、旧左翼系の映画にありがちな古臭く単純な図式が完成してしまいますが、今村はそうした図式化と単純化は周到に避け、吉村の中にあるギラギラした欲望も引き出すことによって、ごった煮のカオスという面を維持しているのであり、そうした今村的な作劇に圧倒されました。
 自分は末期の癌にかかっていると思い込んで、中国人殺し屋に自分を殺してくれるよう依頼したのち、自分の病気が実は軽いことを知って焦る丹波など、抱腹絶倒の可笑しさを持ってもいます。
 これで今回の今村特集通いは打ち止めです。「からゆきさん」「未帰還兵を追って」などのドキュメンタリーを時間が合わずに観逃したのは残念極まりないですが、長らく再会しなかった今村映画も含め、まとめて堪能できたことを喜びたいと思います。
 この日の「豚と軍艦」を含め、今村が師匠・川島雄三から多くの影響を受けていたことがよくわかった特集でもありました。

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