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200×年映画の旅コミュの2007年6月上旬号(今村昌平その1)

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「にあんちゃん」(6月1日 フィルムセンター)
1959年/監督:今村昌平

【★★★★ 今村には似合わない文部省推薦路線の話だが、次男坊の逞しいヴァイタリティが今村的】
 フィルムセンターの今村昌平特集も終盤に近づき、わたくしが昔観たことがある映画が並んでいますが、どれも長らく観ていない映画ばかりですから、通おうと思っています。この「にあんちゃん」は、1971年に観て以来2度目の鑑賞で、36年ぶりの映画ですから、中身はさすがに忘れていました。
 海に面した九州の炭鉱町。朝鮮戦争に乗じた景気も終わってしまい、不況が街中を覆ってしまっていることが解説ナレーションで説明されたのち、キャメラは一軒の家で行なわれている葬儀の様子を捉え、父の遺体の前でじっと座っている4人きょうだいを俯瞰気味に映し出し、タイトル・クレジットをかぶせてゆきます。
 不況のどん底に喘ぐ炭鉱町で、貧しさと闘いながら暮らしている4人きょうだいのお話。長兄の長門裕之は炭鉱で働き始めるものの、その収入だけでは3人の弟妹を支えられません。ましてや、不況の炭鉱では首切りが相次ぎ、長門も仕事にあぶれてしまいます。下の弟妹は、炭鉱仲間の殿山泰司の家に預け、長門は長女の松尾嘉代とともに長崎に働きに出ます。こうして、海辺の炭鉱町に残された幼い兄妹の様子を、末娘の視点で綴ったのが、このお話なのです。
 イマヘイにはあまり似合わない文部省推薦系の映画ですが、タイトルにもなっている小学校高学年の“にあんちゃん”こと次男坊の逞しいヴァイタリティは、今村映画すべてに流れる力強さを体現し、悲惨な現実に対しても前向きに立ち向かう彼らきょうだいの姿に今村らしい人間讃歌が込められているのです。
 小学生のくせに、九州を単身で飛び出して東京に行き、ふと見かけた自転車屋に就職を頼み込んだところ、あっさり警察に通報されて九州に送り返されてしまう“にあんちゃん”。しかし失望に打ちひしがれることなく、東京なんて大したことなかった、とうそぶきながら、いつかもっと大きなことをしでかしてやろうと、海を望めるボタ山のてっぺんに向かって強く歩みを進める少年の逞しさが、観る者の心を打つのです。
 ところで、36年前には気づかなかったことですが、今回わかったのは、この炭鉱町で主人公周辺にいる人々全員は、主人公の一家も含めて、皆、在日朝鮮人だということです。昔観た時は、「アイゴー」と感情を露わにする北林谷栄や、それらしい派なし方をする小沢昭一が朝鮮人だということには気づくものの、主人公らもそうだとは思いませんでした。しかし、今回は、4人きょうだいばかりでなく、彼らを助けようとする殿山泰司にせよ、邪険に扱うその妻・辻伊万里も、病気を抱えてついには自殺する隣家の主人・浜村純も、恐らく身体を売って生計を立てようとするその妻・山岡久乃も、在日コミュニティを形成する人々なのであり、今村の視点は、日本の産業構造の底辺を支えていた外国人労働者の存在をきちんとクロースアップして見せるのでした。
 こうした在日コミュニティが抱えた苛酷な現実描写の一方で、吉行和子が扮する保健婦にせよ、穂積隆信が扮する小学校教師にせよ、なかなかの好人物として描かれてはいるものの、結局は彼らも他者傍観者であるという限界も持っていることを映画はきちんと暴き出すのであり、彼ら好人物たちをただのきれいごととして描かないところは、さすがに今村の誠実さを感じます。
 ところが今村本人からすれば、“名もなく貧しく美しく”という文部省推薦路線は居心地のいい世界ではなかったらしく、これ以降の彼は、地べたに這いつくばって生きる者を低い地点から観察するという、この「にあんちゃん」に通じる視点は保ちながらも、汚濁と、ギラギラした性の欲望に満ち溢れた世界を描くことによって、己の道を作り上げてゆくことになるのです。


「『エロ事師たち』より 人類学入門」(6月2日 フィルムセンター)
1966年/監督:今村昌平

【★★ 放っておいても面白くなる題材なのに、独立第1作のせいか、奇抜な絵を作ろうという意欲が出過ぎた】
 この映画も、前記「にあんちゃん」と同様、1971年に観て以来2度目の鑑賞。こちらの映画は、原作も読んだことがあり、しかもギラギラした性の欲望を真正面から捉えた今村的な場面がいくつも脳裡に映像を結ぶ映画でもありますが、なぜかトータルな印象は薄く、あまり面白くなかったという記憶も残っています。
 ハイキー気味に白く飛んだ画面の中に、どこか地方の電車駅が映り、そこに現われた小沢昭一が、仲間の田中春男とともに、何やらコソコソ相談している光景がロングで映し出されたあと、彼らはハイキングのような格好で山道に入っていたと思いきや、人けのないところで田中や小沢は8ミリ・キャメラを何台も鞄の中から取り出して、それを並べて台座に括りつけ、これからモグリのブルーフィルムを作り始める準備をするという冒頭。
 8ミリ映画を作り、エロ写真の顔を有名人のものと入れ替え、近所の一般家庭の夜の睦み事に盗聴器を仕掛けて録音するといった “エロ事師”の仕事を裏稼業として営みつつ、坂本スミ子扮する髪結いの内縁の夫として暮らし、坂本の息子である近藤正臣には軽侮の視線を投げられ、坂本の娘・佐川啓子には秘かに性的な想いも寄せている中年男“スブやん”こと小沢の半生。
 これこそまさしく今村昌平という作家にとって千載一遇のチャンスとなるべき題材に思えるほどですが、映画は前半から、坂本を見つめる亡夫の眼を象徴する形で、魚の眼を何度も登場させるなど、奇抜な絵を作ろうとする意図が前面に出過ぎてしまい、どうも話に乗り切れません。
 後半も、小沢の金をちゃっかりせしめて家を出た近藤が、心臓病で入院した坂本を見舞う場面などで、画面手前で話し合う坂本と近藤の絵の奥から、黒い下着1枚という姿の近藤の許婚が近づいてきて、彼女の周囲では前衛的な照明が踊るといった、抽象的な絵を作るに至り、明らかにやり過ぎだと感じました。
 小沢が、坂本の娘である佐川に対して抱く倒錯的な愛情、自分も若い頃から娘同然に育てた一方、その娘が幼い時に交通事故に巻き込まれて太股に傷を負わせたことがトラウマとなっているという、倒錯的な想いあたりは、もっと粘り強く描くべきだったと思えるのに、やや象徴化によって逃げたような印象も抱きます。
 また、そうした娘と小沢の関係を知っているのか、いないのか、曖昧なまま、狂気へと旅立って、あっさり死んでしまう坂本の描写など、ハイキーの絵の中で、精神病院の手すりにしがみつきながら、乳房を曝け出して暴れる坂本の熱演は光るものの、脚本としての表現はもっと掘り下げが必要だとも思えました。
 そもそも、この話で128分も費やすのは長すぎ、もっと思い切りよくバッサリ切ったほうがテンポが出たと思えました。
 なぜこのようなことになってしまったか。その答えは、この映画が、今村が日活から独立して今村プロを興した第1作だからではないかと踏んでいます。自社製作であるがゆえの甘さ。野坂の傑作が原作で、小沢昭一がハマリ役としてエロ事師を演じるという今村お似合いの企画なのですから、へんな小手先芸に走らなくても面白くなったのに、独立第1作という気負いが逆目に出たように思えるのです。

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